Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2007年09月30日(日) 沖縄戦における集団自決の嘘と真実



「 歴史とは、伝説と化した事実であり、伝説とは、歴史と化した嘘である 」

                   ジャン・コクトー ( フランスの前衛芸術家 )

History is facts which become legend in the end ;
legends are lies which become history in the end.

                                  Jean Cocteau



ジャン・コクトー は、フランスの生んだ 「 世紀の才人 」 と呼ばれている。

詩、小説、戯曲、脚本を書き、画家、評論家、映画監督と、幅広く活躍した。


おそらく、歴史とは 「 伝説化するときに、嘘が混入しやすい 」 ものであり、年月が経てば経つほど、真実とかけ離れた嘘に染まる傾向がある。

最近では、記録媒体が進化したことで、映像や音声の記録が残せるようになり、とんでもない大嘘は通用しなくなってきたが、昔は、それがなかった。

大昔の歴史は、人々が代々、口頭で伝承してきたものが多く、言葉遊びの 「 伝言ゲーム 」 と同様に、伝え間違い、聞き間違いで、内容は変化する。

また、いつの世でも、話を誇張して伝える癖のある人や、自分なりの解釈を付け加える人、少し脚色して 「 面白おかしく伝える人 」 がいたはずだ。

また、誰かが恣意的に 「 自分たちに都合のよい歴史 」 を捏造し、後世に伝えようとした可能性も否定できず、その信憑性は判別し難いものである。


江戸時代の後期、幕末の京都に 「 新撰組 」 という組織が存在したことは紛れも無い事実で、局長 近藤 勇、副長 土方 歳三 らの写真も現存する。

しかし、たとえば有名な 「 池田屋事件 」 を再現した時代劇では、襲撃する隊士の人数や顔ぶれが、作品によって大きく異なることが多い。

諸説ある中で、最も信憑性が高いのは、近藤 率いる10名と、土方 率いる24名に分かれ、近藤隊のみが襲撃したという説である。

子母澤 寛 の記した 「 新撰組始末記 」 によると、近藤隊の奇襲後、敵が逃走してから 土方 は到着したとされるが、土方 が斬り込む作品もある。

この見解が正しいとされるのは、当時、まだ存命だった旧幕臣や、新撰組の元隊士に取材した理由からだが、それでも、真偽の程は断定できない。


もっと大昔の話になると、さらに史実の検証は難しくなり、場合によっては、歴史上の人物そのものが、本当に実在したのかさえ不明なものもある。

逆に、まだまだ当時の証言者が存命しているような、比較的に新しい事件でも、真偽の程は疑わしい歴史的事実というものが、いくつか存在する。

それは、たとえば 「 ケネディ大統領が暗殺された真相 」 のように、証言者によって供述が矛盾していたり、捜査方法に疑問のあるケースなどだ。

あるいは、単純な顛末なのかもしれないが、そこに人々が疑念を抱くのは、重大な組織的利害関係が絡み、それは謀略の可能性を含むからである。

そういう意味で、多くの日本人や、日本に関心の高い外国人にとって、最も真偽を確かめたい事柄が多く潜むのは、「 太平洋戦争の真実 」 だろう。


何千年も前の神話ではなく、せいぜい 60 〜 70年前の事柄だが、戦時中は軍部によって報道統制が敷かれ、多くの真実は民間人に伝えられない。

また、戦時中は軍事的、政治的な目的から、戦後は占領政策や左派思想の台頭から、史実が何者かにより、至る所で捻じ曲げられた形跡がある。

当時を知る生存者がいるのだから、「 生き証言 」 の聴取も可能だが、立場や利害の違いからか、同じ案件でも証言の一致しないことが多い。

私自身、知人や親族から戦争体験を聴く機会も多かったが、本人の性格、戦争に対する意識、国家への忠誠心の違いなどで、証言は微妙に異なる。

高齢で、過去の記憶が曖昧なせいもあるが、同じ事件でも証言が食い違う 「 個人差 」 に、ある一定の法則が存在することを、私は発見した。


それは、自身の戦争体験における 「 恐怖度 」 の違いで、証言の内容や、話し方に大きな差が生じているという共通点である。

実戦に参加したり、空襲を受けて 「 大きな恐怖を感じた人 」 は、その場にいなかった事件 ( 南京大虐殺など ) でも、鵜呑みにして語る人が多い。

特に、戦争で負傷したり、家族を失った人は、恐怖に加え 「 戦争と、それを主導した国家 」 というものに、潜在的な憎悪を抱いている。

愛国心が希薄なわけではないけれど、自国の責任を追求し、過去を断罪したい気持ちが強く、時代の逆行する気配を感じると、敏感に反応しやすい。

従軍はしたが、難なく無事に生還した人々の証言に比べると、中立性や、冷静さに違いがあるのは、事情を鑑みると、仕方のないことだと思う。


沖縄戦で起きた 「 住民の集団自決 」 を巡って、文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民大会があり、約11万人が参加したらしい。

来春から使用される高校日本史の教科書検定で、従来、認めていた日本軍の強制性に関する記述が見直され、削除、修正されることが決まった。

今回の県民大会では、その検定意見を厳しく批判し、撤回と、集団自決を巡る強制性の記述回復を求める決議を採択したという。

この問題は、最近になって 「 強制性はなかった 」 とする証言や、軍による命令を否定する学説が現われ、実際のところ、真偽が解明されていない。

なかには、軍人の好意により 「 どうせ自決したなら、軍の命令としたほうが遺族年金をもらえるから 」 と、後から強制性が付け加えられた説もある。


もちろん、当時を知る御老人を含め、沖縄県民を嘘つき呼ばわりするつもりはないし、そこに悲惨な過去があったことは、まったく疑う余地もない。

ただ、沖縄で暮らしていても、その現場を実際に体験した人で、なおかつ 「 先入観がなく、冷静に振り返られる人 」 でないと、証拠能力は低い。

たとえば、通常の殺人事件に置き換えると理解しやすいが、事件が起きた現場の近くにいて、悲鳴を聞いただけでは、「 目撃者 」 と言えない。

実際に犯行現場を目撃したわけでなく、誰が犯人なのか特定できないのに、前後の経緯から推察して結論を下すのは、客観性を欠いた判断だ。

重ねて申し上げるが、そういう人々の証言は、悪意のこもった 「 嘘 」 ではなく、恐怖と悲嘆に満ちた 「 反戦の声 」 だと、解釈することが望ましい。


この日、疑問に感じたのは、高校生代表が登壇し 「 嘘を真実と言わないでください。私たちは真実を学び、子供たちに伝えたい 」 と訴えたことだ。

本当に真実を学びたいならば、確定していない事柄を 「 嘘と決め付ける 」 のは適当でないし、それが 「 正しい歴史認識 」 にはつながらない。

本人はおろか、自分の親さえも生まれていない戦争時代のことを、片方の主張だけ盲信する形で、やみくもに反発するのは 「 学ぶ姿勢 」 でない。

その背後には、彼らを洗脳し、誘導している連中がいるものと思われるが、もちろん、その 「 強制性 」 も、証拠がないので憶測に過ぎないものだ。

いづれにせよ、こういった問題は情緒的な主張に流されず、科学的に解明すべき事柄だし、白黒つかないなら、断定的な記述は避けるべきだろう。






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2007年09月29日(土) ミャンマー軍事政権と民主化運動



「 人々を統治するには、まず彼らに “ 統治しているのは自分たちだ ” と

  思い込ませることだ 」

        ウイリアム・ペン ( イギリス出身の政治家、法律家、宗教家 )

Let the people think they govern and they will be governed.

                                   William Penn



ペン は ロンドン に生まれ、38歳で フィラデルフィア に入植した。

以来、ペンシルバニア の開発に尽力し、晩年は アメリカ の英雄になった。


17世紀の中頃、イギリス では、キリスト教の儀式化、神学化に反対する 「 クエーカー教徒 」 と呼ばれる宗派が興り、現在も活動が続いている。

ウイリアム・ペン が クエーカー教徒を率いて フィラデルフィア に入植したのは 1682年 で、アメリカ東海岸における 「 モデル都市 」 の基礎を築いた。

性や、人種による差別に反対した ペン の意志は、彼の死後も教徒に引き継がれ、1758年には 「 奴隷売買の禁止を促す宣言 」 が発表された。

それは、エイブラハム・リンカーン の生誕より50年も前のことで、いまでもアメリカ人にとって フィラデルフィア は、自由と寛容の象徴となっている。

エイズ患者に対する差別と偏見を描き、トム・ハンクス 主演で映画化された 『 フィラデルフィア ( 1993年 米 ) 』 の題名も、それに起因している。


ペン が遺した冒頭の名言は 1693年に書かれており、アメリカ独立宣言の公布 ( 1776年7月4日 ) より80年も前に、民主主義の真髄を捉えていた。

形式的には民主主義のスタイルをとっていても、権力者が富を独り占めにしていたり、国民に参政意識を与えていないと、クーデター は起きやすい。

逆に、軍部主導の下、独裁主義、社会主義を貫く政権では、民衆が暴徒化し、反政府勢力となって、内乱が勃発するケースが多くなる。

1988年、ミャンマー では、全国的な民主化要求デモにより、26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、すぐさま国軍がデモを鎮圧した。

1990年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー女史の率いる国民民主連盟が圧勝したが、それを政府は無視し、政権移譲を行わなかった。


以来、現在に至るまでの間、政府側が女史に自宅軟禁措置を課す一方で、同女史は政府を激しく非難するなどして、両者の対立は続いてきた。

今回のデモは、8月15日、ミャンマー政府によるガソリン、ディーゼルオイルなどの公定価格引上げを発表されたことが、発端となっている模様だ。

手元にある2005年の資料をみると、ミャンマー の経済成長率は 5.0% だが、物価上昇率は 17.6% で、インフレに困窮する人々が多そうである。

経済の鈍化を招いた要因は、女史の拘束などを根拠として、「 対ミャンマー制裁法 」 をアメリカが制定し、国内産業が打撃を受けた影響が大きい。

2004年には、EUも、民主化状況に進展が見られないとして、国営企業への借款の禁止等を含む制裁措置の強化を決定し、事態はさらに悪化した。


現在、日本政府は 無償資金協力で 17.17億円、技術協力で 16.41億円の経済協力が実績としてあり、主要援助国で トップ の位置にある。

外務省によると、日本政府は現状を強く懸念し、女史を含む関係者が関与した国民との和解と、民主化プロセスの具体的進展を求めているらしい。

少し前までの北朝鮮政策と同じで、「 対話 」 という名目によって、事実上、日本は 「 ミャンマー軍事政権 への支援 」 を、積極的に行ってきたのだ。

国民の大部分が、貧困と圧政者からの弾圧に苦しみ、海外に救いの手を求めているが、それは 「 援助 」 でなく、「 現政府の打倒 」 が望みである。

つまり、「 おそらく自分達の口には届かない食料を送るよりも、軍隊を投入して現政府を転覆させてほしい 」 というのが、現地の生の声だ。


実際のところ、「 フセイン統治下のイラク 」 も同じだったわけで、アメリカの参戦が是か非かは別として、武力的な介入を喜んでいるイラク人は多い。

日本は 「 平和主義 」 の名の下に、武力行使など論外だし、同盟国相手に石油を供給することさえ 「 憲法に違反するから 」 と、反対の声が上がる。

そうなると当然、国際社会からは 「 日本は国際貢献をしないのか 」 と批判されるのだが、「 たとえ軽蔑されても、自国の憲法が優先 」 なのである。

結局、対案として浮上するのは、いつも 「 話し合いと、人道的支援 」 という形式的な キレイゴト で、事実上、「 お金を貢ぐ 」 だけの手段だ。

それが、苦しむ国民に届けられるなら マシ だが、軍事政権に資金を提供するような 「 現地の人々が最も恐れる結果 」 に繋がる危険も高い。


ウイリアム・ペン は奴隷開放を叫び、独立宣言は 「 自由・平等・博愛 」 を謳ったが、実際に奴隷の開放を成し得たのは、リンカーン である。

その手段は 「 平和的な話し合い 」 でなく、当時のアメリカを二分し、大量の死傷者を生み出した 「 南北戦争 」 であったことが歴史に刻まれている。

戦争は避けたいけれど、「 肌の色が違う民族の自由を守るために、同胞を殺しても貫かねばならない正義 」 が、そこには存在したのである。

当時の合衆国憲法に、「 正義のためなら、戦争をしてもよい 」 という記述はなかったし、奴隷制を続けても、南北双方の白人が困りはしなかった。

直接的、間接的を問わず、武力行使に関わるのは リスキー だが、名誉や尊厳を捨て、憲法を楯に 「 見て見ぬフリをする 」 よりは マシ な気がする。


かたくなに護憲を訴える人々は、「 民主化よりも平和が大事だ 」 と唱えるのかもしれないが、そんな発言ができるのも、民主主義の恩恵である。

もちろん、民主国家に暮らしていても、不正や、権力者の横暴に苦しめられることは在り得るし、すべてが自由というわけではない。

しかしながら、冒頭の言葉にある通り、“ 自分たちが統治している ”、“ この国を動かしている ” という実感がない生活は、人間の暮らしではない。

物理的には、社会主義、共産主義、独裁主義でも、生きていくことは可能だが、個人の自由と人権が認められない体制下で、尊厳は保たれるのか。

たぶん ミャンマー には、経済的連携関係の深い 「 中国への配慮 」 から、日本政府は何もしないだろうが、武力によってでも民主化を助けるべきだ。






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2007年09月28日(金) 大相撲の闇部



「 俺の仕事は、人間を傷めつけることさ 」

                   シュガー・レイ・ロビンソン ( プロボクサー )

My business is hurting people.

