「隙 間」

2009年02月28日(土) 「帰らない日々」

「帰らない日々」

 をギンレイにて。

 ひき逃げにより息子を失ったイーサンが、なかなかはかどらない警察の捜査や態度に業を煮やして頼った弁護士。
 彼が実はその犯人だった。

 家族で楽しい休日を過ごしたその帰り道。
 捕まえたホタルを「かわいそうだから、はなしてあげなさい」と母親が諭す。
 そのホタルを逃がそうとして、息子は道路向こうの茂みに、ひとりでいったそのときに、はねられた。

 検視の結果、死因がなんだったのかを聞いた父親は、母親にそれを話そうとしなかった。

 わたしがそんなことをいわなければ、息子はこんな目に合わなかった。

 犯人は、十年程度の実刑だろう、といわれる。

 たった十年で。

 ここで、「歩いても歩いても」の、樹木希林さん演じる母親のセリフが思い出される。

 長男は溺れかけた少年を救ったかわりに自分の命を失ってしまった。
 少年はそれから十年ちかく、毎年命日に線香をあげに訪れさせられていた。

 もういいじゃないか、と次男がいうと、

「たった十年で、忘れてもらっちゃ困るのよ。あの子の命と引き替えに、自分がいま生きているってことを」

 もとい、本作品の最後に、ついに犯人が弁護士だった証拠をつかみ、拳銃をネットで手に入れて復讐に向かう。

 弁護士は、罪の意識に耐えられず、離婚した妻が引き取っていた息子と、最後の日々を過ごそうとしていたところだった。

 揉み合い、拳銃を奪い取る。
 犯人は自分のこめかみに銃口をあて「死ねと命令してくれっ、死にたいんだっ」と叫ぶ。

 イーサンは、ふと立ち止まる。

 犯人が死ねばはれるのか。
 犯人を殺したらはれるのか。
 犯人を死なせたらはれるのか。

 亡くなった息子にとらわれていた彼。
 母親は立ち直りかけ、娘の世話でそれを感じさせずにいた。

 君は犯人を許せるのか。
 わたしが許せるはずがないでしょっ。でも残された娘の世話だってあるのよっ。



まあ、そんな作品です。



2009年02月26日(木) 「家族の言い訳」と、うそばなし

 森浩美著「家族の言い訳」

 この著者、わたしの世代にとって、じつはとてもなじみがある方だと、読後の著者紹介で知った。

 作詞家でもあったのである。

 田原俊彦「抱きしめてTONIHT」
 酒井法子「夢冒険」
 森川由加里「SHOW ME」
 ブラックビスケッツ「スタミナ」「タイミング」
 SMAP「青いイナズマ」「SHAKE」「ダイナマイト」

 などの作詞を手がけた方である。

 さて、「言い訳」である。

 生意気な口をきくことになるが、勘弁願いたい。

 著者自身、「いつかは書きたいと思いつつも、小説から逃げてきた」といっている。

 小説家の書いた「小説」になりきれていない感というものを否めないように思える。

 設定に依って読ませている。

 これが、たとえばドラマであれば、演者の力に依って魅力的になってゆき、引き込まれてゆく。

 そういった複合的な要素ありき、の世界のもののように思えた。

 悪いのではない。

 使えるものをすべて使ってさらに良いものにする、ということが活ききれていないのである。

 紙の上では、山崎努も本木雅弘も樹木希林も宮沢りえも、演じない。
 効果音も音楽も、ない。
 カット割りで視覚的に印象づけることも、勢いをもたせることも、できない。

 できるのは、文字を用いて言葉にしてゆくだけ、である。

 歌い手、演者の魅力を引き出す。
 もしくは、彼らが逆に引き出す。

 これは、ひとりではできない、さらに、並みの力ではできないことだが、小説というより脚本色に毛色が寄っているように思える。

 しかし、物語の各要素は、なかなかいい。

 いっそ死のうと幼子を連れて列車に乗ったが、熱を出した幼子の介抱に必死になる母。

 惨めったらしさが嫌で疎遠になった母と息子の、その本心と本人同士の再会をさせる息子の妻。

 短編で他にも各話あるのだが、いかんせん、ご都合主義の臭いを隠しきれない。

 小説とは、川上弘美いわく「うそばなし」であって、ご都合主義のかたまりである。
 しかし、それをそれとしてそうと感じさせないか、それを逆手にとるか、どちらかなのである。

 どちらにもなりきれていないのは、残念であった。

 わたしは、どうであろう。

 かつてドラマのキャストイメージを聞かれて、困ってしまった。

 それならオーディションに立ち会わせい、とも思ったが、今やあやふやな状態である。

 腕が振れなくなって、
 ボールの行方は霞んで……。

 ボールひとつ外れたように思えても、球審の右手が上がるのを、ただ息をのんで待つだけである。



2009年02月25日(水) 封と書

 某公共事業団から、封書が届いた。

 督促状か。
 いや、料金は引き落としのはずである。

 では、何ぞや?

 ペーパーナイフで、つついてみる。
 随分と、薄っぺらい。
 振込用紙ともう一枚、くらいにちょうどよい感じである。

「公共事業団」という言葉を忘れていた。

 徴収される心当たりはまったくないことを胸にたしかめ、ナイフを差す。

 うむ。
 なるほど、そういう用件か。

 某文芸大賞への参加招待状であった。

 他の受賞作を拝読するに、どれも皆、至極真面目で、物寂しさを湛え、切々としたものばかりであったことを記憶している。

 三十枚までの世界を、ひとつ、こしらえてみるのも悪くない。

 五月末であれば、それまでになにか年寄り絡みの話題が、湧いてきているだろう。

 携帯のみで二十枚分だけ書いた作品の一部をわたし宛てに送ったのだが、どうにも恐ろしくて、開く気にならない。

 携帯の画面は小さい。
 前後が見えない。

 プロットやメモやつぶやき程度なら問題はないのだが、本文ともなると勝手が変わってくる。

 さて、いつ開こうか。

 やはり、紙に手書き、がよいように思える。



2009年02月24日(火) 要検査にうこっけいなり

 健康診断の結果という封書が届いていたので、そうっと、開封してみた。

 判定項目の欄に「A」の文字がずらりと並ぶ。

 ここで明記しておきたいのだが、「A」判定だからといって優れているわけではない。
「標準値」という、ごく当たり前のことを、これ以上だと却ってよろしくないから、ということで「A」という初文字で表しているにすぎない。

