Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2007年11月26日(月) ホリプロタレントスカウトキャラバン



「 マリリン は ダメ な女性だった。 どうしようもなく、ひどかった。

  この街では最悪だったね。 

  マリリン・モンロー ほど ダメ な女性に会ったことがない。

  でも スクリーン では、彼女ほど見事な人に会ったことがない 」

                  ビリー・ワイルダー ( ハリウッドの映画監督 )

Marilyn was mean. Terribly mean. The meanest woman I have ever met around this town. I have never met anybody as mean as Marilyn Monroe or as utterly fabulous on the screen.

                                    Billy Wilder



ビリー・ワイルダー の作品には、いわゆる 「 ハズレ 」 がない。

また、女優の特徴を引き出す術にかけても、天下一品の名監督といえる。


オードリー・ヘップバーン を主演に起用した、『 麗しのサブリナ ( 1954 ) 』、『 昼下がりの情事 ( 1957 ) 』 では、可憐で妖精的な魅力を引き出した。

マリリン・モンロー 主演の二作品 『 七年目の浮気 ( 1955 ) 』、『 お熱いのがお好き ( 1959 ) 』 では、妖艶な性的魅力を存分に アピール している。

全世界を魅了した 「 大女優 」 の二人だが、優秀な映像作家との出会いが無ければ、その地位や名声を得られることも無かっただろう。

スター とは、「 つくられるもの 」 であって、その才能を見出し、磨きをかけ、観客に伝える技術がないかぎり、市井に埋もれたまま凡人で終わる。

おそらくは、彼女たちより輝く美貌や才能を擁しながらも、幸運に恵まれず、陽の目をみなかった 「 原石 」 が、数限りなく存在したはずである。


5万人以上の応募者から、「 第32回 ホリプロタレントスカウトキャラバン 」 の グランプリ に、三重県出身で15歳の 足立 梨花 さんが選ばれた。

アイドル に興味があるわけではない ( あったら気持ち悪い ) が、仕事柄、どうしても 「 当世、人気のある男女 」 を、把握しておく必要があるのだ。

実は、芸能プロダクションや映画会社の主催するオーデションと、そうではない一般的な 「 ミスコン 」 とでは、その審査基準に大きな違いがある。

普通の ミスコン は、審査員の好みやら、当日の顔色などによって優劣が決まりやすいが、興行主が行う場合は、その 「 商業価値 」 を判断される。

つまり、「 一番、可愛い子 」 を選ぶのではなく、「 一番、お金になる子 」 を選ぶわけで、美的感覚よりも 「 マーケティング感覚 」 が、その指針になる。


これからの時代、どのような個性が求められるのか、あるいは、どのような個性を市場に 「 発信 」 していくのか、常に考えている連中がいる。

私なんぞは、そんな 「 仕掛け人 」 ではないが、クライアント の要望に応えたり、彼らに 「 恥 」 をかかせないため、その潮流を掴む必要がある。

そんなわけで、どの子が選ばれたのか観察してみたが、事前の予想通り、これがまったく 「 どこが良いのか、さっぱり理解不能 」 という状況だ。

こういうのは、主観をもって眺めながら理解できるものではなく、制作側の意図や、時代の文化、風俗を見抜くような観察力が求められる。

とりあえず、若手の仕事仲間に助けてもらい、分析を進めているが、そこに何かの 「 キーワード 」 が読み取れるまでには、時間が掛かりそうである。


ちなみに、ミスコン の審査風景で “ ありがち ” なのが、志望動機を尋ねられ、「 姉が勝手に応募したんです 」 と、無邪気に回答する応募者の姿だ。

私が審査員なら、「 じゃあ、参加は不本意なわけですね、棄権しますか? 」 と、「 やる気の無さ 」、「 他人のせいにする姑息さ 」 を追求するだろう。

かといって、「 自分の美貌に自信があります 」 とも言い難いだろうが、そこは、デビュー してからの夢を語るなり、何らかの意気込みを示してほしい。

いくら周囲が演出し、創造していく世界だとはいっても、本人のひたむきさや、真摯な努力なしでは、成功したところでたかがしれている。

まぁ、「 15歳の少女でお金を儲けよう 」 なんて不埒な商売で、説教じみたことを話すのもヘンな理屈だが、せいぜい活躍していただきたいと思う。






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2007年11月24日(土) ダウンロード文化と、無用の用



「 背表紙や表紙のほうが ( 内容よりも )、ずっと良い本がある 」

                 チャールズ・ディケンズ ( イギリスの小説家 )

There are books of which the backs and covers are by far the best parts.

                                Charles Dickens



最近は、彼女の都合に合わせて、世間並みの休日をとることが多い。

したがって、この三連休は、のんびりと オフ を満喫した。


初日、彼女には、流行の チュニック と ジーンズ を、私には ネルシャツ を買い、車に荷物を置いたまま、夕食を挟んで二本の映画を観る。

二日目、午前中は ダラダラ と過ごし、電化製品やら CD を買いに出かけ、私がつくる パスタ を食べた後に、また レイトショー で映画を観に行く。

三日目、夕方まで自堕落に過ごした後、「 そろそろ、帰ってくれないかな 」 と願う気持ちを悟られないよう、残念そうに車で送っていく。

まったく平凡で、何の生産性もないけれど、こういうのが 「 幸せ 」 なのかもしれないなと考えたりしつつ、明日からの仕事の準備に取り掛かる。

日記は、彼女が掃除したり、入浴中だったり、私が仕事を小休止する時に、とりとめなく書いているので、内容が クダラナイ のはご容赦を願いたい。


冒頭の名言が示す通り、内容が グダグダ なのに装丁だけ立派な本とか、芸術的とも思える ジャケット に反して、中身の イケテナイ CD がある。

あくまでも 「 中身が重要 」 と考えるか、「 外装まで含めて一つの作品 」 と評価するかは、人によって判断が分かれるところかもしれない。

買い物の途中で立ち寄った CD の ショップ で、彼女の探している楽曲が見つからず、店員さんに在庫の有無を尋ねる場面があった。

すると、その曲は CD で発売されておらず、「 ダウンロード のみの リリース になっております 」 と返答された。

最近は、そういう例が多いらしく、私より若いが 「 超アナログ人間 」 である彼女には、いまひとつ納得できない様子で、なにやら不満そうにしていた。


音楽 や 小説 を 「 出版 」 せず、ネット で 「 配信 」 することにより、様々な コスト が省けることは、誰の目にも明らかである。

音楽 の場合、CD の 「 原盤 」 が不要だし、活字媒体も 「 紙 」 に印刷する必要がなく、まさに 「 内容だけを購入者に届ける 」 ことが可能となる。

個包装 ( パッケージ ) や、流通用外装 ( ダンボールケースなど ) などの副資材も不要で、店頭販売用の値札、チラシ、ポスターの類も要らない。

さらに大きい変化は、「 流通経路 」 の単純化によって、従来、メーカーから問屋、問屋から小売店へと流れていた仕組みが、簡素化できることだ。

過去、流通の各段階で必要とされた 「 マージン 」 が省かれ、メーカーから消費者に直販されることで、大幅な コスト の低減が可能となった。


このような消費者への直接販売は 「 ダイレクト・セルイン 」 と呼ばれ、たとえば、カタログ販売や、TV ショッピング などの 「 通販 」 がそれにあたる。

しかも、衣料品や電化製品などと違って、音楽、小説などの ダウンロード は、販売する側が、商品の 「 在庫 」 を持っておく必要がない。

売れ行きの悪い不良在庫を抱え、その処分に悩むこともなく、売れ過ぎたとしても、品切れの心配が一切ないのである。

そういった 「 販売上の ロス ( 損失 ) 」 を見込まなくても良いので、従来の 「 店頭で売る商売 」 より、はるかに安全で、堅実な商売が可能となる。

憤る彼女に、ここまでの説明をしたのだが、それでも彼女は ダウンロード について、その 「 システム 」 には不満を感じると、真っ向から否定的だ。


彼女の弁によると、CD には 「 収集的価値 」 というものがあって、市場における蒐集家の割合は高く、それを無視できないだろうとの意見だ。

また、かつて我々の世代が ビートルズ の 『 アビーロード 』 を、その斬新な ジャケット の デザイン と共に覚えていることも、彼女は指摘する。

およそ 「 名盤 」 と呼ばれるものは、中身の楽曲だけでなく、ジャケット の芸術性など 「 視覚的要素 」 が、強烈に記憶を印象付けている。

そう言われてみれば、しばらく ジャケット を眺めてから、ワクワク、ドキドキ して レコード を取り出す瞬間にこそ、至福の時があったようにも思う。

合理性を追求した結果、簡単に音源が入手できる反面、その作品に寄せる 「 憧れ 」 などの付加価値が損なわれるという意見には、説得力がある。


一見、役に立たないと思われているものが、かえって大用を成すという意味の言葉に、「 無用の用 」 というものがある。

具体的に説明するのは難しいが、たとえば、文章の 「 余白 」 とか、コース料理で次の料理を出すまでの 「 間 」 の タイミング などが、それにあたる。

ピアノ の コンテスト では、最終選考の メンバー に技術力の格差は少なく、優勝するのは、音と音の間の僅かな 「 沈黙 」 を利用できる者だという。

今後、ダウンロード という商業形態をはじめ、従来、「 無駄 」 や 「 無用 」 だと思われていた要素が、次々と排除される傾向が出てくるだろう。

それは、とても合理的で便利な反面、情緒や感性などにおける 「 欠落 」 につながる危険もあり、後で、その無駄が良かったことに気付くかもしれない。






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2007年11月23日(金) ミシュランガイド東京2008



「 フランスでは、料理はレッキとした芸術であり、国民的スポーツです 」

                       ジュリア・チャイルド ( 料理研究家 )

In France, cooking is a serious art form and a national sport.

