池ポエム
ハンス



 流した汗は

 いつもと違って首元をさらしている彼女の背後にそーっと近づく。ちょうど髪を洗っているところだから頭を下げていて、背後から忍び寄る紅愛には気づいていない。頭から湯でもかけてやろうと汲んできたのだけど、少し趣向を変えてみることにした。
 勢いよく吹き出すシャワーを確認すると、蛇口のレバーを赤い方から青い方へ一気に傾ける。
 「うおっ! つめてー!!」
 ガタンと座っていた椅子ごと後ろへ後ずさり。弾かれたように頭が上がった。目の前の鏡に犯人はばっちり映っている。玲が首だけ後ろに向けて、割合凶悪な目で睨んだ。
 「お前なぁぁぁぁ!!」
 いつもの跳ねっ毛が全体的にぺしゃんこになっている。なんだか迫力が3割減といったところ。彼女のファンがこんなところを見たら、さしずめ水もしたたるいい男などと言い出しかねない。
 「……心臓麻痺でも起こしたらどーしてくれんだよ」
 責任取れよ、とかブツブツ言いながらシャワーを止める。
 「そんなことになったらとりあえず笑えるわね」
 「笑い事かよっ!!」
 笑い事である。白服最強の神門玲が心臓麻痺って。そりゃあ人間だからいくら鍛えてもありうるけれど。それにしたってあまりにもイメージに程遠い。そんなことでこの人が目の前からいなくなるなんてパターンは考えもしない。彼女がいなくなる時は、頂点を奪り損ねた時だけだ。何しろその執念深さときたら、前に聞かされただけで紅愛は胃がもたれた。
 「このくらいで済むんだから感謝しなさいよ」
 昼間の星奪り。策略と情報操作にかけては自信を持っていた紅愛を、ずっとずっと前からハメていたとんでもないタヌキがいた。単純馬鹿だと思っていたら。人のよさそうな顔をしているくせに。
 知恵を使って楽に掴む。多少、人聞きはよくないこの信条を持つ紅愛よりよっぽど食わせモンなんじゃないか。憎ったらしい勝ち誇り顔をこちらに向けてくれたほんのお返し。
 玲はタオルを首にかけて、きょとんとした顔をしていた。
 「ぁあ? あたしなんかしたっけ」
 持っていた空の桶がスカーンと軽そうな音を立てる。
 「いってーな。ンだよ、ケンカ売ってんのかお前は」
 「それはこっちのセリフよ。あんた健忘症なんじゃないの!?」
 それとも体の鍛えすぎで、その他の箇所が退化しているのか。昼間にしたことを頭洗った拍子に一緒に流してしまったのか。
 「会長のガセネタ。忘れたとは言わせないわよ」
 ガセ。まさか同盟結んだ相手に、最後の最後の最後の仕上げで足をすくわれるとは。紅愛は玲ほど執念深くはないし、昔のことをあれこれ覚えてはいないけど、このことだけは胸に刻みたい。もちろん、教訓としても。
 「だからガセじゃねーんだって、アレは」
 「ガセでしょ、ぜんっぜん効いてなかったじゃない」
 玲がうーんと唸って頭を掻く。
 「ま、こんなとこでもなんだしな。特別に後で教えてやらぁ」
 だからそれで勘弁しろ、と。立ち上がった玲は紅愛よりずっと背が高い。パシッと紅愛の肩を無遠慮に叩くと、さっさと湯船に向かって行く。
 星奪りは続けるけど、再び頂点まで上がってあの二人に挑むかどうかはわからない。だから教えてくれるのだろう。やっぱり、損した気分だ。どうもいくら詰め寄っても水責めにしても、ハメられた分を取り返すことはできそうにない。そんな気がする。
 何より玲の顔にはもう、張り合ってた頃の何か隠した様子はなくて。妙にさっぱりとした背中を見ていると、しつこく言う気持ちも失せた。本当に、ただの仲間になったのだ。もう欺く必要もない。
 それでいいのだ。もう終わり。明日からはまた始まる。
 「いつもでもグチグチ言ってると、どっかのミのつく玲みたいな人になっちゃうし」
 「おい、それ思いっきり特定してねーか」
 「あら、別に玲が執念深いとかしつこいなんて言ってないわよ」
 「言ってるじゃねーか……」
 湯船に顔をばしゃっとつけてヘコんでいる。事実なのに、他人に言われるとヘコむことってあるらしい。その玲の後頭部を、さらに容赦ない人がぐいっと押した。
 「そうそう。紅愛は玲に比べたら全然さっぱりしてるわ」
 湯に顔を押し付けられたままで、必死にもがく学園の憧れ。首を上げる、ただそれだけの動作もかなわないほど背後から現れた最強の人は腕に力を込めている。でも顔はとってもにっこりと微笑んでいる。真正面から受け止めると紅愛ですら背筋にうすら寒いものが走る。
 「紗枝……あんたも来てたの」
 「まぁねー。私達のためにわざわざ開けててくれるって聞いたから」
 にこやかに微笑む紗枝と、引き気味なのを隠して会話を続ける紅愛と。
 その真ん中でずーっとぶくぶく言ってる人。
 別に心配はさらさらしてないけど。鍛えてるんなら、心肺機能だって高いだろうし。なんなら腹イセも込めて1時間ぐらいそのままで頑張ってほしい。
 背後の悪魔なら、マジでやりそうなのが少しだけ怖かった。

