Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年06月23日(水) ラスト・ジャパニーズ


不況、テロ、戦争、未来に向けた不安の種は尽きることがない。

中でも、21世紀、日本にとって最大の危惧は 「 少子高齢化 」 である。


いま、何かと話題の中心になっている 「 年金問題 」 も、少子高齢化こそが元凶となっており、それさえなければ、なんのことはないのである。

最近の調査では、合計特殊出生率が 「 1.29 」 になったという。

合計特殊出生率とは、 15歳から49歳までの女子の年齢別出生率を合計したもので、女性一人が一生の間に生むであろう子どもの数に相当する。

すなわち、人口動態の出生の傾向をみるときの主要な指標となっている。

昔よりも年寄りが長生きして、子供が生まれないわけだから、人口構造の高齢化は当然の結果として予測されるが、さらに深刻な問題も含まれる。


それは、「 日本人の絶滅 」 である。

もし、「 1.29 」 の状態が今後も続いていくと仮定すれば、西暦2100年に日本人の人口は計算上、「 約4,000万人規模 」 に減少する。

さらに、年を経るごとに人口は加速度的に減少し、西暦3300年、日本人はたった一人、つまり 「 最後の日本人 」 が残るのみとなる。

これは、外国人との結婚を外した計算方法で、現実に 「 0 」 となる可能性も低いが、ある程度以下になった段階で、国家の存続は困難になる。

ごく少数の日本人が残ったところで、もはやその国を 「 日本 」 と呼ぶのに相応しいかどうかは、疑問である。


現在、議論されている 「 自衛隊を多国籍軍に加える問題 」 とか、「 憲法を改正する問題 」 だとかも、この現実の前では無意味な話である。

右翼も左翼も、「 未来の子供たちのために 」 みたいな主張を繰り返すが、肝心の 「 未来の子供たち 」 がいないのでは、まるで話にならない。

つまりは、右に行こうが、左に進もうが、それは 「 未来の子供たち 」 などではなく、単に、自分たちが生きている間の 「 居心地の問題 」 に過ぎない。

そういった議論も、人口の激減した将来において、せいぜい 「 アメリカの州に加わるか、中国の省に加わるか 」 の選択に影響する程度かもしれない。

こんな事実を知りながら、どうして与野党は 「 クダラナイ目の前の問題 」 に終始した勢力争いに、すべてのエネルギーを尽くしているのだろう。


もちろん、何かの原因で 「 人口の減少が止まる 」 可能性もある。

100年後の日本人が4,000万人になるという予測には驚異を感じるが、今からおよそ100年前、1900年ごろの人口はどうだったか。

その当時、日本人の人口は 「 約4,000万人 」 である。

明治以降、幾多の戦争や経済、文化の発展に乗じて、日本人はその勢力を拡大し、人口を現在の水準まで引き上げたのだ。

だから、一度減りかけた人口が、社会情勢の変化などによって増加に転じる可能性もあるし、必ずしも 「 計算どおりの未来 」 になるとは限らない。


そうならないように ( 日本人を残すように ) するためには、やはり出生率を高める努力をすることと、もう一つ、やるべきことがある。

それは、海外への人口の流出を防ぐという措置だ。

このまま少子高齢化が進むと、当然のことながら、経済的、道徳的に、物心ともに若者が、老人の面倒を看なければならない社会が訪れる。

そうなると、生産性の高い労働力、創造性の高い才能など、優れた逸材が税制面などで有利な海外の土地に、活躍の場を求めていく可能性も高い。

もしも、そういう動きがあれば、人口の衰退は先ほどの計算よりも早くなり、3,300年を待たずして、「 最後の日本人 」 が現れることも考えられる。


国政的には、「 行き過ぎた福祉 」 は禁物だろう。

年寄りを大事にすることは美徳の一つだが、そのために過度の負担を若者にかけることは、人口の流出と、出生率の低下につながりやすい。

厳しい意見となるが、「 力の無い年寄り 」 を養うには限界がある。

多少は福祉を犠牲にしても、力量のある若者が潤う社会を構築しなければ、次世代の日本人は生まれないか、或いは海外に飛び去ってしまう。