                                    Julia Child



食事をする目的は、栄養を摂るだけでなく、それを味わう楽しみにある。

外食の場合は、単に味だけでなく、楽しみを構成する他の要素も大きい。


2007年11月22日、「 ミシュランガイド東京2008 」 ( 日本語版・英語版 ) が刊行され、日本国内だけでなく、世界90カ国で販売されることになった。

05年 ニューヨーク 版が発売された直後、腕試しをしたい調理人が NY に出店した例もあり、今後は、東京に出店するシェフが増えるかもしれない。

また、日本料理を勉強したい外国人シェフが来日するなどして、東京近郊の飲食シーンが活性化する可能性もあるので、経済効果が期待できる。

ミシュランガイドに対する一般消費者の認知度は72%と高く、、「 覆面調査なので、評価が公正である 」 ことも、広く知られているところだ。

他のグルメ本に比べて、「 歴史があるので信用できる 」、「 専属調査員が評価するので信用できる 」 と、その信頼度、関心度は、群を抜いている。


レストラン以外に 「 ホテル情報 」 も掲載されており、レストランの格付けを示す 「 星 」 の代わりに、その快適度が 「 家 」 のマークで表されている。

ここで 「 赤い家 5つ 」 の最上級ランクとして紹介された7軒をみると、残念ながら、そのすべてを外資系ホテルに占められる結果となった。

何年か前の話だが、東京でパーティに参加する機会があって、その一つである 『 フォーシーズンホテル椿山荘 』 に宿泊したが、たしかに良かった。

ただ、建築物の歴史的価値や、そのホテルが歩んできた物語などを鑑みると、今回、最上級評価から 『 帝国ホテル 』 が外されたことを残念に思う。

また、範囲が東京圏に限られるため、日本を代表する名旅館である石川県和倉温泉の 『 加賀屋 』 が世界に紹介されないのも、口惜しいところだ。


レストランにしても、ホテルにしても、いわゆる 「 名店 」 と呼ばれる場所には、独自の 「 哲学 」 があって、それを抜きにしては語れない。

今回、「 星 ( or 家 ) 」 を獲得した何軒かへは訪問したことがあるけれど、すべて、提供する料理やサービスに、特別な 「 こだわり 」 を持っている。

それが、競合店の標準に比べて 「 上質 」 であることも大事だが、さらに、料理人としての高い志や、商道徳、社会倫理などの裏打ちが求められる。

いま、大阪船場の 『 吉兆 』 は営業休止中で、灯りの消えた軒先は、その区画全体に暗い影を落とし、ひっそりと不気味に静まり返っている。

飲食店のランク付けを 「 くだらない 」 と感じる方も多いだろうが、それが 「 名店の誇り 」 を覚醒させ、襟を正す姿勢につながれば、有意義に思う。






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2007年11月21日(水) 改正出入国管理・難民認定法の施行



「 どんな国にも、それぞれの法 ( 流儀 ) がある 」

                                   英語のことわざ

Every country has its laws [ fashion ].

                                 English proverb



日本でいう 「 郷に入れば郷に従え 」 と、同じ意味で使われる。

他の土地へ行ったら、その土地の風俗や習慣に従うべきという教えだ。


入管難民法の改正に伴い、16歳以上の外国人に指紋と顔写真の提供を義務付ける新たな入国審査制度が始まった。

例によって、「 人権保護 」 を建前とし、何かあれば国家権力に楯つきたいと狙う左派系新聞や、一部の在日外国人団体から抗議を受けている。

どんな制度にも長所、短所があって、今回の改正による利点は 「 テロリストや犯罪者、不法入国者の確認 」 が、瞬時に判別し易くなったところだ。

弊害としては、来日する外国人の個人情報を集積することで、プライバシーの侵害や、あるいは国における情報管理の責任が増大するところだろう。

不良外国人を水際で排除する必要性と、外国人全体のプライバシーを天秤にかけた場合、前者が優先するとして、今回の措置が導入された。


日弁連は、「 情報の保存期間が不明で、犯罪捜査に際限なく利用される 」 と述べていたが、この抗議については腑に落ちない点が多い。

過去に犯罪行為を行った者、不正を働いた人間の情報は、未来永劫まで保存されるべきであり、それを忘却することに何の意味があるのか。

大部分の人間は、その一生を、犯罪とは無縁のまま過ごすわけであって、「 反社会分子 」 の個人情報など、治安を犠牲にしてまで守る意味はない。

実際、この制度を導入する直前、来日した外国人旅行者に対しアンケート調査を行った結果、約8割が、この措置に 「 賛成 」 と回答している。

何も 「 うしろめたい 」 ところが無い人間にとっては、治安の向上は歓迎に値するもので、指紋を採取されたからといって、何の損失も発生しない。


たとえば、黒人だけを指紋採取するとか、イスラム教徒だけに限定した場合などは 「 人種差別 」 と言われても仕方ないが、まったくそうではない。

すべての外国人から等しくデータを集めると言う意味では、差別どころか、極めて 「 公平な扱い 」 といえるわけで、差別という主張は成立しない。

日本人と外国人の扱いに差があるのは当然で、日本人も外国に行く場合は、粛々と、その国の定めたルールに従う義務を負っている。

他人の家を訪問するとき、氏素性を明らかにし、どこまで、身分証明を求められるかは、一家の主人が決めることで、訪問者に決定権などない。

これは、法務省が 「 日本国の安寧と秩序を守る使命 」 のため、どうしても必要な 「 区別 」 であり、「 差別 」 ではないことを全員が認識すべきだ。


来日外国人による犯罪の急増に悩む日本にとって、今回の法制度改正は画期的な改善策で、反対派の 「 批判 」 より 「 利点 」 に着目したい。

日本は四方を海に囲まれているので、先に指紋採取を始めたアメリカより、本来、不法入国は困難なはずで、この制度を導入する効果は大きい。

事実、導入した初日から、事前登録された約80万人の 「 ブラックリスト 」 に一致する5人の指紋が発見され、彼らの入国を水際で防いだ。

逆にいうと、この制度が無ければ、彼らは易々と入国できていたわけで、我々の日常生活に紛れ込み、不正や犯罪に関わっていた公算が強い。

これを差別だ何だと批判する連中は、「 国家が権力を行使して何かする 」 ことが常に気に入らないだけで、まったく国益になど無関心なのである。






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2007年11月20日(火) 大阪大学 の アカハラ事件



「 学者は考える時間がなくなるほど研究してはならない 」

                                       作者不詳

Sholars should not study so much that they have no time to think.

                                    Anonymous



いわゆる 「 専門バカ 」 というタイプの人が、どの世界にもいる。

それで、何かの役に立てばよいが、単なる 「 非常識 」 で終わる人も多い。


大阪大学は20日、医学系研究科の男性教授(47)が教え子の女子学生にセクハラ行為をしたとして、諭旨解雇処分にしたと発表した。

教授は昨年12月、指導していた女子学生に対し、研究室内で2回にわたり猥褻な行為を行い、女性が大学のセクハラ相談室に訴えて発覚した。

阪大は、この教授に対し、懲戒解雇でなく諭旨免職とした理由を 「 被害者が謝罪を受け入れ、示談が成立しているため 」 と説明している。

一昨年の4月にも、阪大では、女子学生に対するセクハラ行為により、別の教授が諭旨解雇になっており、現場の体質や、指導体制に批判が多い。

今回の事件を受け、総長は、「 教育者としてあるまじき行為により、精神的苦痛を与えたことは誠に遺憾 」 と、通り一遍の謝罪を行っている。


教員から学生への性的嫌がらせは、一般のセクハラ [ sexual harassment ] と分け、アカハラ [ academic harassment ] として、社会問題になっている。

私の知人だけでも、教員から アカハラ を受けたり、あるいは レイプ されたという女性は数人いて、おそらく、報道されている以上に日常化している。

その精神的苦痛は、阪大の総長が述べたような 「 誠に遺憾 」 で済まされる程度ではなく、もっと深刻で、長期的な ショック を伴うことが多い。

以前、就職の世話を頼まれた22歳の女性は、容姿端麗、頭脳明晰な才媛だが、某国立大学の大学院で アカハラ を受け、中退を余儀なくされた。

その後も男性恐怖症が抜けず、せっかくの素養を持ちながら、目指す職種に就けなかったのだから、ある意味 「 夢をあきらめる 」 結果となった。


私のように、顔も態度も 「 スケベ丸出し 」 ならば、近づく女性も慎重に警戒するものだが、相手が国立大学の教員ともなれば、どうしても油断する。

また、一流の国立大に通うような女子は、男性に対する免疫が不足しがちで、いわゆる 「 男の恐さ 」 というものに慣れていないことが多い。

教員のほうも、感情の機微やら、世間の常識に疎い者が多いため、自分に慕ってくる女子を、単なる敬意なのか、恋愛感情なのか、誤解をしやすい。

セクハラ のように、上下関係を楯にした卑劣な嫌がらせばかりでなく、誤解と非常識によって、最悪の事態へ発展する例も多いようだ。

言葉は悪いけれど、「 非常識な男性 」 が 「 世間知らずの女性 」 と密室に入り、接近したことで、取り返しのつかない事態に陥ってしまうのである。


アカハラ を未然に防ぐには、学校側による教員の指導と厳罰化、そして、教員と学生であっても、「 密室で二人きりにさせない 」 ことが望ましい。

特に、理科系の大学院では、研究室で二人きりになる時間が長く、場合によっては深夜に及ぶことも珍しくないので、極めて危険な環境にある。

知人の女子も、遺伝子組み換えなど、バイオ技術の研究で教員と長時間を過ごし、そこで、アカハラ の被害に遭ったそうだ。

研究の影響を受け、「 自分の遺伝子 」 に興味を持ったかどうかは定かでないが、普段の 「 よい先生 」 が、突然、人格を豹変させてしまったらしい。

人格者として崇められる教授ほど、女子としては、深い傷を受けても告訴し難いもので、もっと大学側は アカハラ防止 について注意する必要がある。






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2007年11月19日(月) 大阪市長に 平松 邦夫 氏 が当選



「 自分の仕事を成し遂げるのに、他人の脳ミソを使える者こそ、

  大物と言える 」

                  ドン・パイアット ( アメリカのジャーナリスト )

That man is great who can use the brains of other to carry out his work.