                             Sugar Ray Robinson



なんとも荒々しい コメント だが、本心ではなかったようだ。

試合前の ボクサー は、過剰な闘争本能を示して、相手を威嚇する。


私は、スポーツ と名のつく競技の大半が好きで、若い頃から色々と参加し、観戦してきたが、いまからでも挑戦できるものがあれば試みたいと思う。

ただ、一部に 「 嫌いでもないが、スポーツ とは認め難いもの 」 があって、たとえば 「 フィギュア・スケート 」 などが、その一例である。

フィギュア・スケートの場合、スポーツ の三大要素といわれる 「 心・技・体 」 だけでなく、評価には 「 美 」 という尺度が大きく影響される。

頂点を極めるためには、高度な運動能力と、膨大な練習量を必要とする点からみると スポーツ と言えなくもないが、それは 「 ダンス 」 でも同じだ。

その観点から、フィギュア・スケート やら、シンクロナイズド・スイミング は、「 スポーツ を基盤にした、一種の エンターティメント 」 だと思っている。


大半の格闘技は 「 スポーツ の一種 」 といえるが、それ以外の スポーツ と比べ、目的や志の点において、一線を画しているように思う。

観戦者の視点からみても、いわゆる 「 格闘技 好き 」 と 「 スポーツ 好き 」 とは、別のカテゴリーに属され、似て非なるものという気がする。

いづれにせよ、これらすべての スポーツ に共通しているのは、「 健康 」 という キーワード であり、当然、「 スポーツ = 健康的 」 な印象が強い。

その目的が、勝敗を決める 「 競技 」 であっても、余暇に楽しむ 「 趣味 」 であっても、「 体調維持 」 であっても、スポーツ とは健康的なものだ。

だから、「 ただ勝てばよい 」 のではなく、競技者はルールを遵守し、心身の健康を心がけ、主催者は明るく公正に、開かれた運営を行う必要がある。


そういう意味においても、以前から 「 相撲 」 という競技には疑問点が多く、格闘技とも、その他の スポーツ とも、エンターティメント とも主旨が違う。

まず、「 鍛えている 」 とはいえど、力士達の体型は 「 健康的 」 と思えず、巨体を維持するために、とにかく 「 がむしゃらに食べて太る 」 のである。

ここが、他の スポーツ や格闘技とはまるで違い、事実、平均寿命を比べても、力士出身者には 「 早死に 」 が多く、本人の健康に寄与していない。

ならば、エンターティメント なのかというと、作法や、伝統や、規則に厳しく、フィギュア・スケート のように、観客を喜ばせようとする演出もない。

あえて定義すると、相撲とは 「 伝統芸能 」 であり、スポーツ というよりも、能や、文楽や、歌舞伎といった 「 伝統的な大衆文化 」 ではないだろうか。


大相撲時津風部屋の力士だった 斎藤 俊 さん ( 当時17歳 ) が、けいこ中に急死した背景に、兄弟子らからの リンチ のあった疑いが浮上してきた。

しかも、監督責任があるはずの時津風親方は、それを制止するどころか、自らもビール瓶で頭を殴るなどして、暴行に加わった事実が判明している。

正直に言うと、私も中学から大学まで運動部の主将を経験したが、指導という名目で、後輩に暴力を加えたことは ( 数え切れないほど ) ある。

たしかに、それは 「 権威を振りかざした暴力 」 であったかもしれないが、集団的な シゴキ や イジメ ではなく、まして 「 死に至る脅威 」 ではない。

相撲部屋の密室で、このような蛮行が繰り返され、未来ある若者の生命を奪った事実は、紛れもなく 「 殺人 」 として刑事訴追されるべきだろう。


昨今の相撲界は、少子化の影響や、相撲人気の低迷によって、新弟子の入門希望者が大幅に減り、将来への大きな不安を抱えているという。

モンゴル をはじめとする海外からの力士が急増した背景にも、そういった 「 人材不足 」 が原因となっており、この傾向は止まりそうにない。

一般的な スポーツ と違い、相撲は 「 伝統文化的な色彩 」 が濃いために、うまく馴染んでいるようにみえても、外国人には理解され難い側面がある。

横綱の 朝青龍 が仮病に厳罰を課され、精神病になって故郷へ逃げ帰ったのも、それらの軋轢に対する ストレス が大きかったようだ。

お好きな方もいるだろうが、私としては 「 明るく健康的でない スポーツ 」 である大相撲に対し、「 そろそろ廃止すれば? 」 という気分である。






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2007年09月27日(木) 価値観の多様性と、格差の関係



「 人間は複雑な生き物だ。

  砂漠に花を咲かせる代わりに、湖を涸らす 」

                         ジル・スターン ( アメリカの作家 )

Man is a complex being : he makes deserts bloom − and lakes die.

                                      Gil Stern



人それぞれ、価値観や、重要とする対象物は異なるものだ。

また、同じ価値観でも、目的に近づく手法が違えば、たちまち論争になる。


前回の日記で “ 詰め替え用 ” の話を書いたら、二通の 「 共感メール 」 を頂戴し、世の中には同じような疑問を持つ人がいるのだなと実感した。

わざわざ製造元に電話するほどでもないが、エコバッグをはじめ環境問題に関心が高まるご時世で、ちょっと腑に落ちない話ではある。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、私にとっては 「 年金問題 」 などより、「 詰め替え問題 」 のほうが重要で、よっぽど解決を願いたいのである。

年金は、もらえなくても 「 自力 = 老後に困らないよう、頑張って稼ぐ 」 で解決可能だが、詰め替え用は、自分で作ることができない。

既に支給を受けている御老人を悪く言うつもりはないが、私は年金制度を 「 生活保護 」 と同じく、困窮した人だけが受け取る社会保障と考えている。


だから、勤め人を辞めてからも納付を欠かしたことはないが、将来、よほど困ることがなければ受領しないつもりなので、まったく アテ にしていない。

もちろん、だからといって不正に搾取する連中を放置せよとは言わないが、そんなに 「 国民全体で目くじらを立てる問題なのかなぁ 」 と、関心は低い。

実際に、私の周囲にも年金問題をナンダカンダと言う人々がいるけれども、それなりに稼いでいて、大半が 「 年金なんて要らんだろ 」 という連中だ。

それで、よく話してみると、結局、世間が年金問題に大騒ぎしているので、「 その話題に便乗しているだけ 」 だということが、最近になって判明した。

ちなみに、「 将来の年金 」 と 「 いま、若いコ に モテること 」 のどちらに、より関心が高いかと尋ねたら、全員が後者を選択した次第だ。


イラク特措法なんかも同じで、私は延長に賛成の意見だが、反対する人もいて不思議はないし、国際貢献の価値や、重要性の認識も違うだろう。

あるいは、国際貢献には賛成だが、強大国アメリカに対する妬みなどから、「 アメリカの言いなりになってるみたいで嫌だ 」 という意見もある。

憲法改正論議も、憲法9条を 「 宝物 」 のように崇拝する人がいる一方で、それを、敗戦後に戦勝国から押し付けられた 「 罰則 」 と捉える人もいる。

私自身は、別に 「 宝物 」 とも 「 罰則 」 とも思わないが、現在の国際情勢からみて、それを堅持することは、現実的に 「 アンフェア 」 だと思う。

実際のところ、イラク特措法に反対だからといって 「 自己中心的 」 だとは言えないのと同じく、改憲に賛成だからといって 「 戦争好き 」 ではない。


ほとんどの人が 「 言論の自由 」 を謳歌し、思想や宗教をはじめ、生き方、考え方の 「 多様性 」 を認め、個人の自由を尊重し、支持している。

ところが、その一方では、現状を 「 格差社会 」 などと呼び、所得や暮らしぶり、学歴や教養などの格差があることを、大問題のように語る人がいる。

一生懸命に学び、働くだけが人の生き方でなく、怠けて、楽に生きることも自由だと認めておきながら、「 格差があるのは問題 」 という指摘は変だ。

近頃では、「 ネット難民 」 を社会問題化しているが、それを 「 格差社会の象徴 」 とみるか、「 一つの生き方 」 と認めるかは、判断が分かれる。

本当に格差が問題ならば、怠け者は厳しく罰して、強制的に教育と労役を課し、「 自由より、社会的地位を優先する生き方 」 を強要するしかない。


最近、どうも気になるのが、このように 「 マスコミも世論も、自由な生き方を煽るくせに、その結果責任は国策に求める 」 ところである。

遊んでばかりいると 「 ニート 」 になり、タフな生き方を捨てると 「 ひ弱 」 になり、悲観的にふさぎこむと 「 うつ 」 になるのは、当然の結果だ。

問題が起きるまでは、無責任に 「 遊んでてもいいじゃないか、タフじゃなくても一つの個性じゃないか、悲観的な性格で何が悪いのさ 」 と全肯定する。

ところが、いわゆる 「 ひずみ 」 が起き、格差が現われると、途端に全否定が始まるのだから、踊らされた本人も困るし、政府の手にも負えない。

価値観の多様性を容認することは、同時に 「 格差も認めること 」 だという意識を持つことが、いま、多くの日本人に欠けているような気がしている。






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2007年09月26日(水) 政治家さんより、資生堂さんに責任追及したい 「 今夜の気分 」



「 単純な概念を繰り返し反復することだけが、けっきょく大衆に

  覚えさせることができるのだ 」

                 アドルフ・ヒットラー ( ナチス・ドイツの独裁者 )

Only constant repetition will finally succeed in imprinting an idea on the memory of the people.

                                    Adolf Hitler



とんでもない独裁者だが、人間の本質を見抜く才能はあったらしい。

実際に、「 単純な概念の反復 」 を利用して、一大帝国を築いたのである。


簡単に言うと、それによって大衆は 「 洗脳 」 されやすいわけで、何度も、何度も同じ概念を押し付けられると、いつの間にか植え付けられてしまう。

先日も、「 L&G 」 なんて詐欺のグループが報道されていたが、驚くのは、その手口よりも、「 いまだに、こんな詐欺に引っかかる人がいる 」 ことだ。

一昔前の 「 豊田商事 」 と大差ない口車に乗り、虎の子の財産を巻き上げられてしまうのだから、気の毒ではあるが、少し軽率なように思う。

ただ、相手は 「 プロの詐欺集団 」 であり、巧妙に儲け話を持ちかけては、あの手この手で誘い込むため、人の良い高齢者などは餌食になりやすい。

その際に使うのが、「 単純な概念の反復 」 であり、難しい理屈より、単純な同じ言葉の繰り返しによって、被害者は洗脳され、迷宮に落ちていく。


オウム真理教などのカルト宗教も、冷静に考えれば 「 有り得ない話 」 を、考えさせる隙など与えずに、単純な教義を繰り返して洗脳する手口だ。

政治家も同じで、たとえば 安倍 前総理 より、小泉 元総理 のほうが、有効な政策の提起は少なかったけれど、「 洗脳術 」 には長けていた。

口を開けば 「 構造改革 」 と 「 郵政民営化 」 の繰り返しだったけれども、その連呼が大衆に大きなインパクトを与え、関心を集めることに成功した。

加えて、マスメディアを上手く利用し、明るい表情の露出機会を増やすことにより、大衆に親近感と、仲間意識を植え付けることができたのである。

最近は、与党が諸問題の難しい説明に追われる一方で、民主党は単純な与党攻撃に終始し、結果、それに大衆が乗る形で形勢が逆転した。


音楽にも 「 洗脳効果 」 はあり、普通、ヒット曲は首都圏から火が点くのだが、たとえば、「 ドリカム 」 や 「 ウルフルズ 」 は、大阪から人気が出た。

これは、大阪拠点の FM局 が 「 ヘビーローテーション 」 という形で特集を組み、一定期間、何度も繰り返して彼らの曲を流したことに起因している。

彼らの場合は実力も伴っているけれど、仮に、下手くそな歌手であっても、朝から晩までテレビやラジオで曲を流せば、ある程度、その曲は売れる。

そういう意味で、もっとも大衆が洗脳されているのは 「 CM 」 であり、その出来栄えと放送頻度が高ければ、対象となる商品は売れるものだ。

もちろん、あまりにも顧客満足度の低い商品では 「 リピート率 」 が落ちるけれど、とりあえず 「 最初の 1個 」 が売れる鍵は、CM の影響が大きい。


前置きが長くなった ( 私の文章は、いつもそうだ ) が、数ヶ月前、ミーハー な私の彼女が、資生堂の 「 TSUBAKI 」 というシャンプーを買ってきた。

テレビで頻繁に CM が流れていたから商品名は知っていたが、どちらかというと 「 女性用 」 の印象が強かったので、購入する予定はなかった。

試してみたら良かったということで、私にも勧めてくれたようだが、従来から使っているのが残っていたし、しばらくは開封せずに時間が経った。

前のが空になった時点で使い始めたのだが、前のも 「 人気の高い商品 」 だし、それに比べて、特別に使用感が良いとも、悪いとも言えない。

そんな感想を彼女に伝えると、「 猫に小判 」、「 豚に真珠 」 のような表情をされた挙句、やれやれと溜息をつかれ、ちょっと嫌な気分だった。


ここからが本題なのだが、その 「 TSUBAKI 」 も底をついたので、近所の小さな薬局に 「 詰め替え用 」 を買い求めに行ったのである。

ところが、「 ボトル 」 タイプはあるのだが、「 詰め替え用 」 が見当たらず、仕方なく別の店に行ったが、そこにも在庫がなかった。

よほど、「 前の 」 を買おうと思ったが、たまに彼女が来たときに使うことを思い出し、やむを得ず、少し離れたスーパーまで、車で買いに出掛けた。

そこには、ででーんと大型特設コーナーまで設置されていたけれど、やはり 「 詰め替え用 」 は無く、いくら探しても見当たらない。

それで、店員さんに尋ねると、「 “ 詰め替え用 ” は発売されていない 」 と言われ、理由は 「 わからない 」 とのことだった。


ムカついて彼女に電話で苦情を言ったら、「 高級シャンプーだから、“ 詰め替え用 ” は無いのよ 」 などと、平然と返されてしまった。

私自身、さほど 「 エコロジー 」 にこだわるタイプではないが、容器が 「 ゴミ になる 」 のが腹立たしく、処分に困るし、釈然としない気分である。

追い討ちをかけるように、彼女が 「 新製品で 『 白 TSUBAKI 』 が出てるから、それにしてね♪ 」 と言うので、「 二度と買わん! 」 と電話を切った。

まぁ、正確にいうと、我が家にあるのは彼女からの貰い物だから、“ 二度と買わん ” も変だが、とにかく 「 前の 」 詰め替え用を買って帰った。

資生堂さんには、大量の CM によって、大量の ゴミ も出る責任を感じ、「 なんとかせーよ 」 と思ったのが、今夜の気分である。






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2007年09月25日(火) 格差社会は善か悪か



「 未来は現在と同じ材料で出来ている 」

                    シモーヌ・ヴェイユ ( フランスの思想家 )

The future is made of the same stuff as the present.

                                   Simone Weil



ある日を境に、運命が好転することはある。

ただし、それは 「 十分な準備を重ねてきた者 」 にかぎった話だ。


総裁が代わっても、あるいは政権与党が代わっても、人並に努力しない者が報われたり、悪が善と評価されることはない。

大半の人は、それを理解しているので 「 努力して好機を待つ 」 わけだが、一部の不心得者は、何もせず怠惰に時を過ごし 「 奇跡 」 を待っている。

冒頭の名言が示す通り、過去の 「 不良品 」 で未来を作ろうとしても、そこで生まれる製品は、やはり 「 不良品 」 以外の何物でもない。

指導者が代わることによって、多少は処遇の違いが現われるかもしれないけれど、粗悪な品物が一級品として扱われることは、現実的に有り得ない。

大事なことは、「 不良品が冷遇されない社会を待つ 」 ことではなく、自らの品質を改善することだという意識を、誰もが持つべきではないだろうか。


国政に不満のある人の声を聴くと、なかには 「 なるほど 」 と納得する内容もあるし、逆に、ちょっと首を傾げたくなるものもある。

たとえば、しきりに 「 格差社会 = 悪 」 という表現を使う御仁がいて、格差の無い社会こそ、理想郷のように考えておられるようだ。

大企業や、お金持ちを目の仇にし、それが公正な競争の結果であっても、成功者を妬み、彼らに多額の徴税を強いるべきと持論を展開している。

歴史認識があれば、「 ソ連や共産主義諸国が、どんな末路を辿ったか 」 を知らないはずはないと思うが、とかく 「 競争 」 や 「 格差 」 を毛嫌いする。

では、競争や格差の無い社会が、本当に 「 素晴らしい理想郷 」 なのか、現在、不遇な人までが実際に救われるのか、検証してみればよい。


まず、個人の所得に格差が無くなると、他人より優れた仕事をしようとする 「 励み 」 を失い、社会全体の労働生産性は確実に低下する。

では、怠け者は楽ができるかというと、まったく逆で、格差の無い社会では、お金があっても、病気でも、誰も 「 特別扱い 」 は許されない。

格差社会だからこそ、生産性の低い人間を高い人間が補えるわけで、所得が同じということは、当然、仕事量も同じものを要求される。

全体の労働水準が低ければ、国際競争力が低下するし、高ければ、脱落して 「 粛清 」 される対象者が数多く発生する。

脱落者を社会保障で救済することにし、企業に多額の納税を強いたなら、ただちに優良企業は本拠を海外へ移し、自動的に優秀な人材も流出する。


格差の無い社会では、企業間競争もなくなり、他社よりも良質で低価格の商品を生み出す経済活動もなく、消費者は苦しい立場に追い込まれる。

ざっと考えても、このように 「 格差が無くなること = 善 」 とは思えず、弱者救済のための福祉は必要だが、強者をイジメることは逆効果である。

格差に対する疑問を並べる人の大半は、ごく私的なレベルで、自分の所得や社会的立場における 「 格 」 に、不満があるだけのケースが多い。

その証拠に、「 格差社会はけしからん 」 と叫ぶ一方で、自分の子供は小中学校から私学に通わせ、格差的な恩恵を受けようとする矛盾もみられる。

つまりは、「 格差社会に問題がある 」 のではなく、「 恵まれた環境にある誰かが得をし、そうでない自分が損をしている 」 ことに不満があるだけだ。


格差を無くすことが重要なのではなく、平均的な生活への格差を感じている低所得者層の底上げが、真の課題であることに気づかねばならない。

その手段は、国費、税負担による福祉や、同情、憐憫などの優しさだけでなく、「 常識的な厳しさ 」 も必要となるが、今の社会にはそれが足りない。

希望を託すのは悪いことじゃないが、政治家だけに問題の解決を求めず、自らの苦難は自分の力で乗り越える気概を、各人が持つべきである。

たとえば、明日からの 「 三連休明けの出勤 」 を、憂鬱だな、面倒だなぁ、などと愚痴っているようでは、明るい未来など創造できない。

今の自分を変えれば、未来の自分も変わるし、皆が少しづつ努力すれば、格差社会の不安も解決することを、忘れてはならないだろう。






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2007年09月24日(月) 福田新総裁の誕生



「 パッ としない人間には、二種類のタイプがある。

  言われたことができないタイプと、言われたことしかできないタイプだ 」

      サイラス・ハーマン・コッチュマー・カーティス ( 米国の出版業者 )

There are two kinds of men who never amount to much : those who cannot do what they are told, and those who can do nothing else.

