Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2006年02月14日(火) 不快

今日の夜は、なんだか気分が悪かった。たぶん、チョコレートをもらえなかったせいではないと思う。お尻にできものができていて、座っていると痛いせいかもしれないが、そうでもないような気がする。

では何かと言えば、もしかしたら、朝からずっとPCに触れていなかったのが原因ではないだろうか。ここのところ、起きたときからずっとPCに触れていることが多い。

もしそうだとすると、これはかなり危険な状況に思える。つまり、PCによって気分が左右される状況になっているのではないだろうか。PCばかりやっていて鬱になるというのは聞いたことがあるが、普段PCに触れていて、PCを使わなくなると鬱になるというのは聞いたことがない。

しかし、PCを使っているうちに、徐々に気分が良くなってきた。今は2時くらいだが、この時間はもうすっかり平常心だ。

意識してPCから離れるようにすべきなのだろうか。とは言え、取り柄がPCしかない以上、今後ともPCから離れて生きていくことはできない。それなら、PCを嫌ってしまうよりはいいのだろうか。

ところで、全然関係ないが、昔の日記にいろいろ書いてあった。女性の気持ちを理解していない男が多すぎるとか書いてある。最近知ったのだが、やさしくするだけが能じゃないらしい。ときには…と言うよりも、いつも突き放すくらいの方が、謎めいていてモテるそうだ。

言われてみれば、確かにそうかも知れない。思い通りにならないからこそおもしろい、と思うことも、最近はよくあるし。もっとも、僕にそんなことができるとは思えない。



2006年02月09日(木) 実感

はてなダイアリーの日記を日々の意見用、こちらを生活用と分けてから、もうずいぶん経つ。分けた直後くらいから、こちらは全然更新しなくなってしまった。と言うのも、自分の生活に興味がなく、わざわざ書こうと思えるようなことも起こらなかったからだ。新聞を読んで、世の中のいろいろな問題について考えるのはおもしろいのだが、自分自身の生活について考えるのはあまり楽しくない。

これは、良くない傾向かも知れない。いや、実際良くはないだろう。世の中の問題と自分のことと、どちらが重要かと言えば、それは当然自分のことだ。まず、自分の生活がきちんと成り立ってこそ、それ以外のことを考える余裕が生まれるというものだ。しかし、実際には、今のところはなんとかなっているものの、来年度からの見通しはまるで立っていない。そして、そのことについて正面から考える気にはとてもなれない。

何と言うか、人生の実感というものがない。毎日、社会の中で自分を位置づけていかなくても、それなりに何とかなってしまっている。

どうすべきなのか分からないのだが、それ以前に、現状を改善すべきだとどうしても思えない。現在は満足すべき状況だが、このまま現在の状況のまま推移するとはとても思えない。にもかかわらず、危機感をまるで持てないでいるのだ。

昔はこの日記でどんなことを考えていたのかと考えてみる。日々の生活について綴り、思うことについて書いた。それだけだっただろうか。ずいぶん多く書いていた気がするが、それだけのネタでそれだけのことを延々と書き続けていたのだろうか。だとしたら、我ながらよくやっていたものだ。

日記を公開することによって僕が何を提供したのか。それをもっとも端的に示すのは、アクセス履歴だろう。それをみると、今も昔も「ぬるぽ」というキーワードで検索をして訪れた人が最も多い。なんだか、少しむなしくなる。さんざんいろいろ書いてきたうち、もっとも読まれているのはぬるぽという言葉に関する日記なのだ。それほど詳しく調べたわけではない。ただなんとなく書いてみただけのものだ。

こんな食い違いは、世の中にいくらでもあるのだろう。難しいことが重要でなかったり、苦労したことにたいした価値がなかったりということだ。例えば、僕が社会の問題についていろいろ書いているブログのアクセス数は、今のところ18000件程度だ。それに対して、オンラインゲームのラグナロクオンラインに関するブログのアクセス数は180000件を越えている。どちらが重要かと言えば、おそらく前者だろう。オンラインゲームについて考えるより、社会問題について考える方が「よい」とされているに決まっている。しかし、実際にはオンラインゲームに関する記事の方がよく読まれているし、評判もいい。もしかしたら、社会問題について書いているブログのレベルが低く、オンラインゲームについて書いているブログの方はよく書けているのかも知れない。それにしても、10倍もの読者の数の差は、物事の価値というのを改めて考えさせてくれる。世の中一般で重要だとされることは、世の中の一人一人はそれほど重要と思っていないのかも知れないと思う。

人によって価値観というのは異なる。この日記でもさんざん書いてきた気がするが、最近になって新しいことを知った。と言っても、昔から知っていたことの拡張に過ぎないのだが。

それは、人によって見えるものが違うということだ。同じものを見ても人によって見え方が違うという、あいまいなことではない。そういうこともあるだろうが、もっとデジタルに、僕にはまったく見えないものを、はっきりと見る人がいるということだ。