つづく

2006年04月23日(日)



 約束しよう

 向き合った順が、腰を低く落として鋭い目つきになる。久々のこの感覚。二人、向き合った時にだけ感じられる、ゾクゾクする感じ。空は雲ひとつない。鳩が校舎と校舎の間を飛び交う。
 風が、一筋吹いた。
 それを合図に順が足を踏み込む。距離が一気にゼロになる。順の剣が風を裂いていく。夕歩は体を外側に開くだけで、それをかわした。頬をナイフのような風圧が掠めていく。空いた手で飛び込んできた順の体を押す。普通の剣待生ならこれで少し先まで転げていくのだが、長年一緒に稽古してきた順は違う。左足で踏みとどまって、剣の軌道を無理やり変えてきた。予想外の場所から順の攻撃が伸びる。反射的に剣で受け止め、しばらく押し合った後、順は後ろへ飛びずさった。
 再び低く構える。他ではめったに見られない、真剣な瞳。その眼には今、夕歩しか映っていない。バサバサという気の抜けた翼の音が、空から降ってくる。次の攻撃はいつだろうか。夕歩は息を整えながら順の様子を窺っていたが、やがてその必要がないことに気づいた。
 「フッ」
 順がふいにニヤリと笑った。
 「あっははははははは!!」
 続いて、体をいっぱいに伸ばして爆笑。突然の稽古相手の様子に、夕歩は目を丸くした。頭には当たっていないはずだけど。
 「順?」
 「たっのしいー!やっぱり夕歩と稽古するの、楽しいね」
 あぁ、そうか。二人でこうして稽古をするのは久しぶりだ。うんと小さい頃から稽古をしてきたけど、数年前に夕歩が入院してからはそれもめったになくなった。今、何とか退院して剣待生なる者になって、家から離れて生活している。おかげで、こうして剣を持って順の相手もできる。
 子犬が尻尾をはちきれんばかりに振っている。この頃は、まだ夕歩も順も小さくて、二人して子犬みたいにじゃれてる時が何よりも楽しくて。
 「順はほんとに剣が好きだね」
 呼吸が整った夕歩の前で、順はニコニコしている。順が楽しそうなら、夕歩も嬉しい。
 「うん、剣も好きだけど」
 下から切り上げるように剣を振り、一回転してさらに脇をえぐるように一撃。宙を舞うような動きは見ていて心が躍った。これが順の素振りなのだ。傍目には曲芸にしか見えないけど。
 この時振り返った順の目が、いまだに忘れられない。
 「夕歩と稽古するのが一番楽しい」


