「隙 間」

2007年11月27日(火) 星に願う

 クリスマスツリーに飾られた色鮮やかな電球の灯りが、ちらちらとあたりをあたためてゆく。
 ツリーの足元には、銀色に反射している小さな星形を掴み取ろうと、坊やがひとりっきりで背伸びをしたり、飛び跳ねてみたりしている。

 ツリーの先端から地面までゆるやかな弧を描いていた電飾のロープの中の豆球が、ひとつだけ、パチンとひびいるような音を立てて黙り込んでしまった。

 それを合図に、つぎつぎとほかの豆球たちが音を立て、黙り込んでゆきはじめた。
 まるで雨後の増水した沢のように、容赦なく、叩きつけるように大合唱が続いた。

 これでは坊やがたまらないだろう、と見下ろすと、はるか足元で相変わらずぴょんぴょんと跳ねている。

 困った。

 いつの間にかわたしは、てっぺんできらきらと反射している金色の星形になってしまっていた。

 銀色を手にするか、飽きてしまった坊やは、きっと次は金色のわたしに執着するにちがいない。

 執着されずとも、手を合わせ、願いなどかけられたりでもしたらやっかいである。
 願いに絡めとられ、かなえてやるすべも知らず、おのれの逃れたいという願いすらかける相手もないのだから。

 わたしの足元から地につたっている豆球たちは、わたしを反射させることも、身をふるわせることもせず、シンシンとしている。

 坊やが跳ねるのをやめていた。

 わたしを見上げ、その瞳はまっすぐにわたしを捕らえはなしていない。

 坊やにはとうてい届くべくないはずなのだが、わたしは寒気が背中をかけ上がってくるのを感じた。

 ちいさく、目いっぱいかがんだ坊やが、枝葉のかげにかくれた。

 わたしは、さめざめと泣きたい気持ちであふれた。



2007年11月26日(月) 櫂より……カイさんっ!

 意図的にとっちらかすのと、そうではないものと、結果的にどちらになるのだろう。

 プロットを再考しつつ、そんなことを我がことながら無責任に考えてみました。

 北野武監督の「TAKESHI'S」のように、ツギハギシャッフル、という感じにしてみるかしらん……て、作品を観ていない時点で意味もわからずに言ってみたり(笑)

 そんなことをこねくり回して、さもやっているかのようにひとり悦に入っていたってしょうがない(汗)

 櫂より始めよ。

 櫂、かい、カイ……。

「カイさんっ、やったよっ! ほらっ、見てくれたかいっ……」
「ミハルっ、みはるぅぅぅ〜……」
「密航者ですよ……(ぼそっ)」

 おあとがよろしいようで……。



2007年11月25日(日) 「刺青・秘密」と節欲

 谷崎潤一郎著「刺青・秘密」

 表題作の「刺青」「秘密」他五作品。
「刺青」がもっと艶めかしく濃厚なものであるかと期待していたせいか、少々物足りなさを感じてしまった。
 やはり文学作品、というものであるせいなのかもしれない……。
 ヤオイを求めているわけではないので、諸氏は誤解なきよう(笑)

 昨日、じつは血液検査の採血をしてきました。

 血中脂肪値他は健康値なのに、総コレステロール値だけが危険値に舞い戻っている、というやるせない結果を確かめるために……。

 食生活は、夕食を蕎麦がほとんどで、週一、二回だけオリジン弁当、昼食は野菜たっぷり海鮮サラダ丼、というローテーション。

 血ぃ採ったからには、よし、濃ゆいの食うぞ!

