★悠悠自適な日記☆
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2006年01月31日(火) あ!やっちゃった!

 それはいつもちょっとしたことだと思うのです。些細な決断を繰り返しているうちに、自分の行く道はだんだんと大きく広がっていくのかもしれません。

 ちょっとしたチャンスは結構近くに転がっていて、だけど自分がどうなりたいかとか、どういう夢を持っているとか、先の自分にイメージが持てていないと、せっかくのそのチャンスが自分にとって必要なものか不必要なものであるかが見極めることができなくなります。

 『夢は信じていればかならず叶う』という言葉は、あながち嘘ではないと思うのです。自分の夢に具体的なイメージがつけば、そのために自分が何をすべきかが明確になってくるので、チャンスを逃さなくなります。自分のやりたいことが明確になればなるほど、自分の張り巡らせているアンテナが敏感になってくる気がします。

 そうして私は今、ここにいます。

 気がつけば私は2歳からピアノを弾いていて、ご丁寧にも両親は私が音楽の道で進めるようにレールを敷いてくれて、私は本気でこれ以外の人生はないのだと信じて動けませんでした。

 でも私は、ずっと演劇に強く憧れていて、演劇とは全く無縁の環境にいたのに、いざ近くに演劇が表れた時にぽーんと飛び込んで、今私はここにいます。
自分が敷かれたレールから飛び出ることは、これまでに積み上げた自分を全て捨てるということで、人生最大の決断を迫られることでした。しかし、演劇を始めるという決断自体は、結構些細な決断で「あ、やっちゃった!!」という感じです。この「あ、やっちゃった!」というちょっとした勇気が後々大きな決断をすることになってしまうのですが、演劇と触れて、演劇をすることに具体的なイメージが見えてくると、あの決断も全然間違いではありませんでした。

 大きな夢でも小さな夢でもいいと思います。要は具体的なイメージを持って、自分が何をすべきかを知ることが大切なのだと。そして何をすべきかが分かったら動く。そうすれば、チャンスは自分に近づいてくるんじゃないかなと思います。

 私は、今になってあまり大きな夢は持てていないのですが、大学を出たらどうするのかということを最近よく自分自身に問いかけます。就職でもいいのですが、でもできることならもうちょっと現場に携わっていたいし、現場で通用できるように自分を成長させたいと思うのです。そのためには、今から動かなければなりません。

 今日、作品実習の飲み会で、堀江ひろゆき先生と長い間お話をしていたのですが、現場(できることなら質の良い)に触れるにはどうしたらいいかというお話を真剣にしてみたところ

 日本演出家協会加盟の推薦状を出していただけることになりました。

 まあ実は加盟すること自体はそんなに難しいことでもないのですが、利点としては自称演出家を名乗れる上に、演出家協会でのお仕事を任されたり、結構大手の演劇の現場で勉強させていただくことができます。更に、実績が認められれば文化庁の推薦で海外留学…なんてのもあるそうです。(現在は南船北馬一団の棚瀬美幸さんがベルリンに留学されてるそうです。)

 でも加盟するだけでは何もならず、そこでの頑張り次第でチャンスは広がるということらしいです。現場で勉強したい…という願いからスタートしたものがちょっと広がった感じがします。

 自分がどうなりたいのか、そのためにこれから何をすべきか。可能性を広げるために、深く自分に追求し続けていきたいところであります。

 


2006年01月13日(金) 現場で学んでいること。

 スタッフは出演者を疲れさせないように気を遣い

 出演者は朝早くから付きっきりでいてくれるスタッフの手を煩わせないように、なるべく自分たちでできることは自分たちでやろうとします。

 舞台とはとても精密なもので、これらが噛み合ってやっと良いものが成立するのでしょう。

 ちょっとバランスが崩れると、すぐ波風が立ちます。

 それは人々のメンタルに表れ、作品にも影響します。

 今回の現場で、いろいろなものを見ました。

 いろいろなことを学ばせていただいています。

 今まで、様々な現場にお世話になってきましたが

 こんな現場は初めてです。色んな意味で。

 友情って何だろう?優しさって何だろうということをじっくり考えながら

 あと少し、頑張ろうと思います。

 

 


2006年01月12日(木) 飲み会の女

 私は、「飲み会の女」が好きではありません。

 飲み会になると、急に積極的に働き出して、みんなのオーダー聞いて、走り回っている子。同じ会費を払っているのに、全然食べたり飲んだりおしゃべりしたりできなくて、後になって『私全然食べてないのー。』と笑いながら愚痴をこぼす子。

 私、こういう子が好きじゃなーい!!!