 今より少し昔の話。
 熱の籠もった瞳が、自分を見ている。自分だけを見ている。体温が上がる。顔が熱くなって、そこで夕歩は目を覚ました。机の上に、読みかけの本がある。しおりを挟むのも忘れていて、何ページを読んでいたのかわからなくなってしまった。
 自室の机で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 随分懐かしい。小さい頃の自分と順。まだ入学して1ヶ月の頃だったろうか。広い学園内の、他に人がいない場所を探しては、よくああして遊んでいた。やっと体が動くようになって、順と一緒に学園に来ることができて、それなのに、昔と変わらず二人で稽古をしていた。よく飽きないな、と思う。二人にはお互いしかいないことを、小さくてもわかっていたのかもしれない。
 それに、これは順にも言っていないけど。
 稽古をしている時の順は、真っ直ぐに夕歩だけを見ている。幼い顔でも、飄々とした顔でもなく。ただ目の前の相手と戦うためだけに、集中した顔で。
 鼻の辺りに触れてみる。血が出ていないとわかって、ほっとした。何かにつけて、興奮すると鼻血が出やすい。だから普段は、務めて冷静でいようとするのだけど。今は、きっと頬に赤みが差している。
 もっとずっと、違う場面で。もっと、順の望むように。もっと、他の何も気にしないで。
 求めてくれたらいいのに。

 「!」
 誰もいないのに、ハッとして周りを見回す。それからため息をついた。
 自分たちは大人になる。周囲を取り巻く環境の一部になって、そこから抜け出す術はない。大人になればなるほど。入学した数年前、自由になったと思った。そうでもないことに気づいたのは、しばらくしてから。順が、笑わなくなった。夕歩の好きだった笑顔が、変わっていく。
 諦めることが大人になることだなんて、簡単に口にはしたくない。
 ゆっくりとドアが開く音がした。
 「おかえり」
 同室の増田がカバンを置くのが見えた。呼ばれて、気のいい顔を向けてくれる。が、すぐに慌てて夕歩の側まで駆け寄ってくる。
 「夕歩、顔赤いよ。大丈夫?」
 「う、うん」
 そこまで赤い顔をしていたのだろうか。指摘されて、恥ずかしくなる。理由が理由だから。
 「熱あるんじゃない?」
 増田の手がヒヤリとして、少し冷静になれる気がした。
 「久我さん、呼んでこよっか?」
 「ううん、大丈夫」
 順はいいルームメイトに恵まれたと思う。自分もまた、親切なルームメイトでよかったと思った。
 「恵、何が頭が冷えるような話、してほしいんだけど」
 「えぇぇ!? な、南極物語とか??」
 「……よくわかんないけど、そんな感じで」


 中等部の卒業を待たずに、夕歩は休学になった。4年目の桜は順と一緒には見られないだろう。
 先のことはわからない。なのに、あの入学した頃のように、近頃の夕歩は晴れ渡る空のような気持ちでいる。手術だってこれからだし、その後のことも色々あるだろうし。それでも。
 「しっつれいしまーす」
 主に、見舞いに来る時の侵入経路が失礼な刃友がガチャリと個室の戸を開けた。今日は、花束を持っている。花瓶の花は枯れかけていたので、古い方を取って差し替えた。刃友の横顔を黙って眺める。数ヶ月前に抱いていた不機嫌な気持ちは、今はない。
 「よしっ」
 殺風景な病室に、花と刃友。言うことなしだ。
 「改めまして、姫」
 「……だからその呼び方やめなよ」
 「いいの。だってよく考えたらさぁ」
 殺風景な病室に、順と、自分。添えた手が冷たい。頭を冷やすには、といつかみたいなことを思ったけれど、それは無意味。触れた唇のせいで、手の冷たさは感じなくなった。
 「夕歩はあたしだけの姫だもん。他の誰にも呼ばせない」


 それは幼い夢なんかじゃない。昼寝で垣間見た、叶わぬ希望なんかでもない。
 地に足をつけたままで、君と遠く遠く遠く。
 これからは、きっと。

2006年04月17日(月)