                   Cyrus Hermann Kotzschmar Curtis



後者のほうが、「 言われたことだけでも出来るから マシ 」 と考えがちだ。

実際は、「 必要な人材ではない 」 という点で、両者の価値は共通している。


入社時の難易度や、社員教育の充実度という点からみて、一昔前までは 「 大企業に勤める人の方が、中小よりも優秀な人が多い 」 とみなされた。

ところが最近では、一概に 「 そうともいえない 」 ようになり、むしろ、本当に 「 どうしようもない人材 」 は、大企業に多く、中小企業の方が少ない。

第一の理由は、大企業が 「 入社試験 」 を重視するのに比べ、中小企業は 「 面接 」 を重視する傾向にあることから、この問題が起きている。

昔は、「 頭の良い人 = 仕事も優秀 」 という公式が、ある程度は通用したのだけれど、最近は 「 人間力 」 が、仕事の出来、不出来を左右しやすい。

試験重視型に比べ、面接重視型の採用システムは、縁故入社を多く生みやすいという欠点もあるが、「 どうしようもない人材 」 は防ぎやすい。


第二の理由として、「 入社時は マトモ だったのに、途中で戦力外になった人材 」 の処遇が、大企業よりも中小企業は厳しい点が考えられる。

大企業は部署が多いので、「 やる気をなくしたから、安い給料で楽な仕事をさせてください 」 と頼めば、それなりの処遇を与えられる可能性がある。

会社のお荷物になっている 「 ダメ社員 」 だからといって、安易に解雇してしまうと、大企業の場合は訴えられたり、世間体が悪くなる心配もある。

中小企業は規模が小さく、少数精鋭で戦うことを要求されるため、能力的に劣る者、やる気のない者を、閑職といえども養っておく余裕がない。

解雇しても、大企業のように 「 社会的責任 」 を問われる場面など少ないので、見切りをつけた社員は、いつでも クビ にできる。


第三の理由として、中小企業は部署が少なく、大企業のように 「 専業制 」 が徹底されていないため、中小には 「 専門バカ 」 が少ないことにある。

つまり、部署が細分化されていないことで、一人が複数の業務を兼業する機会が多いと、「 私は コレ しかできません 」 という人間が発生しない。

具体例を挙げると、たとえば、大企業では 「 総務 」 と 「 経理 」 が分かれており、まったく別の仕事に携わっている。

中小零細企業では、「 事務 」 として統合されているので、経理事務をしながら社会保険の手続きをしたりして、複数の業務を経験できる。

営業が、企画や生産に参加し、何でもこなすから、専門性は身につき難いが、幅広く一応の仕事ができる 「 バランスのよい人間 」 が育ちやすい。


9月23日、自民党の総裁選が行われ、福田 康夫 氏 が 麻生 氏 を破り、第22代自由民主党総裁に就任することが決まった。

誰が総裁を務めたところで、万人に支持されることはないし、支持者に対しても、すべての政策が喜んで受け入れられるとはかぎらない。

大事なことは、各々の政策よりも、全体的な 「 バランス のよさ 」 であって、一部で優秀な政策を実行しても、バランス の悪い指導者は支持されない。

当然、安倍 前総理 の 「 失態 」 を見ているわけだから、その点は慎重に推し進めると思うが、いくつか不安な点があるのは否めないところだ。

小泉 政権下で官房長官を辞した理由が、「 年金未納の発覚 」 だったことも、当面は逆風を避けられないように思う。


親中派で知られ、「 北京オリンピックを支援する議員の会 」 の副会長まで務めているが、靖国参拝賛成派や、台湾問題との調整に課題がある。

官房長官時代に、拉致被害者、関係者からは 「 冷淡 」 と評価されたが、北朝鮮問題解決に向けて、関係者への配慮を重んじねばならない。

イラク特措法やら、年金問題などの 「 目先の問題 」 よりも、アジア重視の偏向した外交姿勢や、それを補う調整能力のほうに不安がある。

安倍 前総理 は、政策こそ間違っていなかったが、民意を汲み取れずに、大臣の更迭や自身の退き時を見失い、バランス の悪さが目立った。

外交、内政ともに得意、不得意をつくらず、心身の健康を保ち、バランス のよい リーダーシップ を発揮されることを、新首相には期待したい。






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2007年09月23日(日) 私的研究による年代別美人率



「 人間が恋をする理由は、自己満足にしかない 」

                                     英語の格言

The only reason one loves is for his own pleasure.

                                 English proverb



当事者以外の人間には、価値が判断できないもの。

その代表的な例が、「 恋 」 である。


特に、恋をした理由が 「 一目惚れ 」 なんて話になると、論理的な分析など不可能だし、また、その必要もない。

このたび、他人を魅力的に感じ、仲良くなる可能性があると判断するには、「 わずか0.5秒しかかからない 」 という新たな研究結果が発表された。

アメリカの心理学者 ジョン・マナー 氏 の研究チームは、人々が興味を示す顔を見ると、0.5秒以内に注意を集中し、相手を判断すると指摘している。

研究では、大学生を対象に、「 非常に魅力的な人 」 と 「 平均的な人 」 の写真を1秒間見た後、視線をほかの物に移すよう求めた。

その結果、被験者の反応するタイミングを計ったところ、ある人物を魅力的かどうか判断するには、0.5秒しかかからないことが分かったのだという。


また、魅力的な顔つきの人には、規定の1秒が過ぎた後でも、0.5秒長く凝視されることが明らかになった。

ちなみに、独身の人は異性に関心を持つ一方、決まった相手のいる人は、自分のパートナーの不貞を警戒し、同性に注意を向けたという。

この研究方法で気になることは、「 非常に魅力的な人 」 だとか、あるいは 「 平均的な人 」 の選別基準で、誰が、どのような根拠で定めたのかだ。

その人の好みによって、美人、不美人の評価は分かれるし、「 美人だとは認めるが、魅力を感じない 」 というケースも、一般的に珍しくない。

まして、外見上の 「 平均的な人 」 などという評価基準は、それ以上に判断が難しく、「 全女性の平均は、誰? 」 なんて、すぐには思い浮かばない。


恋愛にかぎらず、人間関係は 「 第一印象 」 の比重が大きく、それが恋へと発展する場合は、いわゆる 「 一目惚れ 」 ということになる。

外見上の美醜という点に絞ると、初対面の女性を観る私の視点は、たぶん 0.5秒以内で、「 普通 」 か、「 ブ○イ○ 」 に、二者分類しているようだ。

目を見張る美人、魅力的な人というのも 「 普通 」 に含まれるが、それは、じっくり観察しなければわからないし、内面的な美というものもある。

とりあえず、最初に探る 「 普通 」 の基準は、「 交際する可能性の有無 」 という境界線 ( あくまでも美醜の判断として ) が、そこに当てはまっている。

この説明を女性にすると、たいてい 「 ヒンシュク を買う 」 のだが、偽らざる正直な自己分析として、これが私の女性観 ( 外見上の ) になっている。


その基準で、私が 「 普通 」 以上だと判断するのは、20代の女性で全体の 30%、30代で 20%、40代で 10% ぐらいだと思う。

特筆すべき美人となれば、当然、その内の 5% 〜 10% 程度ということになるわけで、20代で全体の 3%、40代なら 1% 以内の希少価値を持つ。

この数字に 「 評価が辛い 」 と思われるかもしれないが、無作為に40代の女性を100人集めた場合、誰もが魅力を感じるのは一人ぐらいである。

20代の方でも、たとえば、お友達などで 「 磨けばモデルで使えるかな 」 と思える人は、せいぜい、100人のうち三人ぐらいではないだろうか。

そう考えると、私の判断する 「 年代別美人率 」 は、あながち間違っていないように思うし、それを美醜の基準とする発想は、実態に近いと思う。


こんな生意気な理論を並べると、「 それほど希少価値のある美人と交際しているのなら、さっさと結婚しちまいなさいよ 」 と、常に ツッコミ が入る。

しかし、よく考えてほしいのだが、平成19年3月1日時点の人口統計によると、20代女性は720万人、30代は910万人、40代は770万人いる。

仮に、「 40代の日本女性で、100人に1人の美人としか結婚しない 」 としても、その対象者数は 7万7千人 もいるのである。

もちろん、その大半は既婚の可能性が高いので、実際の対象者数は大きく下回るだろうが、それでも、数千、数万の美女が、巷には存在するのだ。

その統計を彼女に プレゼン して、「 もう少し待って 」 と話しているのだが、なかなかご理解を得られず、あたふたする昨今である。






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2007年09月22日(土) 福田 氏、麻生 氏、不気味なのはどちらだ



「 年寄りは、健康食品など食べるべきでない。

  むしろ、手に入る限りの保存料を摂取すべきである 」

               ロバート・オーベン ( アメリカのギャグ・ライター )

Old people shouldn't eat health foods.
They need all the preservatives they can get.

                                  Robert Orben



ロバート・オーベン は、世界でも珍しい プロ の ギャグ・ライター である。

冗談の苦手な有名人、政治家などに、ギャグ を作って売る仕事だ。


よほど深刻な場面を除くと、総体的に欧米人はアジア人などに比べ、会話の途中に軽妙な冗談を挟むことが多い事実は、広く知られている。

これは、「 陽気な民族性 」 というより、「 相手をいい気分にさせようとする願望 」 など、彼らの意識的な努力によるところが大きい。

アメリカの大統領が記者会見を開き、その日の主張を 「 マスコミで好意的に取り上げてもらいたい 」 ときなどは、とっておきのジョークを披露する。

それは、本題に入る前の僅かな時間に行われ、報道番組などでは時間の都合でカットされることが多いため、視聴者の目に触れることは少ない。

しかし、その冗談の出来、不出来によっては、会場の雰囲気が和らいだり、しらけたりするため、同じ発表でも記者の文体に影響を与えることが多い。


いわば、日常会話における ジョーク は 「 手土産 」 みたいなもので、必ずしも必要ではないが、それなしでは 「 手ぶらで訪問する 」 ような感じだ。

日本人のように、「 御中元 」、「 御歳暮 」 に気を遣わないけれど、彼らは普段から、面白い ジョーク や、気の利いた会話をする工夫に励んでいる。

当然、ジョーク としては面白くないと成立しないし、時と場所を選ばないと、「 ユーモア 」 と 「 悪ふざけ 」 は紙一重なので、マイナスに作用する。

日本でも最近、他人の悪口をネタにする コメディアン が台頭してきたが、悪口の対象への愛情が感じ取れなければ、嫌気を示されることもある。

たかが冗談といえども、時にそれは 「 もてなし 」 であり、「 ギフト 」 であり、「 円滑油 」 であり、「 マナー 」 であるというのが、欧米人の常識だ。


一昔前、長期の海外赴任から帰国した同僚に 「 どうだった 」 と尋ねたら、「 英語が得意なおかげで、現地では不自由しなかった 」 と彼は答えた。

事実、仕事も支障なく消化されているし、現地から トラブル の報告も入っていないし、同伴して現地に赴いた彼の家族も、彼の話によると元気そうだ。

その直後、今度は私が現地へ出張することになり、到着翌日の勤務を終えた後、彼の上司や同僚だった社員から 「 話がある 」 と食事に誘われた。

内容は、赴任していた 「 彼 」 の話ばかりで、彼自身は知らなかっただろうが、周囲は彼に 「 weirdo = 不気味な奴 」 という あだ名 をつけていた。

理由を尋ねると、マシンガン の如く彼を巡る逸話が飛び出したが、それは 「 悪口 」 とか 「 苦情 」 というより、むしろ 「 恐怖 」 に近い話だった。


まず、オフィス では 「 業務上、必要最低限の会話 」 しかせず、とっておきの ジョーク を誰かが話しても、「 われ関せず 」 と知らん顔をしている。

いつも一人で過ごし、会議の間は配布された書類やプレゼンボードを食い入るように眺め、発言はしないし、他人の話も聴いている様子がない。

それで、「 聴かなくていいのか 」 と尋ねたら、「 重要事項は後で書面化されるはずだから、それに目を通す 」 と答え、話の過程には関心を示さない。

彼が 「 まるで英語を話せない人物 」 なら、周囲も手を差し伸べやすかったのだが、中途半端に話せるがゆえに、同僚も普通に接するしかなかった。

なんとか、彼を孤立させないように、たえず機会を探っては話し掛けたが、彼は 「 友達がいない 」 のではなく、自分でつくる努力をしなかったという。


それで周囲は、彼を外食に誘ったり、ご家族を自宅に招いたり、彼の家に訪問したりする 「 解決策 」 を実行することにしたらしい。

ところが、せっかく夫婦を夕食に招いても、行儀よく、ひっそりと座っているだけで、積極的に会話へ入ってこないし、ただ モジモジ しているだけだ。

夫妻を自宅へ招いた男性によると、「 一生懸命に話題を探し、質問しても、短い答えが返ってきて再び沈黙する 」 ことの繰り返しだったという。

遠慮しているのか、内気なのか不明だが、とにかく、「 彼らと交流するのは気が重い 」 と家人からも苦情が出て、次から誘えなくなってしまったらしい。

私が出張するまでにも、他の日本人社員がオフィスを訪れたが、当時は彼がいたので、なんとなく気まずく、「 weirdo 」 の相談ができなかったようだ。


自民党総裁選は、福田 氏、麻生 氏 の一騎打ちになっているが、現時点で 福田 氏 が優勢とみられ、おそらく近日中に 「 福田内閣 」 が成立する。

政策は別として、演説は 麻生 氏 のほうが長けており、大衆の関心を惹く技術においては、今後、福田 氏 は研究する必要があるだろう。

小泉 前総理 がアメリカを訪問した際、不器用に プレスリー の物真似をしたら、「 恥だ 」、「 アメリカの気をひこうと姑息だ 」 と批難した人もいる。

しかし、流暢な英語で立派な理屈を並べるより、身を削って恥を晒したほうが 「 友達になれる 」 こともあるわけで、英語力がなくても外交はできる。

本当の恥は、嘲笑されることを恐れ 「 不気味に微笑むだけ 」 の形式外交であり、政策を語る前に、「 友人の話を聴こう 」 という姿勢作りが必要だ。






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2007年09月21日(金) 土俵乱入女性の妄想



「 憎しみが混じる愛は、愛より強く、ただの憎しみよりも強い 」

                      ジョイス・C・オーツ ( アメリカの作家 )

Love commingled with hate is more powerful than love. Or hate.