より具体的に言えば、見えるものとはイメージである。聞いたところでは、色である場合が多いようだ。例えば、音楽を聴くと色が見えたり、文章を読むと色が見えたりするらしい。そして、それは決して珍しいことではなく、世の中には、そういう人がそれなりの数いるらしい。ファイナルファンタジータクティクスの作曲者のコメントによれば、その数はおよそ100人に1人ほどだという。学校に3クラスあったとすれば、その中に1人くらいはいてもおかしくないということになる。そして、そういう人は、特に意識しなくても色を見ることができ、それが自然なのだそうだ。他の人に見えていないとは思わなかった、という話も聞いた。

だから何かを思ったということではない。単に、驚いたのだ。おそらくそれは、物事の感受性という問題ではない。そもそも脳の構造が違うのだろう。そういう人間が存在することに驚いた。世の中にはそういういろいろな人がいて、それぞれの人が影響しあって生きている。個人個人を取ってみるとこれほどまでに違うのに、その人たちが手を取り合って生きているというのは、考えてみればとても不思議なことだ。そのために必要なのが、文化だったり、社会だったりするのだろう。

社会や国家は、個人を抑圧するものだと考えていた。しかし、そうやって考えていけば、どうしても必要なものだということに気付く。それぞれ違う人間が、異なる価値観を持ったまま生きていくためには、ある程度の型にはまることはやむを得ないのではないかと思えるのだ。

こうやって書いていると、はてなのブログを更新しているときとは全然気分が違うことに気付く。何が違うのだろう。同じOperaというブラウザを使い、同じATOKを利用して変換しているのに。画面のレイアウトのせいなのか、言葉遣いのせいなのか。僕は丁寧語が好きだが、このような断定調の方が、心情を吐露するには適しているのかも知れない。ただ、比べてみると明らかなのだが、文章を読む分には丁寧語の方が読みやすい。読ませるための文章を書くなら、丁寧語の方がいいと思う。

世の中の違いの多くは、こんなものだと思う。つまり、ほとんど同じもの同士を見て、違うところだけを強調しているのだ。最近、キーボードを買い換えようと思っているが、高いキーボードと安いキーボードには、2000円から20000円くらいまで差がある。高いものはもっと高いが、僕は触ったことがないので、あれこれ言うことはできない。とにかく、そうやってキーボードを比べてみると、確かに違うが、よく知らない人から見ればどれも同じようなものだ。デザインは全然違ったりするが、少なくとも触り心地などはどれも大差ない。それなのに値段が全然違うのだ。違いの多くは、こんな微妙な違いだと思う。知っている人に言わせれば全然違う。けれど、知らない人から見ればどれも同じということだ。

そんな些細な違いに意味はあるのだろうか。そこに意味を見出すことに、僕はそれほど興味を持てない。ものは使えればどれでも同じだし、細かいデザインの違いなど気にしたこともない。もしかしたら、こう言ったことが人生を楽しむことにつながるのかも知れない。こだわり、というものだ。しかし、僕は逆に、細かいことにこだわらないことが満足につながっていると感じている。細かいことにこだわらなければ、最高のものでなくても十分に満足することができる。安いキーボードとマウスでも満足できるし、繰り返しやったゲームでも、もう一度やればまた満足できる。PCもPentium4 1.5GHzという決して新しくないCPUを使っているが、現状に不満はない。CRTには、掃除をするときにミスをしてキズが入ってしまっているが、気にしなければそれほどの問題はない。そうやって、適当なところで満足するということも大事なのではないかと思う。常に最高を追求するのは悪くない。しかし、些細な違いに多大な労力を払う価値はあるのだろうか。そんなことに労力を払うくらいなら、他の新しいものにその労力を費やすべきではないだろうか。

こうやって書いていると、書いているうちに調子が出てくる。昔と変わっていないことに、少し安心する。一時期、書いていてもあまり楽しくないことがあった。しかし、今は書けば書くだけ、どんどん続きを書きたくなる。書きたいことがあるわけではない。ただ、キーボードを叩くのが楽しいのだ。こんなことを考える人間なら、高いキーボードを買ってもいいのかも知れないと、ふと思う。

そう言えば、更新をやめる前、僕はかなり記憶力の減衰に悩んでいたようだ。また、思考力の低下についても悩んでいたようだ。しかし、昔ほどとは言わないが、今はそれほどひどい状況ではない。生活の状況と思考能力は、関わりがあるのかも知れない。今は、前と比べるとずいぶん余裕がある。それが僕にゆとりをもたらしているのだろう。その意味では、ゆとり教育というのも悪くなさそうだ。ゆとりの時間を、考えることにさえ費やせばまったく問題はない。問題は、最近は娯楽が多すぎて、そんなことに時間を費やせないということなのだが…。


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