Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年04月27日(火) 相性の問題


さすがに更新が滞ると、アクセス数も激減するようである。

しかし、ごく少数の来訪者のためにも、たまには更新したいと思う。


なんとなく、今年のプロ野球は面白くなりそうだ。

特にセリーグは混沌とした 「 団子レース 」 になっていて、しばらくは、昨年のように一球団だけが飛びぬけて首位を走るような展開になりそうもない。

ある球団が連勝したかと思えば連敗し、勝ったり負けたり、いったりきたりの状態が、開幕からずっと続いている。

こんな 「 いったりきたり 」 の状態を見て、「 まるで、二人の恋のようだね 」 なんて囁いているカップルも、日本中に一組くらいはいるかもしれない。

あまりたくさんいても困ったもんだが、まぁ、一組か二組くらいなら、そういう 「 困ったちゃん 」 がいても、秩序を維持するのに差し支えない。


春なので 「 恋の話 」 なんて書きたいと思うのだが、このところ忙しすぎて 「 恋する暇さえ、ありゃしない 」 という状態が続いている。

そこで、「 他人の恋の話 」 でも書いてみようと思う。

男女の仲というのは複雑で、外見上 「 お似合いに見えるカップル 」 でも、なかなか上手くいかなかったり、不釣合いに見えても円満だったりする。

私は、男女関係において最も重要なポイントを 「 相性が合うかどうか 」 だと考えているので、それこそ他人には解り得ないものだと思う。

実際、過去に交際して長く続いた相手の人は、「 なんとなく居心地がいい 」 とか、「 リズムが合う 」 みたいな、論理的に解説できない共通点がある。


ただ、同じような恋愛の失敗を繰り返す人の場合は、相性がどうこうという以外に、どこか反省すべき問題点が隠されているのではないかとも思う。

ある知り合いの女性に、とても美人で 「 とりたてて欠点のない人 」 がいるのだけれど、どうも同じような 「 破局 」 が続いているようである。

最初は男性のほうが情熱的に言い寄ってきて、いつの間にか離れていってしまうということが、パターン化している様子なのだ。

昔から、「 ブスは三日見たら慣れるが、美人は三日見たら飽きる 」 などとも言われるが、中には一人ぐらい 「 飽きない 」 相手がいてもよさそうだ。

とりあえず美人だから口説き落として、そのうち飽きたから別れたのだと 「 相手を悪者にする 」 のは簡単だが、はたしてそうなのだろうか。


そういう女性は周囲から、男性の価値を見極める眼がなくて 「 ヘンな男 」 ばかりと付き合う性癖があるように思われがちである。

俳句みたく五七五調で准えると、「 ロクデナシ ばかりに惚れる 悪い癖 」 といったところだろうか。

前述の彼女の場合、別に不倫とかしているわけではないし、相手の職業は、上場企業の会社員や、医者など、所得の安定している人ばかりだ。

当然、お金を持っているからといっても、酒や博打や他の女性に溺れるようなところがあっては 「 ロクデナシ 」 だが、そういう欠点もないという。

むやみに暴力を振るうわけでもなく、しいて 「 ロクデナシな要素 」 を挙げるとすれば、それは、彼女を捨てるという部分にほかならない。


別に、「 だから、相手じゃなく、君に問題があるんだよ 」 などと彼女を責めるつもりはない。

もし、彼女がこれを読んで 「 私のことだわ 」 と思い悩む必要も無い。

なぜならば、そんな女性は 「 特別な存在 」 ではなくて、むしろ、どちらかといえば 「 ありがちな存在 」 なのである。

容姿端麗で、気品と教養に溢れる彼女の、はたしてどこが悪いのか。

どこも悪くない。「 窮屈で疲れる 」 点を除けば。


勘の良い読者はお気づきだと思うので隠さないが、「 ロクデナシの一人 」 として本音を語ると、それこそが続かなかった最大の原因である。

そんなに 「 窮屈で疲れる 」 のなら、どうして付き合ったのかという点には、少し弁明の機会を与えて欲しい。