 大人数の飲み会になると、結果としてこういう役回りの子が出てくるのは仕方ないのですが、なんか、これを使命のように意気込んでやっている子、ちょっと引いてしまいます。

 まぁ意気込んでやっているんだからいいっちゃいいんだけど。何を意気込んでいるのかしら?とか思ってしまいます。

 飲み会は、いかにみんなが楽しんで飲める雰囲気を作るかが大切なので、さりげなく気を遣ってうまく回ればそれが一番いいと思うのです。逆に、いかにも「私全然食べてません!飲んでません!働いてます!」っていうオーラを飛ばしている子を見ると、なんかその子に気を遣ってしまって、私は冷めちゃいます。みんなが楽しくおしゃべりしたり飲んだりする場を作るのが目的ですから。

 さりげなくできたらそれで十分だと思います。後は店員にお任せです。

 そんなこんなで、大人数の宴会はちょっと苦手です。大人数が苦手なのではなくて、「飲み会の女」が出没するのが見ていて苦手なのです。逆に、仲間内の飲み会はいいですね。気がねなくあったかーい雰囲気で飲めちゃいます。

 今の公演が終わったら。打ち上げと、オジムス会(おじさんのような娘たちが熱く語り合う会)と、鳥呑み(相方さんと親友イワっくとの恋愛調整会議)と、高校演劇部の同窓会と、飲み会が続きます。ワイワイ楽しくあったかーい雰囲気で飲めたら嬉しいです。


2006年01月10日(火) 役割としてのお母さん

 最近気が付けば、小言ばかり言っている時があって、そんな自分にイライラします。その小言の内容が、私が昔母に言われてきたことと全く同じだったりして、更にいらいらしてしまうのです。

 私はお母さんじゃありません。
(ここで言う母は、私を産んだ母ではなく、役割としての母親だということです。)

 母親になる決意をするのは、本当に母親になったときでいいと思っています。

 私(自我)=一人称
 あなた=二人称
 あなたから見た私(女)=『あなた』=二人称
 こどもから見た私=『お母さん』=三人称

 日本では、子供を産むと親は自分のことを『私』ではなく『お父さん』『お母さん』と言うようなるように、子供を産むと一人称を捨て、二人称も捨て、子供を中心に見た三人称で自分を呼ぶようになります。英語では子供を産んでも自分のことをMother〜とは言いません。このことから、日本は子供を産むとまず自我を捨て、女であることを捨て、母親という役割を背負うことになる訳です。

 まあそんな風習がどうのこうのと言うお話ではなく、要するに、私は母ではないので、自我も女も捨てんでいいという話です。まだ親の扶養下にあるのに、お母さんの真似事をしなくてもいいじゃないかというお話です。

 私にとっての母親は、お母さんでした。自分の自我を捨て、女としての自分も諦め、それで私と弟を育てました。(自我と女であることを捨てたことに後悔して、今好き勝手やってますが、まあいいでしょう。)

 今思えば、私に小言を並べ立てるのはさぞかししんどかったでしょう。でもそれは母親という役割を背負った結果です。子供を育てるにあたって避けて通れない道でもあるのでしょう。(特に私は曲者だったしね!)

 で、話を戻してくるのですが、私はまだ三人称を背負わなくていい代わりに一人称と二人称を持っていてもいいはずなのです。それなのに私は今、誰かに小言を並べ立てて、無理に三人称までをも背負おうとしていて、そのくせいっちょまえに一人称と二人称を持っていることを主張してあがいているのです。

 面倒見のよいお母さんみたいな子がたまにいるけど、私はまだまだ自分で精一杯です。

 三人称なんてまだ背負わなくてよろしい。だからみんな、子供じゃないんだから自分のことは自分で何とかしてください。できないときは誰かに誠意を持お願いしてみましょう。靴が欲しけりゃどこの店のどの靴の何サイズで、いつまでに必要なのか事前に伝えましょう。お母さんじゃないから言わなくてもわかるなんてことはありえませんよ。

 と、世の中の甘ちゃんに私は言いたいです。

 


