Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年12月28日(火) 血液型性格診断を非難する

僕は、血液型性格診断を非難する。こんな日記で叫んだところでどれだけの影響があるのかは分からないが、やらないよりはマシだろう。

僕は、おそらくは世の大多数の人と同様に、差別が嫌いだ。最近ではハラスメントと言われる、各種の嫌がらせは大嫌いだ。セクハラが代表格だが、他にも

パワハラ
パワー・ハラスメント。上司であるなどの立場を利用して、不当な要求を行ったりすること。
アルハラ
アルコール・ハラスメント。酒に弱い人に対して無理やり飲ませたりすること。
アカハラ
アカデミック・ハラスメント。大学では一般社会とは異なった特殊な常識が通用している場合が多い。その中で教授は特に大きな力を持っており、その権力を不当に利用すること。
モラハラ
モラル・ハラスメント。言葉や態度などによって人の心を傷つけ、心が壊れるまで貶めてしまうような精神的暴力のこと。セクハラもパワハラもモラハラの一種。多くの嫌がらせ行為はモラハラの一種と言えると思われる。
スモーク・ハラスメント
略称が見られなかったので省略せずに記す。タバコを他人への配慮なしに吸うことによって無意識的になされる嫌がらせのこと。ハラスメントと言えるかどうかは少々怪しい気もする。
ドクハラ
ドクター・ハラスメント。医者による患者への嫌がらせ。モラハラの一種と思われる。医者は若いころから先生と呼ばれ、ふんぞり返って生活しているだけに問題の根は深い。

とまあ、Googleで検索しただけでこれだけのものが見つかった。そして、このハラスメントの一種としてブラハラというのがあるのだ。

ブラハラは、ブラッド・ハラスメントの略である。血液型による嫌がらせのことだ。その構造は、大まかには以下のとおりである。

まず、血液型性格診断によって、血液型ごとの性格の特徴を類型化する。この類型化にそもそも問題があるとの意見は多いが、多少乱暴なやり方でも、類型化は科学の第一歩だ。それ自体は問題ないと僕は思う。次からが問題で、その類型化の結果を、不正な手段で証明する。たとえば、誤った統計的手法を用いる、と言った方法だ。統計的手法は統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門 ブルーバックス 120という本が出版されるほどごまかしやすい。また、僕が大学で聞いた例では「サルの電卓」という話もある。Googleで検索したらほとんどヒットしないので一般的な話ではないのだろうが、要するにデータを集めて適当に電卓をたたけば、何も考えていなくてもそれらしい答えが出るという例えだ。しかし、まだ問題はそれほど大きくはない。ごまかしているなら見破れば済む話だからだ。だが、次の段階でそうも言えなくなる。それがマス・メディアによる流布だ。これが問題なのは、血液型性格診断に一片のうそもなく、すべてが真実であったとしても問題の本質が変わらないということだ。つまり、血液型性格診断の真偽にかかわらず、血液型による類型化が広く流布すること自体が問題なのだ。なぜなら、先天的な属性である血液型という情報によって、偏見を助長するからだ。人の判断は、評価者による違いこそあれ、その人の資質・能力を判断すべきだ。友達選びにしても社員選びにしても同様だ。ところが、血液型による判断は、本人の努力や能力を無視する。これでは、正確な評価など望むべくもないのだ。以上の状況から不当な評価を受ける。

一般に、少数の人ほど不当な評価を受けやすい。そして、不当な評価によって差別され、嫌がらせを受けることが、ブラッド・ハラスメントなのだ。ちなみに、マス・メディアによる流布だけであれば占いなどについても同じことが言えるが、ブラハラに特有の事情が疑似科学である。不当な科学による裏づけが多数の人間に流布されると、少なくない人が判断を誤り、その正当性を確信する。そして、確信に基づいた嫌がらせが行われるのだ。ちなみに、Wikipediaによる説明では反証不可能性が疑似科学の例として示されているが、ブラハラの場合に問題となるのは手法の不正確性だ。Wikipediaの血液型性格分類の項も参考にするといいだろう。ちなみに、WikipediaのURLには日本語が含まれているので、未対応ブラウザでは見られないかもしれない。

つまりはこういうことだ。血液型性格診断は怪しい。なのに広まっている。そして弊害が多い。だから反対する。…明確ではないだろうか。

…日記を書いていて、過去の日記へのリンクを見てみた。すると、2002年12月29日の日記になんとも妙なことが書いてあった。我ながらくだらないことを書いているものだ…。とは言え、暴走族が崖から落ちて全滅すればいいという考えは今も変わっていない。ついでに言うと、彼らは珍走団と呼ぶのがふさわしいだろう。



2004年12月27日(月) ひとことだけ

くだらないけど一言だけ…。

FFI、クラスチェンジしないでラストダンジョン突っ込んじまった…。

追記。攻略サイトを見てみた。楽だと思ったら、攻略サイトに「到達レベル27」って書いてあるダンジョンにレベル60くらいで行ってた…。そりゃクラスチェンジしなくても勝てるわな…。



2004年12月25日(土) 一日家で…

クリスマスイブは、教授の部屋の掃除をしていた。クリスマスは、家でD言語の練習とゲームをしていた。我ながら、なんて寂しい生活なのだろう。とりあえず、日記を書いて少しでも気を紛らわせようか。やはり今でも、キーを叩くこと自体は好きなのだ。書くことがないだけで…。

