池ポエム
ハンス



 練習2

 長いのは何も、秋の夜だけではない。
 赤い糸を、封印のように戒めて結ぶ。向かいの八角は器用な手つきで、小さな紙切れを筒状に丸めている。かくして、延々4時間。夏の夜がいくら長くても足りない。八朔には、この時期の夜は永遠に思えた。
 「父さんは?」
 手をもう二本ほど増やしたい。そう期待して、頼れる実父の名を挙げたが、八角が手元を見つめたまま静かに首を振った。
 「朝早いから、もうお休みになったよ」
 それもそうだ。檀家まわりは明日も続く。夏の夜が八朔たちのものなら、夏の早朝は父のものだ。一見、胡散臭い寺に見えて、果たすべき勤めはたくさんある。50を少し超えたばかりとはいえ、夏の暑さは体力を奪う。好きな夜酒はしばらく我慢。
 「よっし、がんばりますか」
 「そうそう。その心がけだよ、朔」
 八角が少しだけ目線を上げた。口元が微笑んでいた。つられて笑う。
 「元気そうじゃない。その調子なら、朝までやれるな」
 「・・・いや、私寝ないと生きていけないタイプだからさ」
 「それは人類はみんなそう。ていうか、朔が起きてるよりも寝てることを愛するタイプなのは知ってるよ」
 長い長い付き合いなんだから。
 自分の次によくわかる他人なんだから。
 言葉にしないでも、八角はいつもそう言っている。そうとも違うとも言わずに、八朔はいつも肯定していた。
 夏祭りの日までに、たくさんのおみくじの山ができる。赤い糸で結ばれた、宿命のおみくじだ。その中身、宿縁を知りたくて、人だかりができる。
 中身は縁に詳しい古老が予言したものを、書道家にお願いしてひとつひとつ記してもらったもの。二か月ほど前に、八朔自ら引き取りに出向いた。
 段ボール箱いっぱいの運命を前に、腕を組んで溜息をつくことから夏の準備は始まる。縁切り術者は単なる内職屋。この山となった運命の前では。
 「忙しいねぇ、我々」
 二階で蚊帳に収まって寝ているであろう父も含めて。
 「我々って・・・」
 心強いチーム、その要は誰あろう八角に違いない。
 「今年も売り切れるかな」
 多分ね、と聞こえるか聞こえないかぐらいの、ささやき。
 「そうだよね。知りたいもんね」
 自分の縁を。行く先を。
 毎年の売り切れのせいで一度も引いたことのない八朔は、祭りに押し寄せる人々が少しうらやましい。
 「・・・“我々”は引けないよ、朔」
 明りを持たずに暗闇を行くように。
 松明を持った人々の群れを、遠くで眺める。

2009年07月28日(火)



 練習1

 「母さん・・・」
 ちりんと風鈴が鳴った。誰も答えてはくれない。縁側を夏の夜の風が抜ける。真っ暗な空に、白い星が輝く。薄靄のような雲が気ままに漂う。
 今、帰ってきてこの家のどこかに、あるいはすべてに、あの人がいるのだと思うと、八朔はそわそわした気分になった。縁切り術者と言ったって、実際に帰ってきた人を見ることはできない。母がいる、なんとなくそんな気がする。その程度の感覚。
 「・・・」
 うれしさをかみしめるように、八朔は唇をかんだ。10の時にいなくなった母。あれから十年経った。どんな人だったかとか、いなくて寂しいだとか、そういう感情はあまりない。いないことに慣れた十年。それがふいに覆される数日。
 今の自分をどう思ってるんだろう。
 大人になって何度目かのお盆に、八朔はふと思うようになった。答えはわからない。鏑噺四のばあさまなどは、立派になったお前を喜んでいるだろうよなんて言うが、それはどうだろう。
 父も八角もまだ戻ってこない。八朔は縁側に腰かけた。もし今、人が見たら自分は何かとても温かいもう一人の誰かと一緒にいるように見えるかもしれない。
 一人だということを忘れてしまうような、そんな幸せな錯覚。夏の夜の、希なる幻。

2009年07月27日(月)
初日 最新 目次 MAIL HOME