Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年08月16日(火) 現実に目を向ける重要性



「 地上におけるあなたの使命が終わったかどうか、テストをしてみよう。

  もしもあなたがまだ生きているのであれば、それは終わっていない 」

                            リチャード・バック ( 作家 )

Here is a test to find whether your mission on earth is finished:
if you are alive, it isn't.

                                RICHARD BACH



誰でも一度は、「 なぜ、自分はこの世に生まれてきたのだろう 」 と考える。

そんな経験が一度もないという人は、ちょっと変わった存在だと思う。


リチャード・バックは、ベストセラーになった小説 『 かもめのジョナサン 』 を書いた作家として、日本でも名を知られた人物である。

あの本に登場するジョナサンは、飛ぶことが好きで好きでしょうがないカモメであるが、あれはリチャード・バックの化身だという説が強い。

実際、彼の人生におけるテーマは 「 飛ぶこと 」 であり、もう一つの重要なテーマは 「 真理の追究 」 なのだそうだ。

彼の作品群を読めば、「 この世に生を受けた者は、なんらかの “ 使命 ” を与えられているのではないか 」 という概念が、随所に表現されている。

生命の威厳とは、ただ生かされているだけではなくて、何らかの使命を全うするために目的をもって前進することにあるという考え方だ。


終戦から60年目の節目にあたり、メディアのみならず、たとえば私のようにWEB日記を書く素人ライターまでが、いろんな意見を述べている。

その中で気になったのは 「 犬死に 」 という言葉で、死を覚悟して玉砕した兵士や、その他、戦争の犠牲になった人々に向けて使われている。

私には、戦後60年が経過したとはいえども、命がけで日本のために戦った御霊に対して、そのような言葉を投げかけられる神経が理解できない。

私はあまり霊的な話だとか宗教じみた話を信じないタイプだが、もし彼らの霊なり魂なりが彷徨っていて、そんな話を聞いたらどう思うのだろう。

祖国や、愛する人々を守ろうとして我が身を捧げた兵士に、「 あなた方の死は、まったく無意味でしたね 」 などと、口走ってよいものだろうか。


私に言わせると、年間3万人以上もいるという 「 自殺者 」 こそが犬死にであり、何の使命も目的も達っさない 「 人間のクズ 」 である。

実際の 「 犬 」 を飼った経験からいうと、彼らは懸命に己の生涯を生き抜こうとするものであり、自殺者、自殺企図者のように愚かな卑怯者ではない。

だから本来は 「 犬死に 」 などという言葉を使うことすら不本意であり、そんな連中は明らかに 「 犬以下の存在 」 だと言ってよいだろう。

ちなみに、自殺者、自殺企図者と左翼思想家は、戦争に関わる話題について語るとき、不思議と同じような論調を執ることが多い。

彼らには、似通った 「 共通点 」 が存在するのである。


彼らの共通点とは、「 過去にこだわり、現実に目を向けない 」 姿勢であり、その結果、思想には関係なく、同じような論調になるのだ。

自殺者 ( は、死んでいるので書かないが )、自殺企図者は、現実の厳しさに立ち向かう勇気がないので、嫌な現実から目を背ける傾向にある。

左翼思想家は、過去における日本の過失や責任ばかりを批判し、とにかく日本は悪いことをしたのだから反省するべきだとしか言わない。

その結果、両者ともに、過去の戦争における悲惨な映像や写真、文献ばかりに焦点をあて、二度と繰り返さないようにとばかりの主張を繰り返す。

すぐ間近に安全保障上の危機が迫っていたとしても、その事実は 「 過去に対する追求と批判 」 を行う上で都合が悪いため、常に無視され続ける。


もちろん、過去に学ぶ姿勢は必要だし、同じ誤りを繰り返さない努力をすることも重要である。

ただし、大事なことは 「 いま、生きている自分たちの世界 」 や、「 未来 」 であって、過去そのものではない。

過去の戦争における悲惨な結果を感傷的に眺めるだけではなくて、現在、我々が置かれている世界の仕組みや構造にも、目を向けるべきである。

戦後60年を、単に 「 過去を振り返るだけの機会 」 ではなく、「 これからの日本を考える機会 」 にしたいならば、現実から目を背けては成し得ない。

ちゃんと現実を見据えて、「 それでも憲法を改正するべきでない 」 と説得できるような左翼思想家には、残念ながらお目にかかったことがない。






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2005年08月15日(月) 終戦60年に思うこと



「 この世界を無垢な目で見る人はいない。 一連のしっかりとした慣習・

  組織・考え方によって編集された目で、眺めるのである 」

                        ルース・ベネディクト ( 人類学者 )

No man ever looks at the world with pristine eyes. He sees it edited by
a definite set of customs and institutions and ways of thinking.