ちなみにD言語というのは、C言語の後継の言語らしい。まあ、リンクを張ったので、詳しくはそちらで見てほしい。Hello worldしか書いていないので、何も言えない。まあ、それでもあえて言ってみるとすると、まず、開発環境がない。これはつらいものがある。Eclipseのプラグインがあったが、どうやらコードアシストをしてくれるだけらしい。Javaのビルドツールを使うことでビルドもできるらしいが、XMLをいろいろといじる必要があるらしい。それならmakefileを使うのと大差ない。どちらも面倒…と言うよりも分からない。ソースコードを指定してコンパイルすれば実行できるJavaがいい。…Javaが中級者用と言われるのが分かったような気がする。makefileは確かに面倒だ。まあ、知り合いの人が具体例を示してくれたので、それをコピーすればすぐだと思うのだが。参考までに、D言語のHello worldのソースを載せてみることにする。

import std.stream;

int main(char[][] args){
    stdout.writeLine("Hello, world!\n");
    return 0;
}

ちなみにこれは手打ちだ。コンパイルして確認はしていないから、動くかどうかは分からない。また、インデントはタブ文字を使うのが通例のはずだが、HTMLのpre要素の中にタブ文字を入れることが推奨されていないことと、Operaのテキストボックスではタブ文字の入力ができないことから、スペース四つで代用している。ラインと中身が近いのでパディングの設定をしたのだが、無視されている。pre要素の挙動はどうもよく分からない。まあ、必要がない限り使わない方がいいのだろう。ちなみに、pre {というのが表示されていたら、ブラウザがスタイルシートに対応していないと思われる。少なくとも、style要素には対応していないだろう。よく知らないで使っているので、推測だが。少なくともOperaでは、style要素の中身は表示されていない。

明日は、D言語なんて使いにくいものとはおさらばして、少しJavaの練習をしてみることにする。いろいろ批判は聞くが、今のところ僕には関係のない内容ばかりだ。ネイティブコードを吐けないようだが、ネイティブコードに依存するようなプログラムは今まで書いたことがないし、たぶんこれから書くこともあまりないだろう。まあ、DirectXが使いたいとか、そういうのはあるかも知れないが。今のJavaは、お世辞にもグラフィックの処理が速いとは言えないし。パフォーマンスの点を見れば、数あるプログラミング言語の中でも最悪の部類に入るだろう。これほどまでにハードウェアが進歩したにもかかわらず、相変わらず重い。まあ、しかし、昔と比べればずいぶん速くなった。特に最近はその傾向が顕著だ。JavaVMはバージョン1.5.0が出ているはずなので、更新していない人は更新してみるといい。ちなみに、インストール済みの人はバージョンチェックをしてみるといい。Javaアプレットが動作するなら、JavaVMのバージョンチェックができるはずだ。

こんなところだろうか。もう3時だし、寝ないと…。ここ2年くらい、この時間が一番目が冴えるようになってしまった。なぜこんなことになってしまっているのだろう。起きるのが遅すぎるのだろうか。



2004年12月22日(水) SEOコンテスト終了

SEOコンテストがついに終了した。一応参加はしてみたが、やはりかすりもしなかったようだ。思ったよりGoogleで上位に出ることが多かったので試してみたが、さすがに約 1,740,000 件(2004年12月21日18時41分時点)という数では話にならない。ちなみに、「ゴッゴル 大学院生活」というキーワードで検索すれば1位になる。いや、こんな限定された条件では意味がないが。それにしても、いろいろ調べてみると、思わぬキーワードで一位になっていたりするものだ。驚く。

それはそれとして、おなかが空いた。帰ろう…。やはり大学で日記なんて書くものじゃないな。そう言えば、昨日久しぶりにバドミントンをやって、右腕が筋肉痛になってしまった。昨日はずいぶん右手が痛かったが、今日にはだいぶ良くなってきたようだ。まあ、まだ23歳ということなのだろうか。



2004年12月17日(金) 週末は疲れる

ゲームボーイアドバンス版のファイナルファンタジーI・IIを購入した。まだIしかやっていないが、宿屋に泊まるときのセリフ、「100ギルだけどいいかな?どうかな?」というのが古さを感じさせる。エニックスとくっついても、相変わらずリメイクは中途半端さを感じさせる。ドラクエは完全に作り直した感じなのに、どうしてFFはこうなのだろう。どっちかと言うと、エニックスの方が夢を見ているのだろうな。そして、スクウェアの方が、いかに金を稼ぐかということを考えているのだろう。それにしても、とにかくHPが減りにくい。そして、回復魔法を使っても全然回復しない。僕は好きだが、これでは緊張感がないような気もする。一般には受け入れられないような気がした。

相変わらず、週末はずいぶん疲れを感じる。キーを叩きたい気分なのだが、なんせ書くことが何もない。と言うよりも、あれこれ考えてはいるのだが、思い出してみると書くほどのことじゃなかったり、あるいは思い出せなかったりするのだ。昔は書くほどのことじゃない、と思うことの方が多かったが、最近では書こうと思っても思い出せないことの方が多い。書くほどのことじゃないと思っても、書くことがなければ書いてしまうのだが。

そう言えば、木曜日に同級生と忘年会に行った。久し振りに会ったが、みんな特に変わりはないようだ。変わり映えのしない生活を続けているのは僕だけではないということか。みんな研究室にこもっていると思いきや、意外と下級生のことを知っていて驚いた。僕は研究室の外のことなんて全然分からないのに。学部の頃からそうだったが、講義で一緒になったりしない限り、他の人のことなんて全然分からない。演習の指導で顔を見たりするようだが、それだけの関係なのに、ずいぶんいろいろ知っていて驚く。