                                    Donn Piatt



人は、自分の視点でしか、モノ を眺めることができない。

だからこそ、他人の視点、他人の脳ミソを借りることが、重要なのである。


ここでいう 「 他人の視点 」 だが、自分より高い視点であっても、あるいは、低い視点であっても、それは、どちらでも構わない。

利発な人、独創性の高い人からは、自分の死角を補い、一人では気付かなかった新たな発想を見出す手掛かりを与えてもらうことが期待できる。

愚かな人、いつも失敗を繰り返す人も、ずっと観察していると、どこに問題があるのかということを、教えてくれる 「 教師 」 に成り得る。

他人の立場や目的を理解できれば、いかにして彼らが、そのような考え方に至ったのかということまで、わかることもある。

色々な視点を持つ人々と交流して、それを理解することで、自分の見識を広めたり、問題解決能力を高めたり、すべてが成長に結びつく。


逆に、たとえ自分は正しいと信念を持っていても、まったく他人の話に耳を傾けなかったり、反撥するばかりでは、何事も上手くいかない。

有能で、正しい理念を持っていながら、他人との協調性を著しく欠いていたり、傲慢な態度が過ぎるために、潰れていく人々を何人も見てきた。

せっかくの力量も、現実に発揮できなければ成果に結びつかないわけで、単なる敗北者として表舞台から去る運命にある。

真の リーダー とは、そういうものであり、識者の意見も、下々の欲求も理解したうえで、牽引するばかりでなく、歩み寄る姿勢が不可欠だ。

その過程で、やる気や能力に劣る者との接し方は、くだらない弁明に妥協するのではなく、自発的な意識改革を促すように心掛けるのが良策だろう。


18日投開票された大阪市長選で、元アナウンサーの 平松 邦夫 さん(59) が当選し、戦後初の純民間出身市長が誕生した。

民主党 公認のため、与野党の政争にも影響を与えそうだが、平松 さん を選んだ大阪市民の意志は、政党の違いを反映したものではない。

長々と続いてきた 「 腐敗市政 」 に対する不満、税金の無駄遣い、景気の鈍化などに対する不満が、一気に爆発し、現職市長を拒絶した形である。

大阪市では、助役から 「 エスカレーター式 」 で市長に昇格する慣例が続いており、異常とも思える公務員の厚遇、議会の不透明さに問題があった。

平松 さん は、情報公開、財政再建を公約に掲げ、市政を 「 官から民へ 」 取り戻す担い手として、大いに市民から期待を寄せられている。


私も含め、個人的に 「 民主党 は嫌いだが、市長には 平松 さん が良い 」 と考えていた人が多く、自民党の支持層も、多くは 平松 さん に投票した。

懸念材料は、知恵の浅い 鳩山、菅 などの 民主党 幹部 が、平松 さん の当選を、国会の場にまで政争の材料として持ち出すことである。

今後、平松 さん は、市議会において 「 少数与党 」 という立場で対応していかねばならないが、その際、民主、自民 の対決構図が邪魔になる。

ただでさえ、政官癒着で運営してきた市議会にとって、平松 さん は厄介な存在であるのに、ねじれ国会の余波を受けると、なおさら立場が悪い。

あらゆる局面で、党規を理由に方針の妨げを受け、ことごとく反撥に見舞われてしまうようでは、せっかくの 「 救世主 」 も活躍する機会が危うくなる。


ここは、焦らず、敵将の中にも協力者を求め、あるいは部外の援助を受けるなどして、じっくりと市政の改革に挑んでもらいたい。

また、民主党 幹部 は、国政の軋轢を市政にまで持ち込まないように、独立した市政運営に協力する姿勢を示してもらいたいものだ。

実は、個人的に 平松 さん を少し知っているのだが、温厚な人柄と、内面に秘めた熱意の強い 「 極めて優秀なジャーナリスト 」 の一人である。

真価を発揮することができれば、必ずや市民にとっては プラス に作用し、大幅な市政改善に結びつくことが期待できる。

問題は、利権に味をしめた現職議員と、ぬるま湯体質に浸った市職員組合との軋轢、そして、中央政界による妨害工作で、その前途は厳しい。






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2007年11月18日(日) サブプライムローンで 「 泣き 」 が入る日本の銀行



「 経済学を学ぶのは、経済学者に騙されるのを避けるためである 」

                                       作者不詳

The purpose of studying economics is to avoid being deceived by economists.

                                    Anonymous



一応、こんな私でも 「 経済学者 」 を名乗ってよいそうである。

ただ、お金は 「 研究の対象 」 にするより、「 稼ぐ 」 ほうが百倍は楽しい。


多くのアメリカ人は、人間の持つ可能性 [ potential ] について、その容量は、各自、「 生まれつきのもの 」 で、差があるのは当然だと考えている。

それに比べ、多くの日本人は、「 すべての子供が “ ダイヤモンド の原石 ” であり、それを磨いていくことが、親や教師の役目 」 だと考えている。

日本式の考え方は、ある意味、子供たちにとって素晴らしいことで、誰もが等しく期待されることにより、皆が努力する励みになり、向上する率も高い。

アメリカの中学では、能力別クラス編成を取る学校が多く、早い話、「 彼はダイヤモンドだけど、君はそうじゃないよ 」 と、子供に悟られやすい。

そのやり方によって、トップグループに入った子供は誇りを感じ、やる気を出すけれど、低いグループの子に挫折感を与え、やる気を奪うこともある。


それでは、子供を能力別に振り分けるアメリカの方法が、子供を公平に扱う日本の教育よりも悪いかというと、一概には言い切れない部分もある。

日本の社会では、平均的な能力の子供たちが、努力に努力を重ねて、高いレベルに達した場合、「 よくやってる、頑張っている 」 と評価するだろう。

だが、アメリカ人の反応は、必ずしもそうではなくて、「 無理をしすぎるのはよくない 」、「 自然ではない 」 と、過剰な努力に警戒を示すことも多い。

大半が、勉強をやめろとは言わないが、心の中では彼の行動を歓迎せず、むしろ、ノイローゼになることを心配していることが多いのだ。

アメリカの教師が、生徒の親に対し、「 彼が達したレベルは、彼が本来なら達したであろうレベルより、不自然に上のものだ 」 と、説明する例もある。


英語の [ under-achiever ] とは、優れた知力を持って生まれてきたのに、本人の努力不足で、せっかくの可能性が発揮できない人間のことを指す。

アメリカの親や教師は、そういう子供たちに 「 努力しろ 」 とすすめる一方、[ over-achiever ] という、本来の力以上に無理をする子供は静観する。

もちろん、アメリカでも日本でも、社会に出てからは、やりすぎであろうが、やらなさすぎであろうが、本人の出した結果で彼を判断するのは同じだ。

しかし、学生時代に [ potential ] や [ ability ] は、人それぞれ生まれつきのもので、平等ではないという厳しい現実を、教えるか否かの点が違う。

そのため、どうしても日本では、能力を超えた努力の結果、力量や適性に合致しない職業を選び、無理を重ねて ボロボロ になる人が現れやすい。


総体的には日米ともに同じようなものかもしれないが、アメリカの銀行員、金融関係の仕事に就いている人の大半は、概ね 「 優秀 」 な人が多い。

それに対して、日本の場合は 「 なんで、こんな人が 」 と思うような御仁が、難易度の高い仕事、知力、体力面で 「 タフさ 」 の要求される現場にいる。

さらに言えば、他の業種に比べて、創造力、応用能力、物事への多角的な分析力などの面における 「 尊敬に値する人物 」 は、ほぼ皆無に等しい。

もちろん、得意分野については素人より詳しいのだが、そんなことは当然ながら 「 自慢にもならない 」 わけで、能力が高いとはいえない。

学者が 「 世間知らず 」 なのと同じで、ビジネスの世界では無能の印であり、事実、彼らの無能ぶりが何度も 「 日本の経済危機 」 を招いてきた。


アメリカによる 「 サブプライムローン ( 信用力の低い人々に貸し出す住宅ローン ) 」 が焦げ付き、その余波は、世界中の市場を混乱させている。

まるで 「 不測の事態 」 のように驚いている人々も多いが、これは、所得の低い人や、過去に返済を遅らせたことのある人が借り易いローンである。

つまり、こんなに審査基準が緩いローンなのだから、焦げ付きの出るリスクは承知の上であり、当事者であるアメリカの銀行は、驚いてもいない。

彼らは表面上、住宅の価格上昇に期待していたというが、実際は、それを証券化し、世界中の 「 金融商品 」 に紛れ込ませ、撒き散らしてきた。

現在、中国は各地から 「 有毒食品 」 の発信基地として叩かれているが、アメリカは 「 有毒債権 」 の発生源として、世界を震撼させているのだ。


問題は、それを疑いもなく受け容れ、莫大なる債務を抱えることになった、どうしようもなく アホ な 「 日本の金融マン 」 たちである。

彼らは、自分たちの無能ぶりによって日本経済を窮地に陥れた 「 バブル 」 の教訓を忘れ、今度はアメリカの土地バブルに、まんまと引っ掛かった。

おそらく近日中に、大手都市銀行の一部から 「 泣き 」 が入り、またもや、公的資金の注入を必要とする懸念が、あちこちから聞こえ始めている。

前述したように、お得意の市場だけに目を光らせ、世間の常識や、周りが見えていないために、このような失敗を何度も繰り返してしまうのだ。

本来、最も優秀な頭脳を必要とする経済の中核に、日本中の馬鹿を集めたかのような組織こそが、日本の銀行であるといっても過言ではない。


彼らの一部は、たとえば外交問題の話題で、「 アメリカの言いなりになるのは変だ 」 などと語り、いかにも自分は学が有るかのような顔をしている。

ところが、ご自分の商売では、まんまとアメリカ側に騙されて、言いなりに 「 お荷物 」 を背負わされ、あたふたしているのが現状だ。

また、近年、都市銀行が資本提携という形で囲い込み、本体の収益確保を図ろうとした 「 消費者金融 」 も、一種の サブプライムローン である。

こちらも、グレーゾーン金利の問題やら、取り立てに関するコンプライアンスなどの対応に追われ、かえって赤字の拡大に繋がっているようだ。

借り入れは無いが、日本の銀行員と交流を持ち、投資面で 「 彼らの意見と反対の行動 」 をとることで利益を挙げている私は、少し感謝もしている。






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2007年11月16日(金) 三田 佳子 さん の息子が三度目の逮捕



「 この世でいちばん勇気があるのは、ピーナッツ をひとつだけ食べて、

  そこでやめられる男だ 」

                   チャニング・ポロック ( アメリカの劇作家 )

No man in the world has more courage than the man who can stop after eating one peanut.