社会による保護に頼らず、経済的に自立できる下準備を、年寄りになろうかという人は、事前に準備する必要がある。


また、自らの文化を発展させ、土着性を高める工夫も必要になる。

あるサイトで、若者が 「 国を挙げてトキを保護するのは非効率だ 」 という意見を述べていたが、それが自国の文化なら、必要なことかもしれない。

欧米では得られない風情や、景観、食文化などを見直し、さらに発展させ、たとえ経済的に不利益があっても、文化的に離れられなくする方法がある。

国に対する 「 愛国心 」 ではなく、環境に対する 「 愛着心 」 を高めさせることによって、未来の日本人の土着性を高められるかもしれない。

私も、これを読む読者の方も 「 見ることのない世界 」 ではあるが、日本人が絶滅すれば皆、「 無縁仏 」 になってしまうというのは、無念な話である。



2004年06月18日(金) プロ野球の球団を保有すること


当然、お金があるからといって、何をやっても許されるわけではない。

また、「 お金の無い人が、やってはいけないこと 」 もある。


たとえば 「 プロ野球の球団を保有すること 」 も、その一つだろう。

最近は、潤沢な資金力に モノ を言わせて、有力選手を強引にかき集める巨人軍の姿勢に批判も多いが、「 投資 の ツケ 」 はきちんと払っている。

プロ球団の経営をスポーツ振興事業と考えるか、単なる娯楽産業としてのビジネスとして捉えるかによって評価も異なるが、慈善事業ではない。

選手の補強も、設備の改修も、広報活動もすべて、オーナーの負担が許す範囲で、資金が枯渇しないように考慮され、継続されるべきものである。

それが途中で頓挫してしまうような球団は、いづれ滅びる宿命にあるのだ。


あまりプロ野球に詳しくないという人でも、プロ野球のチームを保有するためには、莫大な資金の準備が必要であることぐらい、簡単に想像がつく。

主な収入は、試合の入場料、テレビ・ラジオなどへの放映権料、球団や選手のロゴ入りグッズの販売、或いはロイヤリティ料などが考えられる。

それに対し支出として、選手やスタッフに支払う年棒、本拠球場の維持費、諸経費などを差し引くと、収支均衡か、大半の球団は赤字である。

出資している親会社が、広告宣伝や、ほかの事業への波及効果手段として考え、損失を補填しているというケースが通例となっているのだ。

球界を代表する人気球団である巨人軍も、創設以来70年という長き歴史において、最初の25年は赤字経営だったそうである。


もともと日本でプロ野球が発足したとき、読売新聞社が巨人軍を創設した経緯も、「 新聞の拡販 」 が目的だった。

その後、戦争で一時中断した時期を経て、プロ野球人気は急加速する。

敗戦による混乱の中、民衆の娯楽に対する渇望が強かったことと、野球が占領軍であるアメリカの 「 国技 」 だったことが大きな要因であろう。

新たに民主主義国家を形成しようとする占領政策上も、歌舞伎や相撲など、日本の伝統文化が廃れ、野球が発展するほうが好ましかったのだ。

高度経済成長の中、大企業はこぞってプロ野球への参加に意欲的で、チームの数も戦前に比べ倍増し、現在の 「 セ・パ 2リーグ時代 」 に発展した。


プロ野球の場合、本拠地を置く地元球団を応援する人が多く、熱烈なファンというものは、贔屓球団を長く支持する傾向が強い。

おそらく、一人あたりの 「 政党の支持率 」 よりも強固で、普遍的な側面を備えているといっても過言ではないだろう。

だから、しょっちゅう親会社が変わったり、球団名が変わったりすることは、ファンの立場からみて好ましくないし、それは人気面にも影を落とす。

多くのファンに親しまれ、愛されるチームを目指すなら、長く安定して継続する意気込みのある企業が、球団経営をすることが望ましい。

そのためにも、「 親会社が赤字 」 だったり、経営方針がころころ変わるような組織体では、たえず球団の存続にも不安がつきまとうのである。


それに、赤字企業が球団を持つなんて、「 生意気 」 ではないか。

自分の会社が冠についた球団を持ち、思い通りに選手を動かすなんてことは、野球好きの人間にとっては 「 たまらなく羨ましい話 」 である。

アメリカでは昔から、「 鉄道会社を経営すること、球団を保有すること 」 が、二大ステータスとして位置付けられている。

