Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年11月28日(金) ある週末の日

なにもかたづいていないがとりあえず金曜日だ。適当に日記を書いてさらっと帰ろう。

どうやら、冷え性には水が効くらしい。わけが分からないが、そういうものなのだろう。比熱が高いからなのだろうか。水が冷たいとか、その辺の事情はどうでもいいようだ。水を飲むだけでOKなんて僕が安っぽいだけなのだろうか。まあ、それで別に構わないのだが。

今週は大学に来るのが遅かったので少し早めに来ようとがんばってみた。というわけで睡眠不足だ。明日とあさってはきっちり寝ようと思う。そして、もうアップする寸前まで書き上げた小説をいい加減上げよう。中学生の頃と比べて、高校生、大学生と時がたつにつれてだんだん文章が下手になっているのはなぜだろう。きっと、小説を読まなくなったからだろうな。ニュースだの論文だのは読むのだが、小説はほとんど読まなくなってしまった。家にあった小説もだいぶ捨ててしまったし。読んでいるとおもしろいのだが、読んでいないときは邪魔なのだ。自分のためにも、将来生まれるかもしれない子どものためにも、名作と呼ばれる本くらい持っておくべきだろうか。…子どもとか言う前に、結婚できるのかいな。

最近は、研究室でボーっとしていることが少なくなった。前と比べればずいぶんと良い傾向だ。夏休みくらいにこんな状況であればよかったのだが。まあ、苦しい思いをしたのもいい経験だ。なんて振り返れる時期ではないのだが。

最近は本当に興味の幅が狭くなった。昔はいろいろなことを知りたかったものだが…。ここ数日の日記はプログラミングの話ばかりだし。歳を取るとそうなるものなのか、僕の精神状態に問題があるのか。昔と比べてほかの人に興味がなくなってきたし。やはり、生活に刺激が足りないのかもしれない。卒論が終わったら、あちこち行って刺激を受けてこないといけないかもしれないな。となると、やはりバイトだろうか。それ以前に、そもそも卒論が終わるのかどうか微妙ではあるが。仕事はしているが、やれば終わるような単純作業でもない。がんばればいいというものではないのだ。結果がなければいけない。裏もまた真である。つまり、がんばらなくても結果さえ出ていればいいのだ。そんな風になってみたいものだが。

後輩たちに教えているプログラミングも徐々に進んできた。次回はいよいよオブジェクト指向のスタートだ。いったいどうなることやら。易しいテキストだから特に問題ないと思うのだが。早くデザインパターンの議論をできるくらいになってほしいと思う。もう少しきびしめにやったほうがいいのかもしれない。この時期のプログラミングなんてのは、書いてればそのうち覚えるものだし。それに、二人いるのだが、二人ともコンピュータを扱う感覚はあるようだ。やはりプログラミングをやるのにこの辺の感覚は必要なものだと思う。キーボードに抵抗を感じているようではなかなか難しいのではないだろうか。

さてさて、教授に頼まれた情報リテラシー用のアンケート項目でも考えるかな。クラス分けと言ってもどう分ければいいのだろうか。



2003年11月27日(木) 進捗状況

書くことはないが、ここ数日サボっているし…。うーん、昔、毎日のように更新していたのがウソのようだ。まあ、卒論で忙しいことより、忙しいのにゲームの時間を削っていないのが原因じゃないかと思うのだが。

ようやく本格的にプログラムを書き始めた。で、泥沼にはまり始めた。Windowsのプログラムは面倒だから興味がないのだが、どうやらそんなことも言っていられなくなってきたようだ。とりあえず、メインループを示す。

while(GetMessage(&msg, NULL, 0, 0)){
    TranslateMessage(&msg);
    DispatchMessage(&msg);
}

このうち、Windowsプログラミングで使う関数は、GetMessage()TranslateMessage()DispatchMessage()である。僕の目が腐っていなければ、メインループで使われている関数はすべてWindows用の関数である。…どうやら、逃れられないようだ。本来なら手を加えずに済む部分なのだが、中途半端に改造を加えたためにそうも言っていられなくなった。このうち、ソケット受信部分がうまく動いていない。コンパイルできてからが大変だ…。

ちなみに、それ以外にも問題を抱えていて昨日から悩んでいたのだが、研究室の修士の先輩に相談したら約10分で解決した。さすがにプロは違う。この研究室に来る前はプロとしてソフトウェア開発の現場にいたらしいのだ。ちなみに、原因はメモリを確保する前に参照するというイージーミスである。言われてみればデバッガは明らかにそうだと言っていたが、僕には分からなかった。まあ、慣れればきっと、分かるようになるだろう。しかし、どうしてC++のエラーメッセージはこう見づらいのだろう。

最近、研究室がずいぶん寒い。エアコンをフル稼働させているのだが、どうも出力が足りないらしい。情けないことだ。まあ、この広い研究室に僕一人では、空気も冷え切る一方なのだろうが。キーボードを叩くには何とか不自由しないが、シャーペンで文字を書くにはかなり寒い。手がかじかんで力が入らない。キーボードも他のものと比べるとやや重いが、それにしたって寒くて押せないほどではない。

ああ、今日は昼食を食べていない。とっとと帰って食事かな…。そんな状況でも日記を書く手の動きだけはスムーズなのが以前とは違うが…。ずいぶんかかったが、ようやくこの研究室の生活にも慣れてきたということだろうか。決して悪い生活ではないのだが、やはり刺激に乏しい。講義だってたいした刺激ではなかったが、それにしたってまったく刺激がないわけではなかった。しかし、今は講義すらない。本当にまったくと言っていいほど刺激がないのだ。相変わらずあまり人に会わないし…。

こないだみたいに、また誰かとあちこち行ってみたいなあ。いろいろ話もしてみたいし。とりあえず、これから1月まではそうも言っていられないだろうが。未来が見えないなあ。これから先、いったいどうなっていくのだろうか。

プログラマーもそろそろ供給過剰気味だし、かと言ってコンサルタントあたりになるとそう簡単にはなれないし、この分野の未来派くらいのだろうな。IT専門業者は下り坂だから、どこかの企業のシステム部門だろうか。しかし、どこに行っても雑用ばかりで大変なのだろうな。雑用自体はどうだっていいのだが、それで長時間勤務することになるのは嫌だと思う。誇りをもてる仕事でなくていいから、やたらと残業のない仕事ってないものだろうか。給料が安くてつまらないけど、長時間拘束されない仕事。そんなに悪い条件ではないと思うが、今の時代、こういう仕事をやりたがる人は多いのだろうな。