                               Channing Pollock



豆菓子やスナック菓子は、「 やめられない、とまらない 」 ものである。

無くても困りはしないが、つい、手を出すと最後まで止まらなくなる。


警視庁三田署は、覚せい剤取締法違反の現行犯で、女優 三田 佳子 さん の二男で歌手の 高橋 祐也 容疑者 (27) を逮捕した。

三田 さん によると、高橋 容疑者 は今年1月から、独語や重いうつ状態があったため、本人を説得した上で病院に2か月入院させたという。

ここ1週間、高橋 容疑者 のうつ状態が再び悪化したため、家族で協議し、19日に再入院させる準備をしていた矢先の逮捕だったらしい。

高橋 容疑者 が同法違反容疑で逮捕されたのは3回目で、2回目の逮捕後には、懲役2年、執行猶予5年の有罪判決を受けている。

記者会見で 三田 さん は、親としての責任から女優引退も考えていたことを打ち明け、ハンカチで目を押さえながら深々と頭を下げた。


たとえ、成人した息子が異常者でも、犯罪者でも、親に全責任が問われるわけではなく、マスコミが 三田 さん を責める姿には違和感をおぼえる。

前回 ( 2回目の逮捕 ) は、高橋 容疑者 が20歳になったばかりの頃で、毎月の小遣いを30万円も渡していたことに、少し、親の無責任を感じた。

今回は、( 分別あるはずの ) 27歳 であることから、「 誰々の息子 」 ではなく、一人の犯罪者、あるいは触法精神障害者として裁かれるべきだ。

明治時代まで、日本には 「 精神病院 」 が無く、精神障害者管理は家族の責任として、私宅監置することが義務付けられていたが、現代は違う。

三田 さん が責任を感じて、謝罪会見を開くのは立派な心掛けだが、あまり必要以上には立ち入らず、司法の手に委ねることが望ましい。


むしろ問題は、前回、累犯であったにも関わらず、「 執行猶予つき 」 という甘い処分を下した司法の責任にあるだろう。

おそらくは、まだ若い20歳の被告に対し 「 被告の将来を云々して … 」 といった情状酌量的な文言が並べられ、軽微な罰に至ったのだと思う。

人権保護や、弱者救済の建前から、触法少年、触法精神障害者らを監獄に送致せず、十分な反省や矯正の機会も与えないのは、いかがなものか。

ご承知の通り、麻薬、覚せい剤の類は、人間の心身を蝕み、不埒な使用者によって、その撲滅を困難なものにしているのが実態だ。

また、「 やめららない、とまらない 」 中毒性があり、再犯の可能性が極めて高いことは立証済みで、安易に放免するようでは無責任すぎる。


20歳でなくても、覚せい剤所持は慣例的に 「 初犯は実刑に処されない 」 という話を、昔、“ その筋の人 ” に聞いたことがある。

それが、軽率に手を染める輩が減らない元凶になっており、本気で撲滅を図りたいのなら、刑法を改正し、初犯から実刑、累犯は重罰にすべきだ。

とかく近代の刑事裁判では、「 犯罪 」 そのものを重視せず、「 犯罪者 」 にばかり目を向け、恣意的な感情を介入させ、判断を複雑にしすぎる。

犯人が 「 何をしでかしたのか 」 よりも、「 なぜ、こんなことをしたのか 」 にばかり触れ、罪と罰の妥当性より、犯罪者の人物評価に重きが置かれる。

おそらく、三田 さん が 「 精神病院に入れる矢先で … 」 と話した背景にも、精神病を理由に減刑を狙う 「 弁護士の 入れ知恵 」 があるのだろう。


少年だから、精神障害者だから、といった理由で放免するのは仕方ないとしても、その後、彼らに対する監督責任は、どこに帰属するのかが問題だ。

まして、薬物中毒であることが確認されている者を、無軌道に社会へ放ち、矯正も、追尾もしない現行の制度は、社会の治安維持を妨げている。

加害者の将来を語るよりも、そうした連中のせいで、何の罪もない若者たちの 「 将来を奪われる危険 」 を考えることが、優先される法制が望ましい。

三田 さん にはお気の毒だが、親としての責任や、息子の精神病を口実にするなら、こうなる前に、座敷牢でも作って、監禁しておくべきだった。

既に 高橋 容疑者 は、「 大女優の息子 」 でなく、「 社会の害悪 」 であり、無害が証明されるまでは、監視を解くべきでない存在なのである。






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2007年11月15日(木) ストーカー警官に退職金を上乗せ支給



「 この世は危険な場所だ。 悪事をなす者がいるからではなく、

  それを見て見ぬフリをする人がいるからだ 」

          アルバート・アインシュタイン ( ドイツ生まれの物理学者 )

The world is a dangerous place, not because of those who do evii,
but because of those who look on and do nothing.

                                 Albert Einstein



言葉の裏に、原爆投下を阻止できなかった 「 痛恨の思い 」 が偲ばれる。

不正や悪事も、それを咎められないことにより、正当化される危険がある。


公務員の姿勢や実績など、仕事ぶりに問題があるとみるや、あちこちから 「 賃金を下げろ 」、「 報酬をカットしろ 」 といった不満の声が上がる。

もし仮に、報酬や待遇を低下させたら、さらに勤労意欲は落ち、新規雇用についても、能力の低い者が就労しやすくなるので、まったく逆効果だ。

代表自身が 「 政権担当能力はない 」 と認めたのだから仕方ないけれど、民主党 の議員からは、このような 「 問題解決能力に劣る 」 意見が多い。

公務員の質を上げたければ、逆に、もっともっと待遇を良くして、超破格の報酬を与えることで、良質の人材をかき集めるべきである。

当然、そこには 「 競争原理 」 を導入し、個々の能力によって格差をつけ、使えない人材は、賃金を抑えるのでなく、即刻解雇することが望ましい。


人それぞれ、違いがあるのは当たり前だが、昨今は、仕事が出来ないことや、やる気のないことまで、なんでも 「 個性 」 で片付ける風潮が強い。

特に公務員など、「 組合の強い組織 」 においては、出来の悪い者をかばうことにより、全体の生産性を著しく落としたり、モラルの低下を招いている。

教師、警察官、消防士などは、もっともっと優れた仕事をしてもらいたいし、個々の人格面においても、さらなる精進を期待するものである。

そのためには、今よりも待遇を良くする代わりに、たとえば彼らが、不正や犯罪に手を染めた場合、一般人とは比較にならない重罰を与えるべきだ。

公務員になる動機を、「 収入が安定している 」 という視点から、「 高収入だが、責任と覚悟が必要 」 という性質に変えることが、肝要ではないか。


今年の10月、愛知県警の男性警部補 ( 当時52歳 ) が、ストーカー容疑で県警に事情聴取された後、自殺するという事件があった。

彼は、必要な書類を取りに来た20歳代の女性事務員から、携帯のメールアドレスを聞き出し、「 恋人になって 」 などのメールを再三、送っていた。

県警は当初、懲戒処分を検討したが、「 本人が死亡したため、詳しい調査ができない 」 として、その後の捜査を断念したそうである。

条例 ( 彼らの ) では、警官が 「 死亡退職 」 した場合、退職金の上乗せがあり、今回も、通常より400万円多く、約2000万円が支払われるという。

これについて、まったく 「 理解不能 」 なのが、日本全国、約1億2千万人の国民のなかで私だけなのか、そうではないのか、とても興味がある。


テレビの刑事ドラマなどを観ていると、たまに、準主役クラスの刑事が人質の命と引き換えに、犯人の凶弾に倒れて 「 殉職 」 する場面に遭遇する。

実際の事件でも、たとえば、線路に身を投げた女性を救うため、自らの命を犠牲にした立派な警察官がいたことを、報道で目にすることもある。

彼らは、たしかに 「 死亡退職 」 であり、二階級の特進も、退職金の上乗せも、当然の権利だと認められるし、それについて何の異存もない。

ところが、そんな立派な警察官と、一般女性に執拗な嫌がらせを繰り返し、挙句の果ては、追求から逃れるため自殺した人間が、同じ扱いを受ける。

こんな馬鹿げた処遇が、公務員特有の 「 身内かばい 」 によって、平然と行われようとしていることに、私は憤りを感じている。


あくまでも 「 条例だから 」 と、倫理上の不均衡から目を背けるのならば、せめて、その退職金は遺族でなく、事件の被害者に与えるべきだろう。

そうしないと、今後も、不正や犯罪に手を染めた警察官は、事件の発覚と同時に自殺し、退職金を遺族に ( しかも上乗せで ) 残すことができる。

特に警察官の場合は、「 拳銃 」 を装備できる立場にあり、やろうと思えば、一般市民よりも、比較的に自殺しやすい環境にあるのだ。

だいたい、「 本人が死亡したので、詳しい調査ができない 」 なんて言うが、警察は捜査の プロ なのだから、およそ、その悪事は判別できるだろう。

身内だからといって、曖昧な処理をし、自分たちに都合の良い条例などを引き合いに出す彼らは、本物の 「 殉職者 」 に顔向けできないはずだ。






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2007年11月14日(水) 派遣自衛隊員16名が自殺したという、どーでもいい話



「 人生は解かれるべき問題ではなく、経験されるべき現実である 」

                セーレン・キルケゴール ( デンマークの哲学者 )

Life is not a problem to be solved but a reality to be experienced.

                               Seren Kierkegaard



程度の低い年寄りほど、年功序列を信奉し、年数の浅い者を馬鹿にする。

たとえば、「 たかが ○年で、何がわかるんだ 」 てな口癖の人は要注意だ。


もちろん、経験を積むことは大事だが、長期に亘って働いても、その仕事の何たるかを理解できない人はいるし、逆に、短期で習得できる人もいる。

円熟して、慣れるにしたがって仕事が面白くなる人がいる一方で、やる気と勤続年数が反作用し、情熱が冷め、徐々に仕事が苦痛になる御仁もいる。

そのあたりは、明確な目標意識と、それを達成することへの責任感の違いが大きいけれど、最初から職業適性に欠ける場合は、どうしようもない。

携わる仕事に職業適性があること、明確な目標を持っていること、責任感が強いこと、そして、なによりも熱意を失わないことが、長続きする秘訣だ。

長く働けば、失敗や挫折の苦難は誰にでもあるけれど、そこから学んだり、立ち直ったりできない人は、結局、もともと 「 使えない人 」 なのである。


政府は、テロ対策特別措置法と、イラク復興支援特別措置法に基づいて、派遣された自衛隊員のうち計16人が、在職中に自殺したと明らかにした。

これについて、野党議員や、市井の 「 エセ平和主義者 」 からは批難の声も上がると思うが、16人という数字が多いか、少ないかは、判断が異なる。

日本の人口 ( 約1億2000万人 ) に対し、年間自殺者数は3万人超で、比率にすると 0,025% といったところか。

派遣された自衛隊員の総数 ( 1万9700人 ) に対する16人は 0,08%、自衛隊全隊員 ( 派遣以外も含む ) の自殺率は 0,03% である。

数字でみると、たしかに因果関係があるように思えるけれども、派遣すると自殺しちゃうからといって、動かせないようでは本来の機能が成立しない。


逆の見方をすると、16人は自殺したが、約2万人近い隊員は貴重な経験を積んだわけで、万が一、有事ともなれば、その経験が役に立つだろう。

実戦に参加したとはいえないが、安全に囲まれた演習場で訓練を積むのとは、まるで違う緊張感のもと、彼らは何かを得たはずである。

海外に留学する者でも、何人かは事故に遭ったり、犯罪の加害者か犠牲者になったり、あるいは精神病になって自殺したりする。

それでも、かけがえのない経験を得るために、多少のリスクがあったとしても、毎年、海外に留学する者が途絶えることはない。

想像でモノを語るより、現実を経験した者の意見は貴重だし、嫌なら転職も可能なわけだから、こんな議論に無駄な税金を使わないほうが望ましい。






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2007年11月13日(火) 国益への責任を明示しない 民主党



「 時間は岸のない川である 」

                      マルク・シャガール ( フランスの画家 )

Time is a River without Banks.