たとえば食事を例に挙げると、彼女は 「 シーフードや野菜が好き 」 なのだと言い、私も同じであると答えた。

彼女がシーフードや野菜を好きなのは、それが 「 ヘルシー な食べ物 」 であるという理由からである。

私の場合は、「 単純に美味いから好き 」 というだけで、特にヘルシーというコンセプトにこだわった食生活など、最初から望んではいなかったのだ。


だから、同じシーフード仲間でも 「 ヘルシー 」 とは程遠い、毒々しい酸味にインパクトのある 『 よっちゃんイカ 』 なども、私にとっては大好物である。

野菜を主原料にしていても、「 かなりカロリーが高め 」 なスナック菓子が、たまには食べたくなることだってある。

彼女にしてみれば、「 最初は気が合うと言ってたのに、途中で豹変した 」 ように思っているのだろうが、それはちょっと違う。

私は 「 シーフードや野菜が好き 」 とは言ったが、彼女が崇拝する 「 ヘルス・アンド・ビューティ な ライフスタイル 」 に、共感すると言った覚えはない。

彼女が何を召し上がろうとご自由だが、こちらの 「 食べたい物 」 まで制約されちゃうと、かなり窮屈な思いを強いられるのである。


美貌と魅力的なスタイルを維持するために、毎日、数種類のサプリメントを服用することも悪いことではないが、「 こちらにも強要される 」 と困る。

もともと 「 薬や病院が嫌い 」 だし、化学の力を借りてまで、特別に長生きしたいなどとは思えないのである。

もちろん、彼女が 「 毎日、必要な栄養素 」 として、おススメしてくれることが悪気ではないとわかってはいるけれど、やっぱり嫌なものは嫌なのだ。

もしも、彼女と結婚でもしたら、台所でサプリメントをすり潰して、こっそりと味噌汁の中にでも混ぜられてしまうのではないかと、本気で心配した。

たしかに、一つ一つは些細な事柄で、耐えられないほどのことではないけれど、だんだん辛くなってきて、だんだん距離を置くようになっていったのだ。


恋愛中の男女に限らず、夫婦でも、友達にしても、「 だんだん離れていく 」 ことの背景に、「 だんだん耐えられなくなる 」 事柄が潜むことは多い。

信念を貫くのも悪くないが、ちょっと相手に合わせたり、自分の主義主張を引っ込めるだけで、案外と上手くいくこともある。

人それぞれ、生い立ちも環境も違うのだから、なかなか自分の感性に適合する 「 相性 」 の持ち主に、めぐり合う可能性も少ないように思う。

そう考えると、「 相性 」 とは、もともと先天的に保有している要素だけでなく、好きな相手のために創造していく部分が、含まれるものかもしれない。

まぁ、そんなことを言ってる自分のほうが、頑固で、融通の利かない部分を多く持っていることも事実で、あまり説得力のある話ではない。



2004年04月22日(木) 書きたい気分


このところ多忙で家を空けることが多く、日記の更新もままならない。

たぶん以前のように毎日更新することは、しばらく無理な様子である。


とりあえず、過去にもお伝えしたとおり 『 深夜戯話 』 という HP については終了することにしたので、リンクをはずしておいた。

掲示板の書き込みなどは出来なくなるけれど、この日記の下部に 「 メール送信ボタン 」 を付けてあるので、代わりにご利用いただけると幸いに思う。

メールを返信する作業も、遅れてご迷惑をお掛けすることが予想されるので、何卒、ご容赦を賜るよう、重ねてお願い申し上げたい。

通常は48時間以内に返信できると思うけれど、出張か旅行などの都合で、さらに時間が掛かることもあり得る。

今後、この日記自体の存続も難しくなると思うが、一度閉鎖した後、またいつか再開したときの URL などメールで必要な方は、ご連絡を願いたい。


この日記のタイトルは 『 今夜の気分 』 であるが、実際、「 書きたい気分 」 のときと、あるいは 「 書きたくない気分 」 のときがある。

後で読み返すと 「 書きたくない気分 」 で書いた日の日記には、自分でも 「 何が言いたいのかわからん 」 ようなものが多い。