この時代に、いったいどんな夢を見出せばいいのだろうか。すでに十分幸せで、これ以上希望を見出す必要性がない。あえて言うなら昔に戻れれば最高ということくらいだ。そんな懐古趣味しか持たないような人間が大量生産されて、いったい何をなし得ると言うのだろう。どんな夢もナンセンスに感じるのは僕だけではあるまい。今を楽しく刹那的に生きることが結局、一番なのではないだろうか。将来のためにがんばるのは、今、楽しめないという状況があるからだ。苦境にあるから解決しようと願うのだ。その時すでに大きな問題がないのであれば、その状況を守りつづけようと願うのが当然の心理ではないか。

最近、また彼女のことを思い出す。いい加減、忘れたと思っていたのに。寂しいのだろうか。まあ、願ってもかなわないことだ。忘れようとしても仕方がない。意識しないことが一番なのかもしれない。

今の世の中、一人ではできないことが多すぎる。人間には無限の可能性があるはずなのに、たった一人の人間はあまりにも無力だ。ましてや、なにかをしようという意欲がないのならなおさらだ。…さて、いい加減帰るか。文章を書くことよりキーボードの手触りを楽しんでいるだけだから…。なんでこのキーボードはこう気持ちいいんだろうか。みんなこれが好きじゃないのかな。重たいと言っている人もいたが…。キーの重さも含めて、まるで僕のために作られたようなキーボードだ。最近はミスタッチも減ってきたし。

早く、卒論終わらないかな…。



2003年11月23日(日) 結婚式

結婚しました。…もちろん僕ではないが。行ってきたのは従姉いとこの結婚式だ。

実は、僕は今まで結婚式に行ったことがなかった。結婚式自体はあったのだが、基本情報技術者の試験と重なったりして行けなかったのだ。…もっとも、その基本情報技術者の試験は寝坊して受けられなかったのだが。2002年の10月20日だったと思う。今、見返してみてもやはり情けないな。当時はあまりに情けなくて絶望的な気分になったものだが。

朝早くから出かけていって、途中で朝食を取って池袋まで出かけた。会場はベルクラシックホテルというところだった。なかなか高そうなホテルだった。まちがって喫茶店の席に座ってしまって、仕方なくココアを頼んだのだが、一杯700円、2人で同じものを頼んだらなんと1600円以上になってしまった。二杯で1400円なのだが、残りの分はサービス料らしい。そんなたいしたサービスは受けていないのだが…。1600円ということは、1人800円。これだけあれば、ココアどころか、おいしいものが腹一杯食べられる、などと考えるのは貧乏性だろうか。

結婚式では、とにかく待たされた。丸一日かかっていたのだが、結婚式に30分と披露宴に2時間。11時半頃について披露宴が終わったのは17時くらいだから、5時間半のうち、まともに何かしていたのは2時間半だけで、残りの3時間はひたすら待っていたわけだ。しかも、Javaのデザインパターンの本を持っていっていたのだが、大きくてかさばるためにホテルの中に持ち込めず、何の意味もなかった。文庫本もあったのだが…。デジタルカメラも忘れたし、今日は後悔のし通しだった。

結婚式そのものは、たいしたことはなかった。本人たちは幸せかも知れないが、そんなことで呼び出されるこっちは面倒なだけだ。だが、結婚式そのものはいいとして、結婚式場でバイオリンの生演奏を聴けたのはかなり感動した。オーディオにかなり凝っている知人がいるが、その人の家で聴いた音にかなり近かった。さすがにこだわっているだけのことはあると妙に感心してしまった。

にしても、あのキリスト教の牧師。明らかに無宗教の人間たちを相手に、よくもまあ、あそこまでできるものだ。結婚式というのは、思ったよりずっと宗教的なのだと思った。日本人の国民性がまともに現れている。都合のいいときだけ宗教を利用する国民性だ。キリスト教なんて信じていないくせに、ロマンチックだからと教会を利用する。宗教をバカにしているとしか思えないのだが、それでどうして教会側も協力するのだろうか。いや、教会は結婚式のために建てられたものだろうから、問題は牧師か。まあ、牧師も結婚式のために雇われたニセモノだと考えればしっくりくるのだが。英語の演説なんて聞かされてもきっとほとんどの人は理解していないに違いない。雰囲気を出すためだけに無意味なことをするものだ。音楽を聴けるのはいいが、それ以外のあんなセレモニーにいったい何の意味があるのだろうか。

披露宴の方は、見るべき点はなかった。新婦とその友人の歌は異常にうまかったが、だからと言って一日をつぶしてまで聴くほどの価値はない。まあ、フランス料理のフルコースは初めてだったのでいい経験になった。結論から先に言えば、こんな高級なものは僕の口に合わない。よくできた料理なのだろうが、僕にはおいしいとは思えなかった。弟はかなりおいしいと言っていたので、おそらく僕の味覚が安っぽいのだろう。まあ、フランス料理を食べてまずいと思ったとしても、牛丼を食べておいしいと思えるのなら何の問題もないと思っている。牛丼屋の牛丼がまずくて食えないなんて言う奴がいるが、フランス料理を食べられないよりもそんなやつの方が不幸だと僕は思う。あんな安くおいしい料理が食べられるなんて、幸せなことではないか。聞いた話では相当薄味だったらしい。味がどうとか言う以前に好きになれなかったので、僕にはよく分からなかったが。

そんなところだろうか。どうも結婚式における中途半端に遠い親族というのは、単なるお手伝いのようだ。結婚式の主役はもちろん新郎新婦、あるいは両親だ。祝福するのは彼らの友人たちだ。僕のような遠い親戚の場合、祝福しようにも相手のことをよく知らない。今回結婚した従姉とは、僕は数回しか会ったことがないのだ。言葉を交わしたのも10回あるかどうか。そんな僕たちがやることと言えば、式には興味がないのだから、ビデオを撮影したり、受付をやったりすることだけだろう。そう言えば、受け付けもひどくいい加減だった。何の説明もなかったので、僕はろくにあいさつもできなかった。まあ、社会人としての常識が欠如していることは確かだが。まあ、受付をしに来た相手だって僕らにあいさつしてこなかったし、その辺はどちらも似たようなものだろう。

チャペルにいた修道士っぽい人たち。なんとなくアコライトっぽかった…。鐘を鳴らしているのはエンジェラスに見えた。ゲームのやりすぎだろうか。ちなみにこのリンク先、見づらいが一応、鐘が鳴っている。あのベルはなんて言うんだったかな。最近、割と演奏する人が増えているらしい。ああ、そうだ。ハンドベルだ。確か、高校の頃の先生が演奏していたな。あの人は、日の丸君が代に反対して大変な目に遭っていた人とは別の人だろうか。ああ、思想信条の自由はどうなるのだろうか。