ただ、僕はつくづく酒の席には合わないと実感した。確か、下級生にかわいい子がいるとか、人に飲ませてばかりいないで飲めとか、ずっとそんなような話をしていたような気がする。雰囲気そのものは悪くないのだが、話にはとてもついていけなかった、と言うよりも、加わる気になれなかった。酒を飲んだり飲ませたりというのは、僕には理解できないのかも知れない。母が酔って階段から落ちて救急車を呼んだ事件以来、酒には強い抵抗があるのだ。とても自然にたしなむ気にはなれない。感情的に受け付けないということではないのだが。ただ、冷静にその事件を思い返すと、とても飲むなんて選択は考えられないのだ。それ以前にアルコールがダメなのだが。アルコールは、体内で一度毒に変わってから分解される。人によっては、毒に変わるところまでは処理できてもその先は処理できないという手に負えない体質の人もいる。そんな人が下手に飲むと、死に至ることもある。十分に注意することだ。酒の席で過失致死罪になるなんて冗談にしては笑えないだろう。もっとも、なぜか酔っぱらっていると情状酌量の対象になるらしいので、実刑にはならないかも知れないが。ある推理小説家が、人を殺すなら酒を飲んでから殺せと言っていた。ある程度酒を飲んでから殺し、そのあとに前後不覚になるまで飲めば、責任能力がないことになるかも知れない、のだそうだ。信じられない法律だ。そう言えば、酔ってひき逃げすると、ひき逃げしたときに酔っていたかどうか証明できなくなって、罪が軽くなると聞いたことがある。世の中、理不尽なことは多い。

理屈がどうあれ、現実の問題に引っかかってできないことは多い。それについては、もっと良く認識すべきなのだ。最近、物事を建前で考えることが多すぎるような気がしてならない。北朝鮮の、横田さんの遺骨の問題がある。あれは、今の北朝鮮に、遺骨のことを調べるだけの能力がないように思えてならない。横田さんの行方を調べて日本側に示せば何かとスムーズにことが運ぶのだろうが、今の北朝鮮の国内情勢ではそれができないのではないかと。もしどうしてもできないのであれば、その現実を踏まえて話を進めないと、進む話も進まなくなってしまうのではないだろうか。最近、特に企業では、営業が先に価格を決めて、それから開発に取りかかるということが行われるらしい。開発における現実的な問題をすべて後回しにして、進めやすいところから進めてしまっているのだ。そんなことでいいのだろうか。もっと、理屈や理想ではなく、現実に目を向けるべきではないだろうか。確かに科学は発達してきたし、これからも発達し続けることだろう。しかし、科学的方法は、現実を観察して仮説を立てるところから始まる。仮説はモデルであり、モデルは現実ではない。前提条件を満たした場合のみに成立することなのだ。何でもかんでも理屈で物事を考えるのは間違っていやしないだろうか。理論というのは、あくまでも条件が成立している場合のみに成立するものだ。典型的な理論として三段論法がある。AはB、BはC、よってAはCとするような考え方だ。このうち、BはCの部分だけを持ってきて、その前の前提部分をすっ飛ばして結論を導いているような考え方が多くなっているような気がしてならないのだ。

そうこうやっているうちに3時になってしまった。だいぶあれこれ書いたし、そろそろ寝るべきか…。ようやくキーを叩く手が軽くなってきたところなのだが…。そうだ。どうせだから、大学のサーバに載せるページの内容でも考えるかな。確か、目次だけ作ったような記憶があるが。

HTML文書の作り方、CSSの書き方、Word文書の作り方などを、メモ代わりに載せておこうと思っていたのだった。僕なんぞが書かなくてもいくらでもあるだろうが、まあ、それはそれ、どこかの誰かの役に立つかも知れないということだ。できるだけ、僕自身の経験に基づいて具体的に書くことにしよう。きちんと整理された情報は他にあるから価値はないが、僕自身の経験も交えれば、とりあえず、世界に一つだけのものはできる。それに価値があるかどうかは別として。他には何があるだろうか。大学そのものの紹介は…紹介するほど、自分の大学について知らないな。研究室についても紹介するようなことはない気がする。大学のネットワーク設定については、知っていると便利だろうが、そんなものを公開してはまずそうだ。メールの設定くらいならいいかも知れない。僕が知っている知識で、世界に公開して役に立つものなどあるのだろうか。そういうことを考えるのも、悪くないかも知れない。使っているソフトウェアの紹介、使い方の紹介もいいかも知れない。Eclipseあたりではともかく、HTMLエディタくらいなら、それほど使い方を公開している人もいないのではないだろうか。役に立つ情報か。他に何があるのだろうか。断片的でも、ある都内とでは大違いだから、気軽に作っていっていいのかも知れない。なるべく細かくページにしてしまうことだ。必要があれば、いくらでもリンクできるのだから。

うーん。とりあえず量だけは増えたかな。まあ、まだまだ書き足りない気分ではあるが、今日はこのくらいで寝ることにしようか。どうせ読む人などいないだろう。それにしても、この背景にこの文字色は読みづらいな。やはり、CSSの変更を検討しよう。どんな色がいいだろうか。明るい背景に濃い文字の方が見やすいだろうか。色の組み合わせも、いろいろ考えてみたらおもしろいかも知れない。

…そう言えば、電車男の話題だが、エルメスが「続ききぼんぬ」と言ったというのは事実だろうか。もしそうであれば、イメージはまったく変わってしまうのだが…。純愛なんてとんでもない、エルメスもまた、立派なねらーだったと。まあ、オチとしては悪くない気がする。そうでもなければあんな展開にはならないだろうし。