だったら最初から、気分じゃない日には書かなければよいとも思うのだが、書いているうちに 「 書きたい気分 」 になってくることもあるのだ。

最近は忙しくて、「 書きたくても書けない 」 という日が続いており、どうしても更新が疎かになってしまっている。

しばらく書かないでいると、時間的に余裕のあるときでも 「 書きたい気分 」 になり難いというのが実態のようで、気がつけば間が開いてしまうのだ。


まだ終了と決まったわけではないが、二年間の 「 ネット日記生活 」 を振り返ると、なかなかに楽しいものであった。

自分の書いたモノに対して、見ず知らずの人から感想を頂いたり、ご意見を賜るという機会は、とても有意義で、いろいろと勉強になったように思う。

内容はともかく、文章による表現方法については、皆様のご指導、ご助言を得て、初期の頃に比べれば、少なからず変わってきたように感じている。

そういえば、昔の自分は直線的で、交際中の女性から 「 もう少し柔らかい表現はできないの? 」 などと言われたものである。

本音を吐露するのは悪いことでもないが、冷静沈着に 「 誰からも気を悪くされないような表現 」 を用いたほうが、文章としての成熟度は高いだろう。


瞬間的に過ぎ行く 「 今夜の気分 」 とはいえ、垂れ流しに放射するだけではなく、読み手の感情に優しく語り掛けるほうが望ましい。

公開する日記においては、自己の 「 書きたい気分 」 の先に、それを読む人の 「 読みたい気分 」 があることを、忘れてはいけないように思う。

時事問題などを “ 熱く ” 語り始めると、どうしても文章が攻撃的になったり、直線的な鋭さが目立つので、そういった配慮を怠りがちである。

だから、これは個人的な意見かもしれないが、私のような 「 ど素人 」 は、あまりオープンに時事問題など語らないほうが、賢明なように思う。

ただ、日記を書くときには大抵、アルコールが入った状態なので、ついついそのあたりを忘れてしまい、結局、また書いたりするのである。


日記をやめることなど簡単だが、たまに 「 書きたい気分 」 になったときにちょっと淋しい気もするので、なんとか細々と続けている次第だ。

内容については、なるべく他人の批判や中傷は避けたいと思っているが、世間には理不尽な事件や、「 ツッコミどころ満載 」 な人々が溢れている。

そこには、「 あまり書きたくない、触れたくない 」 不快な現象があって、和やかな気分で語れるような話題は、残念なことに少ないようだ。

自分の本来 「 書きたい世界 」 とは、無邪気で楽しかった過去の思い出か、あるいは、秩序の守られた自由で平和な理想の未来像なのだろうか。

ともかく、深夜、睡眠不足の体に酒なぞ与え、酩酊となった状態でキーを叩いているのだから、ほとんどロクな文章など生まれてこないのである。



2004年04月18日(日) 救済


私のように脳天気な人以外は、そろそろ老後の心配など始めるのだろう。

最近、書店で年金に関する本をよく目にするが、中年層に売れるらしい。


若い人の多くは年金に無関心であったり、あるいは将来的に還付されるという確実な保証がないことで、支払うことに不満のある御仁がいるようだ。

たしかに年金問題については、国会でも 「 絵に描いた餅 」 のような論議しか行われておらず、少子高齢化の中では有効な施策も少ない。

企業の退職金や年金など、不透明な将来への備蓄を拒み、稼げるときに最大限の所得を個人に支払い、各自が計画性をもち運用する手段もある。

ただ、二十年後、三十年後の社会と、自分自身の境遇が計り知れない部分もあるし、世の中には貯蓄の苦手な人もいる。

いざというときに何の保証もないようでは個人も困るし、経済先進国としての誇りを保つには、あまりにもお粗末な話である。


普段、実力至上主義を唱える人であっても、日常生活の場面においては、高齢者に敬意を表すことを美徳と考えることが多い。

たとえば、電車の中でお年寄りに席を譲る行為などがそれにあたる。

真に実力本位主義で考えるならば、それまでに 「 運転手付きの身分 」 になれなかった高齢者の怠慢とし、擁護する必要などないのかもしれない。