それは単なるビジネスの域を越え、富と成功の象徴であり、「 特別な人間 」 にしか認められない、とても誇り高き事業でもある。

今回は、近鉄とオリックスが経営不振の面で 「 合併論 」 を持ち出してきたが、負債が社会問題化しているダイエーも、資格面で適格とは言い難い。


実際問題として、この 「 合併論議 」 には先が見えない。

今のところ、パリーグを5球団にして続けるという意見と、いっそのこと戦前のように1リーグ制にするという意見で、調整を計っているという。

5球団で続ける場合は、組み合わせ上、試合のできないチームができる。

1リーグになれば、現在の 「 オールスター戦 」 や 「 日本シリーズ 」 ができなくなるので、それもまた問題がある。

また、「 客の入る巨人戦 」 に頼っているセリーグの不人気球団も、1リーグ制になれば巨人との対戦カードが減るので、経営上は不都合となる。


こんな具合で、一度引き受けた球団の経営を放棄したり、やり方を変えようとすると、プロ野球機構全体に影響が波及するのである。

今まで応援してくれたファンに対しても、期待を裏切る結果となる。

だから、「 お金があるから 」 という理由だけでプロ球団を保有させることには弊害があるし、「 お金がない 」 のは、もっと困るのである。

きちんと責任を負える財力と、将来に向けて安定した経営基盤、プロ野球に対する情熱を備えた企業でないと、球団経営の有資格者とはいえない。

経済情勢の変化も鑑み、ここらで近鉄、オリックス以外のチームも含めて、そのあたりの評価と姿勢について、見直す時期がきているように思う。


この機会に、内心では 「 そろそろ球団経営を辞めたい 」 と思っている企業を確認し、外部からも、その資質を問う作業を行うべきかもしれない。

そのうえで、入札制によって新たな経営者を選び直し、資金力を中心とした資格面で問題がなければ、経営権を委譲する措置をとってはどうか。

そうすることによって、現在の12チーム制 ( セ、パ、それぞれ6チーム ) というシステムを継続できる可能性もあるし、最善策ではないだろうか。

いづれにしても、チーム数が減るということは 「 将来のプロ野球選手 」 を目指す子供たちの夢を遮る話で、球界の未来にも悪影響が大きい。

どういう結論に達するのかわからないが、なんとも 「 嫌な話題 」 である。



2004年06月13日(日) 偏見ではないでしょう


またもや更新が遅滞したけれど、体調はすこぶる健康である。

ただ、パソコンの調子が悪いので、どうも日記が書きづらい。


前回の日記に 「 自殺するバカ者 」 のことを書いたが、最近、若手芸能人の一人が、自宅マンションから飛び降りるという事件があった。

事務所では 「 事故 」 と説明しているらしいが、落下地点が建物から離れており、現実には 「 かなり助走をしないと飛べない距離 」 のようだ。

つまりは、自殺未遂ということになるのだろう。

遺書が見当たらないので 「 自殺ではない 」 という見方もあるが、死に至るプロセスは、病気や借金苦のような 「 計画的 」 なものばかりではない。

頭のおかしな人の場合、衝動的に自殺を図ることも珍しくないのだ。


この人の場合も、奇行や、不可解な言動が、以前から目立っていた。

それは、普通のビジネスマンなら敬遠されるけれど、芸能人などの場合は、ひとつの個性として、その人の魅力になっていたりもする。

もちろん、自殺などしなければ、それは個性として尊重されるべきものだ。

しかし、自殺という愚かな行為に至った以上、今後は 「 常軌 」 というものを周囲は求めるだろうし、奇行に眉をひそめる人も多くなるだろう。

いくら自殺が増えたとはいっても、それは忌むべき行為であることに変わりは無い。


差別用語の一つに 「 キチガイ 」 というものがある。

おそらくは、精神的な病気を抱える人の人権を守る意味で、彼らに対する偏見を促すことのないよう、マスコミなどは使わなくなっているのだろう。

だからというわけでもないが、この日記でも 「 キチガイ 」 などという単語は、今までに使ったことがない。

実生活においては、使う場合がある。

ただ、それは 「 精神病患者 」 を総称した使い方ではない。


精神科に通っている人も、日記で 「 キチガイ 」 の文字を使うことがある。