                                   Marc Chagall



時の流れが緩慢に見えるのは、どちらを向いても岸が見えないためだ。

この名言には、そんな意味が込められているという。


仕事に追われているとき、時間とは、なんと早く過ぎ去ってしまうものだろうと感じるが、退屈な人と話す数分は、それが永遠のような長さにも思う。

結局、到達点や目標が見えているときには、それに必要な時間を切望し、何をすればよいのか判らないと、与えられた時間さえ持て余すものだ。

忙しく働きつつ、なおかつ成果を挙げている人というのは、総じて、明確な目標を持ち、それに対して何をすべきかが、理解できている人である。

逆に、無気力で、仕事に面白さを感じず、ぼんやりと暇を持て余している人たちは、目標を見失っているか、もともと目標に関心の薄い人が大半だ。

そんな人たちは、岸のない川に漂う一枚の葉っぱみたいなもので、ゆらゆらと行き場もなく彷徨い、眺めていると、こちらまで眠くなってしまう。


法律の制定、予算の議決、条約の承認、内閣総理大臣の指名、内閣不信任の決議、憲法改正の発議、裁判官の弾劾、国勢調査の実施。

この 8項目は、法に定められた 「 国会の役割 」 であり、衆参両院の国会議員とは、その仕事を円滑に行うため、選ばれた国民の代表である。

当然、どんな法律でも制定すればよいというものではなく、ときには反対を唱えるのも役目のうちだが、その場合は明確な根拠の提出が求められる。

ましてや、覇権争いの手段で、法律の制定を 「 恣意的に遅らせる 」 なんてことは、国益に反する背信行為であり、まるで使命をまっとうしていない。

たとえそれが、哲学や信念に基づいているとしても、遅延行為を 「 仕事 」 と名乗ることは、民間人の立場からみると、同意しかねるものである。


国会議員という職業に対し、どうも、国民の多くは、特別な環境に位置する者として、必要以上に複雑なものだと、考えすぎているような気がする。

実際には、患者の治療をするのが医師の仕事であるように、お米や野菜を生産するのが農家の仕事であるように、それも一つの職業にすぎない。

市役所の戸籍係が、現行のシステムを気に入らないとか、理念を通すためだと言って、住民票の発行を遅らせたら、それで市民は納得できるのか。

消防署の職員が、「 いまは、出世を左右する大事な時期だから 」 といった理由で、火事になっても出動しなかったら、それで許されるものだろうか。

たとえ国会議員といえども、「 遅延行為 」 が立派な仕事などという理屈は通らないはずで、与野党を問わず、そんな輩は 「 月給泥棒 」 である。


衆院テロ防止特別委員会は、インド洋での給油活動を再開するための 「 新テロ対策特別措置法案 」 を、与党 による賛成多数で可決した。

このまま衆議院を通過するだろうが、民主党 が主導権を握る参議院では、審議入りの目途が立っておらず、近日中に成立する可能性は極めて低い。

反対姿勢が悪くはないけれど、審議にすら応じないのは、「 法律の制定 」 という職務を放棄しているのと同じで、いたずらに遅延しているに等しい。

過去、民主党 が反撥、主張し続けてきた 「 数の論理によるゴリ押し 」 を、いまは 民主党 が行っていることにも、不満と憤りを感じる。

民主党 の目指す先が、政権交代であることは明白なのだが、“ その先 ” が見えてこないところに、「 岸のない川 」 を漂う不安定感が否めない。






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2007年11月12日(月) 85歳 末期がん の 夫 が、80歳 認知症 の 妻 を 絞殺



「 人は行為を罰し、神は意図を罰する 」

                                   英語のことわざ

Man punishes the action, but God the intention.

                                 English proverb



この言葉は、「 情状酌量の余地 」 がある裁判で、欧米人がよく使う。

軽い罰で済ますけれど、自主的に 「 よく反省しなさい 」 という具合だ。


江戸時代、日本の刑事裁判は実に単純明快なものであり、司法の判断に他者が介入することも少なく、すべては奉行所の手に委ねられていた。

その処刑は一種の 「 見せしめ 」 として公開されており、衆人監視のもと、セレモニー のように街中で行われていたのが実態である。

殺人は、一部の例外 ( 身分の高い武士が、無礼な町人を斬った場合 ) を除けば、ほとんど死罪に処されたが、その処刑方法は多岐に亘っている。

当時の発想は、同じ死刑囚でも 「 軽いか、重いか 」 の違いがあるとして、罪人が死に至るまでの苦しさや、辱めの違いに差をつけていたのだ。

あっさり首を斬る方法もあれば、「 火あぶり 」 とか、身体の両側から竹槍で突き刺す 「 磔 ( はりつけ ) 」 があり、「 死の強度 」 が重要視された。


刑場に連行される際も、重罪には 「 引廻し 」 といって、罪人を馬の背中に縛り付け、犯行現場や市中を晒し者にしながら練り歩く手段がとられた。

処刑後の措置も、凶悪犯の場合は 「 獄門 」 といって、斬り落とされた首を台の上に乗せ、三日間、そのまま晒され続けていた。

現代の感覚でみれば、それは残酷に思われるが、当時の権力者たちは、暴力的な光景を庶民に見せつけることで、秩序の維持を図ったのである。

野蛮ではあるけれど、現代のように、死刑がいつ、どのように行われたのか、まったく公開されない仕組みに比べると、執行の実情がよくわかる。

明治以降、海外の要人が行き来するようになり、その野蛮さが指摘されるまでは、誰もがそれを 「 当たり前 」 と理解し、人々は刑罰を怖れていた。


加害者の境遇や、犯行に至った動機や、あるいは犯行時の精神状況など、近代裁判で重視される背景的要素は、さほど刑罰に影響を与えなかった。

稀に、重度の精神障害者が刑罰を免れ、「 自宅内監禁 」 を申し付けられることはあったが、たいていの場合、刑罰自体は軽減されなかったのだ。

情状酌量は、前述した 「 死刑の方法 」 に考慮される程度で、相手が誰だろうと、動機がどうだろうと、「 同じ罪には同じ罰 」 が、大原則だった。

近代裁判では、加害者の責任能力や、犯行に至るまでの経緯が重視され、たとえば死刑でも無罪になったり、窃盗でも長期の懲役になることがある。

つまり、江戸時代は 「 犯罪 ( 何をしたか ) 」 そのものが裁かれ、現代は 「 犯罪者 ( 誰がしたか ) 」 が裁かれるように、刑罰史は変化してきた。


兵庫県警尼崎南署は、11日未明、尼崎市大庄川田町、無職、橋本 幸夫 容疑者 ( 85歳 )を、妻 ( 80歳 ) に対する殺人容疑で緊急逮捕した。

事件を通報したのも 橋本 容疑者 だが、「 自分は大腸の末期がんで、先に死んだら、認知症の妻がふびんに思う 」 などと、容疑を認めている。

過去の判例に照らすまでもなく、この事件が 「 単なる殺人 」 として扱われるとは考えられず、おそらく情状酌量の認められた処遇が下るだろう。

たしかに、憐憫を感じる事件ではあるが、加害者への恣意的な感情で処分が決まるなら、そもそも 「 刑法 」 の存在自体が無意味な気もする。

少年犯罪でも、触法精神障害者による事件も同じだが、近代裁判で刑罰を下す立場に居るのは、精神科医など、司直以外の者である場合が多い。


世論の多くは、“ 可哀相な ” 彼らを救済しようとするが、はたしてそれは 「 加害者を救う 」 ことや、「 加害者の人権保護 」 につながるのだろうか。

たとえば、末期がんの加害者に対する 「 寛大な恩赦 」 で、救われるのは加害者でなく、「 それを見守る周囲 」 ではないのかと、ふと疑問に思う。

人権擁護の観点からみても、ただ “ 可哀相 ” という理由だけで、「 正当な裁判を受ける権利 」 が剥奪されるほうが、人権侵害ではないのだろうか。

実際のところ、「 もし、奇跡的に末期がんが治癒したら 」、「 もし、加害者の死後に、妻の認知症が改善されたなら 」、判断に迷いも生じるだろう。

もし私が、この加害者の立場ならば、覚悟を決めて下した自分の行動に、憐憫ではなく、死罪を言い渡されるほうが、よほど温情を感じるはずだ。






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2007年11月11日(日) 偽物を売った 吉兆 の大罪



「 私は偽物が嫌いだ。 見せかけの真実は見たくない 」

        ジョルジオ・アルマーニ ( イタリアのファッション・デザイナー )

I dislike imitations. I do not want to watch the would-be truth.

                                 Giorgio Armani



太る前、体型の合う頃に何点か買ったが、今は袖を通すこともない。

欲しい人に差し上げようかとも思うのだが、なかなか手離せないでいる。


アルマーニ は イタリア を代表する デザイナー で、ジャンフランコ・フェレ、ジャンニ・ベルサーチ と共に、ミラノ の 「 3G 」 と呼ばれている。

最初に アルマーニ を買ったのは、バブル全盛期、猫も杓子も浮かれていた頃、仕事帰りに立ち寄った原宿の ショップ だった。

評判どおり、素材や縫製に目新しさは無かったが、「 型紙の良さ 」 に特徴があって、値段は高いが、それなりの価値を感じさせたものだ。

アパレル はすべてそうだが、「 似合う人が着ないと、真価が発揮できない 」 という要素が強く、長く着続けるには、購入者の努力も必要となる。

今回、銀座に大型店を出したので、また、人気が再加熱するかもしれないが、「 着る人を選ぶ服 」 だということを、予備知識に置いたほうがよい。


冒頭の言葉は有名で、彼の 「 完全主義 」 ぶりの窺える名言だが、たえず価格の高い 「 本物 」 を提供すると、数は売れないが権威は保たれる。

セレブ な人たちには 「 愛用品 」 として親しまれ、私たちのような庶民には 「 たまの贅沢 」 として、憧れと崇拝、品質への信頼を集める効果がある。

あまり興味の無い人にとっては、一着 20万円 の スーツ と、一着 1万円 の スーツ の違いが理解できなかったり、価格に見合う価値を認め難い。

身だしなみの観点からみても、スーツ に投資できる費用が 20万円 なら、高級品の一張羅を ヨレヨレ で着るより、安物を数多く揃えたほうが良い。

高級品が良いか、廉価品が良いかではなく、消費者にとって理想的なのは 「 選択肢がある 」 という環境の問題で、それぞれが必要な存在なのだ。


このところ毎日のように 「 食品偽装問題 」 が報じられ、賞味・消費期限の改ざんや、原材料、産地の偽装などが、次々と暴露されている。

そのなかで、以前、北海道 ミートホープ 社 の社長が、「 価格の安いモノを欲しがる消費者も悪い 」 と、責任転嫁ともとれる暴言を吐いたことがある。

まったく反省の色がなく、とんでもない 「 逆ギレ 」 だが、それは品質表示に偽りがあったからで、そうでなければ、この論理は間違っていない。

表示に偽装さえなければ、高品質なモノは価格が高く、出費を抑えるのなら品質が劣っても我慢せざるを得ないのは、いわば自然の摂理である。

消費者が、商品の 「 価格 」 によって品質の良し悪しを判断する例は珍しくなく、競合他社より価格が高ければ、高品質だと盲信しても無理はない。


大阪市に本店のある 「 船場 吉兆 」 が、原材料の不正表示や、着色料の無記載、賞味・消費期限の改ざんなどで、農水省から調査、摘発を受けた。

当初は、福岡市の 「 吉兆 天神フードパーク店 」 での菓子や惣菜について報じられたが、その後、本店での牛肉、鶏肉の産地偽装も判明した。

関西の 「 グルメ通 」 は、この事件が、いわゆる 「 一連の食品偽装問題 」 とは一線を画していることに気付き、今までにない動揺を感じている。

吉兆 本店 といえば、味も良いが、大阪一 「 値段が高い 」 ことでも知られており、清水の舞台から飛び降りる覚悟がないと、足を踏み入れられない。

私も、そこそこ 「 食通 」 のほうだと思うが、一度だけ、大手企業の社長さんにご相伴しただけで、価格と敷居が高いため、以後は利用していない。


一般的に食品偽装事件は、「 庶民 」 を対象とした商売で起こり、その背景には、熾烈な価格競争による 「 経営の圧迫 」 に原因が集中している。

吉兆 のように、「 セレブリティ 」 と呼ばれる顧客層を対象にした商売では、普通、考えられないことであり、その影響は、計り知れないものがある。

一回の食事を、生命を維持するため 「 食物を摂取する行動 」 とみれば、一杯 500円 の牛丼も、5万円 の懐石料理も、その効果に大差はない。

それをあえて、高いほうに費やすのは、味もさることながら、品質とサービスに対する期待や、食の安全に対する信頼を寄せているためである。

高級料亭 吉兆 の不祥事は、「 本物志向 」 に対する裏切りでもあり、他の高額商品の売上まで影響を及ぼし、関西経済に打撃を与える危険が高い。






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2007年11月10日(土) 日本語の奥深さ



「 なんとかして絶妙な言葉を見つけ出し、

  言う時は、思いっきり軽薄に言うことだ 」

              ジョージ・バーナード・ショー ( イギリスの劇作家 )

Take the utmost trouble to find the right thing to say,
and then say it with the utmost levity.