 とはいえ、心地よい。

 しかし、いきなりわたしを不愉快な気持ちにさせることが、通信欄に書き殴られていた。

 手書きではないので、実際は他の文字となんら変わりがないのだが、とにかくそのようにわたしには見えた。

「要精密検査」

 脳髄のいちばん奥に、わたし自身が収縮してゆくような感覚になる。
 後ずさってゆくさなか、何か重大な疾患が知らぬ間にわたしを蝕んでいっていたその心当たりの記憶を、内壁に手当たり次第に映し出してゆく。

 しかし解せない。
 いったい「A」判定ばかりのどこに、そんな真っ暗闇の落とし穴が設けられているのか。

 用紙は半折りにされており、どうやらその裏のほうに問題があるらしい。

 やはり「A」が並ぶ。

 突如、「G」という文字が、前置きも自己紹介もなしに現れた。

「G」とは、すなわち「要精密検査」判定を表す。

 ついにみつけたり。

 脳髄のいちばん奥に引き下がっている場合ではない。

 わが宿敵の姿は何なる哉、と目を凝らして見据えてみる。

「コレステロール値」

 ヤツなるかな。
 やはり永遠の、まさに宿敵なり。

 いや、かの心意気に「天晴れ」とたたえよう。

 体重、胴囲、BMI値は、標準値よりやや下回っている。

「あなたの暮らし方で「運動しなさい」は、酷でしょう」

 イ氏との会話が蘇る。

 運動したら食欲が増す。
 満たすと眠くなる。
 眠くなると辛くなる。

 食生活の改善しか残されない。

 その残された中身をのぞき込んでみる。
 納豆に少々の野菜に野菜飲料では物足りぬらしい。

 たしかに、

「ニワトリ襲来!」

 と、唐揚げに竜田揚げに焼き鳥に、と幾度となく掃討戦を繰り広げたこともある。

 思わず、舌が疼く。

 襲い来るニワトリの群れからわたしを守れるのは、わたししかいないのである。

 それは詭弁なり。

 食す量が増えようが、食費がかさもうが、さらなる分解要素を含む食材を食すしかない。

「酵素が足りない体質か、副作用なのかということがあるかもしれないけど」

 イ氏が穏やかに云う。

「ストレスためて不調を招くより、現状でどうしてもというときに薬出して下げてゆくのがベターだよ」

 次回、さっそくイ氏に相談しよう。
 普通の食生活だと思われるのに、いや、空腹気味かもしれないがそれならなおさら、厄介である。

 この食生活が、却って溜め込む体質にしてしまっている、という可能性も否めないのである。

 ならば、食おう。
 食ってやろう。

 減ったら食い、
 満たされるまでは食わず、
 そうしてまた、減ったら……。

 烏骨鶏ならぬ滑稽な鶏頭である。
 すぐに忘れるだろう。

 ちきんと、食生活を振り返ることを忘れぬよう気をつける。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」

 牛とは、最近とんとご無沙汰である……。



2009年02月22日(日) かくていかんぷ

 確定申告である。

 昨年は家賃ほどの還付金をいただいたので、今回もそれをわずかながら期待していた。

 しかし、忘れてはならないことを忘れていた。

 昨年、つまり一昨年はほぼ失業者であったのだから、それだけの還付金になったのである。

 今年は違う。

 医療費控除のみである。
 束になった領収書だけが頼りなのである。

 期待は、しおしおと音をあげてしなびてゆく。

「還付金ていっても一万円くらいじゃん」
「『くらい』っていうけど、お洋服買えるじゃない」

 前に並ぶベビーカーを押す若夫婦である。

「この子のだって、何十着、て買えるんだよ。ありがたいじゃない」

 旦那はへの字に閉口した。

 いかにも。

 若夫婦は上野税務署管内に住まわれているようであり、「何十着」という数字はうなずける。

 にっぽり繊維街もあれば、商店街の小店もあることだろう。

 わたしは、あわよくばとよからぬ企みをしていた自分に、その若奥様の言葉をよおく言い聞かせた。

 わたしも、への字に閉口した。

 しかし、への字のすき間から、ささやかな企みがぷすぷすと漏れ出そうとする。

 漏れ出したものが何なのかは、わたしにも預かり知らないものである。



2009年02月21日(土) 「ボーダータウン 報道されない殺人者」

「ボーダータウン 報道されない殺人者」

 をギンレイにて。

 アメリカとメキシコの国境の街フアレス。
 自由貿易協定の名の下に、大企業の工場が集中して建てられ、安価な賃金と過酷な労働条件で就労しているメキシコの女性労働者たち。