知り合いの看護婦さんも、「 キチガイ 」 を使った会話をする。

たとえば、それは 「 残虐な殺人鬼 」 や、「 幼子に対する虐待 」 など、忌むべき犯行に及んだ者を攻撃する場合などに使われる。

この場合には、それが 「 差別用語 」 とは言えないだろう。

我が子の命を無慈悲に奪った殺人鬼に対し、親が 「 このキチガイめ! 」 と叫んだところで、それが差別発言だなどと叱責する人は皆無である。


つまり、精神が尋常でないことが 「 キチガイ 」 なのではなくて、犯行に及んだことが 「 キチガイ 」 だという解釈で使っているのだ。

誰にも迷惑をかけず、悪影響を及ぼさない場合は 「 ただの病気 」 なのだから、マトモな大人なら、それを茶化したり、嘲笑うことはしないだろう。

ただ、誰かが小学校に侵入し、何の罪も無い児童を無差別に殺傷したら、犯人が精神を病んでいたとしても、「 しょうがないね 」 では済まされない。

その犯人に対し、「 ひとごろし 」 とか、「 キチガイ 」 という言葉を放つのは自然の感情であり、それを責めることなどできないはずである。

私は、「 自殺 」 も一種の 「 殺人 」 だという認識を持っているので、たとえ精神が病んでいても、自殺を図る者は 「 キチガイ 」 だと考える。


こういうことを書くと、すぐに 「 偏見だ 」 と激昂する人もいる。

だが、はたしてそうだろうか。

繰り返し書くが、私は 「 精神病患者 」 を非難しているのではなく、病気の有無に関わらず、「 自殺する者はけしからん 」 と言っているのだ。

自殺は法的にも認められていないのだから、これは偏見ではないし、けして間違った思想、偏った価値観による意見でもないはずだ。

自分の命なんだから、自分が好き勝手に処分してよいなどという屁理屈は、どこの国の法律に照らし合わせても、通用する話ではないのである。


ある病院の関係者に聞くと、「 精神を病んだ者の自殺は、未遂が多い 」 のだそうで、つまりは 「 自殺を図っても、失敗する 」 率が高いらしい。

それは、動機が衝動的なために準備不足であったり、警戒を怠って他人に発見されたりすることが多いためで、言われてみれば納得できる。

過去に自殺を図った人を、すべて 「 キチガイ 」 だとは思わない。

なんとか立ち直って明るく生きようとする人へは応援したいし、その努力は賞賛に値するものだと思う。

ただし、未遂を 「 失敗だ 」 と解釈し、いまだに 「 死にたい 」 などといった戯言を発信し続ける 「 キチガイ 」 には、怒りを禁じ得ないのである。



2004年06月03日(木) 命を粗末にする狂気


ちょいと色々あって、更新を怠ってしまった。

気がつくと暦は6月、梅雨のシーズンに入っている。


日頃、あまり時事問題について触れない人が、「 小学六年生の女児による同級生の殺人 」 について、今日は深刻な顔で饒舌に語っていた。

たしかに忌まわしい事件ではあるが、この一件をもって 「 犯罪の低年齢化 」 だとか、「 教育の荒廃 」 などと象徴化できるものでもないだろう。

遺族の心中は察するにあまりあるが、どちらかといえば 「 防ぎようのない 」 犯罪であり、効果的な安全対策も、予防措置も、ほとんど考えられない。

殺人に至るまでの憎悪があったかどうか定かでないが、カッターナイフ一本で絶命させた事実から、「 運の悪い偶然 」 が重なったことが推察される。

躊躇せず、急所に切りつけるなどという芸当は、殺人兵器として訓練された者でなければ、ましてや、小学生の児童に行える行為ではないはずだ。


新聞やテレビの報道によると、ネット上でのやりとりが動機の発端になったように伝わっているが、それも、事件の再発を防ぐ手助けにはならない。

不快な書き込みに立腹した経験者が皆、殺人に及ぶわけではないし、僅か一握りの狂気によって、情報通信の進化を妨げるわけにもいかない。

報道では、事件が起きた佐世保市の市教委は、各小学校にホームページを作成するソフトを配備していたことも、事実として取りざたされている。

最近の学校教育には不満が多いけれど、今回に限っては、それを市教委の 「 落ち度 」 とは思わないし、時代を鑑みれば妥当な措置と判断できる。

メディアに触発されるかどうかは、それこそ 「 自己責任 」 の問題であって、アクセス権を与えた者や、管理する側の責任を追及するのもおかしい。