実際には、そこまでの成功を遂げる人物などほんの一握りで、ほとんどの高齢者は、国や社会に対して、介護や 「 救済 」 を求める状況にある。

高齢者や社会的弱者に救済の手を差し伸べ、他者との競争には打ち勝つ必要のある実力主義社会を構築するとなると、それは容易ではない。


イラクで人質が解放されたのは喜ばしいことで、尊い人命を金額に換算できるものではないけれど、政府として 「 かなりの出費 」 になっただろう。

一説に伝えられる身代金が支払われていないとしても、家族、政府関係者の渡航費用、病院代、その他もろもろの費用がかかっている。

また、給料の高い役人が勤務時間を費やしたことも、コストの一部である。

報道によると、家族の渡航費用やら病院代の一部などは 「 自己負担 」 を求める動きもあるようだが、全体の費用に比べると微々たるものだろう。

いくら不況で税収が少ないといえども、被害者を窮地から 「 救済 」 しようとするのだから、一部でデモや抗議をされるほど、政府の対応は酷くない。


税金を多く払いたくはないけれど、イラクの日本人を救って欲しいと懇願するのは、「 年金を払いたくないが、受け取りたい 」 のと同じ理屈である。

同胞が苦境に瀕したとき、皆で協力して経済的な援助を施そうとすることに異論はないが、今回のケースはどうなのだろう。

これが、たとえば北朝鮮に拉致された人々のように 「 不可効力的な不幸 」 であれば、快く義援に応じる人も多いはずだ。

しかし、個人的な利益や、自らの信奉する主義主張の達成を目的として、自主的に危険地帯へと向かった彼らには、反発する声も少なくない。

いくら 「 無料だから 」 といっても、むやみに救急車を要請すべきではないのと同じで、個人には 「 事故を未然に防ぐ努力 」 も求められる。


自分もボランティアをした経験があるのだが、どうしても、そういうときには 「 自分は善いことをしているんだ 」 といった潜在意識が浮かびやすい。

それを誇りとして想うこと自体は悪くないが、そのために周囲に対する配慮が疎かになったり、自らを「 特別な存在 」 として思い上がると問題がある。

イラクでの人質に対する支援者の中に、「 善い行いをやらないより、やったほうが良いに決まっている。傍観者は黙っていろ 」 という声もある。

しかし、「 費用対効果 」 というものを考えるならば、今回の一件に関しては 「 やらなかったほうが良かった 」 という見方が正しいように感じる。

犠牲的精神で誰かを救おうとする立場の者が、逆にそれ以上の費用を投じて、国家に 「 救済される 」 というのでは、話の筋道が違ってくるはずだ。


たぶん年金も同じようなもので、皆から公平に徴収したとしても、その恩恵を受ける立場については、かなりの 「 バラツキ 」 が生じるだろう。

簡単な例でいうと、長生きした人と、しなかった人とでは、恩恵の受け方についてかなりの差が発生する。

また、老後も活発に働こうとする人が、支給額を減らされる例もある。

年金の財源を確保することはもちろん重要だが、できるかぎり年金の世話を受けずに済むよう、各人が努力することも大事なことのように思う。

お年寄りも、イラクの人質も、けして 「 国のお荷物 」 ではないけれど、国家による 「 善意の救済 」 に依存しすぎるのは、少し問題がある。



2004年04月12日(月) 親不孝

たとえば、危険な場所に 「 立ち入り禁止 」 の看板があったとする。

周囲をロープで囲い、警備員が付き添って警戒を呼びかけている。


それでも、その先に興味のある人の一部は、柵を乗り越えようとする。

いくら 「 危険なのでお止めください 」 と言っても、前に進むことは 「 個人の自由だ 」 という論拠で、係員の制止に耳を貸さない。

この場合、それが狂人ではないのだとしたら、「 危険を承知のうえで、相応の覚悟をもっている 」 ということが考えられる。

あるいは、「 大袈裟に言ってるが、たいした危険はないだろう 」 というくらいに、危険のレベルを低めに意識している可能性もある。