「税金が払えないならフアレスで働け」

 彼女たちは、年間で「五千人は命を奪われているはず」だといわれているのに、一切が報道されることがない。

 レイプされ、殺され、埋められ、捨てられている。

 遺体が発見されても、犯人は捕まらず、報道はもみ消される。

 工場の送迎バスに帰りに乗った少女は、そのバスの運転手に、車内で襲われ、殺され、そして埋められたはずだった。

 が。

 彼女は息を吹き返し、お情け程度のごく浅い砂利を被されていただけだったのを幸いに、自力で逃げ帰った。

 ジェニファー・ロペス演じる記者が、彼女を保護し、記事に載せようと命を賭けて挑むが――。

 警察も、
 政府も、
 味方ではない。

 記事の差し止めに抗議に向かった彼女に、編集長がいう。

「ニュースはもう、報道じゃない。産業ありきの、エンターテイメントなんだ。記事を載せたらクビがとぶ」

 とぶだけではない。
 誤報道とした挙げ句、「なかったこと」になる。

 ――事実に基づいた作品である。

 男社会の採石場の街で働く女性たちの、理不尽な日々を描いた作品も、別にある。

 まちぐるみ、
 会社ぐるみ、
 社会ぐるみ、
 政府ぐるみ、

 の陰の悲劇は、現実にある。

「ナイロビの蜂」という作品も、これは被害者は女性だけではなく、難民キャンプに逃げ込んできた人々、という明らかな弱者を、巨大産業企業が食い物にする、という事実を扱った作品である。

「蟹工船」どころではない。
 彼らはまだ、闘えたのだから。



2009年02月20日(金) 輪から外れる

 仕事帰りの品川駅――。

 いつもとは違うホームに、わたしは立っていた。
 線路の向こうに緑色の列車が滑り込んできては、人を吐き出し、すぐにまた飲み込んで走り出してゆく。

 ぐるぐると同じことを繰り返しながら、同じところを回り続ける。

 わたしはいつもその中にいた。

 だけど今は違う。

 青色の列車がわたしが帰るべき方向からやって来て、目の前に扉を開けて待ち受けていた。

 吸い込まれるように、乗り込む。

 わたしを乗せた列車は、併走する緑色の列車から、やがて袂を分かつようにして真っ直ぐに、輪の外へと外れてゆく。

 ぐるぐると同じところを回り続けるいつもとは、違う。

 初めての地へ――。

「――そうなのよ。落ち着かないのよね」

 フシチョウさんが、ぼやきはじめた。

「新品で全部キレイなんだけど、居心地が悪いっていうか」

 なんか、馴染まない。
 新車のシートのビニルを破いたばかりのように、ウキウキするのだけれど、ながくは落ち着けない。

 新しすぎて、誰のものでもない空気が、まだトンガったまま、わたしの肌にも感じられる。

「わたしはまだ、芝とこっちを往ったり来たりしてるから、余計にそうなのかもしれないけれど」

 こちらは皆が新人ばかりだから、いちいち教えて確認して、さらに気が疲れるらしい。
 だけど、どこか嬉しそうな顔をしていた。

「来月のお彼岸のあたりにさ。浅草の古着屋さんに、一緒にいかない」

 処方箋にいつも通りペンを走らせながら、イ氏が突然、口走る。

 浅草――。

 今半のすき焼き。
 大黒屋の天麩羅。
 三定でもいい。
 駒形のどぜうのどぜう鍋。
 ヨシカミの洋食。
 アンヂェラスの洋菓子と珈琲。

 それらが走馬灯のように、脳裏を横切る。

「日にちは決めてないから、その気になったらでいいよ」

 イ氏の、ははは、という笑いでわたしは彼岸から舞い戻った。

 イ氏とわたしがふたりで浅草を。

 間違いなく「珍道中」になるだろう。
 どうやらイ氏は、わたしを浅草演芸ホールに連れて行き、高座をきかせたいとの雰囲気を醸し出そうとしているようだった。

 イ氏とわたしは、世代がひと世代違う。
 そして立場も、イ氏とわたしである。

 その付き合いももう四年を超えている。
 それも、これから終生ずっと続くだろう。

 ぐるぐると回り続けるだけの輪からはみ出してみよう、とのことも悪くはないかもしれない。

 大森の街は、ひとを濃くしてゆくのかもしれない。



2009年02月19日(木) 「声だけが耳に残る」

 山崎マキコ著「声だけが耳に残る」

 これは、「面白い」といってはならないのかもしれないが、なかなかそれ以外にひと言では表せない。

 AC(アダルト・チルドレン)の女性主人公が、同じくACの男友だちとなんやかやとしながら、踏み出せなかった「一歩」を、やがて踏み出せるようになる。

 ACとは、おそらく勘違いされている方々が多いと思うのだが、「おとなになりきれない」、「夢見る少年少女」気分のままでおとなになってしまったひとたち、程度だと思われているかもしれない。

 そんな「おめでたい」ものではない。

 児童虐待、薬物アルコール依存症などの直接の被害者であったり、または関係に巻き込まれ、精神的肉体的にシェルターに逃げ込まざるを得なかった、傷つけられてしまったひとたちを総じて「AC(アダルト・チルドレン)」としている。