リンクするためにあちこち探していたら、こちらで書いていたことを忘れてしまった。ちなみに、ここに4つか5つほどリンクを示しているが、これを探してくるだけで30分くらいかかっている。インターネットの情報検索というのは意外と時間がかかるのだ。1つのことに対して最低2つか3つは調べ、その中でもっとも適するものを選ぶのが基本だからだ。もちろん、時と場合によってはもっとたくさん調べる必要がある。ここのように単に示すのではなく、何らかの証拠であったりするなら10,20くらいの数は当然、調べなければならない。インターネットによる調査は決して楽ではないのだ。

あとは…、そうだなあ。結婚式の最高に盛り上がっているときに子どもが騒いでいるのは、みんなうるさいと思わなかったのだろうか?ロマンチックな結婚式なんてあまり興味はないが、それでも、子どもの無神経なわめき声に邪魔された新郎新婦が気の毒でならなかった。かわいいとか言う前に、最低限のことはさせるようにしろよ、と思う。そして、それができないのなら連れてくるべきではないだろう。その子どもは1歳だと聞いた。であれば、場所柄をわきまえて騒がないようにさせることは難しい。最初から、その場に連れ込まないようにすべきだった。僕の結婚式でそんなことがあれば…。僕自身は結婚式にたいした期待も喜びも感じないだろうからどうでもいい。しかし、妻になる人の悲しみを思うと、怒りを覚えずにはいられないだろう。

あとは、まだまだ不十分な点は見られたが、ホテル側の演出技法はなかなかおもしろかった。特に使う場面は思い当たらないが、式を盛り上げる方法は考えるに値すると思った。もっとも、僕は場を盛り上げるという発想自体が好きではないので、たとえ知っていたとしても、使うことはないだろう。

そう言えば、初めて酒を強制されそうになった。今まではもしよければ、という感じだったが、今日はもう少しきつかった。もっとも、弟が「おじさんの酌を断るなんて」とかなんとか、意味不明の戯言をほざいていたのが、火に油を注いだということは言えるだろうが。弟は、普段は要領がよくて物事を丁寧に考えるのに、こういうときにときどき無神経なことをする。もちろん、だからと言って酒を飲んでしまっては言行不一致になる。強制された以上は断らねばならない。特に飲む理由はないのだ。トレーニングとして飲んでおくとか、限界を知っておくという意味では、前回のバイトの時で十分だ。だいたい自分の限界を理解した以上、もはや無理に飲む必然性などないのだ。にしても、確か僕は、4回「酒とタバコと麻雀は嫌いなんです。」と言った。これほど理解されないのも珍しい。僕の話など聞くに値しないと考えられているのだろう。それは仕方ないが、しかし…。それはつまり、僕の意志を完全に無視して、とにかく飲ませようとしているということになる。世の中には、そんな人もいるのだ。どれほど柔軟に考えようとしても、加齢と共に考えが硬直化していくのは止められない。酒の問題に関しては、とにかく年輩者に注意しなければなるまい。理解しているようなことを言っても、露骨に不快感を示してくるようであれば黄信号だ。最悪、イッキ飲みで病院送りも覚悟しなければならないだろう。僕は、エタノールパッチテストによると酒に弱くないらしいが、それで100%間違いないとは言えない。それに、精神的な要因で症状が悪化することも十分に考えられる。世の中は厳しいとは言え、これほどの不条理が簡単にまかり通るなんて、どうかしている…。



2003年11月21日(金) 設計

今日はいろいろな人と話した。人間、やはり他の人と話をしないとダメだと痛烈に感じた。

今日はまず、起きたのが遅かった。仕方がないので牛乳だけをあおって、10時頃に家を出た。電車の中ではボーっとしていた。最近は、電車の中ではゲームをやっているかプログラミング技術の本を読んでいることが多いのだが、今日はボーっと窓の外を見ていた。何を考えていたのかは覚えていない。卒論のことではなかったと思う。駅ではスニッカーズを買ってその場で食べた。お世辞にも行儀がいいとは言えないが、しょっちゅうやっている気がする。なぜだろう。スニッカーズは駅でしか買う気にならない。

いつもの缶コーヒー、ルーツを買おうと思ったら売り切れていた。仕方がないから、前に飲んでみてまずかった別の缶コーヒーを飲むことにした。少し前、彼女がその缶コーヒーを持っていて、有楽町でもらってきたと言っていたことが思い出される。改めて飲んでみてもやはりまずかったが、そうしないと目が覚めないのだから仕方がない。それから研究室で一時間ほどプログラムの修正をした。たいしたことはしていない。「情報」というクラスのスペルを"Infomation"にしていたので、"Information"に修正したくらいだ。このクラス名の修正というのは意外とやっかいで、プログラムの様々なところから参照されるクラスほど多くの場所に書かれている。したがってなるべく早く修正することが望ましい。もっと望ましいのはクラス名の修正なんてしないことだ。プログラムを書き始める前にちゃんと設計をしておけばいいのだ。ちなみに、今日のタイトルである「設計」は、このようなプログラムの設計の話ではない。

それから、昼食を取るためにラーメン屋へ向かった。学食でもいいのだが、やはりどうしても外で食べた方がおいしい。ちょっと前に友人から、安いラーメン屋を教えてもらっていたのでそこに行ってみたのだ。400円の塩ラーメンを頼んだのだが、見事にそれなりのものしか出てこなかった。麺だけはしっかり入っているが、半分にされてしまったようなチャーシューとメンマとネギしか入っていなかった。ラーメンの具などあまり気にしないが、ここまで乏しいとさすがに気になった。

ラーメン屋からの帰りに、そのラーメン屋を教えてくれた友人に出くわした。そのまま、そいつを研究室に連れて行ってずっと話をしていた。2時前くらいに行って、3時過ぎまでいたから、1時間以上話をしていたことになる。ずいぶん長いこと話をしたものだ。内容はたいしたことではない。そいつと一緒にやっているオンラインゲームの話がほとんどだった。それ以外では今の研究の話や、その友人が取っている講義の話なども少ししただろうか。

3時50分からはゼミがあった。今日は修士の人がいなかったので、僕1人で教えることになっていた。しかし、開始時から30分ほど教授がその学生たちに話をしていたので、僕は残りの1時間ほどで話をした。プログラムをやっているのにほとんど話してばかりだった。もっと手を動かしてもらわないと身に付かないに違いない。来週はもっと手を動かしてもらおう。それにしても、僕が教えているすぐそばに教授がいたのはかなり緊張させられた。とにかく、この1時間も話しっぱなしだった。

そのあと、また少しプログラムの修正をした。新しいクラスを追加しようとしたところで、隣から女性の同級生がやってきた。卒業アルバムに載せる写真を撮ることになったのだが、他の研究室のことはほとんど分からないと、その人は言っていた。正直言って行き詰まっていたので、今日はこのくらいにしてその人と他の研究室を回ることにした。