2004年12月15日(水) 日記を書く意欲

CSSで壁紙を指定してみたのだが、どうやらこれ、J-COMからでないとアクセスできないようだ。ダウンロードしてみるかどうかは後々考えることにしよう。

やっぱりここで止まるなあ。ネタがないというより、書きたくないと言った方がよさそうだ。いったい昔と比べて何が変わったのだろう。よく分からない…。



2004年12月13日(月) 不調の解決

もう1年以上前から、昼間はなんだか眠い、という生活が続いている。単に刺激の少ない生活だからだと思っていたのだが、ふと思いついて試してみたことがある。それは、深呼吸だ。

布団に入ってふと考えたのだ。このときに限らず、去年くらいからずっと、布団の中くらいでしか新しいことを思いつかないのだ。もしかしたら、眠いのは単に酸欠ではないだろうか、と。僕は、口呼吸は風邪を引きやすくなるしのどが渇きやすくなると聞いて、鼻炎であるにもかかわらず、いつも鼻で呼吸するようにしていた。昔と比べれば軽くなったとは言え、鼻炎の状態で、鼻で呼吸しようとすれば苦しい。鼻炎でない人も、花粉症のことを考えてもらえれば分かると思う。花粉症もない人は…幸せですね、と言うしかない。で、長いこと鼻呼吸するようがんばっていたら、苦しいのにも慣れてしまった。しかし、そこでもしかしたら、常時酸欠状態にも慣れてしまったのかも知れない。そう考えれば、ここ2年ほどの失調にも合点がいく。記憶力の低下もボーっとするのも、単に酸欠だったのだと。夜になると目が冴えるってのがイマイチ分かりづらいが、夜は大抵ゲームをしているので、興奮して呼吸が増えるのかも知れない。

もしそんなことが原因だとしたら、僕は2年も何を悩んでいたというのだろう。そう考えると、何とも悲しくなってしまう。

しかし、2年ともなると生活のペースを取り戻すのも大変だ。思い返してみれば、3年生の頃は、日々の生活から日記のネタを拾い出しては記憶に刻み込んでいた。しかし、記憶力の低下に伴って、いつしかそんなこともやらなくなってしまった。

ところで、このページの背景に縞模様は見えているだろうか。自宅では見えているのだが、大学から見ると見えなかった。もしかしたら、この背景画像はJ-COMからしかアクセスできない背景画像なのかも知れない。まあ、背景など画像でも無地でもどちらでもいいのだが。

あとは、手帳を買った。ウェブページへのリンクを張りたいところだが、面倒だからやめておく。高橋の手帳、らしい。588円だったかな。安いが、今まで手帳など使っていなかったのだから、シンプルなものの方がいいだろう。ゴッツい手帳を買っても邪魔になるだけだ。

その他には…。去年までの同級生にメールを書いたくらいだろうか。10月にメールアドレス変更をして、それ以来メールのやりとりが続いている人が一人だけいるのだ。昔はメール、大好きだったのだが…。最近は日記と同様、書くことが思い浮かばない。

…う、なんか助教授の先生からメールが。僕に宛てたものではなく、学部の二人に宛てたものだが、内容が何とも怖い。そう言えば、3年生のメールアドレスが決まったので研究室のメンバーに通知しなければ。寮じゃ受信できないと言っていたからなんとか解決手段を考えないと。



2004年12月10日(金) 大掃除と忘年会

今日は、研究室で大掃除をした。そして、これから忘年会に行く予定だ。会費は確か3000円だっただろうか。教職員が多く出すとかいう噂だ。

やっぱり、大掃除とは言え一種の団体行動であり、団体行動をすると、メンバーのことを少し理解できる。技官の人は、意外とやる気がないことが判明した。大掃除だと言うのに、面倒だから机は動かさなくていいや、と言っていた。まあ、僕も部屋の清潔さにはさほど興味はないので、軽いものだけ動かして、触れるものだけ雑巾をかけて、床は掃除機とモップでおしまいという大掃除に特に異存はない。技官と僕と、学部の学生二人の計4人でやったのだが、男女一人ずつの学生のうち、女の学生は多少不満げだった。しかし、特にきれい好きでもない男が集まったって、この程度の大掃除にしかならないのだ。なんと、三つの部屋を掃除して2時間で終わったのだから、とても大掃除とは言えないものだということは容易に察することができるだろう。

ところで、「察する」ってのはいったいどういう言葉だろう。辞書を引くと「サ行変格活用」とある。サ行変格活用ってのは「する」って動詞と同じ活用をするはずだ。それはいいのだが、可能を表す場合はどうだろう。普通、サ行変格活用の動詞で可能を表現する場合、「できる」という言葉を使うはずだ。「相談できる」、「感動できる」、「理解できる」という感じだ。これを察すると言う言葉に使うとどうなるのだろうか。「察できる」だろうか。こんな使い方をするとは思えないし、変換もできない。どうもこれ、普通のサ行変格活用の言葉とは違う気がする。

と思ってあれこれ調べてみると、ATOK技術情報にちょっとおもしろいことが載っていた。「する」がついてサ行変格活用する動詞と、そもそもサ行変格活用の動詞とで区別しているのだ。学術的には分からないが、やはりプログラムとして実装するときは区別するのだろう。この場合、いったい「可能」の表現はどうなるのだろう。「察することができる」という表現しかないのだろうか。ちなみに、「察せられる」という表現はできるようだが、これは「察す」という言葉からの派生だから、「察する」という言葉とは別…なのだろうか。そもそもこれ、サ行五段活用の終止形だけ「察する」に変わった形のような気もする。うーん。どうもよく分からない。未然形から順番に見ていくと、サ行五段活用として見た場合、「察さない」、「察します」、「察す」、「察すとき」、「察せば」、「察せ」で、サ行変格活用として見ると「察しない」、「察します」、「察する」、「察するとき」、「察すれば」、「察せよ」となる。一応整理しよう。