 主人公のシイガイが、歯に衣着せぬ強烈な女性感情、ではなく、生の彼女の感情をぶちまけ続ける。

 理不尽さは微塵も感じない。
 いっそ清々しさを覚える。

 しかし、それだけではなく、きちんと彼女はACである自分と、同じACの男友だちと、「一歩」を踏み出すように、あがいてゆく。

 深刻な問題と向き合っているはずなのに、それを感じさせない勢いとテンポと緊張感で、ぐいぐい引っ張られてゆく。

 思わず吹き出してしまう数々の場面は、常に崖っぷちの綱渡りを紛らわせているだけにしかすぎず、綱のあちらかこちらか、確信犯的にそっちか、と忙しい。

 感動でもなく。
 勉強でもなく。
 娯楽でもなく。

 読んでみてよかったと思えた。



2009年02月17日(火) 夜桜のつぼみ

 上野の西郷どんの、それよりももう少し手前の入口のとこ――。

 わたしは、自分の吐く息がどれくらい白いのか、「は」の口を夜空に向けてみた。

 灰がかった空に、灰色の雲がまだらをなしていて、薄ら寒さが増したような気がした。

 思うほどあたたかくないわたしの吐いた息は、無色透明だった。

 だけど、そんなものよりも、わたしはすっかり目を奪われてしまっていた。

 ――一本の桜に。

 春はまだまだ近からず、花びらがようやく、顔をのぞかようとしだした開きかけのつぼみが、千々に震えている。

 つぼみたちが、りりり、とさんざめく。

 一瞬、だった。
 いや、一寸、だったのかもしれない。

 カッコウ、カッコウ――。

 雑踏のなかの、エア・ポケットに、落ち込んでいたかのように、急にざわめきやにぎわいや、喧騒があたりに流れ出す。

 わたしは、とてつもなく、老婆になった気がした。

 そうして――。

 また千々のつぼみたちを見送り続けるのだ。

 ただひたすらに、ひたすらに。



2009年02月14日(土) 「トウキョウソナタ」と「沖で待つ」

「トウキョウソナタ」

 をギンレイにて。
 黒澤清監督、香川照之、小泉今日子出演、カンヌ「ある視点」審査員賞受賞作品。

 リストラされたことをいえない父親。
 ドーナツを焼いても誰にも食べてもらえない母親。
 日本を家族を守りたいと米軍に入隊する兄。
 こっそりピアノ教室に通い始める弟。

 それぞれが、家族の誰にも伝えられない秘密を抱えて、毎日を過ごしてゆく。

 この作品は、共感というより、共震とでもいった感のものを覚えさせられる。

「俺たち、ゆっくり沈んでゆく船に取り残されたみたいだよな」

「救命ボートもない。口元まで水は迫っている。だけど潜って逃げ出してみる度胸もない」

 同じリストラにあった友人がつぶやく。
 彼は、言わずにい続けた妻とガス心中という、違う海の底に沈んでいってしまった。

「誰か、わたしを引っ張り上げて」

 ソファでうたた寝してしまい、帰宅した夫に起こされ、夫はさっさと部屋に居なくなってしまった後、虚空に両手を伸ばす。

「やり直したい、やり直したい。どうしたら、やり直せるんだ」

 深夜、全力でひとり疾走する夫。

「わたしはこの先へいったら、やり直せるんでしょうか」

 桟橋で海に向かってつぶやく妻。

 誰もいないリビング。

 朝日が、やがて家族に降り注ぎはじめる。

 香川照之さんと小泉今日子さんのそれぞれが、まさにはまっていた。

 さて。

イト山秋子著「沖で待つ」

 芥川賞作家の受賞作品。
 なかなかどうして、等身大の言葉で、微笑ましく読んでしまった。

「イッツ・オンリー・トーク」を映画「やわらかい生活」で観たのち、劇場のチラシで「逃亡くそたわけ――21歳の夏」をつまみとり、原作者がイト山秋子だということを知らずにいた。

 どちらの原作も、まだ読んではいない。
 読んだのは「袋小路の男」くらいである。

 等身大の言葉といっても、なかなかむずかしい。

 小説とは、声の言葉を文字の言葉に置き換える世界である。

 わかりやすいところでいえば、女性の言葉

「わたしがやるわ」

 の語尾の「わ」など、現実の女性の日常会話で、ほぼ使わないだろう。しかし、文字の世界では日常的に使われていた。

 近頃、それもまた使われている世界が少なくなってきている。

 話し言葉の進出である。

 携帯電話のメールによって、絵文字というまた新しい進出者が現れた。

 そして。

 言葉は、

 本質を伝えるものではなく、
 本質を包み隠すものとして、

 多用される。

 絵文字に、個人の、個人的な意味を表すことはできない。
 同じ絵文字を、大多数の人が使っているのだから、それに個人的な意味など埋没してしまう。

 それを承知の上で、それを逆手にとって、うまく使っているのだろう。

 相手に圧力をかけることなく、伝える。

 絵文字にせよ顔文字にせよ、ときにそれは、相手の個人的な感情や表情や意味などを、大衆の一般的な無個性のひとくくりの、記号と化してしまう。

 だから、便利なのだろう。

 ハートに、

「わたしは皆と同じような気持ちで好きです」

 として意味をもたせるのは、むずかしい。

「わたしはわたしだけの気持ちで、あなたが好きです」

 というハートの絵文字は、きっと現れることはないだろう。

 まあ、そんなものとは、わたしは無縁である。

 まさに「杞憂」である。



2009年02月13日(金) ゆらゆら池

 小雨が水面の合間に溶け込んでゆく池から、スワンが、わたしを見下ろしていた。

 ひっそりと静まり返った、人気のない夜の池である。

 ぎょっと立ち止まり、体がすくんだ。
 冷やされた空気が風となって、池を渡り、わたしに吹きつける。

 そろそろ散髪にゆこうと思っていた前髪が、まぶたをちくちくとつっつき回す。

 ゆらり、とスワンが身震いしたように見えた。

「やあ、こんな夜分にいったいどうしたって」

 淵のロープ杭に阻まれ、どうやらこちらにくることをあきらめたらしい。
 わたしはスワンの向こうを見やり、ははあ、どうやらもやい紐が緩かったかして、解けたのを幸いとここまで風と波に流れてやってきたのだな、と見当をつけた。

