おはなはんの日記

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打ち明ける勇気について
2006年07月05日(水)

最近あるきっかけから「若者」との出会いがあった
同じ興味をもつサイトでの出会いである
その人はとても立派な考えの持ち主で
生き方のあちらこちらに私に通じるものが感じられた

いつの時代もかわらぬもの
そう思えるとなぜか心がほんわかとしてくる

なにを大事にしたいのか
なにを生きようとしたいのか
自分としっかり向き合って生きているから
わたしは友達であることに嬉しさを覚えた
しかし、
そのひとは自分がじつはすごく年上である・・・ことを
しらないのではないだろうか?

うわべだけのメールでのはなしであるのなら
それはしらないでいてもいいのであろう
しかし、
いつかきっと話しの歯車がきしむだろう!
えっ!??っておもうことがあるだろう
別に、作り話をしているのではないのだから
気にしなくてもいいじゃん! 
で済ませられるかもしれない問題なんだけど
今日までの日々を真剣に生きたとおもうから
おもいきってうちあけてみよう!
じつは・・・・わたし 結構年配なんですよ!って
返事があるのかどうかはわからないけれど
心が通じる・・・といいなぁ〜と
わたしは雨音を聞きながら静かな朝におもうのです
《ありがとう 友よ》


あっさりと生きるために
2006年07月02日(日)

長い時間をかけて、ゆっくりと登ってみたい”山”がある
夢の中で目をあげると、はるかかなたにその”山”は姿をみせる
そこまで行きつくにもきっとかなりの時間がかかるだろう
せめてこの両足の確かなときに行ってみたいとおもう

きのうぼんやりとテレビの画面を見ているときに
その”山”は現れた
あこがれてやまない「仙人」の住むといわれる山《峨眉山》
頂上にたどり着いたレポーターの「眼」を通して広がる風景には
わたしがいつも夢の中でみていたあの風景があった

中国語を学んだときの終了文集にこう記した
「わたしのあこがれは仙人です。物語に登場する仙人に
いつか出会ってみたいと希望する」と。
なぜそう思ったのか?
それは昔幼い頃、父が摺りきれるほどまで読んできかせてくれた
「物語の中にその《仙人》がすんでいて、その仙人が世の中を
きれいにすみよく変え、幸せを与えるというような話しであった」

すこしでも寂しいことがあった日は、いつも空の上の”父”をおもい
つぎにあの話の中の”仙人”に願い事をつぶやいたものである
それらの事柄がすべて綺麗に叶ったというわけではないが
いつしか今まで捕らえて離れなかった難しき事象のことごとくが
霧がはれるようにすっきりと消え、新しい希望を抱いている私がいた。

なにもごちゃごちゃと考えることなどない
このよは「あっさり、ゆっくり」あるきなさい
息をつめて眉間にしわなどよせるでない
決められた時間しか持ち合わせてはいないのだから
ゆっくり、あっさりするほうが得策じゃ!と
そうできたらどんなにかいいだろう
なにもおもわずなにも頭で考えず・・・・

あっさりあっさり生きつづけたら
「あなたがいなきゃはじまりませんよ」
「ぜひここにとどまりください」
「好きなことをゆっくりなさい」
「時間はすべてあなたのものよ」
そうささやいてくれるのでしょうか?
命を生みだし、はぐくみそだて、送り出したあとのわびしさなんて
同じおもいをしたものにしかわかるまい。

今も 考えている「どうやれば あっさり生きていけるのだろう」と

今日は長男の誕生日
わすれたことなどないのです
それが命をおくりだした母親だという証です
あっさりと生きるということは
そういうすべてを忘れ去る必要があるのかもしれぬ
仙人の住むといわれるあの山のいただきに立ったとき
はじめてこたえをもらえるのかもしれません





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