初めに行った地域計画研究室には、友達がいるはずだったが、そのときは席を外していた。研究室の前には在室と貼ってあったのにあまり当てにならないものだ。そこで預けてあった卒業アルバム用のカメラをもらってきた。なぜその同級生がそんなことをしているのかはよく分からないのだが。頼まれたからやっていると言っていたが。まあ、見るからに頼まれたことを断れなさそうに見えるので、きっとそうなのだろう。そして、ちょうどその時に出前が来たので、そのどさくさに紛れてその場を退散することにした。別に仲が良かった人でなくても、久しぶりに会うとなかなかその場を立ち去りにくいものだ。

それから、流通システム研究室に向かった。その途中、よく知らない同級生に出会った。が、一緒に回っていた同級生はその人のことをよく知っているらしく、ここでしばらく話し込んだ。その人のさらに知り合いもその場に通りかかって、少し話をした。

で、それから本来の目的の流通システム研究室に再び向かった。ここには夜にいないことはほとんどない友人がいる。案の定、今日もやっぱりいた。その時すでに7時近かったが、4年生の学生が全員いたあたりは、さすが厳しいと有名なこの研究室だと思った。ちなみに隣の研究室にはその時点で誰も残っていなかったらしい。僕も本来なら帰っている時間だ。で、嫌がっている人もいたが、適当に卒業アルバム用の写真を撮影した。が、そこからが長かった。何を話したのかほとんど覚えていないが、あれやこれやと7時半くらいまでしゃべっていた。その研究室には彼女もいたのだが、友人と話をしている途中で彼女は帰ってしまった。僕はその後を追いかけたくなったが、追う理由もないし写真の話も途中で、あまりに不自然だったので追うことはできなかった。

そのあと、そこの隣の研究室に向かった。すでにみんな帰ったのだと、途中であった人の知り合いから聞いていた。なぜ向かったのか今にして思えば不思議だが、まあ、その場の流れなのだろう。で、書き置きをしてその場にカメラを残して、そこでも修士の先輩とあれこれ話をした。このときはまだ彼女の後を追うつもりだったが、話が長引くうちにあきらめた。京葉線がいくら来ないとは言え、15分以上間隔が空くことはほとんどない。

で、カメラを置いてやることがようやく終わった頃には、研究室を出てから1時間半が経っていた。僕は帰るつもりだったが、同級生はまだ大学に来てから何もしていないから少しやってから行くと言っていた。すると、そこにさきほどの友人から電話がかかってきて食事に行かないかと言う。僕とその友人は、嫌がっていた同級生を、ちょっと無理を言って誘って食事に行った。確かに楽しかったが、そんな無理と言うべきではなかったと思う。

で、なんだかんだで10時になってしまった。初めに卒業アルバムの写真の話をしていたのが6時半だから3時間半以上、その同級生とあちこち回っていたことになる。さすがにそんな時間から何かをやろうとも思わなかったらしく、僕とその同級生は一緒に帰途についた。その人との話は印象に残っている。引ったくりにあって折れてしまった指、どうも曲がったままになってしまったみたいだ、などと言っていた。今日はずいぶん遅くなってしまった。また引ったくりに遭っていなければいいが。それにしても、その人はかなり弱々しい印象なのだが、引ったくりにあったときはずいぶん抵抗して、そのせいで指を折られたと聞いて驚いた。弱々しいのは見た目だけなのかも知れない。確かに、話を聞いていると、その話の端々に力強さを感じる。僕は基本的に物事を受け流すが、その人はきちんと受け止めているという印象を受けた。ただまあ、自分が間違っているとは思わないが。ただ、きちんきちんと物事を考えていくのはすごいと思う。僕がそれをやるとあとから来たことだけをこなして、先にやっていたことは忘れてしまうのだが。

そのあとさらに、東京駅でもしばらく話し込んでいた。そこで体格の話になった。僕が使いやすいと言っていたマイクロソフトのマウス、その人は使いづらいのだと言っていた。なぜなのかと考えていて、それが分かったのだと、その人は言った。それは、手の大きさが違うからだと。確かに、僕とその人とでは指の長さが3センチほど違っていた。僕が手をかぶせると完全に覆い隠せるくらいに、僕の方が手が大きかった。だから、僕の手にはぴったりでも、その人の手には大きすぎるのだろうと言っていた。確かに、それだけ大きさが違えばそれは十分に考えられる。なんだか納得させられてしまった。マウスだけでなく、キーボードもそうらしい。特に遠くのキーが遠いのだそうだ。確かに、普段見かけるキーボードは、僕が使っているとちょうどいい大きさだと思う。ノートパソコンの場合は少し小さいと感じるが、デスクトップ用のキーボードは最適だと思う。でも、3センチも指が短いその人にしてみれば、それは大きすぎだろう。あと、僕とその人では握力がまるで違う。指の力の強さが違うのだ。僕は左右とも50キロ程度の握力があるが、その人はどちらも15キロ程度らしい。握力15キロはさすがになさ過ぎだろうと思うが、まあ、女性ならあり得ないことはない。その程度でよくひったくりとやり合おうなどと思ったものだが、まあ、勇気を責めるべきではないだろう。犯罪に立ち向かうことを無謀とは思わない。

だからその人は言っていた。女の子用のキーボードやマウスを設計すれば、きっと売れるのではないかと。確かに、僕もそう思う。マウスはまあ、今でもかなり見かける。デザインもサイズも、明らかに女性を意識したものはある。しかし、キーボードはない。僕が知らないだけかも知れないが、少なくとも量販店で見かけることはない。だが、僕のこの指の強さでそこそこ反発を感じる程度のキーボードを、その人が押せば疲れるのは当然だ。事実、その人はキーを押しきれなくて入力を受け付けられないことがあると言う。押したはずのキーが、力が足りなくて押されていないなんてこと、僕にはあり得ないが、女性ならあるのだろう。なんせ、50キロと15キロの差だ。これだけ力が違うのに同じものを使うことに無理がある。確かに、女性用の設計は必要だと感じた。僕は、そんなものを作って誰が買うのだと疑問を呈した。わざわざキーボードなどという周辺機器を購入する女性は少ないのではないかと。だが、その人は反論した。今の時代、PCをヘビーに使いこなす女性や仕事でPCを使う女性は決して少なくないと。確かにその通りだ。女性のSEはよく聞くし、オフィスで通常の入力をする程度ならなおさら多いだろう。確かに、そういう人たちに女性用のキーボードがあれば、疲れは遙かに軽減されるはずだ。今のキーボードは、男の力と手の大きさに合わせて設計されているのだ。女性には、大きすぎて重すぎる。