 空っぽのスワンの腹が、薄明るい街灯に透けて、ひょおひょおと鳴いている。
 薄ら寂しい、何かがそこに収まるのを手ぐすね引いて待っているようだった。

「やあ、初見で恐縮なんだけど頼みがあるんだ」

 わたしは黙ったままじっと、目を細めてスワンを見つめたまま、耳を澄ます。

 びゅうびゅうと風が耳のまわりを渦巻き、しっかりしていないと一緒に流されてしまいそうだった。

「聞こえているのかい。耳をふさぎたくなるような風だけど」

 強いわりにはあたたかい、やわらかい綿アメのような風だった。

「聞こえないふりかい。べつに、とって食おうなんてことは考えていないよ。ただちょっと、腹に収まって力になって欲しいんだ」

 キイコキイコと、軋む音がうつろに水面を波立たせる。

「腹に収めるって、誤解しないでくれよ。ほら、そういうんじゃないってば」

 わたしはあらためて、ぽっかり空いたスワンの腹を透かし見る。
すると、グウゥと、腹が鳴いた。

 あすこに収まっているわたしの姿を想像してしまった。
 ざわ、と水面が波立ち、木々がわさわさとかぶりを振る。

 びゅん、と強い風が頬を殴りつけた。

 そむけた目のかたすみで、スワンがぐらりと全身をひと揺すりする。

 わたしが風に押されてたたらを踏んだのかもしれない。

「ふん、まあいいさ、きみじゃあなくったって」

 負け惜しみのようなつぶやきが、波のしじまに消えてゆく。

 わたしはスワンとは逆のほうに、ようやく足を向けることができた。

 頭上でざわざわと、風にあおられた木々の枝葉がざわめき、わたしは大通りへと送り出された。

 忍び足で、そそと振り返らずに立ち去った。



2009年02月11日(水) 「百鬼園随筆集」と一グラムの重さ

 内田百ケン著「百鬼園随筆集」

 百ケン先生の随筆集。
 そのままである。
 楽しくはないが、愉快。

 いろんな時代の話をわやくちゃに綴じ込んだ作品らしい。
 話の半分が、借金にまつわる話だといってもいい。

 誰から借りよう、

 だの、

 返済を待ってもらいにゆこう、

 だの、

 金貸しとのやり取り、

 だのが書いてある。

 百ケン先生は、給料日がきて欲しくなかったらしい。
 常人は、きて欲しくて、待ち遠しいものであるはずだ。

 給料日がくると、あちらこちらへ借金を返して回らなければならない、向こうから催促にくるものもあり、心休まらない。
 返す金がないから今は安穏と安らかな気持ちだが、給料日には返す金ができてしまう。
 だから給料日がくるのが煩わしい。

 とのことである。

 素晴らしい。

 芸術会員に選ばれるという名誉に、早々に辞退を申し出た。

「イヤだから、イヤだ」

 との名言が生まれた場であるらしい。
 なんとも共感を覚えてしまう言葉である。

 傲顔不遜なものでは、まったくない。

 イヤである理由があり、それは何かというと、「気がすすまない」からです。
 なぜ、気がすすまないのかというと、イヤだからであり、詰まるところその二つのあいだを往ったり来たりする繰り返しにつきてしまうのです。

 とのことらしい。

 素晴らしい。

 年金を特別にもらえるのはありがたいが、今ので足りている。名誉などの堅苦しいものをいただくのが、気がすすまないとは、百ケン先生らしさに溢れている。

 さて。

 祝日を拝していただくことにした昨夜、ぷつりとなにもかも、着替える以外のことをそのままで寝てしまっていた未明。

 みのもんた氏が颯爽と登場した騒がしさに目が覚めた。

 昨夜の空気をたたえたままの部屋を、電灯が煌々と照らしている。

 霞がかかったままの目で、あしあとをなんとはなしに見てみた。

「おいんげえときちゃれ」

 石野田奈津代さん本人が、のぞいてみてくれていたらしい。

 そうか、これは夢にちがいない。

 霞が晴れてゆく。

 本人らしい。
 そして、現実らしい。

 もっと気の利いたことを書いておけばよかったと、晴れた霞の向こう岸に書いてあった。

 ごしごしと目をこすり、向こう岸をたしかめてみる。

 たしかめた。

 向こう岸は、向こう岸である。
 渡ろうにも、橋も渡し船も見当たらない。

 石野田奈津代
 メジャー再デビューシングル
「春空」
 本日発売。

 伸びやかでしなやかで、ほがらかで。
 だけど切なげで、胸を震わさせられる、素敵な歌声が魅力である。

 向こう岸に渡れずとも、渡ろうと思うことはできる。

 わたしはいつも、あとほんの一グラム、重さがたりないかもしれないが。



2009年02月10日(火) なっちゃん

 望月の昨夜、いつも何の番組を観ていたのだっけ、とわからなくなり、人差し指のおもむくままにテレビのリモコンのボタンを押した。

 彼女が、立っていた。

 そして、それはけして顔がわかるほど大きく映し出していたわけでもないのに、わたしはリモコンを置き、懐かしむ目で、画面の彼女を見つめていた。

 石野田奈津代。

 篠原美也子を追いかけていた東京百歌で知った、アーティスト。

 メジャーからインディーズになっても、ずっと歌い続けていた。
 TOKYO MXの「ガリンペイロ」というインディーズ・アーティスト達をランキングする歌番組で、「オリオン」を歌っている彼女を、やはり偶然見つけ、胸の奥が震えた。

 彼女は今、全国に向けて歌っている。

 たったひと組、たった一曲だけしか、紹介する枠がない番組の、そのひとりとして、歌を歌っていた。

 好きで好きでいつも追いかけていて、ということはないのに。

 忘れそうなとき、忘れたふりをしようとしているとき。

 彼女の歌を歌う姿を、見させられる。

 春の空が、やがて花を待つ地へ、やってくる。
 種を蒔かねば、芽は出ない。
 だから、花も咲かない。

 真っ白な畑の畝に、黒い種を蒔いてゆこう。
 実がならなくても、
 花が咲かなくても、
 馬鹿のひとつ覚えだとしても、
 朽ちてゆくばかりでも、
 それらはやがて堆肥になる。