                                 Joyce C. Oates



会話の途中で、「 芸能人なら、誰が好き? 」 なんて尋ねる女性がいる。

そんなときは、とりあえず 「 芸能人は嫌いです 」 と答えるようにしている。


芸能人というのも一つの職業であり、成功している人もいれば、そうは言えない人もいて、一口に 「 芸能人 」 といっても、千差万別である。

たとえば、いま私が一緒に仕事をしているモデルさんも、TVドラマで端役をもらったことがあるらしく、ある意味 「 芸能人 」 を名乗っても問題ない。

モデルさんが必要なときは、いつもそうしているのだが、中堅プロダクションのカタログをめくって、白黒写真と職歴をみて何人かに絞る。

依頼の内容を伝えた後、都合の悪い人がいれば代打要員をプロダクションが揃え、後日、クライアントを交えてオーデションみたいなことをする。

たとえば 「 ○十億円 」 の予算を投じた CM でもつくるのなら話は別だが、そんなのは大手広告代理店の仕事で、普通は無名のモデルさんを使う。


既に露出が多かったり、知名度の高い人を使うと、たしかに インパクト はあるのだが、別の企業や製品を想起する 「 先入観 」 が邪魔になる。

拘束時間も融通が利かないし、費用も掛かるし、相手のイメージ戦略やらと合致しなければ断られるし、よほどのことがないと メリット が少ない。

その点、ほとんど素人に近い無名の人は使いやすいが、「 あたりはずれ 」 が大きく、一応のオーデションをしても、目も当てられない人が来たりする。

今回は、若年層を対象とした婦人アパレルのクライアントで、ポスターとか包装資材に使うヴィジュアルに、若い女性のモデルさんを必要とした。

私のような オジサン には、どなたも 「 似たり寄ったり 」 にしか判別できない層なので、選別はクライアントのデザイナーさんに丸投げである。


案の定、私が 「 可愛いかな 」 と思っていた人は落ち、「 へぇっ? 」 と首を傾げる人が選ばれたが、「 製品が似合う 」 ことが選考基準だった。

時間も予算もないので、サクサクっと一日で撮って終了し、「 打ち上げ 」 というほどでもないが、慰労を兼ねて数人で食事に行った。

あまり立ち入った話はしなかったが、月収はそこいらのバイトより少なめで、将来的に発展する見込みもないし、長く続ける気はないのだという。

そのうえ、こんな 「 誰も知らない 」 地味なモデルさんでも、屋外撮影の場合は尾行されたり、撮影後、自宅まで付きまとわれることもあるらしい。

ビールの勢いか、これじゃぁ 「 キャバクラにでも勤めたほうがマシ 」 なんて愚痴まで飛び出し、周囲が赤面しながら諌める場面もあった。


昨日、大相撲秋場所11日目の両国国技館では、大量のビラを抱え持った中年女性が、警備員の制止を振り切って土俵に上がろうとしたらしい。

審判 錦戸親方 ( 元関脇 水戸泉 )、出番を待つ 高見盛 らが取り押さえ、引きずりおろし、以後の取組は行われたが、とんだ ハプニング である。

大量のビラを持っていたことで、相撲に関する何らかの抗議行動と思われたが、よくビラを見ると、まるで相撲には無関係な内容だったという。

一部の報道によると、そこには 「 福山 雅治 = 悪霊に取り憑かれている 」 との意味不明な文章が書かれていたそうで、どうみても常軌を逸している。

日本相撲協会としては 「 刑事事件にするつもりはない 」 ようで、大事には至らないだろうが、過去に例をみない 「 前代未聞 」 の珍事であった。


最も新しい精神医学の診断基準によると、人格障害者は三つの 「 群 」 と、十の 「 タイプ 」 に分類され、すべては、その枠内に収まるらしい。

群の一つに 「 オッドタイプ ( 風変わりなタイプ ) 」 と呼ばれるものがあり、非現実的な思考に囚われやすいグループを形成している。

この群は、妄想的人格障害、統合失調症型人格障害 ( スキゾタイパル )、統合失調質人格障害 ( シゾイド ) の3タイプが属する。

統合失調症に近縁性を持ち、自我の安全感が脅かされやすい傾向を持つが、本人に適した環境では、高い適応性や生産性を示すことも少なくない。

ただし、基本的な安心感に乏しく、自我が侵害されやすいために、合わない環境で適応不全を起こすと、精神病状態に移行することもある。


この非現実思考型 「 オッドタイプ 」 が、好みの芸能人などに憧れを抱き、いわゆる 「 追っかけ 」 などの深みにハマると、妄想が膨らみやすい。

おそらく、前述の 「 土俵乱入女性 」 などはこのタイプで、福山 氏 のファンだったのが、何らかの理由で、期待を裏切られたのではないかと思う。

たとえば、「 彼女が抱く 福山 氏 の印象 」 と違う発言を耳にしたり、印象に合わない役柄を演じたりされると、このタイプは戸惑う可能性が高い。

もちろん、「 裏切られた 」 などというのも妄想に過ぎず、福山 氏 には何の落ち度もないのだが、そのあたりを現実的に理解する機能が乏しいのだ。

夜道で斬りつけられたりしなかっただけ マシ だが、顔が売れると、この手の危険も伴うわけで、芸能人というのも楽な商売ではない。






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2007年09月20日(木) 女子高生による父殺害事件



「 父親 : 昨夜、お前がキスしていたところを見たけど、彼は誰だい?

  娘  : それって、何時頃の話? 」

                                   英語のジョーク

Father : Who was that man I saw you kissing last night, daughter?
Daughter : What time was it?

                                   English joke



身近にいるから理解しあえているとは、かぎらないものだ。

子供は親に理想を求め、親は子供に幻想を求める。


知人に勧められ、「 ダメもと 」 と思って投資した中国の会社が、折りしもの好況に乗って早い段階で成果を挙げ、今年も順調に業績を伸ばしている。

国慶節 ( 10月1日 ) までに、帳簿をみる傍ら、社員諸氏を労いに行こうと思うのだが、国内の仕事が片付かず、なかなか訪中の目途が立たない。

以前に比べ、国内の仕事量は減らしたが、クライアントの企業から、教育、採用といった人事関係の業務を請け負う機会は、逆に増えてきている。

そのため、2月〜5月頃までは超多忙を極めるが、それ以降はノンビリと、さして儲からないが拘束時間の少ない仕事を、テキトーに消化してきた。

シーズンオフの今は、大手の広告代理店なら一蹴する低予算イベントを、百年後でもブレイクしそうにないモデルさん相手に、悪戦苦闘している。


社員教育の中でも、新入社員教育はマニュアル化が容易で、個々の企業特性などを加味する程度で済むから、慣れてしまえば簡単なものである。

難易度が高いのは、幹部教育や、古株の 「 困った社員 」 の再生作業で、新入社員とは違い、助言を与えても素直に受け入れない人が多い。

生意気なのは大いに結構だが、何を伝えても 「 知ってますよ 」 と切返し、「 そんなことも知らないほど馬鹿じゃない 」 と、変なプライドを主張する。

勤め人の頃にも、部下に 「 そういうタイプ 」 がいたけれど、自分の部下と違って叱責したり、飲みに誘うこともできず、丁寧に対応せざるを得ない。

ここで彼らに伝えるべきことは、「 知っている 」 のと 「 理解している 」 のと 「 実行できる 」 のは、それぞれ別の意味であるという事実だ。


ビジネスの世界にかぎらず、たとえば家族の関係でも、親が子供のことを 「 知っている 」 のと 「 理解している 」 のでは、かなりの差が生じる。

他人の誰よりも、一緒に生活した時間が長いので、親は子供のことをよく 「 知っている 」 のは間違いないが、正しく 「 理解している 」 かは疑問だ。

その違いは、見た目で判別できるものでもなく、仲良く手をつないで歩いているから理解できているとか、疎遠だからダメといったものではない。

反抗期というほどでなくても、子供が両親を避けるようになったり、何年かを経て、また仲良くなったりすることは、一般的に珍しくない話だ。

ポイントは、「 本音をぶつけ合い、相手の主張を真剣に検討しているか 」 という部分であり、その期待と反応に差があると、深く大きな溝になる。


京都府京田辺市では、府警南署の巡査部長が16歳の二女に手斧で首を切られ、殺害されるという事件が発生した。

親子が殺しあうという事件は、一見 「 異常 」 な印象を受けやすいが、殺人事件の9割は顔見知りの犯行で、その半分は親族同士によるものだ。

大部分の人が、他人に対しては 「 理解してもらえないのが普通だ 」 という前提で控えめに接するけれど、身内には 「 理解しろよ 」 という期待を抱く。

最初から冷めた関係なら相手に期待もしないが、愛情やら親近感を抱いているがために、親子、恋人などの関係は、一度、傷がつくと恐ろしい。

相手に対する期待が裏切られたと感じた途端、愛情が憎悪へと変貌して、一気に理性を飛び越え、殺意という衝動に走らせることも多いのである。


ビジネスマンの 「 知っているけれど理解できない人 」 は、多角的な視野を持ち、物事の主旨や、他人の気持ちを理解することに務めるべきだ。

ただ、親子の場合は 「 話し合う機会を増やし、相手を理解しなさい 」 などといった教科書的なアドバイスが、意外と通じないものではないだろうか。

前述の事件も 「 親の不倫が許せなかった 」 ことが原因らしいが、親子だからこそ言えない本音や、親子だからこそ相容れない事柄も多いはずだ。

おそらく、他人の男女が不倫をしていても 「 殺したい 」 とは思わなかったはずで、親子だからこそ許せず、殺人に至ったのである。

そういう意味で、親子が理解すべき事柄は 「 たとえ親子でも、理解できないことはある 」 という認識を持つことで、当世流、親子調和の秘訣だ。






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2007年09月19日(水) 少年が暴力に立ち向かわず自殺する原因



「 死ぬことがたやすい者は、決して哀れとは言えない 」

      ルキウス・アンナエウス・セネカ ( 古代ローマの政治家、詩人 )

Never is he wretched for whom to die is easy.

                         Lucius Annaeus Seneca



自殺ほど無責任な行為は、他に例をみないだろう。

残された遺族には、死という救いすらないのである。


唯一、「 不治の病 」 で余命いくばくもない病人に対しては、自殺というよりも 「 安楽死 」 という救いが、場合によっては認められるべきと思う。

それ以外、特に 「 肉体的には健康 」 な御仁が、なんらかの苦痛や困難を避けたいという理由から死を選ぶことなど、あってはならない。

実際には 「 自殺者の9割は、正常な精神状態にない 」 という統計結果が出ているので、正論で呼びかけても彼らの耳には届かず、防止は困難だ。

わずかな防止策は、世論が自殺に対して 「 悪いこと 」 という認識を高め、けして美化したり、同情を寄せず、凛とした態度を示すことだろう。

もちろん、憐憫を感じる事情もあるだろうが、周囲の無念や迷惑を思えば、「 死ぬことがたやすい者は、決して哀れとは言えない 」 のである。


神戸市須磨区の私立高校で、同校3年の男子生徒が、同級生の少年から恐喝や嫌がらせを受け、校舎から飛び降りて自殺した。

もちろん、自殺に追い込んだ連中が悪いことは間違いないけれど、広く世間に目を移すと、世の中に 「 悪い奴 」 なんてのは星の数ほどいる。

もし、「 悪い奴に脅された = 自殺しても仕方がない 」 なんて公式に従って生きるのなら、卒業後も、いたるところに死の危険が付きまとうだろう。

悪い奴らに出会ったら、そこで 「 自分の人生は終わり 」 なんて考えずに、立ち向かうか、さもなければ、その場を離れるなどの解決方法がある。

あるいは、小学生なら見方も違うが、高校3年生にもなって 「 自殺 」 しか手段が思いつかないようでは、同情よりも、憤りのほうがこみ上げる。


まったく関連の無い事件だが、東京都墨田区で、万引きをした男性を店員2名が取り押さえ、意識不明の後、死亡させてしまう事件が発生した。

万引きをした男性は29歳で、店内で暴れたところを35歳、36歳の両店員が取り押さえ、その際に暴行が加えられたようである。

警視庁本所署は、傷害容疑で2名の店員を逮捕し、司法解剖で暴行死が特定されれば、容疑を傷害致死に切り替える意向だという。

その場にいないため、何とも言えないけれど、この店員たちは、「 犯罪者に立ち向かった 」 ことで、逆に、自分たちが加害者になってしまったのだ。

それも、万引き犯が死んだから問題視されているだけで、仮に、わずかな傷を負わせた程度で捕まえていたら、「 お手柄 」 と称えられただろう。


老人や幼児ならともかく、29歳の男性が暴れているのを制圧しようとしたら、捕らえる側にも相応の リスク があり、それなりに危険が伴う。

警察が駆けつける前に逃亡を図る可能性も大きく、一人が通報しに行くと仮定すれば、しばらくの間、一人で動きを封じ込めねばならない。

こういう事態で、犯人を傷つけず、自分も怪我をしないためには、かなりの体格差がないと、まず難しいだろう。

実は、私も若い頃に、酔って女性に乱暴をはたらいた中年男性を捕らえ、警察に突き出した経験があるが、そう簡単な作業ではない。

酩酊し、暴れる人間には説得など通じないし、相手の方が大柄だったので、大人しくさせるためには 「 相応の暴力 」 を加える必要があった。


飲食店の店内で 「 証人 」 も多かったし、犯人も死んではいないから、警察から私に対しては何のお咎めもなかったが、感謝状もなかった。

現行犯に対しては、民間人にも逮捕権があることを知っていたので、もっと喜ばれるかと思ったが、意外と、警察官の態度は冷ややかだった。

犯人に暴行を加えたことは咎められなかったが、「 そんな無茶して、怪我しても知らんよ 」 てな具合で、素人は手を出すなという口調である。

一般市民を無事に守る 「 親心 」 と解釈したが、論語の 「 義を見て為ざるは勇無きなり 」 なんて価値観は、まるで無視されたような格好だ。

被害者にも、加害者にもならず、傍観者でいろという 「 憲法9条 」 の理念は、日本の隅々に行き渡っているのか、「 ことなかれ主義 」 である。


相手が悪人なら何をしてもよいとは言わないが、悪事を放置したり、無策に犯人が逃走するのを見過ごすだけが市民の務めではない。

逆に、結果がどうあれ、正義を履行するための行為だと認められるならば、多少、過剰防衛とみられる節があっても、厳正に罰するのは考え物だろう。

学校には、自殺した少年と加害者だけでなく、多くの傍観者がいたはずで、彼らが行動を起こさなかったことが、少年の勇気を奪った可能性もある。

昔も今も法律上は変わりないが、たとえそれが暴力でも、「 悪い奴は、ぶん殴ってよい 」 というのが、我々世代の 「 暗黙の了解 」 だった。

平和主義、平和憲法、たしかに聞こえは良いが、自分が暴力に苦しめられているとき、周囲が理屈ばっかりで何もしてくれない社会でよいのだろうか。






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2007年09月18日(火) 民主党が隠す 「 年金問題の真相 」



「 真実が靴をはくあいだに、嘘は地球を半周する 」

                       マーク・トゥエイン ( アメリカの作家 )

A lie can travel half around the world while the truth is putting on its shoes.