だが僕は、話の内容よりも、その人の姿に見とれてしまった。こちらをまっすぐ見て、1つ1つのことを真剣に話す。風にあおられて折れてしまうんじゃないかと思うほどに細い身体なのに、そこから感じられる強さと明るさは、僕には真似のできないものだ。本人は何も考えていなくても、きっとあの笑顔は他の人に力を与えることができるものだと思う。見ているだけで、そばにいるだけで、話を聞いているだけで、力を与えてくれる気がする。まるで魔法のような、ほんのわずかな奇跡。その人には、そんな力があるような、気がした。

にしても、僕が気になる人は、そんな人ばっかりだ。小さくて思わず守ってやりたくなるような外見に、僕よりもはるかに強い精神を持ち合わせた人。僕は、そんな人に惹かれるのかも知れない。そのギャップが、僕には新鮮に思えるのかも知れない。なぜだろう。何がそんなに魅力なのだろう。ここら辺に、僕の原点があるのかも知れない。僕は、そんな人を見ると強く思うのだ。わずかでもいいから、そんな人に手助けをしてあげたいと。少しでも力になれるのなら、僕にとってこれ以上の幸せはないと本気で思う。僕が手伝ったことでその人が喜ぶということよりも、その人を手伝うことができる、ということが幸せに値するのだろう。どれほどの強さを見せても、人は完全ではあり得ない。僕は、そんな人を守ってあげたい。そんな人が僕に守られる必要なんてあるのか、僕でなくても誰でもいいのではないか、僕に人を守れる強さがあるのか。どれも、否定的な答えしか考えられないのだが…。

スタイルシートの指定が間違っていて、インターネットエクスプローラで正しく表示されていなかったのを修正した。今まで真っ白な背景になっていたかも知れないが、それはそんな理由だ。ただ、スタイルシートがなくても読めるようにはなっているはずだが。



2003年11月19日(水) 進んでるのか、止まってるのか

今日は比較的作業が順調に進んだ。とりあえず、乗せようとしているシミュレータに必要なデータを渡すところはできたので、ある程度シミュレータと自分のシステムを切り離すことができた。全体像のつかめないシミュレータにはなるべく頼らないに越したことはない。多少面倒でもなるべく自分で作るべきなのだ。後は、シミュレータからいくつかの値を取得することと、自船の針路速力を返すことさえできればシミュレータとはおさらばだ。残りはシミュレータに依存しないプログラムができるはずだ。ようやく先が見えてきた気がする。ま、具体的な論文には近づいてないが。

まあ、とりあえず帰ろう…。



2003年11月18日(火) 断念

この忙しいのに日記を毎日更新なんてしていられません。あきらめます。今日だって、こんなことをやっている間にどんどん帰る時間が遅れていくのだ。なぜそうまでして日記を書くのだろう。

今日は久々に調子が良かった。使おうとしているシミュレータ、使い方がさっぱり分からず、仕方がないからソースコードを1から全部見直していたところ、なんとインターフェースが用意されていたのだ。知りたい情報も関数一発。…なぜ今まで気づかなかったのだろう。ただ、純粋仮想関数が40ばかしあってオーバーライドが面倒だ。

純粋仮想関数とは、Javaで言う抽象メソッドだ。名前がついているからやることはだいたい分かるのだが、その内容がまったく記述されていない関数を指す。こいつの存在意義を理解したらオブジェクト指向の第一歩を踏み出したと言っていいと思う。

オブジェクト指向の根底にあるのは、何度も同じことをしたくないという、言ってみれば手抜きの発想だ。で、同じようなプログラムを何回も書く可能性がある場合、そいつに対して名前をつけておく。そして、必要に応じてそいつを拡張するのだ。こうすることによって、他の場所を変更することなくいくらでも拡張することが可能になる。もしこの機能がなかった場合、1つの関数を別の関数を変更するときに、呼び出し側も変更しなければならない。100箇所から呼ばれている関数の場合は100箇所書き換えなければならない。時と場合によって古いほうと新しいほうのどちらを呼ぶか分からない場合はその状況に応じて一つ一つの関数を変更するかしないか決めなければならない。どちらを呼ぶか分からないなら同じ名前じゃ困るじゃないかと言われそうだが、実は、同じ名前に複数の機能を持たせることができるのが、この仮想関数、もしくは抽象メソッドの効果なのだ。Javaの方が好きなのでJavaの用語で例を挙げると、自動車という抽象クラスがあって、そこにメーカー名を取得する抽象メソッドがあったとする。そして、自動車クラスを継承して、トヨタクラスと日産クラスを作る。トヨタ車クラスのメーカー名はトヨタであり、日産車クラスのメーカー名は日産だ。で、自動車クラスのオブジェクトを宣言し、その実態はトヨタ車のオブジェクトであるとする。コードで書くとCar car = new ToyotaCar();って感じだ。…もはや誰にも理解できない文章だがまあ、いいか。んで、この車に対してメーカー名を問い合わせる。car.getMakerName();って感じだろうか。すると、そいつはトヨタだと言ってくる。次に、そのオブジェクトの実態を変更する。車であればなんでもいいので変更しても構わないのだ。car = new NissanCar();という感じだろうか。で、そいつに向かってメーカー名を問い合わせる。car.getMakerName();となる。ここで重要なのは、トヨタ車に対してメーカー名を問い合わせたときと、構文がまったく同じだということだ。これによって、carの実態は置いといて、メーカー名を問い合わせるという作業に集中できる。16世紀あたりに、すでに言われているではないか。「困難は分割せよ」と。車の実態とメーカー名を問い合わせる機能を別々にすることで、複雑になることを避けようとしているのだ。車がなんであっても、プログラムを書くときはcar.getMakerName();と書けばメーカー名が分かる。もし使いこなせれば便利だ。

で、最初の話に戻ると、僕が使おうとしているシミュレータには、このような抽象的な関数が40ほど定義されていたのだ。この中身をちゃんと書いておかないと、メーカー名を聞かれても分からないということになってしまう。必要な部分は一部だが、全部やれと言われているのだから仕方がない。明日にでもすべて実装することにする。ちなみに、僕が実装しなければならない純粋仮想関数は全部で41個だが、それ以外にもそのインターフェースには関数が多数定義されていて、すべて合わせると90個になる。きちんと文書に目を通しておかなければ。文書の内容とソースコードに食い違いがあるからその点も十分に注意しなければ。Windows対応にしなければならないということでおかしくなってきたようだ。ちなみに、上位のクラスで定義されている関数、もしくはメソッドを下位のクラスで定義しなおすことをオーバーライドという。名前が同じで引数が異なる関数、もしくはメソッドを定義するのはオーバーロードと言ってまったく別物だ。オーバーロードの場合は上位、下位のクラスである必然性はなく、そもそもクラスでなくてもいい。同じものを書き直すのがオーバーライドであり、オーバーロードは名前が同じなだけでそもそも別なのだ。