                               RUTH BENEDICT



60年前の8月15日正午、玉音放送が流れ、戦争は終わった。

それ以降、日本は戦争に加担せず、一切の武力行使も行われていない。


60年の歳月が過ぎても、中国、韓国、北朝鮮は、日本を許していない。

過去を 「 反省する 」 のと、過去に 「 こだわる 」 ことは同義語でなく、私は個人的に靖国参拝や種々の問題について、隣国の干渉を疎ましく感じる。

補償問題やら、憲法九条やら、謝罪がどうという以上に、60年間における 「 武力行使が無かった事実 」 こそ、明確に日本の反省を物語っている。

彼らの望み通り、プライドを捨て、愛国心を捨て、汚名と屈辱に耐えながら、理不尽な干渉や謀略に晒されながらも、日本人は60年を生きてきた。

それでもなお矛先を向けたい理由は、日本を完全な支配下に置きたいか、あるいは 「 挑発して牙をむかせたい 」 か、いづれかしか考えられない。


毎日新聞がアンケートを行った結果、「 間違った戦争だった 」 と回答した方が全体の43%いたという。

戦争に 「 間違った戦争 」 とか、あるいは 「 正しい戦争 」 という評価があるというのも解せない話で、そう答えた人の真意がよくわからない。

私自身は、「 戦争反対 」 というよりも、「 平和賛成 」 というスタンスで、戦う目的が何だったのかということを、何よりも優先して考えたいと思う。

もちろん、今以上の贅沢をするために他国を侵略したり、犠牲を強いることを望まないが、「 大切だと思うもの 」 を守るためには戦争も辞さない。

愛するものを傷つけたり、奪い去ろうとする 「 何者か 」 に対して、いつでも命懸けで対抗する準備と、揺るがない心構えが出来ているつもりだ。


偏見と言われるかもしれないが、先般の 「 郵政民営化に反対した議員 」 の顔ぶれをみると、あまり良い印象の人はいない。

それと同じように、世間の 「 闇雲に “ 戦争反対 ” を唱える人々 」 の表情をみると、あまり賢そうな人や、バランスの良さそうな人は見当たらない。

まっとうに生きて、幸せに暮らしているなら、守るべき命や、大切な何かがあって当然で、それを侵されて平気でいられるはずがない。

命をかけて、祖国や、自分や家族の命、隣人を守る気概もなく、何があっても “ 戦争反対 ” なのだという姿勢は、単なる自暴自棄にしかみえない。

つまり、闇雲に無条件で “ 戦争反対 ” を唱える人たちは、守るべきものを持たない 「 不幸な人々 」 でしかなく、それは彼らの表情に表れている。


最近、中国が 「 海軍力 」 を増強している。

シンガポールで行われたアジア安全保障会議においても、ラムズフェルド米国防長官から、その問題について指摘があった。

何が問題かと言うと、その 「 不透明性 」 についてである。

日本やアメリカの軍事力について問題視する人も多いが、少なくとも日米の軍事力は世界に公表されており、規模や威力などの 「 透明性 」 が高い。

その点、中国や、あるいは北朝鮮などの国は、どのような武装をしているのか明らかにされておらず、すべては闇の中である。


手の内を見せない相手が 「 敵 」 に回った場合に、その脅威がどれほどのものであるのかは、まったく見当もつかない。

アメリカの太平洋艦隊は、「 いかなる状況にも対応できるシナリオ 」 を準備しているというが、はたして日本の自衛隊はどうなのか。

本当に現在の平和を守りたいのならば、自衛隊のイラク撤退を要求したり、在日米軍の追放を糾弾する前に、隣国の武装状況を知るべきであろう。

日本が戦争を放棄しても、戦争が日本を放棄するとはかぎらない。

周囲の国々がどのような武装、政策、対日感情を持っているかも鑑みず、闇雲に平和憲法など唱えても、現実的な安寧からは程遠いのである。






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2005年08月14日(日) 静寂と興奮の宵



「 恋は盲目ではない。 愛のないことが盲目なのだ 」

                        グレンウェイ・ウェスコット ( 作家 )

It is not love, but Lack of love, which is blind.