 十六夜に、思う。



2009年02月09日(月) 「なぎさの媚薬8」とやり直し

 重松清著「なぎさの媚薬8なぎさ昇天」

 シリーズ最終巻。

「こんなにもせつなくて甘酸っぱい官能小説、あっただろうか?」

 みずからが作り出す媚薬によって、幾多の男たちを絶望から救い出してきた「なぎさ」。

 白い霧に包まれていたなぎさ自身の謎が、溶かれてゆく。

 このシリーズの、いや「なぎさ」の背景は、実は桐野夏生さんも、おそらく同じ事件の被害者を元にして描いている。

 切り口や視点や語り手は全くの別物ではあるが。

 正直な感想として、結論にたどり着かせるために、重松さんの流れのようなもので描かれていなかったように思う。

 しかし、胸をえぐる言葉はある。

 自分の媚薬を使っても、決して使った男自身の人生は変わらない。それなのに自分は男を救ってあげられているのか疑問に思うなぎさ。

「男は、自分が幸せにならなくたっていい。自分がいちばん大切にしている人を幸せにしてやることができれば、それがなによりの幸せなんだ」

 男に限った話ではないが、幸せとは、やはり自分でつかむだけのものではない。
 そんなものは、つかんだところでたちどころに、雲のように指をすり抜け、またもくもくとあやしげな灰色を帯びて湧き起こる。そしてそれを果てなく繰り返すにすぎない。

 このシリーズにおいて、男は重要なそれぞれの分岐点である過去の、自分が知らなかった背景を見たり、またそのときに戻るが、自分に関しての未来、つまり、現在を変えることはできない。

 やり直せるとしたら、いつに戻りたい?

 あの頃、あのとき、などと思い浮かぶ過去の日はあるが、それで今の現在の自分を変えたい、という思いは、ない。

 いや、ほんの少しだけなら、ある。

 しかし、ものぐさなわたしである。

 中途半端に戻って、そこからやり直すなどと面倒くさいことは気が進まない。

 今の友らとも、関係が変わってしまっていたり、関係がなくなってしまっているかもしれないなど、あまりの恐ろしさに悪寒がはしる。

 あたらしい可能性をもった出会いがあるかもしれないじゃないか、というならば、それは必要であるならばこれからもあるだろう、わざわざ戻ってまですることのほどではない。

 おぎゃあ、と生まれるところからならば、潔し。

 なにはともあれ、今は「生きている」。
 せっかく生きてきたのだから、やり直すなんぞ勿体ない。

 いや、もちっとはマシな人生をやり直せるかもしれないが、今は今のでもよしとできる。

 いまわの際に、そう思うかはわからないが、そんな心配は今しても仕方がない。

 おそらく、たとえそうでなくとも、そうだったと自分を思い込ませるだろうことは、間違いないとは思う。



2009年02月08日(日) 「イエスタデイズ」とほくそ笑み

「イエスタデイズ」

 を昨日、ギンレイにて。
 本多孝好著「FINE DAYS」が原作であり、塚本高史主演。
 爽やかな作品。
 しかし、浅田次郎の「地下鉄(メトロ)に乗って」の映画を観ているものとしては、やはり「格の違い」を感じてしまう。
 物語にせよ、役者にせよ。

 父親にずっと反発してきた息子が、末期癌の父親から「学生時代に別れた恋人を探して欲しい」と頼まれ、スケッチブックを渡される。
 絵描きを目指していた頃に父が描いた、当時のスケッチが何枚も描き綴られていた。
 手がかりはそれだけ。
 二人が暮らしていた古アパートを訪ねてみると、そこには、当時の父とその恋人が、仲睦まじく幸せな日々を過ごしていた……。

 タイムトリップのきっかけが、その父親がかつて描いたスケッチなのだけれど。

 あれに似ている。

 何がといわれると、わたしが小説を書いているときが、である。

 ただそれだけなのだけれど。

 さて、今日は休日出勤をたのまれており、午後からの出社だった。

 休日に社内に入れるIDカードをわたしは持っていないものだから、入るために上司のツ氏の手ほどきをえねばならず、待ち合わせをした。

 生涯で、おそらく五度目であろうスタアバックス。

 長くそこにいるつもりは毛頭なく、時間の五分前に店の外からツ氏が来ているかどうかを見にゆくことにした。
 それまでは、ドトオルにてくつろぐ。

 さて時間が近づき、五分といわず、十分前に店の前に着いた。

 中をのぞいても、ツ氏の姿は見えない。
 柱の影や、もしや机の下にいるのでは、と身を屈めてのぞいてみたが、やはり姿はない。

 体を起こしたわたしと店員の目があってしまい、たじろいでしまいそうなのを押し隠し、なにくわぬ顔で咳払いをする。

 ここでひくわけにもいかない。

「珈琲を、持ち帰りで」

 えらぶった口調でいわなくては、足元をみられる。
 なにせ、つい今しがたまでは、自分がみていたのである。みられても困りはしないが、気持ちのよいものではない。

 さてあとはツ氏が現れるのを待つだけ。
 わたしはなるべく柱の影や机の下に隠れてしまわないように、外からも入口からも見通しがきく席に座り、背筋を伸ばして待つ。

 ほどなく電話が震えだし、ツ氏からのもので「今から迎えに下りてゆく」とあった。

 わたしはすぐに席を立ち、飲み差しの珈琲を片手に店を出た。

 関係者入口の前で待っていると、ガチャリと鉄扉が開き、「どうもどうも」とツ氏が出てくる。

 生涯でおそらく五度目であることなどをツ氏に話すと、「珍しいひとだね」と驚かれ、「でもそういえば、石氏も似たようなことをいってたよ」と笑った。

 石氏は、出向先でわたしの上について共にツ氏の手伝いをしてくれた、上司でありパアトナアだった人物である。
 凸凹コンビとして、石氏は超一流建築会社のベテランであるにもかかわらず、たいへんよくしてくれた方でもある。