きっと、あとで自分が読んでも分かるまい。まあ、書いてて楽しいからそれでいいのだ。で、どんどん帰るのが遅れると。やれやれである。



2003年11月11日(火) 継承と委譲

この題名を見て何のことか分かったなら、その人はおそらくプログラムをある程度書いたことがある人だろう。僕が真剣に考えるようになったのはつい最近のことだが。

オブジェクト指向のプログラムというのがある。現実世界の感覚をいかにしてそのままコンピュータの世界に持ち込むかという難題に対して、一つの答えを示したものだ。かなり有効な答えらしく、今じゃ常識のように言われている。とにかく、コンピュータのことは置いておいて、物事を必要に応じて切り分けて、その性質と機能を一つ一つ考えていくのだ。自動車は乗り物の一種であって、タイヤがあってハンドルがあって、アクセルを踏むと走って…。ってな感じだ。どんどん細かくしていけば、いずれプログラムにすることができる。もちろん、自動車そのものができるわけではないから、なにを表現して何を表現しないのかは考える必要がある。何らかの変数を用意して、これは自動車の速度である、としてしまったりするのだ。

で、そういうオブジェクトを考えると、次に問題になってくるのがそのオブジェクト同士の関係である。ものは1つあったところで限られたことしかできない。多種多様なものがあって、それがいろいろと関係しているから多くのことができるのだ。あるもの、例えばまた自動車を挙げると、その中にはタイヤというものもあるし、ハンドルというものもある、というように、どんどん切り分けることもできる。あるいは、乗り物というもの、というように抽象化することもできる。1つのものに対していろいろな見方をしたとき、そこから新しいものが作り出せるのだ。

で、そのものとものとの関係の中に、継承という関係と委譲という関係がある。継承のほうが、おそらく考え方はシンプルだ。自動車は乗り物である。これは、自動車は乗り物の1つである、とも言える。乗り物はいろいろあるが、その中の1つが自動車であり、自動車ならば必ず乗り物である。このとき、自動車が乗り物であるなら、乗り物に共通する普遍的な性質、例えば人や物を乗せることができるとか、移動できるとか、そういうことは自動車にも言えるはずだ。ここから、乗り物の性質と機能を自動車にも受け継がせようとするのが継承である。一方委譲とは、機能を他人任せにすることだ。これはどうもオブジェクト指向の初期の頃にはなかった考えらしいのだが、自動車にはエンジンがある。自動車はエンジンを持っていると言ってもいい。で、エンジンは自動車ではない。エンジンは自動車のパーツではあるが、自動車そのものではない。こういうときに委譲という概念が登場するのだ。つまり、自動車の一部分をオブジェクトとして考えるのだ。こうすると、自動車から見た場合、自動車はエンジンを持っているとだけ考えればいい。エンジンがどう動くかはそのエンジンに任せることができる。このように他人任せにする発想法を委譲というのだ。

それだけ考えると、継承は自然な発想で委譲は面倒な考え方に見えるかもしれない。乗り物に共通の性質を自動車も持っていると考えれば、乗り物を考えてから自動車を考えるとき、乗り物のところですでに考えたことは自動車について考える必要がない。自動車も乗り物なんだから、共通の性質については同じことが言えると言ってしまえば終わりなのだ。一方委譲の場合、自動車を作るときにエンジンの動きも一緒に作ってしまえばいいと思える。継承と違って、他人任せにしても自分でやっても、やることは変わらないどころか、むしろ別々になったことでやることが増えてしまう。

しかし、継承には弱点があって、委譲はそれと同じ点を長所として見ることができるのだ。それが、複雑さの問題だ。1回くらいの継承ならたいしたことはないが、これが何回も繰り返されたり複雑な継承をすると、どの性質がどこから受け継がれてきたかさっぱり分からなくなるのだ。はげてしまったのは父方の先祖のせいか母方の先祖のせいか、あるいは父方の父方か、父方の母方か、などと延々追い続けるようなものだ。それが委譲の場合になると、逆に物事は単純化する。自動車は走る。どう走るのかはエンジンの性能による。あとはエンジン任せで俺は知らないよ、となるから自動車そのものは簡単になる。一方でエンジンのほうも、俺は燃料を食ってアクセルの指示に従って回る。ハンドルさばきなんて興味ないよ、となる。それぞれのやることが単純化するのだ。もちろん、先ほど述べたように、あまりにバラバラにしすぎるとやることが増えてしまうわけだが。でも、基本的には単純化しているので、どれほどバラバラにしても、バラバラにしないときより分かりづらくなることはあまりない。

ということで、理想を言えば継承がいいのだが、現実的に考えた場合、継承はその関係を追いきれない。だからなるべく委譲を利用するのがよいとされている。継承と委譲では適用できる場面が違うので、委譲を適用できるように問題の状況からオブジェクトを拾い出すのだ。つまり、何かがあって、その何かはこんなパーツで構成されている、と表現するようにするのだ。ただ、ほとんどのプログラミング言語は継承を明示的にサポートしているが、委譲を明示的にサポートしていない。継承専用の文法はあるが、委譲の場合は普通の変数代入を応用して、オブジェクトの代入という形でやることになる。オブジェクトがオブジェクトを持っているから、仕事をその持っているオブジェクトに投げてしまうことができるのだ。ってなわけで継承も十分扱いやすい。結局のところ、時と場合に応じて使い分けることになるのだろう。だからこそ僕も、今、どちらを使うべきか悩んでいるのだ。物事の構造としては継承の関係に近い。しかし、すでに継承を繰り返してわけが分からなくなっているシミュレーションシステムが目の前にあり、僕はこれからそのシミュレーションシステムに自分のプログラムを組み込んでいくことになる。果たしてそんな状況の中、継承を使っていいのかどうか。まあ、世の中には偉い人がいて、よくあるパターンをまとめてくれた人がいる。デザインパターンというものだ。とりあえずはそれでも勉強して、参考になるかどうか確認してみよう。まあ、先日も挙げたことなのだが、やはりこのデザインパターン、それなりに難しい…。やはり、易しい解説書を購入してよかった。もっとも、今日図書館に行ったらまったく同じ本が置いてあったりしたのだが。…世の中、そういうこともあるさ。いい本なら、たとえ図書館にあったって買うべきなのさ。…3600円も出して買う価値があったのかどうか、正直言って微妙な気分だが。とりあえずは全部読んでから考えよう。いや、デザインパターンの本なんて、擦り切れるまで読むべきだ。そうだ。そうに違いない。