                                    Mark Twain



もし、「 世界一、豊かな国はどこか 」 と尋ねられたら、何と答えるだろうか。

私は迷わず、東南アジアの小国 「 ブルネイ 」 だと答える。


ブルネイ は、陸地を マレーシア に囲まれた、ボルネオ島北部に位置する人口36万人の小国で、総面積は日本の三重県と同じくらいだ。

石油天然ガスの資源が潤沢で、その輸出額はGDPの約半分を占め、非常に経済は潤っており、驚くなかれ 「 所得税が徴収されない 」 のである。

大半が 「 庭付き一戸建て 」 に住み、車は各家庭で二台平均が所有され、その車種は、ベンツ、BMW などの高級車が目立つ。

埋蔵量の多い石油、天然ガスへの依存度が高すぎる為、最近は、それに代わる新しい産業の開発に取り組んでいるが、その費用も簡単に出せる。

日本国民の多くが不安を抱えている 「 年金 」 は、ブルネイ では無条件で高齢者に支給され、しかも、なんと 「 掛け金は不要 」 なのである。


自民党に逆風をもたらし、安倍首相を退陣に追い込んだ主要因は、なんといっても 「 年金問題に関する国民の不信感 」 が大きかったことだろう。

窮地に立つと 「 お腹が痛くなっちゃう 」 安倍氏が退陣したことについては何の異論もないが、こと年金問題に関しては、不可解な点が多い。

その第一は、「 どうして多くの国民は、年金問題についての不満や、怒りの矛先を自民党に向けたのか 」 というところである。

ほんの少し考えれば、社会保険庁の腐敗体質を野放しにして、年金問題を解決から遠ざけているのは、ほかならぬ 「 民主党 」 だとわかるはずだ。

私自身は、年金を辞退するつもりだし、あまり興味もないから今まで書かなかったが、「 民主党の悪行 」 を、知らない人のために書き留めておこう。


まず、社会保険庁という役所の 「 腐敗した原因 」 が、その中で幅をきかす 「 自治労と、幹部の横暴 」 によるものだということは、周知の事実である。

その対策として、安倍政権は 「 社会保険庁改革関連法案 」 を議会に提出し、万全ではないにしても、前向きに 「 社保庁を解体 」 しようとした。

ところが民主党は、年金問題に関する社保庁の不祥事を次々と暴く一方で、解体に対しては 「 執拗に抵抗 」 し、ことごとく法案に反対を唱えた。

自治労を有力な支援母体とする民主党が、次々と社保庁絡みの不祥事を入手した背景に 「 社保庁から、リークを受けていた 」 のは歴然である。

本来ならば、スッパ抜いた ( 形の上では ) 民主党や、長妻議員あたりが、社保庁解体を叫ぶべきはずが、逆に抵抗するのは、なんとも不可解だ。


つまり、民主党は入手した社保庁の醜聞を 「 自民党への攻撃 」 には利用したが、国民のために 「 社保庁を改革する材料 」 には用いなかった。

その理由は簡単で、諸悪の根源である社保庁には自治労が巣食っており、それを解体することは 「 支援母体の自治労が許さない 」 からである。

自治労は身内の不始末を民主党に教え、その見返りとして、安倍政権が取り組もうとしていた社保庁解体、年金改革を、民主党に阻止させたのだ。

その証拠に、民主党は 「 歳入庁 」 案という代案を出したが、これは社保庁職員を公務員資格で横すべりさせる 「 自治労に都合の良い案 」 である。

以降、「 社保庁を解体して、年金問題を真剣に解決したい安倍内閣 」 と、「 社保庁解体案を潰したい民主党 」 の闘いは、参院選へと続いていく。


半年前の様子を思い出して欲しいのだが、年金問題が浮上するまで、前回の参院選は 「 憲法問題 」 が争点となるはずだった。

ところが民主党内には、改憲派、護憲派がいるので、参院選で憲法問題が争点となれば、対立して収拾のつかない状態に陥ってしまう。

第二の争点と予想された 「 教育改革 」 案も、日教組を選挙母体としている民主党には、国民を納得させられる有意義な政策が打ち出せない。

民主党は、支援団体である自治労、社保庁内の 「 身内の不祥事 」 を武器に与党を責め、捨て身の覚悟で年金問題を参院選の争点に浮上させた。

マスコミは、この 「 たくらみ通りの方向 」 へ世論を誘導し、結果、ご承知の通り、民主党にとって 「 願ってもない結果 」 に繋がったのである。


私は、どんな結果であろうと 「 国民の選択こそ最良 」 と考えているので、政治家に騙される有権者がいても、その一票に敬意を表するつもりだ。

また、民主党の小沢代表や、長妻議員よりも、安倍首相のほうが真面目に年金改革に取り組んだと思うが、「 ストレス耐性の無い人は失格 」 である。

ただ、年金問題への批判の矛先は、腐敗体質をもたらした自治労に支えられ、利益を代弁し、社保庁解体に抵抗した民主党に向けるべきだと思う。

また、民主党の長妻議員には、何の疑いもなく英雄扱いして崇める御仁もいるようなので、彼らの期待を裏切らないように、頑張って欲しいものだ。

以上、今夜は 「 民主党の悪行 」 を書いたが、それを有権者へ明確に伝える能力の無い現内閣も、国民の信頼に足る存在とはいえないだろう。






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2007年09月16日(日) ジョブ・カード制度をご存知ですか


「 よい人生には、三つの要素がある。

  学ぶこと、稼ぐこと、そして、あこがれること 」

              クリストファー・モーリー ( アメリカの詩人、小説家 )

There are three ingredients in the good life : learning, earning and yearning.

                               Christopher Morley



自分は、よく学んでいるか、稼いでいるか、そして、憧れているか。

冒頭の台詞は、時々、自分の人生を チェック するための指針になる。


いくら偏差値の高い学校を出ても、人生で必要なすべての学習を終えるには、学校生活は短すぎるし、卒業してからも世界は変化を続ける。

30年前の地理の教科書では 「 ソ連 」 としか書かれていなかった場所に、いまは大小さまざまな国の名前が並び、新しい国境線が引かれた。

化学も、物理も、当然、その教科書が刷られた後の発見は記載されていないし、場合によっては新説により、過去の常識が覆される事態も起きる。

学生時代に学ぶことは、あくまでも 「 基礎 」 の学問と、卒業後、知識やら情報を円滑に吸収するための 「 学び方 」 を身に付ける手段に過ぎない。

また、「 学ぶこと 」 と 「 稼ぐこと 」 は密接な関係があり、どんな仕事でも、その分野で人並みに精通していないと、満足に稼ぐことが難しい。


社会人になりたての頃、よく年配の方から 「 プロになれ 」 と言われたが、当時は、「 お金をもらう=プロ 」 ぐらいの認識しかなかった。

その後、幾多の経験から 「 プロ とは、ある特定の分野に関しては、他人に負けない知識や技能を保有している者 」 という定義に、気づき始めた。

勤め人を辞めてから、様々なビジネスに興味を持ち、なにかと手を伸ばしてみたが、失敗のもの、成功したもの、成功したが続けたくないものがある。

結局それは、自分が プロ なのか、プロ じゃなかったり、プロ になる覚悟がないために起きた現象であり、すべては必然の結果だといえるだろう。

稼ぐことの極意は、「 プロ になること 」 であり、そのためには特定の分野に関して果てなく学び続け、その道の頂点を極める覚悟が求められる。


現在、政府は 「 ジョブ・カード制度 」 の導入を計画中だが、これは、時代に呼応した 「 学ぶこと ⇒ 稼ぐこと 」 の画期的な新プログラムになり得る。

学校を卒業しても、職業能力を形成する専門的・実践的教育というものは、各人が入社した企業の社内で行われ、徐々に現場で培われていくものだ。

つまり、正社員には十分な教育機会を与えられるが、臨時の雇用者に対しては教育の機会が与えられず、長く働いても個人の能力が習熟しない。

たとえば、パソコンの打ち方は個人でも学べるので、実務経験がなくても、エクセル、ワード、パワーポイントなどの操作は可能だ。

ところが、それで 「 ビジネスの場面で相手が納得する書類 」 を作成できるかというと、まず 「 無理 」 である。


書店では、ビジネス文書の書き方を指南する書籍も販売されているので、それを参考にすれば、一見 「 それらしい書類 」 を作成することはできる。

だが、各業界には 「 業界特性 」 というものがあるし、たとえば、クレームの始末書を書く場合、被害の軽重によっても書き方は異なる。

どう考えても、仕事上のミスによって 「 1000円の損失 」 が出たケースと、「 重傷者が出た 」 ケースで、同じ書き方の始末書が通るわけなどない。

ちょっとした被害に大袈裟すぎる報告書も駄目だし、深刻な事態に、まるで心のこもっていない事務的な文書でも駄目なのである。

もちろん、非正規雇用の人でも、正社員と同様に長く勤めれば、人によっては専門技能を身に付け、優秀な技能を発揮するが、それでも評価は低い。


前述した 「 ジョブ・カード制度 」 は、企業や、教育機関と連携し、実習型の職業能力訓練を施し、「 仕事で通用する人材を育成 」 する仕組みだ。

実習の完了した人や、過去の勤務経験で一定の知識、技能を取得している人には、評価シートを発行し、個人の職業能力を政府レベルで認定する。

あまり知られていないが、これまでにも 「 ニート対策 」 として同様の制度はあったが、今回は、枠をフリーターや、子育て終了後の女性にも拡げる。

能力はあるが、やりがいのある仕事に就く機会を与えられなかったニート、フリーター、あるいは母子家庭のお母さんなど、多くの人が対象者だ。

生活に困窮する人には、実習中の生活費を低利で貸し出したり、企業研修中は一定の賃金を支払うので、過去の制度よりはるかに現実的である。


ニートでも、フリーターでも、ネット難民でも、その人が満足しているのならば別に問題はないし、それぞれに学び、稼いでいることにケチはつけない。

ただ、そんな生活で将来に 「 あこがれること 」 が可能かというと、いささか問題があるように思うし、できれば、すべての人に希望は持って欲しい。

この制度で、多くの人が 「 自分の適性を活かし、やりがいを感じる仕事 」 に就けるなら、それは、この国の将来にとっても大きな希望となる。

あるいは正社員でも、現在の仕事に満足していない人や、仕事が思うようにいかず悩んでいる人たちも、こういった制度を利用する術がある。

マスコミなどの偏った情報で、政府が 「 何もしてくれない 」 という幻覚を抱くよりも、悩んでいる人は ハローワーク で相談を受けることが望ましい。






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2007年09月15日(土) 自民党総裁選 : 政治家は見た目で選べ



「 神さまは、器量のよくない人間がお好きだったにちがいない。

  実にたくさん創造されたから 」

         エイブラハム・リンカーン ( 第16代アメリカ合衆国大統領 )

God must have loved the plain people ;
He made so many of them.

                                Abraham Lincoln



誰かを皮肉ってるのではなく、彼自身のことを語った 「 謙遜の言葉 」 だ。

歴史に名を残す偉大な政治家にも、容姿のコンプレックスはあったらしい。


最近、『 人は見た目が9割 ( 新潮新書=竹内一郎 著 ) 』 というタイトルの本がベストセラーになり、読んでみたところ、なかなか面白かった。

見かけや容姿で判断せず、「 人は中身で評価しなさい 」 なんて説教を受けた記憶もあるが、この本を読むと 「 見た目の大切さ 」 がよくわかる。

昔から女性は、「 男は “ 美人に弱いからねェ ” 」 なんて仰るが、そう言う女性のほうも、やっぱり、男前に弱かったりするものだ。

一部の 「 マニア 」 を除くと、醜いものより美しいものに憧れを抱くのが普通で、美しい風景を愛でるのと同じように、器量の良いほうが寵愛される。

ただし、人の美しさには 「 生まれつき 」 の要素と、その人の 「 努力 」 や、「 生きる姿勢 」、「 人との接し方 」、「 起居振舞 」 なども含まれる。


誰でも、初めて接する人に対し、意識、無意識のうちに、「 私はこんな人間ですよ 」 という信号を伝達し、相手に何らかの印象を与えている。

伝達手段には、「 バーバル・コミュニケーション ( 言葉による伝達 ) 」 と、「 ノンバーバル・コミュニケーション ( 言葉以外の伝達 ) 」 の二通りある。

心理学では、ノンバーバル・コミュニケーションのほうが 「 伝達力が高い 」 と実証されており、いわゆる 「 理屈より見た目 」 の図式が成り立つ。

それは、よく考えてみれば当然の話で、人は、顔つき、仕草、服装、匂い、体温、距離など、言葉以上に膨大な情報を相手に発信しているのである。

所詮、相手をよく知らないのに 「 中身で判断しなさい 」 と言われても無理な話だし、相手の話をよく聴いたところで、見た目の印象にはかなわない。


安倍首相が 「 ボンボン 」 だと揶揄されたのは、家柄や、生い立ちの関係だけでなく、いわゆる 「 見た目 」 によるところが大きい。

大事な試験を前にし 「 お腹が痛くなっちゃった 」 こともそうだし、なにより、語気を強めても、眼力 ( めぢから=視力のことではない ) に欠けていた。

先週、映画 『 HERO 』 を観たが、主演 木村 拓也 は眼力が強く、それは観客を圧倒し、芝居が上手いか下手かなどの議論を超越した魅力を放つ。

いくら政策が立派でも、話が巧みでも、眼力などを含む 「 見た目の迫力 」 がなければ、その声は有権者の耳に届いても、心には届かない。

つまり、「 政治家は ボンボン では駄目 」 というのは妥当な意見であって、迫力の無い人物は、正論を発しても 「 真剣さが伝わらない 」 のである。


辞めた人のことを語っても意味がないので、次期総裁候補の話をするが、麻生氏 は実業家ならではの、積極性と、庶民的雰囲気を醸し出している。

福田氏 は、安倍氏 と同様の 「 二世議員 」 だが、ボンボン というよりは、年齢のせいか、慎重さと、政界の事情に長けた感がある。

現在のところ、「 福田氏 優勢 」 と報じられているが、どちらのタイプが総理として有権者の支持を集められるのか、自民党は熟慮すべきだろう。

政策では、小泉氏 より 安倍氏 のほうが勝っていたと思うけれど、人気は真逆だったように、政治家こそ 「 見た目が最も重要 」 なのである。

ちなみに、『 人は見た目が9割 』 が事実ならば、どう見ても 「 悪人顔 」 の民主党・小沢代表は、「 9割方、悪い人 」 かも …  






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2007年09月14日(金) 安倍首相退陣 : 病気が理由なら議員辞職すべき



「 最高司令官は、立ったまま死なねばならない 」

                     ウェスパシアヌス ( ローマ帝国の皇帝 )

An emperor ought to die standing.