いづれにしても、そこへ侵入することが 「 個人の自由 」 であるなら、何かの事故に遭遇した場合も、「 個人の責任 」 で対処すべき問題だろう。


現時点で安否は確認されていないが、イラクで人質にされた三名の邦人は、犯行グループから無事に解放されるという見通しになっている。

この件については様々な意見があり、こうなった責任は被害者にあるとか、あるいは日本政府の政策に問題があるとか、論議をよんでいる。

中には、「 悪いのは、危険を承知で現地に足を踏み入れた被害者であり、勝手に行ったのだから助ける必要はない 」 という過激な意見もある。

私の個人的な意見としては、どのような過去の経緯があったにせよ、邦人が危険に晒されている以上、政府は全力を挙げて救出するべきだと思う。

もちろん、その方法は慎重に検討する必要があり、簡単に自衛隊を撤収したり、身代金を渡すなど、安易に犯人側の要求に応じるべきではない。


三人は物見遊山ではなく、大儀を感じて危険地帯へ足を踏み入れたのだから、主旨に賛同するか否かは別として、それを悪いことだとは思わない。

国の方針に従わず、個人の意思で戦地へ赴くのも、悪いことではない。

しかし、国に期待できなかったり、その政策に異論を唱えて旅立ったのであるなら、「 助けるのが当然 」 というスタンスでは問題がある。

政府が何を言っても断固として個人の主義を貫くという一方で、危険な目に遭ったら政府として助けるのが当たり前だという考えは、少し勝手過ぎる。

そのあたりを整理して考えないと、この問題の真理は見えてこない。


被害者の三人が、日本政府に助けを求めているかどうかは、わからない。

ただ、マスコミを通じて彼らの家族が訴えている姿をみると、個人の自由と責任、あるいは国家との関わりというものに、少し矛盾を感じる。

私は、人の一生なんて短いものだから、自分が正しいと信じる道を、信念をもって好き放題に進めば良いと考える人間の一人だ。

ただしそこには、「 人に迷惑をかけない 」 とか、「 他人の犠牲のうえに目的を達してはいけない 」 という、最低限のルールが存在する。

誰からも干渉を受けずに、己の道を突き進む者は、他人や国家の行動についても、干渉したり、非難することはできないと考えるのが妥当だろう。


国と個人の関係は、いうなれば 「 親子 」 のようなものではないか。

家が気に入らないからという理由で、親の制止を振り切って家出した子供でも、どこかで危険な目に遭っていると聞いたなら、普通の親は心配する。

親とはそういうもので、それで良いのである。

国家も同じように、たとえ 「 親の言うことを聞かない子供 」 でも、変わらぬ愛情を注いでやることが望ましいように思う。

ただ子供のほうも、それに対し 「 当たり前だ 」 という認識ではなく、有難いという感情を持たなければ、「 バカ息子 」 と罵られても仕方が無い。


海外で活躍する日本人の多くは、離れてから日本の良さを改めて知る。

それも、郷里の親を想う気持ちに似ている。

もちろん、日本ならではの習慣や、政治、文化などの中に、それが非効率的であったり、欧米に比べて遅れていると感じるような事柄も多い。

しかし、「 反抗期も過ぎた立派な大人 」 が、いつまでも親 ( 国 ) の悪口や、不満ばかりを口にしているようでは情けない。

けして、優等生の孝行息子にならなくてもよいが、「 好き勝手に振る舞い、困ったら親のスネをかじる 」 という甘えからは、脱皮したほうがいいだろう。



2004年04月10日(土) 道徳を守るリスク


「 やるべきことはやる。自分がどうなろうとも、いかなる障害、危険、圧力が

 あろうとも。これは、人間道徳の基本である 」

                 ジョン・F・ケネディ ( アメリカ第35代大統領 )

A man does what he must - in spite of personal consequences,in spite of obstacles and dangers and pressures and that is the basis of all human morality.