 そうですか、やっぱり石氏もそういってましたか。

 なにが「やっぱり」なのかはツ氏には想像できないことではあるが、わたしは隠すことなく、ほくそえんだ。

 そうして仕事をさばいていると、上司のツ氏が「そろそろ帰ろっか」と持ちかけてきた。

 時計をみると、夕方の五時を過ぎた頃である。

「帰ってサザエさんを観なくちゃ」

 そういわれて、ああなるほど、と手を叩く。

「サザエさんを観て、鬱な気持ちにはならないんですか」

 と聞いてみた。

 ツ氏は「何で」と不思議な顔をした。
「これで休みも終わり、明日はまた仕事だ」という気持ちにはならないらしい。

 休日に仕事をしに出てきているのだから、今さら「明日は仕事だ」もなにもない。
 いわんや、今日は「休日だった」と認識するために、あえて観る必要があるに違いない。

 六時間を過ぎた頃合いである。

 まだなんともないが、せっかく帰りたいという気持ちを吐露してくれたツ氏の心意気を尊重すべきである。

「では帰りましょう」

 わたしがそそくさと片付け終えて振り返ると、コートにマフラをしっかり締めたツ氏が待っていた。

 冷たい潮風が吹き荒ぶなか、ふたり肩をそびやかして足早に帰ってゆく。

 片方は家族が共にサザエさんを観るために待つものだから、残りの片方は所在なく、ぼうっと駅をひとつ乗り過ごし、慌ててとって返したりする。

 とって返して、ぐいっとぐいん最新刊を読み切る。

 栗本薫女史も、もはや現人神である。

 神とはいえ、あのような状態に日々ある彼女に、わたしなぞ程度が負けていては申し訳ない。



2009年02月04日(水) 不要なもの

 昨年末にプリンタアを買い換えて以来、些細な物欲が鎌首をもたげていた。

 とぐろを巻き、チロチロと舌を出し入れし、虎視眈々と様子をうかがっている。

 デスクトップパソコンをいい加減新調し直さなければ、いやいや、外付けのハアドデスクが先だろう、いやちょいと待てノオト用のドライブが最優先だろう。

 言っておくが、資金は限られている。

 もし仮にデスクトップをということになったとしても、「五万円」を目処として「ご満足」とせねばならない。

 では、その金額のなかで余裕でおさまり、なおかつ二台ずつ買えるかもしれない、他のものどもを買えばよいではないか、と思うだろう。

 至極ごもっともではあるが、それは腑に落ちないばかりか、賦に落としたくない。

 なぜなら、一品手に入れるだけで、手が埋まってしまうからだ。

 わたしは蛸や烏賊ではなく、まして百足の類いのように、どれが右手か右足かわからないような、そんなこころもとないあやしげな手は持ち合わせていない。

 もちろん、持ちたくもない。

 そこでふと、ほんの気まぐれではあるが欲しいと思う品を変えてみた。

 まずはデスクトップとほぼ同額の、テレビである。
 わたしのテレビは、ブラウン管の、ずでんとしたテレビである。
デヂタル云々なぞの新参者の入り込む余地など毛頭ない、たいした貫禄である。