動詞の活用
五段変格
未然察さない察しない
連用察します察します
終止察す察する
連体察すとき察するとき
仮定察せば察すれば
命令察せ察せよ

で、書きかけだが、そろそろ忘年会の時間なので出かけることにする。言いたいことは、これどっちでも通じるなあ、ってことだ。どっちが正しいのだろう。あるいは両方正しいのだろうか。ちなみに、body要素内にstyle要素を記述しているので、ブラウザによっては不具合が出るかも知れない。そもそも、この書き方が正しいのかどうかは確認していない。

で、12月11日になって、表とその他の加筆をした。10日のうちに全部書けよ、という気もするが。忘年会は…。まあ、たいしてよくもなかったが、酔った先生や後輩に絡まれなかったから良しとしよう。正直に言ってそれほど今の研究室に満足しているわけではないが、酔っぱらいがいないのは嬉しい。



2004年12月09日(木) 思いつくままに

ちょっと初心に返って、これからしばらく、思いつくままに書いてみようと思う。元々そうやってきたのに、一体いつから、テーマを決めて書くようになったのだろう。書くことがないなあ、とか思いながらとにかく書き連ねていて、そのうちそれなりの量になる、ということを毎日続けていたはずだ。

日記というものを考えると、つくづく習慣というのは忘れてしまうものだと思う。毎日同じように生活していたはずが少しずつ変わってきていて、ふと思い出してみると、以前とはまるで違ったものになっている。もう今では、これまでどういう生活パターンだったのか、思い出すことすらできない。まあ、2年も前のことだから、思い出せないのも無理はないのだが。

無気力無関心無感動は今に始まったことではないが、最近は特にひどくなった気がする。昔は、無気力だとか無関心だとか言いながら、そういう自分について考える余裕があった。しかし、今はもう、少しでも早く寝たいとかそんなことばかり考えていて、とても日記を書く気分になれない。原因は明らかで、研究に追われているせいだ。時間的な余裕はむしろ今の方があるくらいなのに、どうしてこれほどまでに追い込まれた気分になるのだろう。

おそらくは、いつまでも終わらないものだからだ。そもそも論文の形が見えてきていないし、終わるまでの道筋も見えてこない。プログラムが書けないと内容も決まらないから展望もない。落ち着いていなくても、振り返ってみれば余裕を持てないのは当たり前の状況だ。この状況に就職問題が重なっているのだから、自分を見失うのも無理はない。

大事なのは、こうやって日々振り返ることなのだろう。振り返ることで、自分を客観的に眺める余裕を得ることができるのかも知れない。で、そのときに意外と重要なのが、ヘッドホンで歌詞のない音楽を聞くことだ。僕はMIDIの音楽を聞いているが、たぶんMIDIでなくてもいいだろう。これは意外と集中できる。SONYのヘッドホンを買ってしまったので低音が強すぎるのは難だが、それ以外はさほど問題はない。あと、MIDIデータの中にはスピーカ用に調節しているものが結構多く、その場合、音を右や左に振り切ってしまっている場合がある。こうなるとちょっと大変だ。右に振り切ってしまっていた場合、左からはまったく聞こえなくなるので、かなり強い違和感を感じる。ある程度は慣れるが、それでもちょっと頭が痛くなる。どちらか片方の耳からしか音が聞こえないというのは、自然にはあり得ないことなのかも知れない。

それにしても、何も見ず、テーマも決めず書き始めるのは久しぶりだが、案外スムーズに動くものだ。昔はスラスラ書けたのに今は書けない、なんて日記を書くことも多かったが、最近はそうでもないかも知れない。思いつくことを何でも書いていけばいいのかも知れない。最近、弟がタバコを吸うようになって、相部屋の部屋の中でも吸うようになった。タバコに関しては、ブルーバックスの本でさんざん害を読んだせいで、昔よりも神経質になっている。臭いをかぐだけで気分が悪くなるほどだ。

思い返してみれば、電車の中でやることは、今も前もほとんど変わっていない。マンガ週刊誌を買う機会が増えたことくらいだろうか。昔と比べておもしろくなったとは思わないのだが、なぜか読みたくなる。なぜそれほど読みたいのかは分からない。昔と比べてゲームボーイアドバンスに飽きたからだろうか。いや、マンガ週刊誌をコンビニで立ち読みする時間がないと感じているからだ。そういう時間を確保してはいけないと思っているのだ。実際は、それ以上の時間を非生産的なことに費やしているのに。最近はDQ6をやり始めてしまった。改めてやってみると、今でないと見えてこないことがいろいろあっておもしろい。ファイナルファンタジーと比べてみると、グラフィックなどはファイナルファンタジーの方が良くできているが、ゲームとしてはドラゴンクエストの方がよくできている気がする。直感的で分かりやすいのだ。システムのバリエーションが乏しいとも言えるが。毎回似たようなイメージでそれほど凝ったシステムではない分、取っつきやすいのだ。ファイナルファンタジーは、毎回違うシステムということにそれほどこだわらなくてもいいと思うのだが、どうなのだろうか。ずっと続けてもいいと思えるくらい、ファイナルファンタジー5のシステムは良かったと思う。まあ、あれはストーリーの問題があって苦しいかも知れないが。