 ハード・ムービー・ナイト(おまけ)

 途中で途切れたビデオの続きはほっぽって、暗い廊下に出た。
 深夜2時の寮の廊下は、ただただ暗闇。非常灯の光だけがポツポツ廊下の向こうの方に見える。先を行く順の足音はほとんどしない。その足運びは、順の在り方そのものなのだと思う。ポケットに両手を入れて、軽やかに弾むような歩みなのに。夕歩は後ろからそっとついて歩く。一人きりなら、夜の廊下を歩きたいようなテンションではなかったけど、先を行く背中があるなら胸がほっと温かくなる。
 自販機のある一角だけが、夜中でも煌々と明るい。が、3時になるとこれも消えるのだと言う。夕歩はそんなに遅くに自販機を利用したことはなかったから、今聞いて初めて知った。本当に、こういう情報だけは詳しい。
 こんな時は、『あったか〜い』に属する缶しか目に入らない。
 「あっち」
 ホットコーヒーをポケットに入れて、順は夕歩の分もついでに買ってくれた。
 「熱いから気をつけて」
 コーンポタージュ。粒が底に溜まって、きれいに飲むのは至難の業。どうしてこれを選んだのか、順のチョイスが気になった。
 恐怖は、どちらかというと人の体温を下げるのかもしれない。熱いから、と順は直接大きめのポケットに入れているが、夕歩の手の平にはこの缶の熱がちょうどよかった。手は思ったより冷えていた。
 部屋に戻る途中、電灯がきれかかっている箇所があった。ゆっくりと暗くなっていき、突然パチッと全開で点灯したかと思うと、またゆっくりと闇を増やしていく。真っ暗になるのも心細ければ、パチッの瞬間に反射的に体がビクッとしてしまう。わずかに足が止まったのに気づいたのか、すぐ順が戻って来た。
 「戻ったらあたしが持ってきたやつ見ようよ」
 「まだ見るの?」
 これを飲んだら寝るつもりだったから、順の言い出したことは予想外だ。何を持ってきたのかも気になる。順には悪いけど、あまり信用ができない。夕歩の不審な眼差しを知ってか知らずか、にやっと形容するのにちょうどいい笑みを浮かべている。
 「じゅんじゅんセレクション、ピンク映画三本立……ぅあっちー!!」
 何か中学生にはふさわしくない単語が飛び出しかけたから、言い切る前に防いでみる。熱々の缶を頬に押し付けられて順は後ろに飛び退いた。
 「熱いっ、それ熱いよ夕歩」
 「どっかのおっさんかっての」
 夕歩の冷たい視線を受けて、涙目で頬を抑えながら順は苦笑い。
 「ま、それは冗談冗談。ハウル見ようよ、宮崎の」
 なぜか、ハウルの動く城。確かに、まだ見てなかったけど。ホラー映画とは180度違う。が、夕歩も順も特に宮崎アニメのファンというわけでもないのに。脈絡のないチョイスは、コーンポタージュ以上に不思議だ。
 「あー、なんて言うかさ」
 至近距離で疑問の眼差しを受けて、順は頬を掻いた。
 「ほら、刺激の強い映画ばっか見たから」
 “夢見が悪くなりそうでしょ”
 なるべく心温まる物でも見て、相殺というか中和というか。とにかく順が言いたいのはそういう意味だった。誰かさんのために、わざわざ考えたアイディア。思えば部屋に突然現れたのも、最初からそれが目的だったようだ。
 「一番心温まりそうなのはやっぱトトロかなーと思ったんだけど」
 「それ、何回も見てるよね」
 「そう」
 二人で肩を並べて、小さい頃に幾度も見た。
 「もののけ姫は心温まるってのとはちょっと違うしさ」
 「そうだね」
 部屋までのわずかな暗闇。どちらからともなく、手を繋ぐ。
 「紅の豚は、寝る前に見るとかえってエキサイトして寝れなくなりそうだよね」
 あたしは好きだけど、と付け加わった。
 眠っている二人を起こさないように、そっとドアを開けた。真っ暗な部屋に順が先に入る。その背中にポツリと、「ありがと」。
 部屋に入りかけた夕歩に、順は突然耳打ちしたのだった。
 「夢の中でも姫をお守りします」
 なんてね、と離れて笑った顔が、テレビの光に照らされていた。


