池ポエム
ハンス



 そんなこんなで染谷さん

 ある日、ふと、本当に突然にその『疑問』が口をついて出た。
 「なぁ」
 ベッドにいるはずの順に向かって、手近にあった紙を丸めて投げつける。その辺、という馴染みきったこの部屋の、馴染みきったルームメイトだからこそできる呼びつけ方だ。
 狙い通り、ポコッと軽い音がした。
 「何よ?」
 いたいた。灰色の頭が少しだけ持ち上がる。
 「アンタって、何でゆかりのこと『染谷』って呼んでるんだ?」
 「……」
 返事がない。普段なら、こちらが言葉を言い終わるそばからペラペラと怒涛のように押し寄せてくるのに。饒舌でない順なんて、変だ。そのまましばらく沈黙が続く。
 (ま、たまには静かでいいか)
 それほど急ぎの疑問ではないから、ゆっくりと待つことにした。
 数分後。
 カサッ、と頭に丸めた紙が落ちてきた。どうやら答えてくれるらしい。視線を向けると、タイミングよく順が浮上してきて、目が合う。妙に真顔だ。真顔の順も、変だ。
 「それって、今更すぎない?」
 呆れて表情もなくなるってもんよ。真顔で順はため息を吐く。
 「まぁ、それはそうなんだけど」
 思いついてしまったのが今なんだから、仕方がない。最初からそうなのに今気づいたなんて、綾那らしいと言うか何と言うか、そんなところがまたいいのよね、だのなんだのどうでもいいことがベラベラと続く。途中から耳をすり抜けていく。
 「ちょっと綾那、聞いてる?」
 「ん、あぁ、聞いてない」
 正直に答えたら、順は肩を落とした。ちょっと寂しそうだ。
 「で、アンタはまだ答えてないでしょ」
 「……聞いてんじゃん」
 順の戯言は聞いてないが、順が本当のことをまだ話していないのは、わかる。綾那のイジワルー、と子供みたいに順はおどけて見せた。それから、観念したように頭を掻きながら下を向いた。
 「別に、特に理由はないんだけどさ」
 「ほう」
 「なんか、染谷は『染谷』って感じなんだよね」
 「何よソレ」
 極めて個人的な感覚に基づく理由。わかってやりたいけど、すぐにはピンと来ない。首を捻る綾那に、順は罰が悪そうに笑う。
 「ほらあたし、はやてちゃんほどじゃないけどあだ名つけるのって好きじゃない?」
 はやてのアレは一種の人懐こさが生み出す特技である。順はと言うと、数多く知り合いがいるが、それぞれに固有の呼び名を決めている節があった。一番わかりやすいのは、夕歩のこと。
 ちなみに綾那も人を本名以外で呼ぶことも多いが、それは単に名前が思い出せないだけなので、あだ名好きとは事情が異なる。
 「じゃあゆかりのあだ名が『染谷』ってこと?」
 そうそう、と順は二度頷いて、再びベッドに沈んでいった。
 「ね、綾那」
 「ん?」
 声だけがまだ聞こえてくる。
 「染谷のこと、話したい?」
 その名前が二人の間で出るの、久しぶりだ。順が暗に機会を伺いつつも、避けていたのはよくわかっているから。
 「たまには、な」
 前よりは、あの頃よりは。口に出すだけで心が強張るような恐怖心は薄れている。このまま、少しずつ進んでいけるのなら。
 「綾那がノロけたい時はいつでも言って! あたし、ガツーンと受け止めるから!」
 「お前と一緒にするなっ!」
 手元にあったCDケースを投げてやった。
 向こう側からギョーという変な悲鳴が上がった。

2007年07月21日(土)
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