2006年01月09日(月) 先輩

 今、先輩の卒業公演の現場にいます。(私もちょこっと出させていただいているのですがそれはさておき)いつも何故かタイミングが合わなくて舞踊企画に参加できない私は、皆がどういう課程で作品を作っていくのか、それを勉強させてもらおうと無理矢理飛び込んだ現場です。

 先輩たちと一緒に過ごせるのもあと少しです。思えば、この学年は仲が良くて遊び心に富んだ先輩が多く、他の学年とはちょっと違うオーラを放っている集団でした。時々滅茶苦茶な無茶をするかと思えば適度に手を抜いたりしていて隙がある分、呼べば人が集まってくる学年だったように思います。

 せっかく同じ現場にいるのでたくさんお話をしたいと思うのですが、私はどうもそういうのが苦手です。

 遊びながら、ふざけながら、でも目の鋭い人が多くて、私はいつもその目に見られるのが苦手だと思っていました。その深い目で、私の薄っぺらな部分を見抜かれるんじゃないかと感じてしまうのです。(そんなこと危惧してもきっと相手にもされていないのですが。)でもそういう目を持っているからこそもっと突っ込んだお話を聞いてみたいなとも思うのです。

 もっと現場で色々なことが出来るようになればもっと輪の中に入れるのでしょうか。あと少し頑張りたいです。


2006年01月06日(金) 私を強張らせているもの

 私には身体に無駄な力が入っているそうです。昔からピアノを弾いていてもヴァイオリンを弾いていても芝居をしていてもダンスをしていても、その無駄な力が行為の妨げをするのです。

 身体に力が入っているから、身体から脳に上手く酸素が回らなくて、身体も思考も幅が狭くなっている…と、舞踊の先生に言われました。先生曰く、私は自転車に乗っているだけでも身体が強張っているそうです。

 実は舞踊の先生だけでなく、ピアノの先生にも、ヴァイオリンの先生にも、習字の先生にも、部活の顧問の先生にも、ずっと言われ続けていることなのです。そういえば初対面の先輩にも言われました。そしてその注意の後に、必ず「もっと自分に自信を持って」と付け加えられるのです。

 困ったことに、力が入っていることに自覚がないのです。ふと身体に意識をめぐらせた時に、肩の力が入っていることに気付くことはありますが、もっと、私にはわからない体の細部にまで力が入っているらしいのです。

 今そんなに無理している訳ではありません。適度に抜くとこは抜いているし、ちょっとサボりがちの癖もあるしもっと頑張っている人はいます。自分もそんな風に頑張れたらなと思うのです。

 けれど、何を芯にして歩んでいけばいいのかわからないときがあります。今やっていることが良いことなのかどうか、私は何を根拠に自信を持っていいのかがわかりません。私にはなくてみんなが持っている「自信」とは何だろう。私はとても浅はかな薄っぺらい解釈で台詞の言葉を並べ立てているだけじゃないだろうか。私が書きたいことなんて陳腐でもう出尽くしていて、今更なんの価値も見出さないのではないだろうか。そもそも私みたいな煩悩小娘が舞台に立ってはいけないんじゃないだろうか。そんなことを考えて不安になるくせに、料理をしながら、洗濯をしながら、こんな平穏もいいなと感じている自分に不安になるのです。これでいいのだろうか。こんなことでいいのだろうか。こんなにも中途半端で闘わない振りをしているだけで、実は闘えないだけじゃないか!!

 作品を作って、ちょっと認められていい気になっている子がいたとします。その態度や振る舞いに時々イラっとしつつ、でも私はそんなあの子に憧れるのです。きっとその子は自信を付けて、どんどん上へ上へと向かっていくのでしょう。調子こいて自信つけてどんどん上を狙っていける子は素敵です。でも周りに左右されやすく振り回されやすい私はそんな子を見て更に自分を見失ってしまうのです。そして誰かを攻撃して、傷つけて、…何に自信を持てばよいのでしょうか。

 私、自分のことは普通だと思っていま。。みんなと一緒。無理はしていません。我慢もしていません。普通。けれどでもみんなが持っているものを私は持っていなくて、代わりに身体が強張って、足枷が付いたみたいに自分を自由に解放できません。

 まず、普通になりたいです。先日、力を抜く運動とやらを教えてもらいました。私は人より鈍いので、まず普通に近づくことから始めなければなりません。

 私を強張らせているものは何なのか。そこを探っていく訓練を身体も精神も施して生きたいと思います。

 


嶋子 |MAILHomePage

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