 たとえこの手が届かない世界へ行っても必ず君を守るよ

2006年04月10日(月)



 ハード・ムービー・ナイト

 暗闇の中、窓から外を覗く女性。謎の電話の言うままに見た庭。そこには……赤い血を滴らせた恋人の姿が。
 ――プチ。
 「ちょ、ちょっと夕歩」
 突然のルームメイトの行動に、増田は声を上げた。すごくいいところ、続きが気になるし、そもそもちょっと何がそこにいたか見えてしまったタイミングで。
 よりによって、テレビを消されてしまった。
 暗いのは画面の中だけではない。どうせなら雰囲気を出していこうよ、と部屋の電気を消して、薄暗い中テレビ画面だけが光を放っている。増田は椅子に座って、夕歩は床に座って毛布を頭からかぶっていた。なぜかチャンネル権を握られてしまったのが敗因だったかもしれない。
 チャンネルのボタンを押しただけなのに、毛布の塊と化した夕歩の肩が大きく上下している。
 「続き」
 「……」
 「いや、だってあのタイミングだよっ、すっごい気になるよっ」
 一緒にビデオを見ることには同意だったはずだけど。しかめっ面というか、気合を入れた顔というのか。あまり表情を変えない夕歩にしては珍しく、眉を寄せている。この映画が気に入らなかったのだろうか。数年前に大ヒットした、パニック系のホラー映画である。下手すりゃ何回もテレビで放映されている類の娯楽作だ。
 そもそも見る前に内容は説明していた。
 寮には決して大きくはないが部屋にテレビが一つあった。人によるけど、あまりテレビを見ないもの同士が同室だと、割と出番が少なかったりする。しかし、その日二人の部屋にはゲーム機があった。
 「どうしたの、それ」
 普段はビデオデッキすらない二人の部屋の、あんまり働かないテレビに、赤やら黄やらのプラグが差し込まれている。部屋に戻ってきた夕歩に向かって、DVDってやつを並べてみせた。
 「ミーちゃんに借りてきたんだけど、夕歩も見る?」
 ちょうど刃友がいくつか借りてきていたDVDを又貸しして一晩借りることにしたのだ。夕歩は一つずつ手に取って、パッケージ裏の解説を読んでいく。一つ読んでは置き、計四つあった全部を読んで、黙ってきれいに重ねた。
 「どう? 一つぐらいはおもしろそうなのあった?」
 「恵の刃友の子って」
 重なった四つのDVDに目線を据えて、なぜかため息を一つ。
 「ホラー映画が好きなの?」
 「ん、ああー。いや、なんかこの日はたまたまそうなったみたい」
 別に何のジャンルでも好きみたいだよー、とつけ加えても、まだ夕歩の表情は晴れない。
 「見ない?」
 沈黙してしまった夕歩に、再度尋ねてみる。
 「あ、もしかして見たことある?」
 この四本はいずれも、犯人を知ってしまっては見る楽しみがない。殺人鬼の正体は誰なのか。推理する楽しみが5割を占めるのだから。昔はやったものなら、すでに見た可能性は十分ある。
 が、夕歩は小さく首を振った。
 「見たことはない、けど」
 そして今に至る。結局、試しに一つ見てみる、という結論に落ち着いて、9時を回ったところで二人は部屋の灯りを落とした。が、開始して10分。ほとんど何も始まっていないところで、ビデオは止められてしまった。続きを見たい気持ちと、しっかりチャンネルを握って離さないルームメイト。どうしたものやら、と増田があわあわしていると、急に夕歩が立ち上がる。
 そのままガタガタと部屋のクローゼットを探って、元の位置に戻った時には何か懐に抱えていた。
 「ゆ、夕歩?」
 毛布から何か木の棒みたいなものが覗いている。明らかにビデオを見るのに必要ないっぽい。が、夕歩が大人しく再生ボタンを押してくれたので、ツッコまないことにした。
 再生早々、グロいことになっている男性の死体。増田は小さくうひゃーと言った。またえらいところで一時停止してくれたものだ。これなら素直に続けて見た方が衝撃度は低い。再生ボタンを押したままの状態で、夕歩はフリーズしている。
 そして恋人の死体を見てパニックになり振り返った先には……謎の白いお面をつけた人物が。振りかぶった銀色の刃がアップになり、女性の恐怖に慄く表情がアップになり。
 ――ガチャ。
 突然、ドアが開き、光が部屋に差し込む。
 「あれ〜? もう寝てた?」
 呑気で聞き慣れた声。二人分の人影が部屋に足を踏み入れる。しかし、先に入った方はぐふぁとうめき声を上げて倒れたのだった。
 「うわっ、久我さん大丈夫!?」