                           George Bernard Shaw



漢字の問題、「 裴 勇俊 」 は何と読むのか、ご存知だろうか。

それが読める方は、たぶん 「 崔 志宇 」 も、ご承知のはずである。


ヒント 1、「 それは 人名 」、ヒント 2、「 中高年の女性に、熱烈な ファン が多い 」 を参考にしても、ピン とくる方は少ないと思われる。

正解は、「 裴 勇俊 = ぺ・ヨンジュン 」、「 崔 志宇 = チェ・ジウ 」 なのだが、これほどの有名人の名前が、意外と漢字では知られていない。

たとえば、金 大中 ( 前大統領 ) や、盧 武鉉 ( 現大統領 ) は漢字で読める人が多く、韓国人の名前が、すべて カタカナ表記 というわけでもない。

実は、韓流ブーム の 火付け役 となった ドラマ 『 冬のソナタ 』 を放映した NHK には、韓国人名は カタカナ表記 とする放送基準が定められている。

それを発端に、他の 韓流スター も カタカナ表記 とする習慣が一人歩きし、漢字にされると 「 ほとんどの人が読めない 」 現象が定着した。


一昔前、韓国政府は、人口文字である 「 ハングル 」 の定着を図るため、国語教育から漢字を追放する 「 ハングル一辺倒主義 」 を実行した。

その結果、自分の名前でさえも漢字で書けない韓国人が増えたわけだが、これは、国民全体の語学能力を低下させた 「 大愚策 」 との批判が多い。

なんと日本でも、戦後、「 日本語を カタカナ に 」 という運動があったらしく、もし、実行していたら、各分野での能力低下は避けられなかっただろう。

日本人は、世界でも珍しい 「 漢字、ひらがな、カタカナ 」 という複数文字を併用する民族で、その複雑さが、片脳の成長を効果的に刺激している。

ただ、一生かけても、言葉のすべてを理解するのは 「 至難の技 」 であり、その複雑さゆえに、誤った覚え方をしてしまう ケース が多いようだ。


たとえば、自分の奥さんを他人に紹介するとき、「 愚妻 」 という言葉を使う人が多いけれど、その習慣に対し、女性蔑視だと猛抗議する人がいる。

この 「 愚妻 」 という言葉を、「 愚かで、出来の悪い妻 」 という差別表現に捉えての抗議だと思われるが、実際の意味は、まるで違うものだ。

本当は、「 私のような愚か者に、嫁いだ妻 」 という謙譲語で、妻を馬鹿にしているわけではなく、自分を下位に置く “ へりくだった挨拶 ” なのである。

ことわざの意味となると、さらに勘違いは多く、「 流れに掉 ( さお ) さす 」 とか、「 情けは人のためならず 」 などは、真逆に解釈する人も珍しくない。

正しい意味の解説は、以前、この日記でも書いた気がするけれど、興味のある方は 「 ことわざ辞典 」 でも紐解いて、お調べいただくとよいだろう。


最近の若い人は、「 正しい日本語が使えない 」 とか、「 語彙が乏しい 」 と嘆く中高年の声をよく聞くが、一概に、そうとも言えない気がする。

言語史を遡ると、時代と共に 「 正しい日本語 」 は変化してきたわけだし、「 語彙 」 については、古い言葉が減る一方、新しい言葉も増えている。

言葉は 「 情報伝達 ツール 」 であり、正しいか、間違っているかの評価よりも、相手に正しく伝える表現力の有無が、実際には重要となるものだ。

ただ、語彙の豊富さは、デジカメ の 「 画素数 」 と似ており、100万画素のカメラより、500万画素のほうが鮮明なように、多いほど明確に伝わる。

先日も、若い女性から 「 TAKAさん、やばい〜! 」 と言われ、何か危険が迫っているのかと思いきや、誉め言葉と知り、日本語の奥深さを痛感した。






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2007年11月09日(金) サルコジ に学ぶべき同盟の極意



「 私の世代の男女は、我々を独裁政治の隷属から解放するために、

  アメリカ が 1944年 にとった行動を、両親から聴いて育ちました。

  だから、我々は アメリカ が好きです 」

                   ニコラ・サルコジ ( フランスの現職大統領 )

The men and women of my generation heard their parents talk about how America returned in 1944 to free us from the horrifying tyranny that threatened to enslave us ... That is why we love America.

                                 Nicolas Sarkozy



部分的に抜粋したので、本意が伝わりやすいように、少し意訳してみた。

ノルマンディ上陸作戦のことまで語らないと、直訳では意味が通じ難い。


パリ に生まれた サルコジ は、ハンガリー 移民の二世で、今年の5月6日、熾烈な選挙を勝ち抜いた末、フランス の大統領へと就任した。

代々、フランス の大物政治家や、大統領などは、高級官僚養成機関である国立行政院 ( ENA ) 出身者が多い中、弁護士から政界入りした人物だ。

従来の 「 国家統制型経済 」 に異を唱え、米英型の 「 自由経済 」 導入を主張し、移民の末裔でありながら、移民政策には強硬な姿勢をみせる。

一言で語ると、「 米英寄りの保守系右派 」 という特徴があり、彼を指名した民意も、いまは親米感情が高まりつつあると考えてよいだろう。

冒頭の言葉は、公式訪米中の サルコジ が、米仏の団結を訴えるために、現地時間の7日、米上下両院合同会合で演説した内容の一部である。


こうした賛辞は、米軍による イラク への侵攻に批判が高まる中、ブッシュ 政権にとって有難い援護射撃であり、会場は万雷の拍手に包まれた。

単なるお世辞ではなく、実際、第二次大戦中に フランス は、米軍の侵攻によって ナチスドイツ の脅威から救われたという歴史を持つ。

その際に、多くの米兵が犠牲となったことを忘れず、孫子の代まで感謝していると述べた演説は、いかにも 「 アメリカ 受け 」 する名文であった。

ベトナム、イラク では失点続きの アメリカ だが、第二次大戦時に、欧州の自由を解放したという自負は、彼らの誇りとして受け継がれている。

近年、イラク 戦争を契機に冷めていた両国の同盟関係が、復活に向けて動き出していることを主張するには、優れた出来栄えの メッセージ だ。


形の上では、経済や文化、防衛などの分野において、日米の関係は親密にみえるが、お互いに、相手への不満と、憤りや確執を抱いている。

アメリカ からみた日本は、常に 「 アンフェア 」 で、特に貿易や防衛の問題においては、利己的な主張を繰り返す日本に、閉口しているのが現状だ。

太平洋戦争についても、日本を憎んではいないが、フランス と同じように、日本は 「 アメリカ による解放 」 に感謝すべきだと考える人が多い。

軍国主義から解放され、自由を満喫できたのは アメリカ の恩恵によるもので、事実、アメリカ の与えた 「 憲法 」 を、後生大事にしているではないか。

そんな見方をされていることも知らず、「 アメリカ の言いなりになるもんか 」 なんて愚痴を吐く日本人を、彼らの多くは 「 恩知らず 」 だと思っている。


アメリカ の肩を持つわけではないが、彼らは、その短い歴史の中で、世界各地の虐げられた人々を救い、自由を解放してきたという自負がある。

それこそが、彼らの 「 誇り 」 であり 「 正義 」 なのだという心情を察しないと、彼らに協力するにせよ、拒否するにせよ、相手の理解は得られない。

テロ特措法の問題にしても、たしかに、日本にとって 「 得か損か 」 といった観点で眺めれば、ほとんど、投資に見合う メリット など無いように思う。

憲法をはじめ、国内法の解釈に抵触するし、相手が後進国ではないから、ODA などの国際貢献と同じように、金品を供出する大儀も浮かばない。

ただ、「 外交 」 は 「 貿易 」 と違い、何の得があるかよりも、誰と組むかという点に重きを置くべきもので、そのあたりの長期的な判断が重要となる。


日本には独自の優れた文化、思想があり、最近では、科学的な技術力や、質の高い労働生産性など、世界から注目される数々の特徴がある。

ただし、全世界の法秩序や、治安の安定に関しては、この小さな島国が、全体の リーダーシップ をとる能力など、現実的に在り得ないのだ。

ならば、リーダーシップ をとれる巨大勢力の中から、最も相応しいと思える相手を選び、その方針に追従することが最善手となる。

それが、国家の安寧と、国際貢献を果たすための理想論ではない現実的な方法であり、フランス は、その相手に アメリカ を選んだのである。

たとえ力量の及ばない事柄でも、何にでも主導権を持とうとするのが、日本の悪いところであり、テロ特措法の是非も、そこが重要な ポイント となる。






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2007年11月08日(木) 飛び降り自殺で巻き添えになる不幸



「 心配をまぎらわすには、ウイスキーより仕事のほうが役に立つ 」

                トーマス・アルヴァ・エジソン ( アメリカの発明家 )

As a cure for worrying, work is better than whisky.