それにしてもC++か…。C++からJavaならよかったのだろうが、逆は少々つらいものがある。C++はJavaよりもはるかにコンピュータに近く、行動の自由度が大きいのだ。それはよいことでもあるのかもしれないが、何が起こるか想像もつかないということにもなる。その点Javaは仮想マシンという架空のコンピュータ上で動くもので、その行動パターンは高が知れている。正常に動作するか、なんらかの例外を投げるかくらいしかパターンがない。メモリを読みすぎて意味不明の動作をするとか、確保したメモリを開放し忘れていつの間にか莫大な量のメモリを一人で使っていたとか、そういうことはほとんど起こらない。意図的に書けばもちろん別だし、時と場合によっては起こりうるのだが。まあ、使いづらい言語を使うのも1つの勉強だ。それに、将来はC++も使う機会があるだろう。逆にJavaはこれから先、暗い未来が待ち構えているのかもしれないし。



2003年11月10日(月) 変化と政治

今日、僕は研究室のメンバーと、研究室の床を引っぺがして配線工事をした。英語学習システムの実験のためにPCを並べなければならないらしい。なんか毎日論文ばかりで疲れているので、そういう雑用をやっているとなんだか嬉しくなってしまう。人間、やはり頭ばかりよりも体を動かしたほうがいい。論文にしたってそうかも知れないが、結局、何らかの形で動かなければ、頭の中で考えているだけでは、何も変わらないのだ。僕は永遠に変わらなくてもいいと思っているが、一般にそういうわけにもいかないだろう。たとえ変化を望まなくても、自然は時間とともに変化する。最低でもその変化に対応しなければならない。しかし、最近の変化は急すぎる。どうしてそれほどまでに懸命に変化を追わねばならないのだろう。なぜみんなで必死に走らなければならないのだろう。政治の世界を見ているとしみじみと感じる。保守の政党が必死に変化を訴えているのだ。基本的に保守的な考えの僕としては、なんだか気に入らない。

マニフェストが大流行になって、各党がさまざまな主張をしていた。その中で、僕は共産党の主張がもっとも保守的であるように感じた。憲法を変えず、消費税も上げず…、という感じで。革新派の野党のはずなのになんだか変だと思ったが、それはそれとして、一番僕にとってよいと思う主張をしているのが共産党だったので、共産党に一票を投じた。実は、国政選挙は初めてだった。県知事選のときは僕が投票した候補が当選したが、今回の共産党候補は見事に落選。まあ、自由党の幹事長がいたんじゃ仕方がないか…。と言っても、次点でもなく、5人中4番目だったのだから、まあ、惨敗だろう。比例代表も党首のみというなかなか散々な結果になっていた。各論に賛否はあるにせよ、総論では自民党か民主党のどちらかというのが国民の総意なのだろう。マスコミがあおった結果という気がしないでもないが、今のところ選挙より公平な手段はない。国会議員だけでなく、国民であり有権者である僕も、その結果を受け容れねばなるまい。まあ、自民党だって民主党だってそれほど嫌いなわけではないのだ。どこぞの独裁政権なんかより100倍マシだし。これから政治はよくなるのだろうか。どれだけ小泉さんや菅さんががんばっても、希望的観測を持てないのはやはり報道のせいだろうか。まあ、希望しか語らない報道なんて信用できないことこの上ないが。マスコミは、矛盾の上に立っているのだ。真実を報道しなければならない。政治を批判しなければならない。社会的な正義を貫かねばならない。基本的人権は守らねばならない。数々の命題はそれぞれに矛盾をはらんでいる。もちろん、こんなことはマスコミに限ったことではないが。たった一つのことを目的にしている集団などまずありえない。いくつかの目的があって存在し、その目的はそれぞれ矛盾しているのが普通なのだろう。きっと。大学だって研究と教育が大きな目的だが、限られた資源をどちらかに投入しなければならないのは、ある意味矛盾と言える。

まあ、世界がどう変わろうと、政治がどうなろうと、僕は日々の生活を送っていくしかないのだ。確かに僕には世界を変える力があるのかもしれない。その気になれば人一人でも世界は大きく変えられるのかも知れない。でも、今のところ卒論に追われて世界を変えるひまなどないのだ。たとえその能力が僕にあったとしても、僕にその能力を発揮する時間などない。僕だけではない。限られた学生を除く多くの人たちが、僕と同じような状況にいるのだ。力はあるが、時間がない。考えるゆとりもない。体験的に推察するに、余裕こそが何かをやり遂げる力の源だ。余裕を持っているからこそ、人と違うことが考えられる。ギリギリでこなしていては、できることもできなくなるというものだ。ただ、今の時代は誰しもに余裕がない。ゆっくりと世界について考えるひまなどないのだ。こんなに重要なことなのだから誰かが考えてくれるだろうと思っているかもしれない。もしかしたら考えている人もいるかもしれない。でも、考えるだけではダメなのだ。行動に移さなければ。そして、現実に制約された現代の人々は、そんな行動など起こせない。絶対に。仮に行動に移すと決断したとしよう。すべての現実的な制約を振り切ったとしよう。仕事もやめて、家族も捨てて、十二分な資金を用意したとする。人脈もあり、体力も権力もあったとする。だが、一体どうやって世界を変えるのだ?そんな方法などありえないではないか。



2003年11月07日(金) C++とJava

とりあえず、C++のテキストを読み終わった。後半になるとやや難しかったが、実用上は問題あるまい。わからない機能は使わなければいいのだ。それにしても、Javaと比べて機能が多い…。こんなにあって、どうするのだろう。まあ、実際に現場に出ればいろいろな機能が欲しくなるのかもしれないが。まあ、僕はJavaの方が好きだということがはっきりした。性能のためにプログラマに負荷をかけるかどうかという一点においてJavaとC言語には決定的な違いがある。Javaは処理速度を犠牲にしても扱いやすさを重視しているのだ。

それにしても、そうやって言語を学んでいくだけで言語の成立過程が見えてくるから不思議だ。Javaはすべてをオブジェクトでやってしまおうという思想がはっきり見えるし、C++はもともとあるものを変えずに思いつく限りの機能を盛り込もうというのがよく分かる。オブジェクト指向という視点から見ると、Javaの方がよりオブジェクト指向的と言える。C++はオブジェクト指向も扱えるものだが、Javaはオブジェクト指向でしか動かない。画面に一行の文を表示するだけでも、クラスを定義しなければならない。ただ、それがいいと思うのだ。とにかく何でも、すべてはクラスでやるのだ、という発想。シンプルでよい。…多種多様な技術を勉強するのが面倒だってことでもあるのだが。ちなみに、Javaの機能が乏しいということは決してない。C++よりも機能は豊富かもしれない。ただ、その点を特に意識せずに使うことができるのだ。なぜなら、Javaの機能はすべてがクラスとクラスから作れるインスタンスで成立しており、基本的な使い方はみんな同じだからだ。もちろん、それではできないこともある。必ずオブジェクトを介す以上、object.method()という書式から逃れられない。C++のように'+'の一文字であらゆるオブジェクトを連結するなんて芸当はできないのだ。