                         Titus Flavius Vespasianus



どこかの国の総理大臣に、聞かせたい台詞である。

男が一度やると決めたら、こういう心意気が欲しいものだ。


ウェスパシアヌス は軍人から徐々に出世して、丁度、暴君ネロの自殺後、混乱した社会で大衆から推挙され、皇帝に就いた人物である。

過去の皇帝と違い、貴族的な家系の出身ではなかったので、品位や威厳に欠けるところもあったが、謙虚で温和なため、ローマ市民から愛された。

世界で初めての 「 教育への国庫助成制度 」 を作ったり、世界遺産である 「 コロッセオ 」 の建設を開始したことなどで知られている。

元老院から 「 皇帝の弾劾権 」 を奪ったことで、以降、政権交代は皇帝の死によるところとなり、後々まで皇帝の暗殺が横行する原因となった。

冒頭の言葉は、そんな彼の信条を如実に表しており、最高司令官の責任と権限を謳った名言として、現在まで語り継がれている。


男女平等を建前とする現代社会において、「 男は男らしく、女は女らしく 」 という概念は、過去の遺物とみなされ、葬り去られる傾向にある。

心身を鍛え、タフ に生き続けることが男性の必須条件だった時代は過ぎ、女々しく泣き言を吐き、楽をするのも一つの個性と呼ばれるようになった。

定職に就かない若者、定職はあっても給料をもらうためにだけ嫌々ながら働く中年など、昔なら 「 ダメ人間 」 と呼ばれた人種も、個性と認められる。

そんな不健全社会の極みは、「 目に見えない心の病 」 だと申告すれば、仕事の失敗も、業績不振も、犯罪の懲罰も、すべて帳消しになることだ。

大相撲の横綱でさえ、重圧に耐える義務を要求されず、療養の名のもとに責任から逃れられ、なにもかもが免罪される世の中である。


もちろん、正直に 「 ストレス に打ち克つ胆力が無い 」 と吐露するほうが、見栄を張り通して自殺する馬鹿よりも マシ なことは間違いない。

それに、「 目に見えない 」 から他人には理解され難いけれど、ただの怠慢ではなく病気なのだから、憐憫なく責任を追求するのは非情すぎる。

ただ、本人も社会も自覚する必要があるのは、病気を理由に責任から逃れることは、自殺や病死を防ぐための 「 最後の手段 」 だということだ。

一度 カミングアウト した以上、ほとぼりが冷めた頃に現状復帰したり、過去の責任を清算することなく涼しい顔をするのは許されない。

責任と権限は イコール であって、病気を理由に責任を逃れた者が、他者と同じ権利を要求し、それを認めることは、社会の均衡を乱す元凶になる。


たとえば、精神鑑定の結果により凶悪犯罪の罰を逃れた者が、何の制約もなく社会に放免されてしまうなら、社会秩序の安寧は望めない。

ズル休みを叱責されたのが辛くて、療養に里帰りした横綱が、涼しい表情で土俵に戻り、「 また叱責したら、病気になるぞ 」 と脅すようでは困る。

安倍首相の病名は 「 機能性胃腸症 」 と判明したが、強い肉体的、精神的ストレスを受けたときの 「 心理的要因 」 による神経症である。

内視鏡などで検査しても異常がみられない 「 目に見えない 」 病気であるが、本人の申告と医師の診断がある以上、真実と受け止めるべきだろう。

当然、一国の宰相として職務を果たせる状態にないわけで、ここは昨日の辞任表明を認め、今後は治療に励んでもらうしかない。


ただし、「 総理大臣は激務だが、それ以外の国会議員は気楽な稼業 」 という理屈はなく、病気を理由に退陣するなら、国会議員も辞めるべきだ。

精神病の操縦士が、どんなに上手に操縦しても、「 私の操縦が精神病者の操縦だと思いますか? 」 と尋ねても、彼には人を乗せて飛ぶ資格がない。

それと同様に、いくら政策が正しく、国政への意見が的を得ていたとしても、「 ストレス耐性の無い人間 」 と吐露した以上、国政参加の資格はない。

これは、「 敗者の再チャレンジ 」 を阻む差別ではなく、病気を理由に責任追求を免れた者が背負う 「 けじめ 」 であり、必要な措置だ。

もしも、ほとぼりが冷めた頃、一議員として復帰が認められるなら、後継の首相に 「 危なくなったら病気を理由に逃げろ 」 という悪習を残すだろう。


心を鬼にし、「 仕事上のストレスで病気になった人 」 に対して、とても厳しいことを言うが、仕事でストレスが溜まるのは、仕事が面白くないからだ。

また、仕事が面白くないのは、仕事が順調に消化できなかったり、思わしい成果を挙げられなかったり、職場の人間関係などに不満のあるせいだ。

原因は様々だが、一つだけ共通して言えるのは 「 ご自身にとって適職ではない 」 という事実で、悩んだり、思いつめるぐらいなら辞めたほうがよい。

一時的に重圧から逃れ、ほとぼりが冷めた頃に他者と同様の権利を求めるのは虫が良すぎるし、周囲の顰蹙と不満を買ったり、悪い慣例をつくる。

首相として、活躍したかどうかは別の問題で、「 立ったまま死ぬ 」 覚悟が潰えた今、安倍氏には潔く政界を退いてもらいたいと思う。






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2007年09月12日(水) 安倍首相辞意表明の怪



「 人生のコツは、損失を次の人にまわすこと 」

                             ロバート・フロスト ( 詩人 )

The art of life is passing losses on.

                                   Robert Frost



ずいぶん昔の話だが、成蹊大学出身の女性と交際したことがある。

上品で、物静かな、大人しい感じの小柄な美人だった。


私の大学生時代は、「 学業は程々に、運動は必死に 」 というタイプだったので、他校に対する評価は、まず、運動部の実績による印象が強かった。

その点、成蹊というのは 「 パッとしない学校 」 という先入観があり、友人の中にも出身者がいなかったので、どんな学校なのか興味もなかった。

前述の女性は、初めて交流した同校出身者だったので、彼女や、その友人から話を聞くと、男女とも 「 良家の出 」 が多いという話を耳にした。

少し下世話かもしれないが、たしかに、その女性も 「 25歳で処女 」 だったので ( 私に会うまでは )、良家のお嬢様という感じだった。

以来、成蹊は 「 お嬢さん学校 」 という印象が根付き、関東の友人に確認したところ、やはり、そこそこのお嬢ちゃん、坊ちゃんの学校のようだった。


実際には、アメフト や ラグビー の選手権にも出場しているし、学生全員が弱々しいわけではないけれど、成蹊に、そういった印象を持つ人は多い。

実は、安倍首相も成蹊の出身者であるが、当時、彼の家庭教師をしていた平沢勝栄によると、「 慶応を目指すが、学力不足で成蹊になった 」 らしい。

安倍氏の家系は、父の晋太郎、祖父の安倍寛、岸信介、大叔父にあたる佐藤栄作、家庭教師の平沢まで、すべて周囲が 「 東大出身者 」 なのだ。

これは、東大、早慶などの出身者が多く、学閥による仲間意識の強い政界で、彼が 「 ボンボン 」 と揶揄され、浮いた存在になった一因でもある。

あれほど強い意気込みを示して、次々と法案を成立させたにも関わらず、どこか線の細い印象があったのは、周囲に溶け込めない孤独からか。


参院選に大敗しても、支持率が急落しても、野党、マスコミに叩かれても、総理の座から降りなかった安倍首相が、急遽、辞意を表明した。

所信表明の二日後というのは、「 青天の霹靂 」 というよりも 「 無責任 」 の誹りを受けかねないが、この逆転劇には、どうも不可解な印象が強い。

もっとも自然に考えられるのは、「 健康がすぐれない 」 という理由によるもので、官房長官の談では、激務と健康の両立に苦悩していたらしい。

たしかに、最近は顔色が悪く、少し 「 うつ状態 」 にあるのかなと思われる節もあったが、それならば、退くしか道はないだろう。

首相ほどの激務でなくても、ちょっと叱責されたり、待遇が思い通りでないと 「 うつ 」 になる御仁の多い昨今、あれだけ攻撃されれば不思議は無い。


記者会見の表情を眺めていると、誰の責任かはともかくとして、安倍首相が今日まで 「 相当な無理をしていた 」 のだろうという思いが頭をよぎった。

学校歴が悪いというわけではないが、ボンボン学校の出身者が世間の荒波にもまれて精神を病むという構図が、なんとなく思い浮かんでしまう。

考えてみると、安倍氏自身は政策も的を得ていたし、何も悪いことをしていないのだが、閣僚の不祥事や、不適切な言動に悩まされすぎた。

強いて問題点を挙げるなら、自身の退陣も含めて 「 タイミング 」 の悪さと、首相としての 「 統率力 」 に欠ける部分があったことは否めないだろう。

次は麻生氏の出番となるだろうが、「 次の人にまわる損失 」 をいかに処理し、前任者以上の成果を挙げてくれるか、お手並み拝見である。






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2007年09月11日(火) アメリカ同時多発テロから6年



「 何もしないことは、悪をなしていること 」

                                   英語のことわざ

Doing nothing is doing ill.

                                 English proverb



あの悲劇から6年が経ち、小雨の NY で追悼式典が行われた。

犠牲になった 2750人 のご冥福を、心よりお祈り申し上げる。


民主党は、またもや 「 小沢流パフォーマンス 」 を展開し、党首会談を拒むことで、弱り目の自民党に揺さぶりをかけてきた。

同盟諸国が国際テロを防止、根絶するために掃討作戦を実施している折、政府与党が給油活動を通じて協力、貢献することが、気に入らないらしい。

給油活動を継続することは、「 合憲かどうか 」 と問えば 「 違憲 」 であるし、「 損か得か 」 といえば、直接的な見返りは無いので 「 損 」 である。

しかし、テロ根絶は、世界秩序の安寧に繋がるわけで、その成否は日本の将来にとって、大きな影響を及ぼすだろう。

民主党が主張する 「 国民にとって身近な問題 」 とは、言い換えるならば 「 目先の利益 」 であり、単純な損得勘定に判断の重きを置いたものだ。


前回も書いたが、国際貢献には [ fairness ] という視点が必要であり、日本にとって得か損かというような、目先の損得勘定で動くべきものではない。

人によっては、「 日本の得にもならんことで、俺の税金を使うな 」 とお怒りの御仁もいるようだが、そんな発想では、国際社会の一員とはいえない。

さぞや 「 俺の税金 」 とやらに固執されるのだから、かなりの高額所得者、高額納税者の方なのだろうが、国際貢献は 「 投資 」 とは違う。

困ったときに助け合ったり、どうしても問題解決に必要な資金を分担するのが嫌なら、孤立の道を歩むしかないだろう。

冒頭の格言と同じく、「 何もしないことは、悪をなしていること 」 とみなされ、損もしない代わりに、軽蔑の対象として扱われることになる。






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2007年09月10日(月) 日本が給油を継続する意義



「 日本は偉大な国だ。

  そろそろ、それにふさわしい行動をとっていい頃だ 」

            ジョン・C・ダンフォース ( アメリカ上院貿易小委員長 )

Japan is a great nation. It should begin to act like one.

                               John C. Danforth



スポーツでは、フェア・プレイの精神が強調されている。

これは、世界中どこの国においても、共通した考え方のようだ。


子供たちはスポーツを通して、健康な身体を作るだけでなく、規則に従い、相手に対して 「 けして不当な行為はしない 」 ことを学ぶ。

どちらが勝つかということよりも大切なのは、「 プレイがいかになされたか 」 ということであって、フェア・プレイの価値は何よりも優先される。

しかし、スポーツ以外の分野 ( たとえば、仕事、政治、普段の生活など ) に目を移すと、日本人はアメリカ人ほど 「 フェア 」 にこだわらない。

アメリカ人にとって [ fairness ] とは、「 命の次に大事な事柄 」 だといっても過言ではなく、日常的に “ フェア ” か “ アンフェア ” かの議論が多い。

たとえば、日本の母親は兄弟喧嘩を 「 どちらが悪いか 」 という基準で裁くが、アメリカの母親は 「 どちらが アンフェア か 」 という基準で諌める。


第二次大戦に敗れ、幹部から末端の兵士まで戦犯として訴追、処刑され、世界に向け日本は 「 二度と戦争はしません 」 と誓わされた。

そんな日本が、過去の反省を踏まえ、戦争を 「 悪いこと 」 と認識しているのは大いに結構なのだが、戦争の火種は世界中に散らばっている。

今日的な問題は、「 平和憲法を楯にして、知らぬ顔を通すか 」、あるいは 「 国際社会の治安維持のため、協力を申し出るか 」 という選択にある。

もし仮に、戦争は 「 良いか、悪いか 」 という日本的な発想で議論が進むと、当然、「 他国の戦争に荷担してはいけない 」 という結論に辿り着く。

改憲反対、日米安保反対、集団的自衛権反対、テロ特措法反対と唱える人々の論旨は、結局、この 「 良いか、悪いか 」 という基準によるものだ。


しかしながら、アメリカをはじめとする諸外国は、「 日本は国際社会の一員として、フェア に貢献する意志があるか、否か 」 という視点で眺めている。

それに対し、「 日本には平和憲法がある 」 と反論しても、アメリカにだって 「 どんどん戦争をしましょう 」 という法律があるわけではない。

どの国々も、好きこのんで戦争をしているわけじゃなく、平和的な外交手段だけでは 「 どうしても解決できない問題 」 に業を煮やしているのだ。

日本国憲法の存在など 「 百も承知のうえ 」 で協力を依頼されているのに、先進諸国と足並みを揃えない姿勢は、どうみても “ アンフェア ” に映る。

しかも、日本の世論を考慮して、給油や物資の輸送を要求されているだけで、けして「 武装した軍隊を供出せよ 」 と言われているわけではない。


政府与党には逆風が吹き荒れ、民主党に追い風が吹く中、テロ特措法に賛成するのか、あるいは反対するのか、いまのところ趨勢は不明だ。

ただし、国際社会、特にアメリカは、日本に対して [ fairness ] という視点で姿勢を評価する傾向にあることを、知っておいたほうがよいだろう。

国内の問題は 「 善か、悪か 」 の判断で済むが、対外的には “ フェア ” か、“ アンフェア ” かという物差しがあることを、覚えておいたほうがよい。

そこに、「 憲法上の問題 」 があるのならば、憲法そのものを見直す必要もあるわけで、それこそ、私が 「 憲法は改正すべき 」 と考える所以である。

冒頭の言葉が示す通り、戦後レジュームの脱却をはかりつつ、「 そろそろ、ふさわしい行動をとっていい頃 」 ではないだろうか。






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2007年09月09日(日) 自分に甘く、他人に厳しい大衆心理



「 自分自身の欠点に気づくほどの視力を持った人は、ほとんどいない 」

                                   英語のジョーク

Few people have enough sight to see their own faults.