 と、昨夜はとんかつ弁当に唐揚げを奮発したのだけれど……。

 なんか、虚しさが溢れてきました。

 テレビで料理の紹介されてて、

 うわぁ、めっちゃ、ほおばりてえぇ〜……。

 と、そのときに思っても、目の前にしたり、食べに出かけようと思ったとき、ふと、萎えてしまうのです。

 副作用にある食欲の減退、なぞ、そんなの関係ねえっ、としてきていたのが、コレステロール問題の自覚を機に鎌首をもたげてきてしまったのでしょうか……。

 腹は常に減るので、一概にそうというわけではないのだけれど。

 わさびをたっぷり溶いた蕎麦つゆに、パラパラと七味を振った蕎麦をつけて、ぞぞぞっ、とすすりながら、我が食生活にかかる霞を見やる。

 蕎麦湯もたっぷりいただいたところで、考えても仕方がないさ、仏門にくだってなまぐさと縁を切るでもしない限り、と、ある種の悟りを得て箸を置く。

 他になんも悪いことしてないんだもの。

 禁欲ならぬ節欲、の日々は続く……汗



2007年11月23日(金) 「イタリア的、恋愛マニュアル」

「イタリア的、恋愛マニュアル」

 をギンレイにて。

 まあ、なんて素敵なのでしょう!
 恋に墜ちるということは!

 ……こんな恋と縁遠いものとしては、なるほど理屈やら布石やら捻り出す必要なんかなし、で物語を組み立てて構わないんじゃないか、と立ち返らされます。

 内田百ケン先生のプチ作品集的な文庫が出ていたので、つい手を伸ばしてしまいました。

 年末年始に向けて、新刊ラッシュがそろそろ始まりそうです。
 確実に、ぐいん、は出ます。

 栗本薫さん、あなたはなんちゅうペースで書き上げ続けているのでしょうか。
 ぐいん越しにあなたを拝みながら、少しでもあやかれるよう祈ります……汗

 ハードルを半分の百枚に、下げようと思います。
 ええ、ええ、ヘタレてます(汗)

 ショートショートな感じで、百の壁に挑んでみようかと、無謀な企てをたててみてます。

 ……無謀は無謀、なのかしらん?笑



2007年11月22日(木) じょりっ???

 見上げた電線の向こうにお月様。
 おたまじやくしと五線に見立てて、

 ミ♪
 ファ♪
 ソ♪
 シ……ラ♪
 シ♪
 ……ジョリッ!

 じょり?

 横のコンクリート塀に半身を思いっきり擦ってました。

 気がついてませんでした……汗

 皆様、よそ見しながら夜道を歩くのは危険なので気をつけましょう。



2007年11月17日(土) 中井貴一さんと「ラブソングができるまで」

 明日にしようかと思っていた神保町三省堂への本の物色。
 なぜか、

「今いくべし」

 と、何かが告げる。
 振り払う理由もないし、とのぞいてみたら……。

 俳優の中井貴一さん

 が三省堂にきてました。

 やべっ、まぢかっこいい……。

 映画「鳳凰」のイベントでサイン会が催されていたのです。

 退場の直前に間に合ったようで、わたしの前のおばさまが去り際にかけた言葉と振った手に、中井貴一さんは、足を止めて振り返って、

「どうも……」

 と手を振り返しながら、はにかんだ笑顔で応えてくれました。

 おいら、あんたみたいになってやるっ!

 と、わけのわからない子どもみたいなことを決意してみせたわたしのなかのおいらは、草っ原を夕陽に向かって駆け去ってゆきました。

 ええ、ええ。
 おいらを追いかけてゆくことなんか、わたしはしませんって(笑)

 さて。

「ラブソングができるまで」

 をギンレイにて。
 ヒュー・グラントとドリュー・バルモアのラブコメ黄金コンビの作品、とのことで……。

 単純にリラックスしながら満喫できたぁ〜……。
 コーラ役のヘイリー・ベネットに、めちゃ、ヤラレた……。

 涼しげな眼をしたヒトに、どうやらわたしは弱いらしい(笑)