                              JOHN・F・KENNEDY



ケネディが優れた政治家であったかどうかは、意見の分かれるところだ。

ただし、演説が卓越していたことについて、異論を唱える人は少ない。


報道によると、イラクで三名の邦人が誘拐されたということらしい。

犯行グループは日本政府に対し、自衛隊を撤退させないと人質の生命は保証しない旨の 「 脅し 」 をかけているのだという。

この件に関し、「 なんか書けよ 」 というリクエストをメールでいただいたが、本音を言うと、あまり気乗りしないのである。

事件以後、狂信的に派兵の反対を唱える人物や、非国民的な言動の目立つアチコチでは 「 水を得た魚 」 の如く、意気軒昂に嬉々とした文が踊る。

それは事件同様に不愉快極まりない暴挙だし、個人的にも述べたい感想があるけれど、論議したところで、ケリのつかない 「 水掛け論 」 に終わる。


実際、戦争の是非について漠然と語りはじめたところで、時間がいくらあっても足りないし、反対論者は聞く耳も持たないだろう。

それで今夜は、「 道徳と勇気 」 というテーマだけに絞って書いてみたい。

私が思う道徳とは、善悪を判断する基準であり、自分を主体にして何をすべきかを考える、いわゆる自己責任の意識であると認識している。

たとえば、自分が中学生だとして、同じクラスの中で理不尽なイジメの被害に遭っている生徒がいたとしよう。

そこで、彼をイジメっ子から守るため立ち上がることは、「 余計なお節介 」 なのか、あるいは 「 勇気ある行動 」 なのか。


現在の北朝鮮もそうだが、かつてフセイン政権下において、多くの善良な人々が、理不尽な弾圧と、苦痛を伴う迫害を受けていたことは明白である。

大量破壊兵器の有無を問題にする人もいるが、その存在がなかったとしても、フセインが独善的な 「 イジメっ子 」 であったことは間違いない。

現在のイラクでは 「 追放したイジメっ子の残党 」 による、イジメの撲滅に参加した集団や、その行動を支持した集団への 「 仕返し 」 が横行している。

せっかくイジメが途絶え、皆が平等に人権を認められる秩序が生まれようとしているときに、残党は 「 以前のイジメ体質に戻せ 」 と要求しているのだ。

相手は悪ガキなので手段を選ばず、暴力的な嫌がらせを繰り返してくるのだが、これに屈することは 「 人道的判断 」 なのか、「 勇気なき屈服 」 か。


人それぞれ考えはあるだろうし、派兵に反対するのも自由だが、あくまでも 「 悪いイジメっ子は誰か 」 ということを、忘れてはいけないだろう。

残党を増長させ、悪質な逆恨みに走らせているのは、テロ集団とスローガンを同じくして振りかざす、ほかならぬ反戦論者たちではないのか。

もし、すべての生徒が 「 イジメはよくないよ 」 という論調で一致していれば、イジメっ子の残党も気勢を揚げることは困難であっただろう。

現実には、「 イジメっ子を懲らしめたのは間違いだった 」 とか、「 クラスの英雄気取りで格好つけやがって 」 という声が、アチコチから上がってきた。

たしかに、戦争の背景に石油利権や、「 級長選挙へのアピール 」 があったことも事実だろうけれど、イジメを撲滅する行動は無駄でなかったはずだ。


見て見ぬふりをすることは、誰にでも出来ることだ。

日本にも、あるいはアメリカにさえも、そういう選択肢はあった。

私が日本政府の自衛隊派遣を支持するのは、その背景に同盟国との政治的なしがらみがあるにせよ、勇気をもって道徳を守ろうとした姿勢にある。

誘拐された三名を救出することに対しては、もちろん最大級の努力をすべきだと思うが、けして 「 道徳を守ること 」 と引き換えにしてはならない。