最近、Operaが強制終了することが多くなった。新バージョンのバグだろうか。ちなみに、OSはWindows2000で、Operaのバージョンは7.53だ。特に、ATOKで入力をしているときと、セキュリティのかかったページで作業をしているときによく落ちる。OperaはかなりHTMLの実装に関しては優れていると思っていたのだが、いろいろ調べてみると、実際はそうでもないらしい。インターネットエクスプローラと似たようなものなのだそうだ。W3Cも、いろいろ規格を出すのはいいが、世界一流のソフトウェアベンダーにすら実装しきれないような規格を作ってどうするのだろう。もしかしたら、夢を見過ぎなのかも知れない。その辺の国による違いはあるのだろうか。

うーん、こうやってまともに日記を書くのはかなり久しぶりのような気がする。最近はずっと、書くテーマを決めて、そのテーマに沿って書いてきたはずだからだ。やっぱりこうやってとりとめもなく書いていく方が気が楽だ。

弟は大学院には進まず、すでに就職が決まっている。会社の寮に入るようだが、そこでインターネットを使う場合にはどうするのかと聞かれた。今の会社は、どういう場合が多いのだろう。まさかすべての部屋にFTTH完備!なんてのは珍しいと思うが。PHSを使っている知り合いもいるが、それではあまりに厳しい。しかし、なんでもかんでもコスト削減の世の中だし、寮にインターネット用の回線なんて整備されていないものなのかも知れない。なんとも世知辛い世の中だ。昔はこうでなかったと聞くが…。一体いつからこうなってしまったのだろう。昔はきっと物質的に豊かで幸せだったのだろうが、現状のこんなことを聞くと、物質的には豊かでも精神的には…なんて話以前に、物質的にも豊かではないと思ってしまう。

豊かさとは何だろう。僕は、それは余裕じゃないかと思う。ただ食べるだけではなく、おいしいものを食べる、珍しいものを食べる。そういう余裕のあることが、豊かさではないかと思うのだ。余裕がなくものだけあるなんて、豊かとは言えないんじゃないか。僕には、そう思えてならない。とは言え、今の社会の中で、それを否定することなんてできない。僕にはそんな力はない。結局のところ、社会の歯車として生きていくこと以外に、生きる術などないのだ。すべての人間を型に押し込めることで、現代社会は成立しているのだから。自由なんて錯覚だ。もし本当に自由なら、自由に義務が付随するはずはない。現代の自由は、いわば義務に制約された自由なのだ。そうだ。勘違いしてはならない。本当の自由ではないから、権利は無制限ではないし、どこまでも義務を要求される。マナーもルールも要求される。必要なこともあるし、必要でないこともある。しかし、ルールを守ること自体がルールなのだ。だから、不必要なルールでも、もしルールが存在するのなら守らねばならない。それは、多くの人間がまとまって生活するために、しかたのない犠牲なのだ。それによって、多くのものを得ているのだから。望むと望まざるとに関わらず、今の人間はこの社会に従属するしか道はない。昔は他の国に逃げるという手があったかも知れない。しかし今は、グローバルスタンダードの名の下に、すべての国が手を携えていこうという時代だ。選びうる選択肢は、決して多くない。もっとも、些細な選択肢は無数にあるのだが。それは、人を迷わすのに十分な数だ。情報過多…。人類を飲み尽くす膨大な情報の波。何が本質かなんて誰にも分からない。きっと、最も重要で本質的な事柄だけでも、把握できないほどたくさんあるのだ。誰にも把握できないのに、すべての人がそれを把握することを要求する。一体誰が、そんな無駄で無意味な要求をしているのだろう。社会の意思?社会に意思なんてあるのか。これこそが神の意図とでも言うのだろうか。



2004年12月08日(水) ももいろ

今日やったことではありませんが、CSSを変更しました。まぶしくてとても見づらくなったかもしれませんね。まあ、なるべく全サイトをこれで通そうと思っているので、これでいいのです。

この日記に適用したのは、これから作るすべてのサイトで共通の土台にしようと思っているCSSです。それにしてはまぶしいのですが…。コミューンにこだわるよりも自分の好きな色で配色するほうがいいかもしれませんね。正直に言って、ももいろって好きな色ではありませんし。

それにしても、このエンピツでは意外と細かいバグが多いということに気づきました。このページはEXデザインという機能で、比較的自由にHTMLを記述することができます。HTMLを記述するのにデザインというのが気に入りませんが、仕方ないでしょう。それはいいとして、このEXデザイン、一部の文字列が勝手に変換されるというバグがあるようです。回避する方法もあるようですが、いろいろやってみたらそのうちできるようになったという感じで、どうやればいいのかよく分からない感じがします。バグの内容は、半角の記号が全角に化けたり("|"が"|"に化ける)、実体参照の記述が無効になったり("&"という記述が"&"になってしまう)というものがあるようです。この日記で言うと、上部にあるナビゲーションリンクは半角のバーで区切ることができていますが、右下にあるナビゲーションリンクではできていません。

まあ、そんなにいいデザインというわけでもないので、細かいところにこだわる意味は、あまりないのですが…。

今日は13時からゼミがあったのですが、その前後にルータの設定をしていたおかげで、17時の今まで食事する機会を逃してしまいました。やれやれです。おなかが空いて仕方がありません。



