思うままに


中学受験。 記:2002.11.30.
1994年01月30日(日)

あたしは小学6年生のとき、ちょっとしたいじめにあっていた。
今だから「ちょっとした」って言えるけど、この当時は相当やられていた。
校区の中学校には絶対行きたくなかった。
でも、進学塾にいってるわけでもなかったから、
私立中学は受からないだろうし、経済的負担もかけたくなかったし。
それに、他の公立中学校に行く方法なんて知らなかったから、
選択肢はひとつしか残ってなかった。
近くに福岡教育大附属中学校があって、それに行きたいとずっと思ってた。
もちろん、受かる自信なんて全くなかったし、
しかも、筆記試験に合格しても抽選があるし。だけど、親が
「(通称)附属を受けるだけ受けてみようよ」と言ってくれて、受けることを決意。
しかし、お母さんは受験の説明会に行った時の親の多さに、
かなりビックリしてた。あんな人数じゃ誰も合格できんよ!って。

秋くらいから自己流で勉強した。
過去問を中心にして、問題集も解いた。
附属の試験は音楽・体育・図工・家庭科の試験もある。
過去問はやったけど、どんなところが問われるかさっぱりわからないと親に言ったら、
お父さんが天神の書店でこの4教科の問題集を買ってきてくれたりした。
つらかったのは寒くなってから。
まだ弟が小さかった(当時3歳)から、
2階にあったファンヒーターは隣の部屋で弟に使われ、
あたしは寒い部屋でコートを着て勉強してた(涙)

で、この日が筆記試験の日。
っていうか、受験する人多すぎ!!絶対無理じゃん!
同じ小学校の人も結構いた。
試験はもちろんがんばった。全力でがんばった。
でも、やっぱり難しかった。好きな算数は半分しか解けなくて。
これはほんとに無理だわ…と思った。

しかーし。
筆記試験合格発表の日。
学校から家に帰ると、お母さんが
「合格しとったよ!!」って!
すごーい!絶対内申書のおかげやね。
だてに児童会役員の仕事を2年もやっとったわけじゃなかったね。
お父さんに電話で報告して、担任の先生にも電話して。
次の日、クラスメイトに、
「どーせ受かってないんでしょ」みたいなことを言われたから、
「合格したもんね」って言ってやった。気分爽快だった!

抽選の日。
会場である体育館には早めに着いた。入ると「予備抽選」の箱が。
予備抽選で引いた番号順に本抽選をするらしい。システムわかりにくい!
引くと、なんと2番。早っ!!
一番前だからなんとなくドキドキしながら、座った。
お母さんも保護者席に座った。
いよいよ本抽選。司会の先生が言った。
「不正を防ぐため、予備抽選の1番から3番までの児童さんの保護者の方に、
 本抽選を手伝っていただきます。」
1番から3番…ってあたしもじゃん!お母さんが手伝うの!?
お母さんがステージにあがる。なんか変な感じ…。
番号が書かれた紙が入ってる封筒を箱の中でまぜたりとかしてた。
ステージにあがって、お母さんの「がんばれ!」という視線を感じながら、
封筒を選んだ。中の番号は3番。これも早いなぁ…。
あたしの受験番号と名前が記録され、ステージを降りた。
全員の抽選が終わって、先生が説明する。
「箱にはひとつだけ封筒が残っています。
 その封筒の番号から後ろの番号の方40人が合格となります。」
あたしは「????」だった。
例えば、抽選参加者が70人いて、58番が残っていたとしたら、
59、60、…、70、1、2、…、28番が合格ということ。
ステージから先生と保護者が降り、体育館からいなくなった。
合格の番号に○を書いた紙を作りに行っているという。
しばらくして、その紙が入った封筒が受験者全員に配られ、
「会場を出るまで開けないで下さい」と言われた。

体育館から出て、おそるおそる開けてみると、3番に○があった!
合格だ!!やったー!!感激で涙出た!ほんとにうれしかった!
寒くて勉強も大変だったけど、がんばった甲斐あった!
中学から新しい・楽しい人生始めるぞ!って感じでした。

ちなみに、中学の合格証明書、まだ大切にしています。

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