 ときめき(?)を胸にギンレイを出て……。
 夜八時。
 カナル・カフェの打ち上げ花火が背後に華を咲かせてました……。

 どんっ、ぱんっ……。
 どどんっ、ぱぱんっ……。
 ぱんっ……。

 神田川に散る火の花びら。

 寒空に大輪(小?)の華は散らむ……。



2007年11月13日(火) 目の前で火花散るっ

 不忍池前の交差点で信号待ちしていたら、

 火花が視界の横を走り抜けて、

 ゆきました。
 アスファルトを火花を散らしながらすべってゆく黒いかたまり、少し遅れてそのあとを追いかけてゆく人影。

 信号待ちをしている正面のタクシーの手前で人影は止まり、黒いかたまり……原付バイクが、

 ガスンッ

 とタクシーの前部にぶつかり、音を消す。

 スピードの出し過ぎによる転倒。

 でした。

 警察官がちょうど自転車で巡回パトロールをしていたらしく、一分もたたずに交通整理と救急車の手配をはじめました。

 こけた彼、はすぐに起き上がろうと上体を起こしたところで、

「動かないで。そのままで」

 と静止をかけられ、やってくるパトカーと救急車のサイレンに耳を傾けることしかできずにいました。

 転び方もきれいだったし、きれいにすべっていたようだし、すぐに自分で起き上がっていたし、大した怪我はなさそう、でした。

 が、

 警察官に立ち会われ、救急車に乗せられ、明らかに、

 転倒事故

 ではなく、

 交通事故

 となってしまいました。
 タクシーのフェンダーを傷つけた、ということで、正式になんやかんやと手続きとかしなくてはならなくなってしまうのではないでしょうか……。

 命にかかわる事態

 ではなかったので、そんなことを考えることができるというもの。

 事故には、充分、気をつけましょうね。



2007年11月11日(日) 発散、散髪

「なにお前、おにぎりしか食わないの?」
「ダイエットするんです」
「ふうーん。でも、具がツナマヨとか買ってんじゃ、あんま意味ねーんじゃねーの?」
「いいんです……」

 かつてKさんにつっこまれたことを思い出しました。

 ストレス解消に、もしゃもしゃと食いまくる、ことができず、もやもやが溜まってゆきます(笑)

 野菜、くらいしか食べられるものが思い浮かびません。

 米だと腹いっぱい食べて体重増えるだろうし。

 髪を切ると憑き物が落ちるようなところがあり、同時に、それまでのツキまでも落としてしまうこともあるけれど(汗)、床屋に行きました。

 地元根津の古くからある理容室。

 若いお兄さんが担当してくれたのだけれど、寡黙で、ジャキ、ジャキ、とハサミをいれてゆく。

 顔剃りも久しぶりに気持ちよかった。
 最近はシェービングに使うのがジェル状のものが多かったりするのだけれど、ここは違った。

 昔ながらの泡立てるやつ。
 温かくて柔らかい刷毛が頬やあごを撫で、ショワショワ……と冷えてゆく。

 ショリ、ショリ……

 と、カミソリが顔を削いでゆく。

 ま、さっぱりすっきりして、しがらみやらも少しは忘れ去って、ゆきましょっか……笑



2007年11月10日(土) 「リトル・チルドレン」と「百」

「リトル・チルドレン」

をギンレイにて。
大人の内面にある幼児性を様々な登場人物が表してゆく。
 そしてその過ちや見失いかけていたものに気がついてゆく。

 まあ、それぞれにわからないわけではないけれど、おいおいそれはやり過ぎだろ、と愛しさをこえた苦笑がこぼれる。

 児童猥褻罪(?)の刑期を終え出所してきた男が年老いた母親と二人きりで暮らす町。
 子どもを守る会、という地域住民の一部が結成した会の代表を自負する元警察官。
 司法試験に落ち続け、キャリアウーマンである妻に稼ぎを頼り、日々勉強をしつつも主夫として子育てにも励む男。
 夫がアダルトサイトのアイドルにはまって自慰にふける姿を目撃してしまった、修士号をもつ妻。

 すべてはなんとなく日常の中で共感をもってしまうようなことが続く。

 挑戦することに憧れる男。
 自分は他の主婦たちとは違う、と思いたい女。
 トラウマで警察をやめざるをえないトラウマを抱え、それでも市民を守りたいという気持ちだけが暴走してしまった男。
 自分は元犯罪者で唯一の理解者である母親のためにそんな自分をどうにかしたいと切に願う男。

 半ば子どもじみた衝動や欲望に身を任せかけ、最後は大人としての足場に踏みとどまる。

 だけれど、一番ショッキングだったのが、元児童猥褻犯の日常に、元警察官の男がビラやポスター、スプレーによる中傷や、深夜に監視をしていることをわざと知らせるためにクラクションをならしたり、ドアを激しく叩いて、中傷の言葉をぶつけたり。
 年老いた母親は気丈に対応するが、その男の前で心臓麻痺を起こし命を落としてしまう。
 息子の性的嗜好をかえるためにお見合い相手を探したり、自棄になりかける息子を励ましたりしていた母親の最後の息子への言葉。