2004年12月03日(金) フードファディズム

フードファディズムとは、食べ物が健康や病気に与える影響を誇大に信じてしまうことだ。『「食べもの情報」ウソ・ホント』という本を読んで、この考え方の存在を知った。

事例を挙げるとわかりやすいだろう。Wikipediaフードファディズムの項目によると、「砂糖とカルシウム不足伝説」、「炭酸飲料で骨が溶ける伝説」などが挙げられている。砂糖とカルシウムはともかく、炭酸飲料の方は、あきれるような論理展開だ。なんと、炭酸飲料に魚の骨を入れると溶けるから、炭酸飲料は骨を溶かすのだそうだ。あきれて物も言えない。一応解説すると、飲んだものは消化器官で消化されてから吸収される。したがって、骨を溶かすものを飲んだからと言って骨が解けるわけではない。第一、酸性の度合いで言えば炭酸飲料よりもレモン水やオレンジジュース、グレープフルーツジュースのほうが高く、さらに胃酸の強さはそれらをはるかに上回る。もし炭酸飲料で骨が溶けるのならば、その前に胃酸で骨が溶けているはずだ。

これほどひどくはなくても、ファーストフードが体に悪いという意見を聞いたことがある人は少なくないだろう。もっと一般化すれば、天然や自然のものは体に良く、人工や化学のものは体に悪いと言う意見を聞いたことのある人は少なくないと思う。しかしその根拠を考えてみると、はなはだあいまいであることに気づくはずだ。ファーストフードを考えてみると、そもそもファーストフードの何が体に悪いのかが分からない。まず、ファーストフードの原材料を考えてみる。ハンバーガーの場合、パンと牛肉と言っていいだろう。で、パンと牛肉の何が体に悪いのだろう。それとも、調味料だろうか。化学調味料だから体に悪いのだろうか。

ということで、天然と人工について考えてみる。で、いきなり壁にぶち当たる。いったい何が天然で、何が人工なのだろうか。ここでは、自然にあるものをなるべくそのまま利用しているものを天然とし、精製や加工を行っているものを人工としよう。おそらくそれほど一般的な概念から離れてはいないだろう。

化学調味料の中で一番有名なのは、おそらく味の素だ。これは、僕の記憶違いでなければグルタミン酸ナトリウムという物質が主成分だ。これは、小麦を精製して取り出すことによって作る。さあ、ここで問題だ。僕の知る限り、この工程では何一つ加えてはいない。ただ、必要な物質以外を取り除いただけだ。そもそも精製とはそういうものだ。では、こいつの何が問題なのだろう。脳に悪いと言われるが、小麦を食べて頭が悪くなるなど聞いたことがない。精製するだけでだめなのだろうか。精製すると純度が上がるから、たくさん取り過ぎてしまうのだろうか。それなら、量を減らせばいい。量が多いと問題なのは、何も化学調味料に限った話ではない。世界で一番有名な天然の調味料である塩だって、取りすぎれば高血圧などの原因となる。だいたい、塩だって物質名は塩化ナトリウムという立派な物質だ。有機物と無機物と言う意味では、グルタミン酸ナトリウムとはまったく違うものだが。

そう言えば、有機は良くて無機はダメ、という考え方もあった。その考え方で言うと、化学調味料は良くて塩はダメと言うことになる。つまり、論理展開につながりがなく、言っていることに無理があるのだ。

これは一例に過ぎない。科学的な根拠があったとしても、過大な評価を行えば、それはフードファディズムとなり得る。ビタミンが体にいいと言って、ビタミンばかり摂取するような場合だ。ビタミンが体にいいというのはあまり適切でない。どちらかと言えば、ビタミンが不足すると体に悪いと言うべきだ。ごく普通に活動するためにビタミンが役立つのであって、特殊な効果があるわけではないのだ。だから、不足さえしていなければ、あえてたくさん摂取する必要はないのだ。

フードファディズムに限った話ではないが、最近の短絡的な議論には、ことごとくバランスという視点が欠けている。一つのものに着目するとき、他のものを無視してしまうのだ。他のものを低く評価するなら、まだ理解できないこともない。食品の場合はバランスの良い栄養素の摂取が重要だが、他の問題なら、何か一つ重要なものがあって、他は重要度が低いかもしれない。しかし、考慮すらせずに無視してしまうのは問題だ。

結局のところ、この種の議論は視野が狭いという結論に帰結する。物事について考えるときは、どんなものがその物事に関連するのかを考えるのが普通だ。人間の健康について考えるとき、人間の食事として食品を考えたりすることが例として挙げられる。このとき、何の前提もなければ、特定の食品だけが健康に大きな影響を与えると考えるのはおかしい。いろいろな食品が、それぞれ影響を与えると考えるのが自然だろう。そのあとで、特定の食品に強力な証拠があれば、それからその食品について考えていくべきなのだ。ああ、しかしフードファディズムの考え方の場合は、強力な証拠を捏造してしまうのか。つまり、捏造を見破る目が必要になるわけだ。もっとも、「他の食品はどうなってるの?」というバランス感覚さえあれば、違和感を感じるはずだが。

さて、このフードファディズムの議論だが、きわめて大きな問題点がある。それは、現実的な視点に欠けているということだ。安易な食品の過大評価を批判しているわけだが、なぜそんなことが起こるのか、という視点が欠けている。マスメディアや商品を売る側が悪い、と言うだけでは済まない問題なのだ。では、消費者の頭が悪いのか。確かに、そういう一面もあるだろう。しかし、「頭が悪い」なんてとても論理的な考え方で導き出した答えとは思えない。他にあるはずだ。