                            GLENWAY WESCOTT



皆さんは、「 エレーナ・イシンバエワ 」 という女性をご存知だろうか。

世界で唯一、女子で5mを跳躍した棒高跳びの選手である。


陸上、水泳の世界大会や、プロ野球では首位を走る阪神を猛追する中日、高校野球、サッカーなど、お盆休みはスポーツ中継が盛況である。

特に、中学から大学まで続けた陸上競技は、日本人選手の活躍のみにかぎらず、各選手の個人記録達成が気になるので、つい見入ってしまう。

中でも、イシンバエワの世界記録達成は、予測していたとはいえ衝撃的で、テレビを観ているこちらまで、思わずガッツポーズをしてしまった。

隣に座る彼女も、最初は 「 なんのこっちゃわからん 」 という顔をしていたが、記録達成の瞬間には一緒になって小躍りしていた。

選手の真剣な表情や、会場のざわめき、中継アナウンサーの興奮などが、競技に関心の薄い人まで巻き込むのも、スポーツの面白いところである。


酒、タバコ、食料などを買い込んで、今年のお盆休みは自分の部屋で彼女と、ひっそり 「 引きこもり 」 で過ごしている。

夏の終わりには小旅行を計画しているのだが、帰省や家族旅行で込み合うこの時期は、のんびりとグータラしているのも良いだろう。

来年の今ごろは、あるいは彼女の実家がある関東の地方に行かなければならないかもしれず、こんなにゆっくりできるのは最後かもしれない。

自分としては、ほどよくクーラーのきいた部屋で、スポーツ中継でも観ながらグラスを傾け、酩酊しては眠り、優しいキスで目覚めるのが一番なのだが。

仕事も、バカンスも、もう少し先の計画も忘れて、とりあえずはこのひと時を大切に味わいたいと願う静かな夏の宵が、今夜も過ぎていこうとしている。






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2005年08月11日(木) 頭でっかちの若者たち



「 人生の大きな目的は、知識を得ることではなく、行動できることだ 」

               トーマス・H・ハクスリー ( イギリスの動物学者 )

The great end of life is not knowledge but action.