 夕歩の迎撃した木刀がクリティカルヒットした順と、ビデオとゲーム機を貸してくれた張本人・根本が部屋に現れて、鑑賞会は一時中断中。もちろん電気はつけて。
 「なるほどねぇ」
 暗い方が雰囲気が出る、と説明されて順は二三度頷く。木刀の刺さったわき腹をさすりながら。
 「おもしろかった?」
 根本が増田の横に座り、改めて手に取る。
 「あ、まだ一本目なんだけどね」
 「そうなんだ」
 時刻は9時半。
 「じゃあこれ見終わって振り返ったら、この殺人鬼みたいなのが現れたりしてねー」
 根本が言って、増田はアハハと笑う。
 「でもここでそんなの出ても、勝つね」
 「あぁそっか」
 「じゃ成り立たないか。殺人鬼VS剣待生のアクション映画ならできるかも」
 鑑賞会は二人から四人へ。
 再び電気を消して。増田と根本は隣同士、順は何も言わずに毛布の塊になっている夕歩の側に寄り添った。暗いから、少し離れてしまうと他の人が何をしているかはあまりわからない。増田の位置から見て、手前に順が座ってしまったので、もう夕歩のリアクションは見えなくなった。


 それから4時間が経過して。映画はついに四本目に突入。が、見ている人はさっきの半分に減っている。まず真っ先に2本目の途中で眠ってしまったのは根本。貸してくれたということはすでに一回見ているという訳で。二度同じ物を見て睡魔に打ち勝つのは難しい。続いて、隣の根本に寝られてしまって集中力が途切れたのか、増田もいつの間にか不自然な格好で眠っていた。
 画面を見つめながらも、もう順の頭にはストーリーは入ってこない。なんか鬼教師がボウガンで生徒を狙ったりしてるような気もするけど。
 どんな教師だよ、とツッコミながらも瞼が落ちてくる。
 ただ、2本目の途中で掴まれたシャツと、掴んでいる隣の人の手が気になってかろうじて意識を保っていた。握られた部分はクシャクシャになっている。それでも堅くしっかりと、かれこれ1時間半あまりそのまま。いい加減、手が疲れているだろうに。二人が眠っているのを見て、順はシャツを掴む手をそっと自分の手で包んだ。
 もう映画なんてどうでもいい。毛布から覗く夕歩と視線を合わせる。ハッとした顔になった後、目を逸らす。固まっていた時間が急に解けたみたいに、シャツの手はゆっくりとほどけた。
 夕歩の細い手が汗ばんでいる。手に汗握る、まさにこういう映画を見る人の態度としてはお手本のように正しい。画面で弓矢が刺さったり抜けたりしている。夕歩はまだ画面が視界に入るのか、体をビクッと震わせた。
 「もうやめよ」
 画面と夕歩の間に割って入る。鬼教師の行く末なんかどうだっていいじゃないか。それ以上余計なものが目に映らないように。夕歩の瞳に、自分の姿がだんだんと一杯になっていく。
 夕歩の手から落ちたチャンネルを拾って、順は停止ボタンを押した。

2006年04月04日(火)
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