同朋の生命は何よりも尊重すべきだが、威厳を捨て、道徳を放棄することが、唯一の解決策だと考えるのは誤りであると思う。






↑押すと投票される エンピツ投票ボタン

My追加



2004年04月06日(火) 史上最狂打線


他者と比較して優れている点を特徴とするのは、間違った戦法ではない。

ただし、それだけでは通用しないケースというのも、多いようである。


たとえば、「 体力に自信があります 」 という自己アピールに嘘がなくても、自分の名前を漢字で書けないような人は、大半の企業において雇い難い。

仮に、募集要綱に 「 体力に自信のある人 」 と書かれていたとしても、それは 「 普通のことが人並みにできるうえに、体力もある人 」 の意味である。

女性が 「 優しい男性が好きです 」 と言うのも同じことで、満足に働かないとか、あまりに欠点が多すぎる場合、優しいだけでは気に入ってもらい難い。

このように、自らの優位性をアピールできる 「 自己PR 」 のような特性は、他の部分で 「 人並みのことができている 」 場合にこそ、活かされる。

それが揃わないと、ただ単に 「 バランスの悪い奴 」 で終わることが多い。


野球に詳しくない人には判り難いが、今年の巨人は 「 史上最強打線 」 を売り物とし、過去に他のチームで主軸を努めた打者を、豊富に擁している。

ところが、それがあまりにも偏った補強であったため、投手力など守備面での脆弱さが露呈し、阪神との大事な開幕三連戦を 「 三連敗 」 で終えた。

しかも、肝心の看板打線さえ不発という有様で、まったく見せ場がない。

野球は9つのポジションを、それぞれの役割をもった選手が守り、一番から九番までの打者が、やはり各々の役割をもって攻撃に参加する競技だ。

長打力を備えた打撃特性がある選手には、たしかに 「 華 」 があるけれど、そういう選手ばかりをかき集めても、なかなか勝利には結びつかない。


きっと巨人軍のフロントやベンチの人が、すべて 「 この方針 」 に賛成したわけではないだろうし、バランスの良い補強を望む声もあっただろう。

案外、野球のことは詳しく知らないが、決定権だけは握っているような人物が、このような 「 奇策 」 を考えたのかもしれない。

別に巨人が勝とうが、負けようが、あまり興味はないのだけれど、過去に類をみないほど 「 バランスの偏ったチーム編成 」 だと感じる。

なんとなく、「 お肉ばっかり食べないで、野菜も食べなさい 」 と言いたくなるような、そういうバランスの悪さである。

まだペナントレースも始まったばかりで、最終的な勝敗の行方など断言できないが、バランスが偏った組織のままだと、本来の力を発揮し難いだろう。


野球にかぎらず、職場でも、家庭でも、「 組織のバランス 」 というものは、永続的に、円滑に、良い結果を導き出すために、重要な要素である。

個人がどのような活躍を果たすのかという 「 自分に対する責任 」 というものも大事だが、全員が 「 俺が、俺が 」 という姿勢では上手くいかない。

目立たない地味な作業でも、周囲の人の役割というものを認め、それぞれの貢献を尊重する 「 お互いに対する責任 」 も、大切なことである。

個人主義、実力第一主義などが浸透しつつある世の中だが、周囲に対する配慮や、チームワークを尊ぶことが、それを阻害するものではない。

全体のバランスを考慮し、その中で自分の実力を最大限に発揮するのが 「 個人主義 」 の理想であり、それを欠いた組織には、未来がみえない。






↑押すと投票される エンピツ投票ボタン

My追加


 < PAST  INDEX  NEXT >


Oldsoldier TAKA [MAIL]

My追加