平素に在り

2011年03月30日(水) 地震

地震以来、あまりに多くのことを感じてしまい
うまく消化できない。

それでも、どうしても書いておきたいことがある。

いまは人を批判するのはやめよう。
反省、責任、対策・・まだその時期ではない。

東京も余震や停電、消えた街の灯、放射線、水、
まだ災害は進行中なのだ。

「がんばろう」って誰が言い始めたのだろう。
何かとても距離があって違和感がある。
家族が悲惨なことになって、やっと助かった
人に、まだ頑張れっていうのか。
頑張るのは、助ける人であって、
被災者ではない。
この言葉はやめよう。


「自粛し過ぎ」って、そうかもしれない。
だけど、役に立たない自粛でも、自粛することで
その本人が少し気が休まるかもしれない。
東北の人はもちろん、日本人の多くが
心を痛め、苦しんでる。
偽善だろうが、そうすることで本人の気が済む
ならばいいのではないか。
自粛で経済が落ち込む、とかいうのは次元が
違う話。

こういう事態になると、本当に必要なものと
どうでもいいことが、はっきり見えてくる。
軽薄なお笑い番組って、受け入れ難い。

「元気を届ける」「勇気を与える」
「明るい気持ちを届ける」
全然ちがうんじゃないか。今は。

何もできない自分を認めてほしい。
何かした気分を他人に押し付ける
のはやめてほしい。

何もできないけど、日常のできること
を淡々と無言でやる。

あとは気持ちで寄り添うことしかできない
んじゃないでしょうか。
祈ること、平穏で平和な日常を祈ること。

災害直後で、緊張感とかストレスで
東京地区全体も、表面上は妙な静けさ
だけど、失言には言葉狩りのような非難が
集中し、不謹慎は徹底的にたたかれる。
どこかで、微妙なバランスが崩れて
大衆が一方的な流れに流されそうな危うい
感じだ。


ジャイアンツがドームでナイターで
予定通り開幕しようとしていることを
聞いて、さすがにあきれた。
が、「老害」とか「選手も声上げろ」とか
「停電で過酷な通勤している横で」とかは
以前からそういう体質はわかっていたこと。

でも、それはそれだけの話であって、人を死に追いやった
わけでも、犯罪でもないし、撤回もした。

その前に原子力発電で、その電力を享受してきた都会の人間であり
想定上の盲点を見つけられなかったジャーナリズム
であり、「頼りない政府?」を選んだ国民なのである。
海外に原子力発電を国策として売り込んでいる国の
国民なのである。
そっちの方が大きいことだ。

批判すれば、今はすべて自分たちに帰ってくるのである。
今は、目の前の危機を乗り越えること、
目の前の義務を果たすこと、そっと祈ること。

’批判’して、「自分はそうでない」ことを確認し
安心する。
’元気を届けて’自分の苦しさを忘れた気になる。
そういうふうに、みんな不安なのだとは思うけど
大いなる違和感を感じるのは、わたしだけでしょうか?









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