                             Thomas Alva Edison



気分転換も大事だが、仕事の悩みは仕事でしか、解決しないものだ。

酒や薬に頼っても、頭の回転が鈍くなるだけで、役に立つものではない。


日本の病院には現在、約 140万人 の入院患者がいるけれど、そのうち 約 34万人、つまり 4人 に 1人 は 「 精神障害者 」 である。

この驚くべき数字が、あまり知られていない背景は、精神病院という施設の仕組みや、目的というものに対し、理解が浸透していない実態による。

医療法特例により、精神病院では従事するスタッフが少なくてよいとされ、また診療報酬の仕組みも、精神医療のみが不当に低く抑えられている。

人里離れた地価の安い場所に大病院を建て、スタッフを減らして人件費を切り詰め、患者を詰め込むことで、精神病院の経営は 「 儲かる 」 のだ。

通常、病院では患者数16人にひとりの医師が必要なのに、精神病院では患者48人にひとりで許され、「 ある理由 」 により、患者数は減少しない。


実際、最も急増した昭和20〜30年代の間、新設された民間の精神病院のうち、精神科医による経営は全体の4分の1に満たなかった。

他は、建設業者やら、ほとんど医学的には何の知識もない人々だったが、とにかく 「 精神病院は儲かる 」 という理由だけで、投資の対象とされた。

ちなみに、患者本人の意思で入院できるようになったのは、昭和62年の 「 精神衛生法 」 成立以後のことで、その歴史は意外と新しい。

それまでは、家族や行政、警察の判断と依頼のみによって、精神障害者は強制的に、精神病院へと収容されていたのである。

いまでも、法律を犯した 「 触法精神障害者 」 の多くは、その処置が執られており、前述の、入院需要が減らない 「 ある理由 」 とは、それにあたる。


近代の刑事裁判は、少年と精神障害者を 「 理性ある成人 」 とみなさず、たとえ凶悪犯罪に及んでも、保護されるべきと考えられている。

少年は 年齢 によって、精神障害者は 狂気 によって、刑罰は軽減されるか、そもそも科せられるべきではないとされるのだ。

こうした扱いは、人道主義の観点から生まれたものだが、普通は、人権に含まれるはずの 「 裁判を受ける権利 」 が、彼らには与えられていない。

彼らは、無罪放免になる反面、「 法の外側にいる存在 」 として、実質上、社会から排除され、裁判を受ける権利さえ与えられていないのだ。

実際、26歳で軽微な罪により逮捕され、服役せず措置入院を命ぜられた精神障害者が、死ぬまでの40年間を、精神病院で過ごした例もある。


そもそも、日本に精神病院を設立した目的は、「 治療 」 でなく、一般社会からの 「 隔離 」 であり、「 排除 」 であったことが、史実に記されている。

精神病院の設立までは、家族の中から 「 監督責任者 」 を決定し、警察に届け出た上で、座敷牢など、自宅に監禁しなければならなかった。

ところが、経済的理由などで困難だったり、浮浪、徘徊をする身寄りのない精神障害者は、公的に監禁せざるを得ない実情がある。

江戸時代までは、精神障害者 ( 当時は乱心者と呼ばれた ) が市内を徘徊していたが、明治以降、文明開化と共に対策が必要となった。

明治初期まで、日本では、精神障害者による犯罪も、他の犯罪者と同等に処罰していたのだが、外国からの要人往来により、「 野蛮 」 とされたのだ。


その後、精神障害者を 「 監獄から救出する 」 という人道主義は、時折、「 目立つ 触法精神障害者 」 の出現によって、新たな局面を迎える。

昭和39年、アメリカの ライシャワー駐日大使が、精神病歴のある19歳の少年に刺される事件が起こり、当時、国家公安委員長は引責辞任した。

その後も、「 池田小学校連続殺傷事件 」 など、犯罪者の精神病歴が浮上するたび、世論は 「 精神障害者を野放しにしている 」 と大騒ぎになった。

そんな、人々の 「 精神障害者を憐れむ精神 」 と、「 社会の治安 」 に寄せる期待を、どちらも叶える理想的な施設として、精神病院の存在がある。

言葉は悪いが、病院側の経済的な要請と、地域社会や家族の厄介払いという二つの利害が、一致したところに精神病院は成り立ってきたのだ。


池袋の百貨店 「 パルコ 」 屋上から、精神科に通院していた26歳の女性が飛び降り自殺を図り、通行中の男性が巻き添えになる事件があった。

この男性は、たまたま付近の路上を歩行中、落下してきた女性が直撃し、顔面を複雑骨折するなどして、現在も意識不明の重態に陥っている。

気の毒な話だが、このような事件が起きるたび、日本の精神医療が、社会との隔絶に主眼を置き、本来の 「 治療 」 が進歩していない実情に憤る。

警察と医療機関は、健常者と精神障害者の中間にある、変質者、精神病性人格、精神失墜者などの情報までを、ある程度、把握しているという。

しかしながら精神科医は、それら自傷他害の危険を秘めた人格障害者に対し、治療不可能という理由から、ほとんど満足な治療を施していない。


特に問題なのは、治療を 「 向精神薬の投与 」 に頼りきり、患者を薬漬けにしてしまう精神科医や、やたら入院を勧める医師が多いことだろう。

また、最近では、職場や学校に行かない状態が長期化した者を、その家族が持て余し、わずかな症状を理由に入院させ、かえって悪くなる例もある。

もちろん、そうは言っても精神科医の診療を必要とする方はいるわけだが、なるべくなら、休養をとるなどして、医師、薬に頼らないほうが望ましい。

そして、どうしても精神病や、人格障害に陥った場合には、たとえ遠方でも、評判の良い医師にかかり、心の平静を保ち、物事を考え込まないことだ。

間違っても自殺になど及ばず、他人も自分も傷つけないでいると、必ずや運気は巡ってくるものだから、あきらめず、根気よく暮らしていただきたい。






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2007年11月06日(火) 小沢 氏 辞意撤回 : 親離れできない 民主党 は 「 亀田 」 以下



「 楽に生きる術が二つある。 すべてを信じるか、すべてを疑うかだ。

  どちらの場合も、考えずにすむ 」

          アルフレッド・コージブスキー ( ポーランドの言語哲学者 )

There are two ways to slide easily through life ;
to believe everything or to doubt everything ;
both ways save us from thinking.

                                Alfred Korzybski



たしかに、独り善がりの熟考が、悩みの原因となって苦しむこともある。

誰かに追従したり、あるいは、むやみに抵抗するほうが、楽かもしれない。


前回の日記では、「 帰ることはないだろう 」 と結んだが、事態は予想外の動きをみせ、一転、民主党 小沢 代表 の辞意が撤回された。

民主党 幹部 らは、説得に成功したことで安堵の表情を浮かべているようだが、ここ数日の 「 ドタバタ劇 」 による混乱が、払拭されたわけではない。

党首会談への参加、連立案を預かった経緯に不満をぶつけた党員やら、その後の辞意表明を、無責任だと糾弾した党員が明らかになっている。

小沢 氏 が去れば困る反面、戻ってきても軋轢は残るわけで、いわゆる 「 覆水盆に返らず 」 の如く、すべてが元通りとはいかないはずだ。

そして、最も大きな問題は、党内に残る 「 猜疑心 」 で、もともと寄せ集めのような構成員を、再度、結束させることが困難になったのは間違いない。


恥を晒して辞意を撤回したからには、翻意に務めた 幹部 から 小沢 氏 に対し、なんらかの 「 譲歩 」、「 歩み寄り 」 があったとみて良いだろう。

今回の一件について私は、「 たとえ 小沢 の意見でも、我々は従えない 」 と満場一致で反対した 民主党員 の勇気を、それなりに評価していた。

ところが、辞意を示された途端に慌てふためき、今度は懸命に慰留するとは、なんと情けない集団かと、以前に増して失望の色を濃くした次第だ。

同じことを、多くの有権者が感じただろうし、小沢 氏 への疑念や不満を抱く若手議員らも、それは党幹部への失望や軽蔑として、残るはずである。

小沢 氏 の辞任は、痛手でもあっただろうが、彼への依存体質から脱却し、真の実力を示す機会でもあったわけで、慰留により後退した要素も大きい。


少し前、ボクサーの 亀田 興毅 選手が記者会見を開き、父親の不始末を謝罪しつつ、一家に課せられた処分を真摯に受け止める決意を語った。

その際、「 悪いことは悪い 」 と罪を認めながらも、自分にとっては尊敬する父親であり、育ててくれた恩に感謝している旨が、聴衆に伝えられた。

今後については、「 父親による指導を離れ、一から出直す 」 ことが決意として述べられ、この会見で 亀田 一家 は、なんとか追放を免れたのだ。

批難を浴びた親の尻拭いをさせられても恨み言を漏らさず、立派に親離れを果たした 亀田 に比べ、民主党 の対応は 「 未熟 」 の一語に尽きる。

さんざん 「 信じてたのに 」、「 無責任だ 」、「 裏切り者 」 と罵った挙句に、結局は親離れできない政党に、まだ何か期待してよいものだろうか。






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2007年11月05日(月) 小沢 民主党 と、椿 三十郎



「 かごの中の鳥は、あきらめているが、本当は、飛び立ちたいのだ 」

                  テネシー・ウイリアムズ ( アメリカの劇作家 )

Caged birds accept each other but fight is what they long for.

                              Tennessee Williams



黒澤 明 監督 の名作 『 椿 三十郎 ( 1962 東宝 ) 』 が、リメイク される。

かつて、三船 敏郎 の演じた主人公役に、今回は 織田 裕二 が挑む。


物語の主軸は、汚職のはびこる藩政に対し、命がけで立ち向かおうとする若武者たちを、通りすがりの浪人が助けるという、大型娯楽時代劇である。

若武者のリーダーを、若き日の 加山 雄三 が演じているけれど、とにかく、この若武者たちは、志は立派なのだが、どうにも甘くて弱々しく頼りない。

たまたま通りがかった浪人の 三十郎 ( 三船 敏郎 ) に命を救われると、「 ぜひ、お力を御貸しください 」 と頼み込み、その決意を語り始める。

純真ではあるが世間知らずで、頭の固い若武者たちに閉口し、一度は断りかけた 三十郎 だが、あまりに危なっかしいので、仕方なく助太刀する。

未見の方のため、それ以上は書かないが、今冬公開予定のリメイク作品はともかく、旧作は必見の価値ありということだけは、間違いなく保証できる。


この映画に出てくる 「 若武者 と 民主党 」、「 椿 三十郎 と 小沢 氏 」 に、なんとなく印象が重なるのは、私だけだろうか。

別に、民主党 が正しいとも思わないし、小沢 氏 を英雄視する気もないが、「 若武者の未熟さ 」、「 百戦錬磨の凄腕 」 という部分に共通点を感じる。

映画の若武者は、三十郎 との出会いによって成長し、少しは知恵を働かせるようになり、いつまでも “ 頼ってばかりではない ” 活躍をみせる。

がむしゃらに攻めるだけでは、結局、何もできず、「 誰の役にも立たない 」 ことを学んだ若武者たちの成長ぶりが、観客に爽やかな感動を与えた。

この映画を観た方々なら、終盤、仕官を依頼された 三十郎 が、どのような行動をとったのかも覚えておられるはずで、そこも 「 重なる 」 部分である。


民主党 は、辞意を表明した 小沢 氏 の慰留に懸命なようだが、それ相応の覚悟をした者、しかも根っからの 「 浪人 」 に対し、野暮というものだ。

慰留に費やす労力があるなら、いつまでも頼らず、今度は、吸収したものを発揮することに エネルギー を使うべきだろう。

鳩山 氏 のように、「 辞められたら、党がもたない 」 なんて泣き言を吐くのは、自ら “ 政権担当能力など、ございません ” と、明かすのと同じだ。

既に 小沢 氏 は 「 もう、こんな馬鹿な連中とは、やっておられん 」 と去ったのだから、これからは、自分たちの実力で勝負する番である。

なぜ、このような事態になったのか、理屈を並べだすとキリがないけれど、かごの狭さに気付いた鳥は、もう二度と元へは帰らないだろう。






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2007年11月04日(日) 小沢代表辞任 : 民主党 崩壊の序曲



「 変えるには リスク が伴う。

  変えなければ、もっと大きな リスク が伴う 」

                    ジョン・ヤング ( アメリカの宇宙飛行士 )

Risky to change. Riskier not to change.