                            THOMAS.H.HUXLEY



100の使えない知識を持っているよりも、一つでも使えるほうがよい。

そんな当たり前のことさえ、わからない人がいる。


若い世代の中途退職者を対象に、再就職のお世話をしている。

最近、特に多いのが 「 資格マニア 」 などと呼ばれる人たちで、暇をみては仕事そっちのけで数々の資格を取得することに奔走する面々だ。

たしかに、職種によっては資格保持を採用の条件に示している募集案件もあるので、「 持っているほうが有利 」 なことは事実である。

しかし、たとえば 「 簿記一級 」 の資格は持っているが実際に経理で働いたことが無い人より、二級でも実務経験のある人のほうが採用されやすい。

机上の知識では得られない何かが、そこにあるからだろう。


ベテランの経理マンに会う機会があり、そのあたりの事情について尋ねると、とてもわかりやすい答が返ってきた。

いくら資格試験が超難問でも、そこには必ず明確な 「 問題に対する答 」 が用意されており、勉強さえすれば正解に辿り着くように出来ている。

ところが実際の仕事現場では、伝票が紛失したり、思いがけないトラブルがあったりして、手持ちのデータで 「 正解 」 が導き出せない場合が多い。

そんな場面で、不慣れな者が処理にあたると、何もできずにうろたえたり、無理につじつまを合わせようとして、重大なミスを犯すことも珍しくない。

新卒者の場合を除き、企業が中途採用者の選考基準として 「 有資格者 」 よりも 「 有経験者 」 を求めるのは、そんな理由が大きいのである。


それに、仕事を通じて得られるものは、報酬、職務能力、知識だけでなく、やはり 「 人間的な成長 」 のような部分も多く含まれているものだ。

学校に通っても成長は望めるが、学生時代の仲間というのは、自分の気に入った相手とだけ付き合うなど、自己都合で相手を選べることが多い。

社会人の場合はそうもいかず、苦手な上司、同僚、得意先とも連携しなければならない場面があり、こちらの都合で相手など選べないものだ。

そういう経験を重ねていって、折衝力や協調性などの対人能力、他人との共感、理解などの 「 人間力 」 みたいなものが養われてゆく。

どんな資格や特技を持っていても、人間力に乏しい人は円滑な人間関係を構築する作業や、成果の挙がる仕事の推進が難しいものである。


実務経験の裏付けがない資格や、机上の知識だけが膨れ上がり、人間力を持ち合わせていない人は、「 プライドだけは高い 」 状態に陥りやすい。

その姿勢が、さらに再就職を困難にしていく。

スキルは低いが 「 自分の短所、欠点を素直に認める人 」 が早く再就職を決めていく一方で、片や成績優秀な面々が取り残されたりしている。

彼らの一部は、「 再就職がなかなか決まらないのは、まだスキルが不十分だからだ 」 と思い込み、さらに上の資格を得ようと勉強に励む。

その結果、ますます未就労期間のブランクが長引き、自分が企業にとって 「 使えない理由 」 に気付かぬまま、いたづらに時間だけが浪費される。


彼らの多くは精神的に 「 うつ状態 」 であったり、実際に 「 うつ病 」 や、「 自律神経失調症 」 という病名に認定され、通院していたりもする。

かろうじて再就職を果たしても、そのような病魔に冒され、会社を辞めたり、あるいは閉職に追い込まれる人も多い。

彼らからすれば、「 自分は “ うつ病 ” だから閉職に追いやられた 」 などと思っているが、実際は少し状況が違う。

真相は、「 “ うつ病 ” になったからではなく、“ うつ病 ” になるような人だから閉職に追いやるしかなかった 」 のである。

働くこと自体に価値を感じ、人間力を高め、「 昔とった杵柄 」 のような知識や資格に頼らず、行動して成果を挙げることが解決の糸口となる。






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2005年08月10日(水) 勝つより大事なこと



「 負けることを恐れてはいけない。

  正当な理由で負けたときほど、勝利に近いことはないのだから 」

     ヘンリー・W・ビーチャー ( アメリカの会衆派教会牧師、文筆家 )

Do not be afraid of defeat.
You are never so near to victory when defeared in a good cause.

