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■ 爪
彼女が置いていった雑誌をめくっていたら、背後から暖かいものがのしかかってきた。新手の霊現象ではない。田舎育ちの三鞍はそんなものはいくらでも見たことがあって、珍しくともなんともないもので、リアクションは薄めになる。それはともかく、首の辺りを冷たくて尖ったものが刺激するので、間違いなく彼女に違いなかった。 「重い。それから、頭ちゃんと拭け」 いつもは遥かに頭を見上げなければならないから、こういう時は何よりもまずやらずにはいられないらしい。彼女は頭を頭の上に、身体を身体の上に乗せる。少しでも高いところにいたい。何とも煙めいた性分なのだ。 そんな子供っぽいところは嫌いではない。というか、三つも年上だというのに。 「ちょっとそれ取って」 人の背に抱きついたままで、彼女が言う。まるで人の上だろうが下だろうが気に止めていない。多分人の中にいても気にならないんだろう。 「はい」 三鞍が手を伸ばせば届く位置に、爪きりがあった。 「爪は夜切らない方がいいぞ」 「そう言うね」 耳はよく聞こえているが、内容はなんだっていいのだ。 器用に二人羽織りみたいになりながら、自分の指の爪を切る。構わず雑誌をめくる。 「そういえばさ、三鞍勝手に読んでるよね」 「さっきから読んでるだろ」 何の雑誌かは知らなかった。ろくに表紙も見ずに、開いたところから前に読んでいる。内容はなんだかわからないが、気に入った写真があったから別によかった。この人がどんな雑誌を好むのか、全然知らない。読み物の話題は普段二人の間には出ない。そういうことは、どちらかというと医者と話す。あの人は昔から、それこそ絵本を読んでた頃からの付き合いだから、何を見たり聞いたり読んだりしたか、ただなんとなく話しても気が咎めない。そういう知り合いも三鞍は大事だ。 「あ、ごめん」 透明の破片が表面に乗った。 「いいよ。社長のだし」 「それもそうね」 二人羽織りでは手が届かなかったから、三鞍が代わりにそれをつまんだ。三鞍の小指の先ほどの小さな爪の欠片だったが、それは驚くほどよく曲がった。 「うおっ」 思わず手の平に乗せて、目の前に持ってきて眺める。 「何?何か変な色でもしてた?」 「い、色は普通だけど」 人差し指と親指で弄ぶには少し小さな。丁寧に、機械を分解する時みたいに指に神経を集中させて、それをちょこちょこと動かした。爪は決して割れなかった。柔軟性に富んでいる。 「社長」 曲げていた背を伸ばし、手で二人羽織りの黒子の方を後ろへ投げる。たたでさえ小柄な黒子はひっくり返り、三鞍は素早くその足を掴んだ。 「あ、足」 「足」 靴下でも履かされるみたいに、足を両手で持ち上げられる。 「アンタ、爪柔らかい」 「みんなこんなもんじゃないの?」 彼女は自分で足の爪をびよんびよん曲げた。自在に、かなり融通の利く感じで、爪が曲がる。折れない。 三鞍はたっぷり三十分。己の爪の硬さについて語って聞かせた。どうやら彼女は足の爪は皆多少の柔軟性を持って、環境に対応するものと思っていたらしい。三鞍はついに裸足をでんと出して、鋼鉄の爪を披露した。硬いというのはそれはそれで、どんな過酷な自然にも耐えうる。三鞍の様々な冒険にも負けない爪は硬いもので、社長のどんな運命にも負けない爪は柔らかかった。 爪談義の終わりに、彼女はつぶやいた。 「じゃあ三鞍、タイガーナックル向きじゃない?」
2004年07月10日(土)
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