                                   John Young



変革を拒む者の多くは、将来的に起きる 「 より大きな危険 」 を知らない。

未来には、たとえ リスク を冒してでも、回避すべき危機が存在し得る。


自民・民主 の大連立は、議会制民主主義での健全性からみて問題も多く、民主党 議員 の反対により、廃案になって良かったのではないかと思う。

ただ、今回の騒動で 小沢 氏 が代表を辞任したことで、民主党 の勢いは低下し、国民の 「 支持離れ 」 が進むことは明らかだろう。

今後、求心力を失った 小沢 氏 が 民主党 に残るのか、腹心を引き連れて 新党 を組むのか、それが 自民党 と連立するのかなど、不明な点も多い。

彼の後を受けて、誰が 民主党 の 新代表 になるのか知らないが、小沢 氏 に対する処遇を、今後どうしていくのかは、頭の痛い問題になるだろう。

ほんの数ヶ月前、彼らが過半数を握る参議院は 「 小沢 総理 」 を指名したわけだし、いまさら悪口も言えないのが、彼らの泣き所である。


小沢 氏 がとった行動に対して、「 乱心だ 」 とか 「 態度が豹変した 」 などと言っている御仁は、小沢 氏 という人物についての認識が足りなすぎる。

護憲派の中には、彼が、インド洋上での給油を 「 違憲 」 として反対をしたことに、「 そうだ、その通り 」 と喝采を送った人もいるが、まったく滑稽だ。

彼こそが、自民党 時代から通じて 「 憲法改正論者 」 であり、給油活動に反対したのも、もっと大規模な 「 防衛改革網 」 のためである。

あまり知られていないが、小沢 氏 の 「 ご子息は自衛官 」 であり、これは全国会議員の中でも珍しいことなので、かねてより気になっていた。

実際、給油活動など吹き飛んでしまうような 「 恒久法 ( いつでも自衛官を派遣できる法律 ) 」 の制定を求め、まるで憲法など眼中にない。


おとなしくしていれば、次の選挙で 民主党 が政権を執り、小沢 新総理 が誕生したのにと語る御仁もいるが、それも、彼の意図をわかっていない。

憲法改正論議、自衛隊の派遣に反対する者が多い 民主党 の代表でいるかぎり、総理になったところで、自身の政治哲学が通せるわけなどない。

こんなことは、彼が 「 民主党 の代表になった時点 」 で、わかっていたことなのに、いまさら騒いでいる連中のほうが、私には理解し難い。

民主党 が 小沢 氏 を代表に据えた背景は、彼と心中する覚悟があるか、一定期間、彼を利用するためと思っていたが、そうではなかったようだ。

辞意表明会見において、小沢 氏 が 福田 総理 の誠意を称え、民主党 の政権担当能力を 「 まだ、いま一歩 」 と評したのも、計算外だっただろう。


これで一気に、形勢が大逆転するかどうかは不明だが、民主党 にとっての ダメージ は大きく、支持者、有権者の信頼を貶めたことは間違いない。

報道をみると、小沢 氏 に 「 無責任だ 」 といった批難をぶつける人もいる反面、逆に、「 憂国の情 」 を感じたという意見もみられた。

個人的には、民主党 に 「 政権担当能力があると思えない 」 が、民主主義の健全性を維持する観点から、二大政党制の存続が望ましいと思う。

したがって、これを契機に 「 民主党 が崩壊 」 してしまうのは不本意だし、今回の失態を教訓にして、さらなる精進に励んでもらいたいものだ。

どうせなら、小沢 氏 だけでなく、鳩山、菅 の両氏も引退すれば、もう少し 「 マトモ な政党 」 に脱皮できるような気もするが、どうなのだろうか。






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2007年11月03日(土) 連立の餌に寝返る 小沢 代表



「 二人の男が同じ仕事をして、四六時中、意気投合しているとすれば、

  一人は不要なのだ。

  逆に、四六時中、張り合っているようなら、二人とも不要である 」

       ダリル・フランシス・ザナック ( アメリカの映画プロデューサー )

If two men on the same job agree all the time, then one is useless.
If they disagree all the time, then both are useless.

                            Darryl Francis Zanuck



組織の発展は、絶対服従型の 「 イエスマン 」 ばかりで成し得ない。

かといって、ことごとく決定に反撥する 「 ヘンコツ者 」 ばかりでも困る。


必ずしも大多数の意見が正しいわけでなく、少数派が不利な立場に置かれる可能性を思えば、民主主義が最も優れた政治形態とはかぎらない。

ただ、選挙などにおいて、有権者の意志を公正に示せることで、少なくとも民意は反映されるし、その意に反した独裁者の暴走は食い止められる。

問題は、有権者にとっての 「 選択肢 」 があるかどうかで、それが無い状態では、公正な選挙制度が敷かれていても、まるで効果が発揮されない。

民主主義を名乗る国家でも、一党支配では有権者の選択肢がなく、逆に、競合が多すぎると、与党の占める割合が減り、政策行使力が脆弱になる。

そこで、イギリス や、イギリス から独立した国家では、民主主義の本領を発揮する手段として、伝統的に 「 二大政党制 」 が継承され続けている。


イギリス の 保守党 と 労働党、アメリカ の 共和党 と民主党、カナダ では 自由党 と 保守党 などが、二大政党制の代表格として知られている。

もう少し正確に言うならば、これらは 「 保守二大政党制 」 と呼ばれるもので、社会主義や共産主義などとの、本格的な思想の対立は含まれない。

両者間の政策的距離は小さく、どちらが政権を執っても国民生活に大きな変化は現れないため、有権者は自由に安心して支持政党を選択できる。

昭和20〜50年代、日本では 自民党 と 社会党 が対峙してきたが、いまの 自民党 と 民主党 のほうが、保守二大政党制と呼ぶに相応しいだろう。

さほど差の無い二者択一でも、競合の存在そのものが危機意識と緊張を高め、互いの切磋琢磨と自浄に作用するので、それなりの効果はある。


衆院で与党が、参院で野党が大勢を占める現在、「 ねじれ国会 」 を打破する目的で、自民党 から 民主党 に 「 大連立案 」 が示された。

結果的には、小沢 代表 が党首対談の席上で受けた打診を 民主党 本部 に持ち帰り、党の役員会で協議したが反対意見が多く、ご破算となった。

ここで着目すべき点は、小沢 氏 が 「 一度、党内に持ち帰った 」 というところで、彼自身の 「 即答 」 ではなかったという事実である。

二大政党制の利点や、健全性を重視するならば、党内に持ち帰ることなく反対の意思表示をしたはずだが、彼の行動は、その通りでなかった。

民主党 からは、「 国民に説明がつかない 」 などと、連立や、政策協議への反対意見が示されたが、小沢 氏 には別の思惑があった可能性も高い。


自民党 が、二大政党制を否定する大連立を 「 本気 」 で考えていたのか、また、その考えを 民主党 が呑むと思ったのか、どうも腑に落ちない。

この件について 自民党 は、民主党 が賛成しないことを承知の上で、別の目的があって投げかけたのではないかという疑いが強いのである。

その目的とは、「 民主党 の結束度 」 を探り、あわよくば、内部分裂を誘うことではなかったかと思われる。

実際、民主党 の役員会出席者によると、小沢 氏 から冒頭、「 政策協議に入っていいんじゃないか 」 という、賛意ともとれる発言があったそうだ。

その提案に反対意見が相次ぎ噴出し、最終的には役員全員が反対したというのだから、今後、小沢 氏 の統率力に、微妙な影を落とすこととなった。


前回の参院選で圧勝し、優勢と言われる 民主党 だが、次回の衆院選にも勝てる保証はないし、勝ったところで、その支持が長く続くとはかぎらない。

むしろ、実務面で不慣れな 民主党 議員 が、折りしも問題が山積している国政を引き受け、大失態の末に早期退陣を迫られる可能性も高い。

ベテラン の 小沢 氏 が、そのあたりの利害も視野に入れ、大連立を前向きに検討する一方で、経験の浅い若手との確執があったことも考えられる。

いづれにせよ、青臭い言い方だが、政治は 「 当事者の損得勘定 」 でなく、国民のための政治であってほしいものだ。

国会の空転を連立で乗り切ることより、多少の時間は掛かっても、成熟した二大政党制を確立することのほうが、国家の将来には有益となるだろう。






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2007年11月01日(木) おめでとう中日ドラゴンズ : 53年ぶりの日本一



「 待つことを知っている者に、未来は味方する 」

                                   英語のことわざ

The future belongs to him who knows how to wait.

                                 English proverb



いわゆる 「 待つことを知っている者 」 とは、忍耐強い者のことである。

逆境にへこたれず、歯を食いしばって耐えた者にこそ、栄光が授けられる。


緊迫した投手戦を制し、53年ぶりに 中日ドラゴンズ が 「 日本一 」 の栄冠に輝き、本年度プロ野球の有終の美を飾った。

昨年も 中日 は セ・リーグ の覇者となったが、日本シリーズ では、今年と同じ 日本ハム と対戦し、惜敗している。

そんな状況から雪辱を果たした彼らは、全体が 「 待つことを知っている 」 メンバー で構成された チーム だったのかもしれない。

特に、ポストシーズン でも活躍した 中村 紀洋 選手 は、かつては 近鉄 で 4番 を打った立場から転落し、育成選手枠から出直して這い上がった。

過去の選手生活が、けして順風満帆ではなく、誰よりも待つことを知っている彼が、今夜は 「 待ったことの喜び 」 を噛みしめていることだろう。


福留 や 川上 は別として、今季、中日 で活躍した選手の顔ぶれを眺めると、ドラフトの上位など、鳴り物入りで入団した人間が少ないことに気付く。

プロ と アマ の差が歴然とした世界で、注目度の低い若手が起用されるには、相当な練習量と、たゆまぬ精進が要求されるものだ。

来る日も来る日も練習を重ね、やがて与えられる僅かな チャンス に全力を出し切れるよう、本気で未来に憧れる選手たちは準備を怠らない。

プロ野球選手にかぎらず、サラリーマン でも同じことだが、途中で挫折する者と、やがて夢を掴む者の違いは、忍耐力の差によるところが大きい。

誰にでも不遇のときはあるけれど、準備が機会に出会う瞬間を、常に心に描きながら、「 待つこと 」 を学び、けして諦めない姿勢が未来を切り拓く。






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