                                   English joke



悪意はないのだが、周囲に迷惑を掛けている人がいる。

むしろ、その場合 「 悪意はない 」 ことが、一番厄介だったりもする。


日頃から混雑が嫌いで、たとえば 「 行列の出来る店 」 なんてのがあっても、予約して スッ と入れないのなら、並んでまで入ろうとは思わない。

しかしながら、どうしても テーマパーク や イベント会場 などでは、大勢の人に混じって、行列に参加せざるを得ないこともある。

こんなとき、たまに 「 なんでこんなに混んでるの、暇人ばかりかよ 」 などと自分勝手な不満を愚痴る人がいて、さらに不快感を煽られる。

本人は、愚痴を吐くことで スッキリ したいのだろうが、周囲にとっては迷惑な話で、まして夏場の暑い時期には、より一層 「 うっとおしさ 」 が増す。

基本的には、「 マナー 」 や 「 エチケット 」 の問題に帰結するのだけれど、無意識に不快感を振りまく人というのは、どこにでもいるようだ。


自分の不快は露にするが、自分が 「 他人に与えている不快 」 については無頓着な人というのも、ちょっと困ったものである。

たとえば、「 真夏だというのにスーツを着込んで、満員電車で汗だくになって通勤している 」 ということを、さも、自慢のように語る御仁がいる。

本人は苦労話のつもりかもしれないが、周囲の乗客にとっては、「 汗だくのオジサン 」 なんかに乗り合わせてもらいたくないわけで、いい迷惑である。

周囲の迷惑にまで配慮する気があるなら、早起きして時差出勤するなり、大汗をかかないように努力するなり、なんらかの策を講じるべきだろう。

ちなみに、私も汗をかくほうなので、夏場は車で出勤するか、早朝の空いた電車を利用したり、軽装で出掛けて仕事場で着替えたりしている。


最近、歯の詰め物が取れて、10年振りぐらいに歯科へ通っているのだが、先日、医院の助手の方から、意外なことで誉められた。

その医院では、男性の患者で 「 毎回、治療前に歯を磨いてくる 」 という人は珍しいそうで、やっぱり、口の中は綺麗なほうが処置しやすいらしい。

他人がどうしてるかは知らないので、自分としては オフィス を出る前に磨いてくるのが 「 当たり前 」 だと思っていたから、これには驚いた。

ここ数年、タバコも吸わないし、口臭があるとは思わないけれど、口の中を開いて見せるのに歯を磨かないなんて心理は、自分には理解できない。

逆の見方をすると、歯科医の方は、「 歯も磨かず治療を受けに来る患者 」 も診なければならないわけで、そう考えると大変な職業なのだと思う。


自分の不快、自分の痛みは主張するけれど、「 他人に与える不快 」 には無頓着な人が、近頃は増えているのかもしれない。

取引先の人と話していても、不平不満には饒舌だが、ご自分の職務が遂行できていない事実については、ぼやけた曖昧な説明しか聞かれない。

他人のアラ探しには熱心で、攻撃の口調も評論家並に滑らかだが、いざ、ご自分のやるべき事柄に触れると、途端に口ごもってしまう人も多い。

民主党は、そういった 「 個人の年金など、利己に執着する性質 」 を上手く誘導し、自民党は、「 戦後レジュームの脱却 」 なんて大局を語りすぎた。

不満に同調することが正しいとも思わないが、小泉前首相のように国民を先導する力の無い政治家は、もう少し大衆心理を読む必要もあるようだ。






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2007年09月08日(土) 映画 『 HERO 』 公開



「 年をとるにつれ、自分にとってのヒーローという存在をもつことは

  難しくなるが、幾分それは必要なことである 」

            アーネスト・ヘミングウェイ ( アメリカの小説家、詩人 )

As you get older it is harder to have heroes, but it is sort of necessary.

                               Ernest Hemingway



人気の映画は、二週間も前に指定席が確保できる仕組みが導入された。

それを利用し、公開初日に映画 『 HERO 』 を彼女と観に行った。


いつの時代にも、その時代を代表する スター というものがあり、間違いなく 木村 拓也 という人物は、後世に語り継がれる存在といえるだろう。

劇場には、「 おそらく普段は映画など観ないような層 」 を含め、老若男女、幅広い観客を集めての 「 満員御礼 」 である。

短いカットだが、人気の韓国俳優 イ・ビョンホン の出演を目当てに集まった女性ファンや、テレビドラマの延長として興味のある人も多いようだ。

それでも、やはり大半は主役の キムタク が大画面で活躍する姿を楽しみに来ているらしく、彼の見せ場では、女性観客の ウットリ する空気が漂う。

既に結婚し、子供もいるというのに、キス で 「 悲鳴 」 や 「 ブーイング 」 が漏れるのは、彼が 「 稀代の男前 」 である証といえるだろう。


映画そのものは、酷評するほど悪くもないが、さして記憶に留める程の出来でもなく、キムタク に興味の薄い人には、退屈する二時間かもしれない。

この作品にかぎったことではないが、一時間で事件を解決するテレビ版を二時間の映画版にした場合、どうしても中だるみや、一種の間延びがある。

これは、余った時間と予算が 「 ぜい肉 」 となり、物語の主軸に影響の浅い 「 余計な場面 」 を挿入せざるを得ないことから、よく起きる問題だ。

ただし、作品全体の評価はともかく、相変わらず キムタク の眼光は鋭く、「 手を抜かない仕事ぶり 」 には驚かせられ、それが彼の魅力だと感じる。

雑誌 『 anan 』 での 「 好きな男 ランキング 」 で 14年連続 1位 を獲得した資質はダテじゃなく、スター にして、まさに本物の 「 HERO 」 である。


冒頭の句が示す通り、子供の頃は、芸能人や、スポーツ選手や、あるいは特撮モノの主人公など、様々な 「 HERO 」 に憧れることも多い。

そんな憧れが、年齢を重ねるごとに失せてしまうのは、現実社会の厳しさ、キレイゴト が通用しない背景など、裏事情や、余分な知恵を知る所以か。

それでも、理想とする人物像を抱いたり、誰かに憧れたりすることは、自分の生き方を見直したり、日々の努力における励みとして、効果がある。

自分にとっての 「 HERO 」 という存在を持つことは、言い換えると 「 目標があること 」 でもあり、それは大切なことかもしれない。

しかしながら、たとえば私が キムタク を目標とした場合、「 努力 」 よりも 「 オペ ( 手術 ) 」 が必要となり、HERO は優秀な外科医のほうになる。






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2007年09月07日(金) パヴァロッティ 巨星の逝去



「 音楽を聴くのに、頭なんて必要ないよ 」 

            ルチアーノ・パヴァロッティ ( イタリアのテノール歌手 )

You don't need any brains to listen to music.

                               Luciano Pavarotti



オペラ歌手の最高峰 “ キング・オブ・ハイC ” パヴァロッティ が死去した。

ハイC とは、2オクターブ上の 「 C ( ド ) 」 の音で、声に出すのが難しい。


最近、秋川 雅史 さん による 『 千の風になって 』 がクラシック歌手としては初のミリオンヒットを記録し、音楽界に新風を巻き起こした。

私が音楽の話をするのは、大部分が若い人たちで、オペラやクラシックの話題になると、 「 クラシック なんて ゲロゲロー 」 なんて反応が返ってくる。

しかし、前述の 『 千の風になって 』 や、平原 綾香 さんの歌う 『 jupiter 』 は人気があり、歌手や、原曲がクラシックだと知って驚いた人もいる。

彼らが毛嫌いする理由は、クラシックの話に参加する際、楽曲の感想より 「 歴史背景などの予備知識 」 を求められることが多いからだという。

音楽なんてものは、感覚的に楽しむものだと パヴァロッティ も認めていたが、たしかに、そこへ余計な解説を強要されると 「 ゲロゲロー 」 である。


パヴァロッティ のように、声で ハイC を連続して安定的に出せる人たちは、もはや歌手の 「 声 」 というより、精密な楽器の 「 音 」 に近い印象がある。

その正確さ、規則正しさは、たしかに凄いと思うけれど、あまりにも完璧すぎるので、逆に、「 人間が歌っている 」 という感情移入や、連帯感に乏しい。

また、近年は 「 カラオケ文化 」 の浸透などで、音楽は 「 聴くだけのもの 」 から 「 誰でも気軽に口ずさめるもの 」 へと、需要が変化してきた。

それに、現代の都市生活のリズムには、ノリ のよいアップテンポな楽曲のほうが合っていて、ゆったりとクラシックに耳を傾けられる機会も少ない。

私自身は、車の運転中や、部屋でくつろぐ時にクラシックを選ぶことが多いけれど、それも 「 聴く 」 というより、「 他のノイズを消す 」 目的が大きい。


輝かしい高音をもつ リリック・テノール が言う通り、音楽は頭で理解しようとするものではなく、心で感じとるべきものなのだろう。

詳細に分析したり、評価したり、他人に価値観を押し付けたり、その価値を理解できない者を侮蔑するのは、間違いというより 「 野暮 」 だろう。

東京で 「 三大テノール 」 を観た当時は、広告代理店の知人に勧められ、何の予備知識もなかったのだが、後から思うと、これは良い機会だった。

世界的なエンタティナーの死去には寂しさがあり、報道で各界の著名人が 「 巨星の逝去 」 を悼む声を聞くと、さらにその感慨が深まる。

謹んで哀悼の意を表し、来日公演で魅惑の ( というより、驚愕の ) 高音を聴かせてくれた思い出、珠玉の名言を遺してくれたことに感謝を示したい。






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2007年09月06日(木) 法律を越えた法律がある



「 武器がものを言うとき、法律は沈黙する 」

        マルクス・トゥリウス・キケロ ( 古代ローマの政治家、哲学者 )

When arms speak, the laws are silent.

                            Marcus Tullius Cicero



この句は 「 正当な殺人はあるのか? 」 の問いに、「 ある 」 と答えている。

極限状態においては、杓子定規に法律を適用できない場合も在り得る。


静岡県島田市で、掛川市の会社員の男性 ( 38歳 )が、静岡市の美容師見習いの少女 ( 15歳 ) に腹部などを刺され、死亡する事件があった。

警察が少女に事情を訊いたところ、「 事件前夜の帰宅途中、男性に刃物で脅され、手を縛られたうえ、車で県内を連れ回された 」 と話している。

少女の証言は詳細に亘り信憑性があり、これは 「 拉致された状況、恐怖から、逃げ出すための手段 」 として、正当防衛にあたる可能性が高い。

なかには、「 だからといって殺さなくても 」 と思う方がいるかもしれないけれど、「 刺さなければ殺されると思った 」 とも、彼女は話している。

すべて証言が事実なら、死亡した男性は 「 自業自得 」 の非があり、少女こそ真の被害者で、その行為は 「 正当 」 と認められるべきだ。


有事の備えを怠らない努力は大切だが、平時の状態にある者が、有事の対処法を議論したところで、いざ、その通りに行動できるとはかぎらない。

仮に、暴漢に襲われた際の対処法として、法律なり、マニュアルなりを定めたとしても、深刻な身の危険が迫るとき、それに従う義務は優先されない。

最も重要で、優先されるべき目的は、「 安全な状態に逃れること 」 であり、そのためなら、いかなる手段を用いたとしても、それは仕方の無いことだ。

もし、本人に危害が加えられなくても、たとえば友人が暴漢に襲われ、少女の腕力では制圧できないと感じたら、武器を手に相手を倒しても構わない。

法律違反ではないかと躊躇し、攻撃をためらったことで自分や友人が傷を負い、あるいは命を失ったとしたら、永遠の後悔が少女を苦しめるだろう。


憲法9条の是非が問われ、改憲、あるいは護憲の主張を持つ人々の間で議論が交わされているが、私自身としては、改憲すべきだと考えている。

長くなるので、理由は別の機会に書くが、今の時代、今の国際環境に適応できる 「 生きた憲法 」 とは思えないし、有事に遵守できる可能性も低い。

ただ、強硬に改憲すべきだと主張しないのは、冒頭の句にもある通り、もし有事になり武力衝突が日常化すれば、法律など意味を成さないからだ。

こちらが銃を構えた状態で、敵に銃を向けられ、先に発砲するのは、自分に 「 自衛権 」 があるからではなく、「 生存本能 」 があるからに違いない。

殺される間際に 「 命の心配 」 をするのは自然の摂理だが、先に 「 憲法に抵触しないか 」 などと第一に考えるのは、どうみても不自然である。


それと同じように、友軍の兵が攻撃されている際に、助太刀して命を救おうとするのも、「 集団的自衛権 」 の問題などではない。

自分が手を貸さなかったことで、友人の命が失われるなどという結果を招いたら、それは 「 憲法に違反した 」 程度の後悔では済まないだろう。

憲法の問題は、「 平和な状況で、是非を語り合っている 」 から意見が分かれているだけで、有事に際しては思想より、行動と、その結果が問われる。

先に紹介した事件の少女は、男性を刺殺するために車へ乗り込んだのではなく、拉致に巻き込まれた結果、自己防衛の権利を行使しただけだ。

憲法が改正されても、日本が自発的に他国へ攻め入る可能性は低く、巻き込まれた我々がどんな行動をとるべきか、それを考えることが望ましい。






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2007年09月05日(水) 店長の ツボ を押した万引き犯



「 俺は、朝のナパーム弾の匂いが好きだ 」

                          映画 『 地獄の黙示録 』 より

I love the smell of napalm in the morning.

                         From “ Apocalypse Now ”



ナパーム弾は、広い範囲を高温で焼き尽くし、死体も残らない。

残酷で非人道的との批判から、現在のアメリカ軍では保有していない。


往年の音楽ファンには懐かしい、日本でも大ヒットした 「 雨を見たかい 」 という クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル ( CCR ) の名曲がある。

原題は 「 Have you ever seen the rain? ( あなたは雨を見たことがありますか? ) 」 だが、日常会話における 「 質問 」 として考えると不自然だ。

ここでいう 「 the rain 」 とは、ナパーム弾を指した暗喩で、当時、泥沼化していたベトナム戦争に対する批判と、反戦の願いが込められている。

子供だった私は、そのような意図など露も知らなかったが、ベトナム戦争でナパーム弾が森を焼き尽くす脅威は、ニュース映像で捉えていた。

自分が生まれる前に終結した太平洋戦争と違い、ベトナム戦争は、「 いま、こうしている間に起きている現実 」 として、子供心に記憶されたのである。


ベトナム戦争を描いた映画は多いけれど、やはり代表作として思い浮かぶのは、フランシス・F・コッポラ の 『 地獄の黙示録 ( 1979 米 ) 』 だろう。

マーロン・ブランド をはじめとして、多彩な俳優陣が顔を揃えたが、劇中で最も印象的だったのは、キルゴア中佐役の ロバート・デュバル だった。

キルゴア という役名は、「 kill ( 殺す ) 」 + 「 gore ( 血糊 ) 」 のイメージから創出されたらしいが、文字通りに残忍な役どころである。

ベトコンの拠点となっている地域の海でサーフィンをしたいため、キルゴア は近くの村への爆撃を計画し、ナパーム弾を撒き散らし、機銃を掃射する。

冒頭の台詞は、爆撃が終わった後に呟いたものだが、まるで一遍の詩でも読み上げるように語ることで、さらに残忍さが凄みを増している。


反戦的な映画の大部分が、戦争の狂気を強調したいがための手法として、「 普段は大人しい善人が、戦地では残忍になる 」 という逸話を挿入する。

だが、ひょっとすると、もともと誰にでも残忍な一面があり、平時には潜在化していたものが、極限状態において目覚めるのではないかとも考えられる。

千葉県船橋市のスーパーで、店長が、売り場にいた男性客に 「 万引きをしたのではないか 」 と問い詰め、暴行を加えて死亡させる事件が起きた。

死因は 「 出血性ショック死 」 ということだが、56歳の男性に対して、絶命するまで殴り、蹴るとは、「 懲らしめ 」 にしても度を過ぎている。

愛想の良さが売り物の接客業で、戦争も起きてないのに加害者を 「 残忍に駆り立てたもの 」 は、一体なんだったのだろうかと不思議に思う。


たとえば休日に彼女とテレビを観て過ごしているとき、クス とも笑えないような 『 笑点 』 の大喜利で、彼女が ケタケタ と大笑いをする。

こちらとしては、そんな 「 化石のような ギャグ 」 で笑えるのならと、数十倍は面白いであろう、秘蔵の 「 笑える DVD 」 などを貸してあげる。

ところが、それを観た彼女の感想が 「 つまんなーい 」 なんてこともよくある話で、これは人によって 「 笑いの ツボ 」 が違うために起きる現象である。

それと同じように、人によって 「 怒りの ツボ 」 とか、「 残虐性を刺激する ツボ 」 というものが、それぞれ異なるのではないだろうか。

他人からみると 「 たかが万引き 」 でも、この店長には、ナパーム弾を撒き散らしたくなるほどの 「 ツボ 」 に触れる行為なのかもしれない。


ちなみに、喧嘩の弱い人や、慣れていない人や、腕力に自信のない人は、できるかぎり争いごとに参加しないほうが望ましいと思う。

ある程度の経験や余裕がないと、どこまで痛めつけるべきかがわからず、下手をすると、喧嘩には勝っても、死に至らしめてしまう危険がある。

自分が 「 被害者にも、加害者にもならない 」 よう、慣れていない御仁は、せいぜい警察に通報する程度に留めておかれたほうがよい。

私のベッドから手が届く位置には、木製のバットを常に置いてあり、不法に侵入する輩が現われたら、死なない程度に 「 おしおき 」 する所存だ。

普段は間延びした温厚な性格だが、招待状のない来客者には 「 ツボ 」 を刺激され、いつでも 「 キルゴア化 」 するので要注意。






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2007年09月04日(火) 朝青龍 の正しい処し方



「 私の成功のもとはこれだ。

  決して弁解したり、弁解を受け入れたりしなかったこと 」

             フローレンス・ナイチンゲール ( イギリスの看護婦 )

I contribute my success to this : I never gave or took an excuse.