個人的な考えかもしれないが、「 狂気 」 というものは誰の心の中にも存在するものではないかと思う。

ただ、大多数の者は 「 理性 」 によって感情をコントロールする能力を備えており、それが表立って行動に現れることがないだけではないだろうか。

つまり、狂気の大小ではなく、理性の強弱が 「 狂人 」 と、そうではない人間の差につながっているように思う。

他人から見れば 「 屁 」 のようなストレスに押し潰され、たいした苦労もしていないのに、平常心を失う病気になった人もいる。

本人からしてみれば、「 自分だけが特別 」 と思っているようだが、それは 「 特別なストレス 」 ではなく、「 特別な弱さ 」 に起因していることが多い。


最近は、ストレスを原因とする精神的な病気に陥る人が多い。

その原因を、複雑化した社会だとか、先行きの不透明感などとする学者もいるが、はたしてそうなのだろうか。

戦時中、多くの市民が命の危険に侵され、自由を抑制された時代と、この平和な時代を比較して、それでも現在の暮らしのほうが不安なのか。

私は、現代人の 「 心の弱さ 」 のほうが、問題であるように感じる。

当然、先天的な精神障害者は除くが、仕事や家庭のちょっとしたストレスに負けて病気になる背景には、たえず 「 心の弱さ 」 が潜んでいる。


では、なぜ 「 心の弱い人間 」 が多くなったのか。

人間の性格は、生い立ちと、育ってきた環境によってつくられやすい。

最近の親や教職者は両極端で、虐待に及ぶか、あるいは真逆に過保護であったりすることも多いが、どちらも子供に良い影響は与えないはずだ。

運動会の順位にさえ優劣を認めず、現実から目を逸らさせ「 世の中は公平である 」 という概念を洗脳する教師もいる。

子供の頃から、失敗や欠点、弱点を本人に認めさせ、挫折感と、それに対する克服というものに慣らしていかないと、強い心は鍛錬されないだろう。


本人は否定するが、話を聞いてみると 「 甘やかされて育ってきた結果 」 としか思えないような部分が多いのである。

周囲が同情してくれないとか、家族が慰めてくれないだとか、他人に寄りかかって甘えている発言が目立つ。

その大半は、犯罪にまで至るような性質の狂気ではないが、自己の感情や平常心を抑制できないという意味においては、同じく 「 心の弱さ 」 である。

日本には徴兵制が無いし、体育会系のクラブに属することも強制されないだろうから、「 非論理的な厳しさ 」 に直面しないで育つ者も多い。

そんな 「 甘ったれ 」 が後を絶たず、リストラや降格で自殺を図るために、毎日のように人身事故で電車が遅れ、ダイヤが乱れる。


自殺の善悪について、宗教的な教訓を語る気はないが、本人が思っているほど 「 自分の勝手 」 では済まないことを理解して欲しいと思う。

首を吊ったとしても、線路に身を投げても、海で溺れても、必ずと言っていいほど、その惨たらしく不快な死体は誰かの目に触れる。

また、「 走る電車に飛び込む自殺 」 を目撃した友人の話によると、その姿よりも、「 その瞬間の音 」 が耳にこびりついて、離れないのだという。

せめて死ぬときぐらいは、他人に迷惑を及ぼすべきではない。

そういう 「 周囲に配慮せず、自分が楽な道を選ぶ 」 ところも、心の弱さであり、甘えた考えなのである。


他人に危害を及ぼす狂気と、自殺を図り、命を粗末にする狂気が、片方は 「 犯罪 」 となじられ、片方は 「 現代風な心の病気 」 として処理される。

ネットにおいては、たいていの場合、誰が何を発言しようと自由なのだろうが、どうしても許せないのが、「 自殺志願者 」 のサイトである。

その大半は、「 自分に甘く、他人に厳しい 」 という点で一致しており、自分の命は粗末にするくせに、戦争などの問題では命の尊さを主張する。

世の中には、不治の病で 「 生きたくても、生きられない 」 人が大勢いて、それでも懸命に、命ある限り生きようと努力している人たちがいる。

自殺を図るということは、そういう人たちの人生に唾を吐きかけるのと同じ行為であり、生命を語る資格など、微塵も無いのである。


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