                            HENRY.W.BEECHER



とは言っても、あまり勝負事に負けたくはないものだ。

ただし、たとえ勝ち目が薄くても、勝負に出なければならない場合もある。


郵政民営化否決のシナリオは、投票のはるか以前に出来上がっていた。

賛成に回れば大票田と利権を失う連中が、制度の撤廃を望むわけがないし、政権の奪取を目論む野党が、小泉政権に手を貸すはずもない。

反対派に報復する措置についても、やはりシナリオは完成していた。

造反者を議会から追放してもなお、自民党が勝つならそれでいいし、連中が後生大事に抱えてきた “ 腐れ縁 ” を、新政権にくれてやってもいい。

とにかく、「 勝つ 」 ことよりも 「 放り出す 」 ことが重要だったのだ。


造反議員は公認せず、同じ選挙区に自公から対立候補を擁立させるので、自民党支持の票は二分され、どちらの候補者も不利な展開になる。

そこへ民主党などの候補者が出馬すれば、反自民の立場をとる有権者が票を投じる可能性は高く、全国的にかなりの議席数を伸ばせるだろう。

第二政党の民主党には、あわよくば政権交代という可能性もあるわけで、岡田代表は今ごろ、ソワソワと所信表明演説を考えているかもしれない。

彼が小泉首相より力量があるとは到底考え難いが、国民が公正な選挙で決めた結果ならば、どのような形になっても従うまでである。

準備不足、人材不足の民主党に、マトモな政局運営など行えるはずもなく、どのみち短命になることは明白なので、まぁ、どっちでもよい話だ。


政治家のみならず、ことあるごとに屁理屈を並べ立て、“ 小泉憎し ” という感情論を展開している人は、この エンピツ日記 にも居る。

そういう人の日記をじっくり読むと、自分自身の思い通りにならない現実を 「 国が悪い 」、「 首相が悪い 」 と、他人のせいにしているだけだと解る。

選挙の結果、“ 小泉退陣 ” てなことになれば、まるで自分が追い出したかのように喜ぶだろうが、浮かれ気分も長くは続かないだろう。

自分で幸せになる努力もせず、成り行きに期待しているだけの怠け者は、新たに現れる別の権力者の悪口を、また探すしかない。

挙句の果てには、「 これじゃ小泉のほうが良かったよ 」 などという愚痴まで出るのではないかと、今から予想している。


戦後の日本を指して、よく 「 戦争に負けて、外交に勝った 」 とか、経済に勝ったなどという表現をされることが多い。

大事なことは、たとえば、国民一人一人が 「 豊かで健康的な生活をする 」 とか、ハッピーになることにある。

自分自身がハッピーじゃないのに、政治家がどうしたとか、政党の勢力図がどうなったとか、他人の勝ち負けに一喜一憂している場合ではない。

そういう “ うざい部分 ” が嫌で、ジャンルを 「 時事/社会 」 から 「 仕事 」 に移して、改めて日記を書くようになった。

小泉さんの努力が実を結ばないなら気の毒だが、それはそれで、私も彼とは違う舞台で努力しており、いまのところハッピーな毎日を過ごしている。






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2005年08月08日(月) 郵政民営化は是か非か


「 郵便物なんて月に一回あければいいのさ。

  必要かどうかは別として 」

                          ボブ・コンスィディーン ( 作家 )

I believe in opening mail once a mouth, whether it needs it or not.

                               BOB CONSIDINE



自民党内の不協和音が高まり、とても一枚岩と呼べる状況ではない。

郵政民営化関連法案は、参議院で否決される見通しが強くなってきた。


民意の中にも、「 主旨が明確でない 」 とか、「 なぜ、性急に可決すべきかわからない 」 などという “ 反対派を後押しする意見 ” が多い。

たしかに、明らかに説明不足の感があるし、他に優先して審議すべき問題が山積みのようにも思うが、それがすなわち 「 反対 」 には値しない。

こんな法案はどうでもいいという人もいるが、もし本当にどうでもいいなら、どうしてさっさと可決してしまわないのか。

むしろ、「 賛成 」 よりも 「 反対 」 の立場をとっている側に思惑や魂胆などがあり、それは極めて個人的な問題であるような気がしてならない。

だいたい、こんなことを書くと偏見だと思われるかもしれないが、反対派の顔ぶれを見るかぎり、けして賛成派よりも 「 善人 」 のようには思えない。


小泉首相の能力や資質について、「 ただ国民に人気があるだけ 」 といった評価を下し、彼の提唱する郵政民営化問題を軽視する人も多い。

しかしながら、「 国民に人気がある ⇔ 国民に支持されている 」 という事実は、一国の宰相として最も重要な論点といえるはずだ。

また、自民党議員の多くが、「 反対派は処罰される 」 だとか 「 解散を盾にとり、脅しをかけられている 」 という意見もあるが、それも違うように思う。

批判的な意見ばかりが目立つけれど、なんだかんだ言っても、歴代の首相の中では党内でも人気があり、それなりの求心力を持っている。

もし、小泉氏以外の代議士が首相として同じ法案を提起した場合、賛成に票を投じる者はもっと少なかっただろう。


大事なことは、この一見どうでもいいような法案を、何がなんでも通過させようとする 「 理由 」 にあり、そこに着目すべきである。

首相自らも郵政大臣を務めた経歴があり、その世界に潜む 「 闇 」 の部分を熟知したうえで、ドラスチックな改革を推し進めようとしている。

それを、「 いや、今まで通りでいいじゃないか 」 と言う連中の真意を、はたして国民は受け入れてよいものだろうか。

また、郵政民営化はけして 「 郵便局の問題 」 だけではなく、官庁の支配する利権制度を排除して浄化し、民間の活力を起用する狙いがある。

そこらを鑑みると、まったく 「 反対する理由 」 が思い浮かばないのだが、はたしてどのような結論が下されるのか、とても興味深い。






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2005年08月07日(日) 死にたい狂人と、殺したい狂人



「 私は生きることが大好きだが、死は怖れない。

  ただ、できるだけ遅く死にたいだけだ 」

                           ジョルジュ・シムノン ( 作家 )

I adore life but I don't fear death. I jusr prefer to die as late as possible.