それが、「現実」という問題だ。フードファディズムの問題は、あくまでも科学的な議論だ。つまり、モデル化した理想状態を論じている。現実問題に対応できていないのだ。「三食をバランス良く」などということがお題目に過ぎず、現実的に不可能なのは多くの人が感じていることだ。著者は高校生の息子を例に挙げていた。確かに、高校生ならできるかも知れない。しかし、例えば僕のような理系の大学院生の場合、三食キッチリ調理して食べることなど不可能だ。フードファディズムを主張する人たちは、駅のホームを歩きながら食事するという実態を、果たして考えているのだろうか。東京や新宿の駅を見るがいい。多いとは言えないが、少なくもない人が、ホームや駅構内で食事している姿が見られるだろう。その人たちのすべてが、単に好きでそんなところで食事をしているのだと思うのだろうか。そんなわけはない。時間がなくて、駅しか食べる時間を確保できる場所がないのだ。野菜ジュースの話を見て、最初に上げた本の著者が、この現実を理解していないことが読みとれた。

その本の著者は、野菜ジュースは野菜の代わりにはならないと述べている。検証したわけではないが、事実なのだろう。重要なのはその先だ。「だから野菜を食べよう」というのは非現実的だ。野菜を食べる時間がない場合にいかに問題を解決するかという視点が不可欠なのだ。だが、この著者はそれ以降の進展がない。この場合必須なのは、「では、野菜ジュースは野菜と比較してどれほど劣っているのか」という議論だ。劣っているという表現に問題があるならば、栄養素の含有量の比率を示しても良い。まさか、野菜を野菜ジュースにしたからと言って、すべての栄養素がまったくなくなってしまうということはないだろう。野菜ジュースを野菜の代替にせざるを得ない人が現実に存在することは、想像力を働かせれば容易に分かることだ。これは望んでそうしているのではなく、あくまでも妥協だ。しかし、だからこそ栄養状態に問題があるわけで、栄養摂取により気を使わなければならないのだ。三食をキッチリ食べられる人なら、栄養摂取に気を使うことなどあまりないはずだ。これは、著者自身が言及していることだ。重要なのは、そんな恵まれた、理想的で、多忙な社会人から見れば非現実的な議論ではないのだ。食生活に問題のある人こそ、栄養について気を使うべきなのだから、彼らに対する言及があってしかるべきではないだろうか。現実を見据えていない議論など、専門家の自己満足に過ぎないのだから。



2004年12月02日(木) 弟の誕生日

2004-12-03

この日は弟の誕生日だった。帰りに東京駅で焼きりんごタルトを買って、新宿駅でアイマスクを買った。このアイマスクは、実は弟が何年も前から欲しがっていたものだった。それと言うのも、僕と弟は相部屋で生活している。だから、二人が同時に寝ない限り、早く寝る方は電気のついたままの部屋で寝なければならないことになる。今時相部屋と言う人は少ないかもしれないが、これは相部屋の大きな問題点だと思う。

この問題点を解決する画期的な方法がアイマスクなのだ。ちなみに、音がうるさくて眠れないという問題を考えるかもしれないが、これは起きている方が考慮すべきだ。起きるときに目覚まし時計を使う場合、耳栓をしていると起きられないかも知れないからだ。ただ、僕は夜遅くまでPCのキーをたたいていることが多かったので、弟にはこれまで多大な迷惑をかけてきたかもしれない。弟によると、蛍光灯がついているよりもむしろ、キーの音のほうが邪魔に感じるらしい。



2004年12月01日(水) ルータの設定

今の研究室は、10Base-5のネットワークを使用している上、ルータで非常に厳しい設定を行っているため、とても不便だ。たとえば、HTTPの通信はプロキシサーバを通した場合のみ可能だ。それ以外は一切認められていない。FTP、Telnetは全面的に不可だ。正確には、FTPは20番のみポートが開いていて、21番は開いていない。内から外への通信が、認められたもの以外一切通らないようになっているのだ。そこまで信用できないのかと言いたくなる。

で、100Base-TXの新しいネットワークを使うことになっていたのだが、助教授の先生も技官の人もずっと忙しく、そのまま放置されていた。で、試しに技官の人に聞いてみたら、僕がその設定をやってしまっていいという話だった。ということで、早速やってみることにした。

ところが、これが意外と難しい。なんせインタフェースがRS-232Cしかないのだ。もちろんルータだからLANケーブルをつなぐことはできるのだが、IPの設定がデフォルトでオフになっていて、設定しないと接続することができない。しかも、つないでもできるのはTelnetによるコマンドラインでの設定だけで、今時常識とも言えるHTMLによるページでの設定はできない。それでもハイパーターミナルを使って何とかやっていたのだが、それでもまったく接続できない。そこで、助教授の先生にもらった設定情報がそもそも間違っているのではないかという疑問を抱いた。案の定調べてみたら、僕のいる研究室のネットワークのIPアドレスとは違うIPアドレスだった。どうやら、10Base-5の古いネットワークのデフォルトゲートウェイをよこしてきたらしい。

しかし、それで困ってしまった。ルータのIPアドレスも、デフォルトゲートウェイと同様、古いネットワークのサブネットに属している。ここら辺は詳しくないのだが、デフォルトゲートウェイが自分のサブネットとは違うサブネットに所属していた場合、直接通信することはできないはずだ。なので、デフォルトゲートウェイに接続できないことから、ルータで接続ができないということになってしまった。しかし、ルータを通さずに直接PCにつなぐと接続できる。謎としか言いようがない。なぜPCに直接だと、違うサブネットに属するデフォルトゲートウェイにも接続できるのだろうか。自動設定されるルーティングテーブルの中に、答えがあるのだろうか。と言うか、今時のルータならそのくらい自動で設定して欲しいと本気で思う。…まあ、それ以前に、なぜDHCPに対応してくれないのか、とも思うが。これはまあ、大学のIPアドレスが足りてないからなのかもしれない。しかしそんなものは、ローカルIPでも使えばどうにでもなるじゃないか、とか思う。


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