 しかしじつは、名古屋から真友がきた際に聞いてみたのである。

「このテレビを買い換える必要はあるかしら」
「ない」

 さすが真友である。
 わたしがおそらく、深層意識のなかで出しているだろう回答を、ずばりと、たなごころを指すまでもなく返してくる。

 そんなことがあったので、そうそうにテレビを欲しいと思うのをやめた。

 次はノートパソコンのための、使い勝手をよくする機器の類いで、考えてみた。

 持ち運び専用なので、ドライヴの類いがついていない。
 だからソフトを新しく入れたいときに不便である。

 音楽もかけられない。

 パソコンに限らず、部屋に音楽を流すなど、喫茶室でもないのだから、まず音楽を流すことなどない。

 動画も、観ない。

 すべてがロボットダンスのようでよいならば観てもかまわないが、わたしはあいにく、ダンス学生ではない。

 そうこうしているうちに、はたしてそれらが欲しいのか、必要なのか、分別がわからなくなってきた。

 分別は労力を要する。

 それは面倒くさい。
「欲しい」というのは、つまりはわたしのなかでにおける「欲求」や「願望」の類いである。

 欲求の類いなどは、じきに果てて、あったのかなかったのかわからなくなるような、あやしげなものである。

 やがてなくなるならば、はじめからないのと大して変わりはない。

 であれば「必要」かどうかを考える。

 考える必要はなかった。

 そもそもが「必要」であるならば、考える必要も、そのいとまもなく、早々に手元にあるようでなければならない。

 いまわたしの手元にないのであれば、それは「不必要」であるということだ。

 寝ても覚めても、ではないが、ひと月ちかくこのようなことを考えていたなんて、大したものである。

「怠けることにも体力が要る」

 と百ケン先生はいっていた。

 労力をかけることを疎んじるわたしは、なるほどよくしたものだと思った。



2009年02月03日(火) 百鬼の宴

 今日は節分である。

 鬼は、そと。
 福は、うち。

 諸源由来蘊蓄云々などのこむずかしいことは、よくわかるひとに一切を任せ、わたしは相変わらず、徒然なるままに任せてゆこうと思う。

 わが谷中は、谷中に限らず根津や千駄木ら「谷根千」とひとからげにされている町々は、窓を開ければもうお隣さん、である。

 さあ、こんなところで豆を「鬼は、そと」のかけ声と共に景気よくばらまいたらどうなるのだろうか。

 わたしは幸いにも、窓先に小庭のある家で過ごしていたので、そのようなことは考えたことがなかった。

 帰りの道すがら、町の路地を選んでうろうろとしてみる。

「鬼は、そと」

 あちらで遠くに聞こえる。

「鬼は、そと」

 違うあちらからも、聞こえる。

 なるほど。
 これだけ隣り合っていたら、うちで追い出した鬼は、お隣さんにひょいと上がり込んでしまう。

 お隣さんが追い出したら、またそのお隣さんに上がり込んで、を繰り返しているに違いない。

 鬼もこの界隈でひとりであるはずもないだろうから、きりがない。

 追い出された鬼同士が、ばったり居合わせることもあるに違いない。

 ばったり居合わせて、旧交を温める暇なく、ばらばらと硬い豆を好き放題に投げつけられ、、出てゆけと追い立てられる。

 鬼のなかにも、要領よくこたつのなかにもぐり込んで、ぬくぬくとやり過ごす輩がいるかもしれない。

 しかしそれはさしおいて。

 やれあっちだ、それこっちだ、と鬼たちが床を温めるいとまなく往き来しているのを想像すると、こちらまでせわしない気持ちになってくる。

 日本の鬼は、なかなか愛嬌のあるものが多い。

 人間にころりと騙されてしまうものや、身の上話に大泣きしてくれるものまでいる。

 ひとへに「災い」を総じて「鬼」としているが、ひとからげにされるほうにしてみれば、たまったものではない。

 しかし、豆を投げつけられて参ってしまっているばかりではないかもしれない。

 投げつけられて、衣服……御伽草子の通りの腰巻きひとつ、ではないかもしれない……のしわや隙間に入り込んだ豆を食して、小腹を満たすのに役立てているかもしれない。

 昼に根津神社で盛大に追い出され、そして暮れてからも方々の家々からけたたましく追い出された鬼たちが、我が家に一服しに逃げ込んでくるかもしれない。

 こたつがなければ座布団もない。
 もてなす茶もなければ、まして酒など一滴もない。

 そんな茅舎では、鬼も寄り付かないかもしれない。

 寄りつかないなら、心置きなくいつでも洗濯ができるのでありがたい気もする。

 もっとも、わたしは鬼がいようがいまいが、構わずに洗濯くらいはする。
 あまつさえ、いたならいたで、なにかしら手伝ってはもらえないかとするだろうから、どちらにしてもあまり気にはしないだろう。

 鬼は鬼でも、内田百ケン先生たる「百鬼園」先生が上がり込んでおられたら、粗茶ながら多少のおもてなしはしたいと思う。



2009年02月02日(月) 「第三阿房列車」

 内田百ケン著「第三阿房列車」

「阿房列車」分冊化最終巻である。
 今回は、なんと「房総阿房列車」編が含まれており、まさかとわかっていながら、わずかだが期待してしまうときがあった。

 やはり、我が故郷の津田沼駅なぞ、名が出るはずがなかった。

 いたしかたない。
 さほど重要な分岐点でもなし、時代がひと昔違うのだ。

 阿房列車は、いい。

 何、という目的も、用事も持たずに、行った先で観光地を駆けずり回ることもなしに、行って、行ったのだから帰る。

 ただそれだけなのだ。

 仮に行った先で、目的もなくタクシーに乗り、運転手が連れていった名所旧跡の地に着いたとしても、中には入らない。

 ひとのそんなところにお邪魔したところで、何ひとつ面白くない。

 かくいうわたしも、

「せっかくここまできたのだから」

 という一念で中にお邪魔するにはするが、門前ですっかり面倒くさくなり、やはり

「せっかくここまできたのだから」

 と自分に言い聞かせることが多い。

 わたしのたまにする「阿房独り旅」は、そう自分を言い聞かすために、あれもこれもと予定を詰め込もうとするてらいがある。

 そうせねば、行っただけで万事が済み、ぼうっとして帰りの汽車なりを待つだけになってしまうだろう。

 今宵は雲も晴れ、見事な眉月が空低く浮かんでいる。

 銀座で用を済ました帰りを上野で下車し、ぐるりと上野の山を回って帰ってみる。

 芸大の音楽生であろう女子が、背丈を超える楽器ケエスを乗せた車を引いている。

 車はガラガラと騒がしく森に響き渡り、わたしの靴音とちぐはぐなハアモニをあげている。

 この深更の時分に、大学の門の中へと消えていった。

 大荷物の楽器を置くだけであることを、無関係の立場でありながら、そっと祈ってしまう。

 無関係だからこそ、の「阿房」のなすことであるには違いないのだ。



2009年02月01日(日) 「チェ」二作品と書くめえ

 映画の感謝デーです。
 一本千円で観られます。

 おおよその候補はありましたが、全体のスケジュールを見ていませんでした。

 慌てて「ふとんみの虫」になって、作品とスケジュールを「チェ」っくして、その最中のまま沈没。

 浮上したのは昼前です。

「ぬ、お、お、おぉ〜っ!?」

 はしごするつもりだったすべての予定が、泡沫と化してしまいました。

 しかし、選択肢は自ずと決められてきます。

 ここで気になるのは、その作品がマイシアター「ギンレイ」で上映されることにならないか、ということです。

 おそらく、大丈夫だと思うものにしました。

「チェ 28歳の革命」
「チェ 39歳別れの手紙」

 の二作品。
 こんなときでないと、おそらく観る機会なぞなかろうと。

 こういった作品に、感動の類いを求めたりしません。
 教訓もまた、然り。

 ですから、ひたすらゲバラを演じた「ベニチオ・デルトロ」がいい男だよなぁ、村上龍さんと佐藤浩市さんをブレンドした感じかしらん、などということを感じてました。

「ずっとピカピカのものなんて、私は信じない」

 篠原さんの「My old lover」に歌われていますが、その通りです。

 いいところばかりを挙げなければ、ひとを勢いで魅了することはできません。

 真に魅了するのは、その後からでいいのです。

 そんな策があるわけではありませんが、それを差し置いて、作品中のベニチオ演じるチェは、魅力的です。

 あの神経質そうな顔だけで、チェは完全無欠な男ではない、ということを伝えられているように思います。

 わたしは、「革命」だとか、そんな情熱的なこととは疎遠で結構です。

 自分のことだけで、十分です。
 ええ、自分を革命することすら億劫で、ものぐさな人間です。

 ベニチオ見たさでなければ、チェに関しては書籍のほうがよいかもしれません。

 わたしは書籍に関しても、チェに関するものは読んだことがありませんが。

 今、舌打ちする音が聞こえた気がします。

「チェッ」

 と……。


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