「いい子でいるんだよ」

 悲しみにくれ、昼間は子どもたちの遊び場である公園のブランコにうずくまる男。
 やりすぎたことに対する後悔と謝罪を伝えるため、元警察官が現れる。

「こんなことになるなんて、望んではいなかった。申し訳ない……」

 何も答えずにいる男の様子がおかしいことに気がつく。

「ぼくは、いい子でいたいんだ……」

 男は自分の性器を自分の手で切断したらしく、血だらけの包帯を下半身に巻いていた。

「絶対に、お前を助けてやる。だから、頑張れ」

 男を自分の車に乗せて病院へと向かってゆく。

 元警察官の行為は行き過ぎなところもある。
 だけれど、例えば子を持つ親としては、性犯罪者が隣近所に住んでいるということが明白な場合、過剰にでも反応せざるをえないと思う。

「起きて」しまってからでは遅い。

 のだから。

「地域コミュニティとの交流を促進し、開放的な教育を」

 と、開かれた小学校施設やらを提唱したかと思いきや、

「犯罪者から子どもを守らなければ」

 と、塀でしっかり囲まれたものを欲したり。
 ほどほど、という概念でものごとを進めることに、現社会は難しいことになっているように思う。

 そして……。

色川武大著「百」

 なんとなく、身につまされる思いをさせられるところがちらほらとあった。
 著者のようにアウトローに踏み込みきれないし、思い切りきれないけれど。



2007年11月08日(木) あえておもってみた

 ドキュメンタリーで、

「代理母出産」

 についてやっていた。
 まだまだ縁はないけれど、だからこそ、思うことを。

 自分たちの遺伝子を継いだ我が子こそを、と望んでの場合。
 血よりも絆。
 生まれるまでの過程を共に共有し乗り越えてゆきたい、とも違う。
 現行法規では、自分たちの遺伝子であっても、実の父母にはなれない。
 里親、養子の関係。
 だからなんとかせねばならない、と。
 小学校で自分と親の血液型やらを調べてみる授業など、やったりしているのだろうか。

 人間を生殖のためにしてはならない。

 と法。

 代理母出産は、子供の売買に通じる恐れがある。

 費用は保険医療費・法対応等込みで、およそ二千万円程度がかかるらしい。

 好きなひと、愛するひとの子を、欲する。

 代理母出産の問題のひとつに、当事者(生まれてくる子)の同意がないこと、がある。

 どんな子だって、同意した覚えなんかないはずだ。

 生まれたいかどうかではなく、どう生きたいか。

 養子も実子も、親と子である。

 親とは、子ができたからなる、ではなく、子とともに、なってゆく、のである。

 ホストマザーになるのも、頼むのも、どちらも、半端な覚悟で、単なるボランティア精神(語弊があるやもしれないけれど)では、いけない、と思う。
 人の生命にかかわる、ことなのだから。

 そして、人生にも。

 現行では、ホストマザーの資格に、既婚者であること、がある。
 既に自分の子がいる場合、その子たちは自分の弟か妹が当然、できたものと思うだろうし、生まれた途端、知らない人にその弟か妹を奪われてしまうように思うかもしれない。
 その理由を、意味や意義を本当に理解できるようになるまでにはかなりの年月がかかると思うし、途中、子どもができることに対して理解が中途半端な時期には、トラウマができてしまうかもしれない。

 だから、そんなもろもろを覚悟して、選択することはすごいことだと思う。

 偉い先生方の「生命の尊厳」に対する懸念やそのためにかなりな慎重さを要することもわかるし、子を欲することのどこが悪いのか、とも思う。

 男だから「母」になることはできないし、父にも夫にもなっていないからこそいえるのかもしれないけれど。

 養子(血の繋がらない)と実子って、そんなに違うのかしらん?