言語の特性はそれぞれあるが、ともかくC++を書かなければ卒業できない以上、やるしかない。おそらくこの知識が無駄になることはないだろう。それにしても、3日でテキストを全部読めるとは、我ながら進歩したものだ。昔はプログラミング言語のテキストなんて、見ても何がなんだか分からなかったものだが…。まあ、読めるように書いてあるのだから読めるのが当然ではあるのだが。



2003年11月06日(木) スタイルシート変更

スタイルシートを変更した。今までは借り物のスタイルシートに自分で記述を書き加えて使っていたが、一から書きなおしたのだ。まあ、見てもらえば分かるとおり、たいした量ではないし、もともと使っていたスタイルシートからのコピーも多いのだが。

で、過去の日記がどう見えるかも確認したのだが、どうやら特に問題はなさそうだ。目次のページも、Operaで見たときにフォントがおかしかったのだが直すことができた。Internet ExplorerとOperaとで使用するフォントを変えようかとも思ったが、JavaScriptを調べるのが面倒なのでやめることにした。

で、過去の日記を見てみたのだが、どうも最近の日記と比べて、昔の日記のほうができがいい気がする。前からこんなことを書いているから、僕の文章のレベルはどんどん下がっていっているのかもしれない。それに、ちょっと前までは論理的な思考に対して抵抗がなかったどころか、かなり好きだったようだ。今では論文が先に来るので、そんな考え方にうんざりしているのだが。

ところで、C++言語のテキストを半分ほど読み終わった。で、感想。なんて扱いにくそうな言語なんだ…。これに尽きる。問題点は明らかなのに修正されていない。構文がやたらと多くて複雑だ。Javaの利点としてC++言語の利点を受け継ぎ、問題点を解決したというのがあったが、C++言語を勉強してみてその意味がとてもよく理解できた。C++言語では簡単にオブジェクトをコピーできるが、Javaではできない。なぜなのかと疑問に思って不満も抱いたが、問題点が分かったのですっきりした。ちょっと技術的な話になるのだが、C++言語ではポインタというのがあって、そのポインタは特定のデータの位置を指し示すことができる。で、オブジェクトをコピーするとポインタもコピーされるのだが、指し示す場所はコピー元もコピー先も変わらない。で、コピー元とコピー先のどちらか一方を破棄すると、指し示された場所にあるデータも破棄されてしまう。いつかは必ず破棄しなければならないので、これはしかたがない。しかし、これによって、まだ使うかもしれないデータが捨てられてしまう可能性が出てきてしまうのだ。

なぜ問題点をあえて積み残しているのかと言えば、それは処理速度向上のためだと考えられる。問題解決のためにはそれなりの処理をしなければならない。すると、その分だけ時間がかかってしまう。気をつければ防げる問題のために余計な時間をかけるのは無駄だ、というのがC++言語の発想なのだろう。



2003年11月05日(水) プログラミング言語の教科書

今日、大学へ行く途中で八重洲ブックセンターに寄って、C++言語の教科書と、デザインパターンの教科書を購入した。独習C++Java言語で学ぶデザインパターン入門の2冊だ。C++の方は必要だから購入したのだが、デザインパターンの方は、まだ読めるレベルではないのかもしれない。

cf. デザインパターンとは、ソフトウェア開発者の「経験」や「内的な蓄積」としてのパターンである。要するに「よくあるパターン」である。熟練のプログラマが構築したパターンを利用することで、再利用性が高く、メンテナンスがしやすいコードを書けるというわけだ。それを勉強する時間と自分でコードを書く時間、どちらを優先するかは、社会人にとっては難しい問題だろう。もちろん、学生である僕にとっては、デザインパターンが優先であることは言うまでもない。そういう回り道をするための「学生」なのだ。

結城 浩氏の本は、なんでこんなに読みやすいのかと思うほど読みやすい。お勧めだ。ちなみに僕は、氏のJavaの入門書の上巻、電車の中で3時間読んだだけでおおよそ理解できた。本当に分かりやすい文章は見れば分かるということを体感させられた。で、デザインパターンの本は、その結城氏の本だ。だから、すぐに必要なわけでもないのに購入したのかもしれない。

Javaの勉強をしたときは、まず結城氏の本で勉強して、それから独習Javaという本を使った。どちらも気に入っている。独習Javaは、非常に頭のいい先輩に薦められた本で、プログラミングをした事のない人には、難しいのであまり勧められない。結城氏の本を読んだあとにちょうどいい。C++もその調子で行けるのではないかと思った。で、2章くらいまでは読んでみたのだが、今のところ特につまずいていない。これでいけると思うのだが…。ただ、C++言語の勉強をしても、それでプログラムを書けなければ意味がない。チャチャッとやって、とっとと書き始めなければ。プログラミング言語を2,3日で覚えて実装にかかるなんて、まるでプロのようだ。

とりあえず、今のところ、テキストに外れはない。どれもなかなかよいものだ。全部合わせて10000円以上かかっているから、読んでもよく分からなかったりしたら大変だ。他の研究室だと、教科書は研究費で買ってもらえるらしいのだが…。まあ、贅沢を言っても仕方のないことだ。それに、C++言語はかなりしぶとく生き残りそうだから知っていれば後々まで役に立ってくれるだろう。Javaはよいのだが、何かと問題点が多い…。それに、開発しているのがSunだからなあ…。マイクロソフトに負けてしまったりしたら大変なことになってしまう。まあ、そんなことを心配しても仕方がないのだが…。別のプログラミング言語が流行したら、またそれを覚えるだけだ。

最初の部分を書いてから半日放っておいたから何を書きたいのかすっかり忘れてしまった。まあ、もう7時を回ってるし、とっとと家に帰ってまた明日だ…。



2003年11月04日(火) 物事は理屈じゃない?

物事は理屈じゃない。その気になれば何でもできる。とにかくやればいいんだ。で、卒論ってどうなんだろう。

考える前に行動すると言っても、論文ってのは考えたことを記すものであって、考えてなければ何も書けない。どれだけ気合いが入っていてもそのことに変わりはない。気合いだけじゃ論文は書けないのではないだろうか。

んー、さんざん卒論の資料を書いていると、日記なんて書く気がしないな…。家で書くかな…?


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