 |
 |
■■■
■■
■ 思い出
「ねぇ」 「ダメです」 遠慮がちに袖を引く。窓を開けたままにしていたから、今夜は誘われるのではないかと思っていたけど。 仕事が一段落して、海の匂いにあの人は気づいた。 「見て、アルディラ」 夜空に浮かぶ月がことのほかきれいなことにも、気づいてしまったらしい。先程までの、眉間にしわを寄せた表情とは違って、優しい眼差しが月を捉えている。 「ダメですよ」 それなのに自分は素っ気ないことしか言えない。本当はこの人を喜ばせたい。その術も、最近は何となくわかるようになった。でも言えない。理解することと、実行することは同じではない。それも同時に学んだことだった。 不正解とわかっていてそちらを選ぶ。人間は随分と難しいことを、時に簡単に行ってしまう。それを愚かの一言で済ませられなくなったのは、目の前にいる人物のおかげだ。 「大丈夫だよ。見つからないって」 窓から身を乗り出して、外の空気を吸い込む。自分と違って人間。だから自然を求める。そういうものだろうか。機械で構成され、機械に囲まれて生きてきた自分は、それほど自然に関心がなかった。この人が腕を取り、風に触れさせてくれるまでは。 それから、お湯も。 「マスター」 多少低い声で、今にも飛び出して行きそうな後ろ姿に声をかけた。 「は、い」 窓にそっと手をかけて、静かに閉める。外気の残りが室内にわずかに残る。食事中に待てと言われた動物みたいな目で、こちらを見つめてきた。思考のどこかが鈍く熱くなった。なぜだかわからないが。 「浸かり過ぎは、よくありません」 「いや、大したことないよ、あれぐらい。東の国には朝昼晩と湯に入って怪我や病気を治すという治療法が……」 「貴方は全くの健康体です」 部屋の隅の椅子に腰掛けて、背を丸めてしまった。わかりやすい。 「マスター」 「たまにはさ。君と入りたいと思ったんだ」 ガツンと何かぶつかった音がした。よく見ると手元に持っていた資料が全て床にバラバラになっている。 「珍しいね。君が物を落とすなんて」 ぼーっとして立っていると、あの人が素早く落ちた紙や本を拾ってくれている。慌ててしゃがんで二人して拾った。手が触れた。 「私よりも、君の健康が心配だな」 「いえ、私は」 「夜ならば見つからないよ。近いうちにきっと、行こう」 あの人の手の平は温かかった。結局、その夜の約束はどこか長い時間の中に埋もれてしまって、今に至る。この浜辺で、別の人間と共に在る。 だから謝らなくていいの。貴方はあの人に似ているから。
2005年01月30日(日)
|
|
 |