 そりゃあ、お腹をいためて産んだ子、という絆はあるけれど、この場合は違うわけだし。

「普通」に妊娠して「普通」に出産して自分の血をひいた子どもが欲しい。
けど、その「普通」のことができないわたしが、自分の血をひいた子どもを望んではいけないのでしょうか。

 との声。

 親やら子やら、普通やら、かたちにはならないかたちのことを考えてみて、自分が、かたちにこだわらないのか、こだわれないのか、ないものねだりのあきらめなのか、よくわからなくなってくる。

 自身の発言には、所詮まだまだ重みも力もないことをわかりつつ、あえて思ってみた。



2007年11月05日(月) よのなかのこととおもうこと

 目覚まし用の携帯が、とうとう「沈黙」してしまったようです。

 大音量ではなく振動で起こす目覚ましなんてあるのでしょうか?

 さて。

 世間の話題に触れていないので、少々触れてみようかと。

 亀田頑張れ。
 勝つためだけではなく、負けない強さを学ぶ絶好の機会じゃないか。

 中日ドラゴンズ、落合監督。
 なんだか、芯のある強さ、があったからこその優勝。
 来年こそはGがそれをできることを祈ってます。

 なっちゃん。
 いやさ、石野田奈津代さん。
 大人の魅力を身に纏い、とても魅力的で、パワーの満ちた歌声だった。
 自分を信じて前に進み続けて、だからこその今の姿があるのだろう。
 TOKYO MXのなにかのランキング番組で、トップワン、だったのを見かけて、懐かしさと嬉しさが溢れてきた。

 いや、最後の石野田奈津代さんは、友人とかではなく(汗)、篠原美也子さんと東京百歌にでていた、当時は女の子、でした。

 またパワーや元気をもらいに聴こうかと思いました。

 よのなかのできごとのすべてがつくりものであり、つくりものであるいじょう、それがよりこころのこもったものであること、そしてそうあろうとすべきだとおもう……。



2007年11月04日(日) 「狂人日記」と「輝ける女たち」と紫紺祭

 色川武大著「狂人日記」

 なんといえばよいか……。

 そう。

 もの凄く、

「共感」

 してしまった。
 色川武大さんは以前にも紹介したが、阿佐田哲也という別名で「麻雀放浪記」等の著作を残している。
 この作品は、著者自身のナルコレプシーによる発作症状をもとに描いた作品である。

 他人にはけっして伝えきれぬ症状、煩悶、孤独、つながりを欲し、つながりを築きえぬ因果。

「いっそ自分が自分であることがわからぬようになってしまえればよいのに……」

 もろもろを受け入れてもらえる、ということは難しいことであろう。
 健常者の立場から考えるに、やはり受け入れるのは難しいことであろうと思う。
 そのような煩悶が描かれ、さらりと胸に入り、ストンと底に落ちる。

 ナルコレプシー患者(国内で0.2%弱しかいないと言われているが)は、この作品を読んでみると、前に進めてはくれないかもしれないが、肩にそっと手を当ててくれるのを感じるかもしれない。

 そして。

 しぃ〜らぁ〜くぅ〜もぉなぁびくぅ〜

 母校、明大明治の駿河台最後の「紫紺祭」に、行ってきました。

 応援団のリーダー公演が始まってしまっていた時間にだけれど……。

「あ〜ら〜し〜のぉ〜……はぁ〜くしゅっ!」

 うん、これがよいんだよね。
 ツラい体勢で固定して、皆が「まだまだっ」と、次の動作に移るのを延ばさせる。
 最後の校歌をフルコーラス皆で歌ったけれど、八割がた歌えたことに驚いた(笑)
 見納めなんだなぁ、と男坂を見上げ、女坂までぐるりとまわる。
人生の半分ほど昔に過ごした場所。

 場所がなくなるから、ではない。

 かつての自分がそうしていた姿を重ね合わさせてくれる今の後輩たちの姿が見られなくなる、ということに胸が疼く。

 さて、三省堂で物色を終えて……

「輝ける女たち」

 をギンレイにて。
 キャバレーのオーナーの突然の死を迎え、彼の懇意にしていたものたちに遺産が相続されることになるが、我が子として愛されていたマジシャンとその娘、息子、元愛人、そして元妻、までが現れて、これまで顔を向かい合わせて話すことがなかったそれぞれの時間が動きはじめる。

 ただ生きる、ということに甘んじつつある。

 なにかのために、なにかに向かって、生きる、という生を忘れてはいないだろうか?

 一日をただ生きる、ということだって、相当たいへんなことであったりするのはわかっているけれど……笑


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