                            GEORGES SIMENON



ごく普通の感覚だと思うが、そうじゃないと言う人もいる。

どうやら、すべての人間が 「 生きることが大好き 」 とはかぎらないようだ。


インターネットの自殺サイトを通じて誘い出した男女を、次々と殺害する輩が現れ、三面記事を賑わせている。

当然、それはれっきとした 「 殺人 」 であり、凶悪犯罪である。

犯行に及んだ動機は、窒息させ、もがき苦しむ様子を見たいという変質的な性癖によるもので、常人に理解できるものではない。

しかしながら、このような変な嗜好を抱く人間が、ごく少数派だとはいっても日本に 「 この人間だけ 」 とも思えず、潜在的な共感者もいるだろう。

模倣犯の出現を抑えるよう警戒する対策が、今後は必要になるはずだ。


この犯人に情状酌量の余地はないが、「 生きようとしていた者 」 を無慈悲に殺した事犯とは、同一の基準で裁かれない。

事件における被害者は 「 死ぬつもりだった 」 と推測されるので、この犯人が手を下さなくとも、自らの手で命を絶っていたとも考えられる。

だからといって 「 背中を押してあげた 」 などという弁解が通じるはずもないし、法的にも倫理的にも、そんな権限は誰にも与えられていない。

ただ、「 生きようとしていた者 」 を殺した例とは違って、遺族が犯人を恨んだり、叱責したりするのは筋が違う気もする。

自殺を図る人間も、それを殺害する人間も、どちらも犯罪者であり、どちらも異常者なのである。


もしこの事件で、犯人が被害者を殺害した後に自殺していたら、多くの人間は加害者を 「 犯罪者扱い 」 しなかっただろう。

日本は特に 「 死んだ人間を責めない 」 という暗黙のルールみたいなものがあって、自殺した人間に肝要な風習がある。

だが、よく考えてもらいたい。

この犯人は、「 自殺しなかったことが罪 」 なのか、あるいは 「 人の生命を奪ったことが罪 」 なのか。

そう考えると、自殺そのものが罪であり、それを企てた者、実行した者や、手を貸した者は、すべて 「 犯罪者 」 として処理されるべきなのだ。


日本の敗戦が濃厚になった頃、「 神風特攻隊 」 や 「 人間魚雷 」 といった体当たり攻撃が盛んに行われた。

欧米人の中には、これを 「 自殺 」 と同列に考える人が多い。

多くの日本人は、心情的に 「 国を救うため、自らの生命を犠牲にした 」 という心意気を理解しているので、自殺とはまるで違うことを知っている。

単に、「 生きるのが嫌になった 」 という自堕落な人間とは正反対の位置にあることを、マトモな人間ならすぐに理解できるはずだ。

そこまでして守ろうとした国の人間が、数十年後には年間3万人以上も 「 生きるのが嫌 」 で自殺しようとは、誰も想像だにできなかっただろう。


この犯人を糾弾するよりも、「 自殺サイト 」 なるものを取り締まることこそが先決で、より重要な問題解決手段である。

他の病気と同じく、精神を病んだ人間は 「 治療 」 に専念するべきであり、間違っても 「 ネットの世界で群れる 」 べきではない。

悩み事を前向きに解決しようとするならともかく、自殺を肯定し、仲間を集おうなどとするサイトを、放置した社会、行政にも責任がある。

自殺企図者に対する罰則、処分を重く課し、そのような連中を募って組織化した馬鹿者を厳重に取り締まることが、なにより重要だ。

治る見込みのない重病人や、尊厳死という場合を除いて、自ら命を絶つという行為は犯罪であるという認識を、広く世間が深めていかねばなるまい。


犯人の弁によると、自殺志願者を窒息死させようとした際、被害者はもがき苦しみ、助けを求めたのだという。

この事実は、「 死のうとしている者の反応 」 として矛盾を感じる人も多い。

そこにある 「 死にたいはずなのに 」 という矛盾も、自殺者の心理といったものを理解すれば納得できる。

たとえば、「 こんな世の中なら死にたい 」 と嘆いている連中は、逆にいうと 「 こんな世の中じゃなければ生きたい 」 のである。

自分に都合よく、思い通りにならないことが少しでもあると愚痴り、努力することもなく 「 安楽な死 」 を求めるのが、自殺者の実態のすべてだ。






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