                             Florence Nightingale



これは、部下を管理する上で極めて重要な 「 定石 」 といえるだろう。

事情を聴いてやるのはよいが、弁解そのものを受け入れてはならない。


アメリカでは、生徒が宿題をやってこなかったときの言い訳として、古典的だが、いまだによく使われている言い回しがある。

それは、「 The dog ate my homework. ( 犬が宿題を食べてしまった ) 」 というもので、粋な教師は嘘と知りつつ、生徒の 「 演技力 」 を審査する。

フィリピンの イメルダ・マルコス 大統領夫人は、マラカニアン宮殿に政変で追い詰められ、自分の靴が3000足以上もあるという贅沢が露呈した。

彼女は、「 Everybody kept their shoes there. The maids … everybody. ( 皆がそこに靴を置いていたのです。メイドやら…皆が ) 」 と弁解した。

そんな言い訳が認められるはずもないが、あまりの大嘘に、クーデター軍を率いた隊長も、これには笑ってしまったという逸話が残っている。


勤め人をしていた頃の話だが、私が聞いた言い訳の中で、最高に 「 傑作 」 だったのは、始業に遅刻してきた女子社員の放った一言である。

彼女は定時に起床し、普段のように支度を整えたのだが、いざ出発しようとしたら、玄関に 「 落武者の霊 」 が立ち、行く手を阻んだという。

ここで、先入観を持ってはいけないのかもしれないが、日頃から 「 隙あらば上司を笑わせてやろう 」 と腐心する女性で、しかも 「 半笑い 」 である。

それは仕方ないなと許す フリ をし、「 除霊 」 と称して相応の罰を加えたうえで、二度と同じ手を使わぬように、釘をさしておいた。

この程度の言い訳なら可愛げもあるが、仮病を使う人や、自らのミスを叱責され窮地に立つと 「 本当に病気になる人 」 は、ちょっと始末におえない。


過去においても、横綱 朝青龍 には不謹慎な言動が目立ち、2003年には、反則負けとなった取組み相手 朝鷲山 の車のドアミラーを破壊している。

その3日後、同じく 朝鷲山 と支度部屋で小競り合いを起こし、同年末は、師匠に無断でモンゴルへ帰国し、先代 高砂親方 の葬儀を欠席した。

昨年夏には、右肘を痛めて途中休場しつつ、7日目にモンゴル巡業実現のため支度部屋で署名活動を行い、北の湖理事長 から厳重注意を受けた。

今年の春場所では、稀勢の里 を投げた後にひざを押し当て、夏場所では、安美錦 に負けた腹いせに花道で座布団をけ飛ばし、実にマナーも悪い。 

最近、怪我を理由としてモンゴルに帰り、サッカーに興じていたことが発覚し、厳しい謹慎処分を受けた背景には、このような経緯もあるのだ。


近年、どうも巷には 「 精神病という免罪符 」 が罷り通っているようで、当然の如く罰を受けたにもかかわらず、朝青龍 に同情的な意見も多い。

処分を受けた当初は、大半が 「 横綱らしからぬ行為 」 として裁定を支持したが、精神科医の診断が下された途端に、妙な擁護論が浮上してきた。

病人に憐憫を示すこと自体は問題ないが、真面目に闘病する人たちがいる一方で、不謹慎な輩を免罪することは、かえって人権擁護に支障がある。

つまり、病気を口実に我侭を通す不心得者を許してしまうことで、同じ病気と真摯に向き合い闘病する人たちまでが、偏見を持たれてしまうのだ。

朝青龍 の 「 病状 」 と、彼の起こした 「 不祥事 」 とは、切り離して対応を講じるべきであり、病気だから何でも許されるわけではない。


うつ病をはじめとする精神病の人々を数多く知っているが、健常者に悪人と善人がいるように、病人にも 「 良い病人 」 と 「 悪い病人 」 がいる。

中でも、最も 「 うっとおしい 」 のは、精神病扱いすると 「 私は正常だ 」 と激昂し、都合が悪くなると 「 病人だから仕方ない 」 と開き直る人だ。

正当な主張と、言い訳、弁解との違いは、普遍的でない 「 二面性 」 の有無や、状況によって使い分けられる論旨の食い違いに現われることが多い。

朝青龍 のケースでいうと、もし病気が事実ならば、謹慎期間とは関係なく、医師から 「 完治 」 を認められるまで、土俵に復帰させるべきでない。

仮病の場合も、病気を口実に責任から逃避することが、最も卑怯で許されざる行為であることを、そうやって徹底的に知らしめることが望ましい。






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2007年09月03日(月) 山口県光市 母子殺害事件弁護団の品格



「 悪人を容赦する者は、善人を害する者だ 」

      ルキウス・アンナエウス・セネカ ( 古代ローマの政治家、詩人 )

He who forbears to the bad, harms the good.

                         Lucius Annaeus Seneca



なぜ、「 悪いことをすれば、罰が与えられる 」 という仕組みがあるのか。

なぜ、「 悪いことをした人間にも、弁護人がつく 」 制度があるのか。


右か、左か、判断に迷ってしまった時は、「 右に行けば、どうなるのか 」、「 左に行けば、どうなるのか 」、両方を比較検討することが望ましい。

上に挙げた 「 悪いことをすれば、罰が与えられる 」 ことの是非は、「 悪いことをしても、罰が与えられない 」 ことの是非と比較してみればよい。

もし、「 悪いことをしても、罰が与えられない 」 ような世の中なら、いつ悪人に襲われるか、金品を奪われるか、レイプされるか、不安で仕方がない。

誰にも侵入されぬ自宅に安らぎを求め、すれ違う他人に警戒心を持たなくてもすむ 「 秩序ある社会 」 の実現は、大半の人が望むところだろう。

多数決をとるまでもなく、「 他人に悪事を働きたい欲求 」 を 「 罰という名の抑止力 」 で抑えて我慢することに、ほぼ全員が同意するはずである。


では、「 悪いことをした人間には、弁護人をつけない 」 ことにした場合は、一体、どのような弊害が生まれるのだろうか。

まず、本当は無実なのに誤って逮捕された者の 「 冤罪 」 を証明する機能がなくなり、取り返しのつかない失策を招く怖れがある。

次に、犯行そのものは事実だが、そこへ至る経緯に 「 情状酌量 」 の余地があった場合、それを被告に代わって代弁してくれる者がいなくなる。

それに、裁判で被告を訴追する 「 検事 」、量刑を決める 「 判事 」 が プロ なのに対し、弁護する側が素人では、どう考えても アンフェア である。

このような諸事情を鑑みたなら、いくら悪人 ( あるいは悪人とおぼしき者 ) でも、プロ の 「 弁護士 」 をつける権利を与えたほうが望ましいだろう。


ただし、法曹界に携わる者は、その立場が 「 検事 」 であろうと 「 判事 」 であろうと 「 弁護士 」 であろうと、目的は同じでなければならない。

それは、被告に必要以上の罰を与えることでもなければ、犯罪を隠蔽することでもなく、「 真理を追究し、正義を実行して、法秩序を守る 」 ことだ。

検事は、ありもしない証拠を並べて有罪に導いてはならないし、弁護人は、非常識な屁理屈や、嘘、方便を駆使して無罪に導いてはならない。

裁判の様子は傍聴され、大きな事件の場合はすぐに大衆へ知らされるが、その内容は世論に煽動されても、著しく共感を失してもならない。

これらの条件に反する場合は、たとえその立場が 「 検事 」 でも 「 判事 」 でも 「 弁護士 」 でも、正義の履行者とはいえないだろう。


山口県光市の母子殺害事件弁護団への 「 懲戒処分 」 を、大阪弁護士会の 橋下 弁護士 が呼びかけたことに対し、弁護団は損害賠償を提訴した。

お互いに言い分はあるだろうが、争点が 「 業務妨害による損害賠償 」 というところに、同弁護団の姿勢と資質を疑ってしまう。

訴追内容が、たとえば 「 公正な審理を妨げるじゃないか 」 などの、弁護士としての責務遂行に関わる苦情ならともかく、己の利害が争点とは驚く。

この裁判では、同弁護団による支離滅裂な 「 荒唐無稽な弁論 」 に憤りを感じた人も多いはずだが、それも、正義のためなら理解もできよう。

しかしながら、このように 「 己の利害目的が最優先 」 という魂胆が明るみに出た以上、改めて、彼らの資質こそ法廷で問われるべきだと思う。


もしも、弁護士という職業が 「 悪人を容赦すること 」 ならば、冒頭の句が示す通り、それは 「 善人を害する者 」 であり、法秩序の敵でしかない。

特に少年犯罪の場合、異常な再犯率の高さをみてもわかるように、常軌を逸した 「 行き過ぎた弁護 」 は、被告人にとっても災いを及ぼしている。

どのような立場であっても、法曹界に携わる者の倫理観として、それぞれの立場で 「 秩序ある社会の実現 」 を目指さなければ、その未来は暗い。

この際だから、橋下 弁護士 と弁護団が法廷で対峙し、その決着を国民が見届けることは良い機会かもしれない。

たぶん、日弁連などが 「 組織ぐるみで潰しにくる 」 のではないかと思うが、それはそれで、矛盾や問題点が浮き彫りになる良い機会でもある。






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2007年09月02日(日) 世界陸上 大阪大会 が閉幕



「 メダルの色は銅だったけど、“ よく頑張ったね ” と

  自分で自分を誉めてあげたい 」

           有森 裕子 ( アトランタ五輪 女子マラソン 銅メダリスト )

The color of the medal was bronze, but I want to praise myself
by saying “ You did well. ”

                                   Yuko Arimori



9日間の熱い 「 長居の夏 」 が終わり、なんとなく夜風も涼しげに感じる。

メダルは 「 銅 1個 」 だったけど、日本人選手団の活躍を評価したい。


この数日、「 世界陸上 」 の話しか書いていないが、与野党による互いの 「 アラ探し 」 や、「 泥試合 」 など、まるで、どうでもいい気分だった。

スポーツには、人間にとって最も大切なこと、たとえば、身体や精神を鍛えること、フェアに競い合うこと、仲間と助け合うことなどが凝縮されている。

今大会で引退する 朝原 選手 は、「 陸上をやってきて良かった 」 と語ったが、私も、陸上競技を経験し、その気持ちが理解できることを喜びに思う。

メダルには届かなかったが、「 男子 4×100m リレー 」 の日本記録が、いかに偉大で、決勝がトップと僅差だったことも、経験者なら理解できる。

大会を振り返ると、たしかに不甲斐ない部分や、運営上の問題点もあったが、総体的には興奮と感動の多い、有意義な大会だったように思う。


同じ銅メダルでも、東京五輪の 円谷 選手 は試合後に自殺し、アトランタの 有森 選手 は、冒頭の名言が示す通り、その喜びを感動的に表現した。

日本では、スポーツを禁欲的に、悲壮に、まるで修行の場として考える傾向が根強く、特に現役の間は、なかなか 「 楽しむ 」 といった余裕がない。

期待されて出場し、好結果を出すと、より大きな期待が寄せられて、さらに高い目標に立ち向かわねばならないのが、現役選手の宿命である。

それを重責や苦難と感じるか、栄誉や喜びと感じるかは受け取り方の違いだが、悔いなく精一杯に戦った者に対し、良識ある人間は批難などしない。

世界を相手に、熱い戦いをみせた彼らが、北京五輪や、次回の世界陸上ベルリン大会に向けて、また、気持ちを新たに、発進してくれることを願う。






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2007年09月01日(土) 世界への雪辱



「 俺の望みはただ一つ。 最終ラウンドまで戦いたい 」

                               映画 『 ロッキー 』 より

All I wanna do is go the distance.

                                 From “ Rocky ”



興行的に成功した映画は、続編を制作されることが多い。

ただ、その大半は、第一作目を超える評価が得られない。


冒頭に台詞を紹介した 『 ロッキー ( 1976年 米 ) 』 も、30年間もの歳月を経て第六作まで制作されたが、一作目を上回る作品は見当たらない。

この映画は、社会の底辺でさまよう無名のボクサーが、不可能に近い夢に挑戦し、名声を得る 「 アメリカン・ドリーム 」 が主軸に置かれている。

いかにもアメリカ人の好みそうな題材だが、過去に大量生産された単純な サクセス・ストーリー と一線を画しているのは、主人公の描かれ方だ。

すさんだ生活を送る主人公が、困難に立ち向かうことで、徐々に 「 人間としての誇りを取り戻していく 」 という内面的な成長の記録が、そこにはある。

周囲から 「 勝ち目がない 」 と言われた ロッキー だが、たとえ勝てなくとも最終ラウンドまで戦うことで、自分の誇りを示そうとする姿が感動的だった。


スポーツの世界は結果が求められ、勝つこと、たとえば陸上競技の大舞台では 「 メダル の獲得 」 が責務となり、果たせねば歴史に名を留めない。

それでも、せめて 「 ファイナリスト 」 に残り、決勝に出場したいと願う気持ちは、前述の ロッキー と同じで 「 勝ち負け 」 より 「 誇り 」 の問題である。

世界陸上で不振の続く日本勢だが、「 男子 4×100m リレー 予選 」 は、日本新記録となる好タイムで快走し、見事、明日の決勝に駒を進めた。

しかも、ゴールの瞬間に会場中が沸いた予選タイムは、ジャマイカ、アメリカに次ぐ全体の3位で、十分にメダルも期待できる位置にある。

今夜は、「 男子 400m 」、「 男子 110m ハードル 」 の二種目で、世界新記録の期待が外れただけに、この リレー が最も印象的な試合となった。


同種目では、アテネ五輪でも日本は決勝に進み 4位 に入賞しており、ある程度の期待はしていたが、今夜は、想像を上回る力走を見せてくれた。

各選手らの胸中には、「 日本勢が、なかなかメダルに届かない苛立ち 」 も重圧として迫っていたはずだが、見事に雪辱を晴らす形となった。

好走の要因は精神力だけでなく、各選手の資質と、科学的なトレーニングの成果が大きいが、今夜の観客は彼らに 「 意気 」 を感じたようだ。

スポーツは勝つことを目的とするが、負けてこそ、辛い失敗と苦難を経験してこそ、それを乗り越えて、誇りと意地を示そうとする姿に感動がある。

周囲の見知らぬ観客とも歓喜を分かち合い、久々に大感動の夜だったが、なぜか、『 ロッキー 』 のテーマ曲が頭をよぎる、そんな気分だった。






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