Leonna's Anahori Journal
DiaryINDEXpastwill


2002年10月30日(水) 乳頭温泉郷から帰宅

今日、秋田県の乳頭温泉郷から帰ってきました。

乳頭は着いた日(27日)の夕方から雪になりまして、なんと一晩で三十センチ以上の積雪に。さらに翌日、翌々日と雪は容赦なく降り続き、かなりハードなスノートレッキングを楽しみながらの湯巡りを満喫したのでありました。(だって他に移動手段無いんだもん)

大雪にもめげず朝昼昼昼晩晩とお湯に浸かり続けたこの旅の詳細は、近日旅の穴にアップの予定です。お楽しみに。
  





まだ10月なのに!初雪でこれだけ積もるのはめずらしいと宿の人も話していました。
  
  


2002年10月24日(木) 朝吹登水子の巴里のはなし

午前中、労働基準監督局。午後、横浜へ。

--

行き帰りの電車で『私の巴里物語』を読む。著者は朝吹登水子。私は十代の頃、サガンの小説のほとんど全部をこの人の訳で読んだ。その当時はなぜか白髪混じりのオカッパ髪をした初老の女性だと思いこんでいたのだが、実際の朝吹登水子はグラマラスな美女で、女優と見紛うばかりの美しさである。(こういう、たおやかで迫力のある美女はもう日本では絶滅してしまった、のだろうか?)

その『私の巴里物語』を読んでいたら、まだ駆け出しだった登水子と石井好子(シャンソン歌手)が共同で借りていたアパルトマンへジャン・ジュネ(!)を招待したという、若き日のエピソードが出てきた。
登水子が、私の兄(仏文学者の朝吹三吉)はあなたの『泥棒日記』を訳して十キロ痩せたのですよと言うと、ジュネは「僕、そういうの大好きさ」と満足げに答えたそうだ。
私は幸福で涙が出そうになった。あたしだって、そういうジュネ大好きさ。

少し横道にそれるけれど、ジュネといえば八十年代(だったと思う)に日本へ来たとき、夕刊の文化欄に載った取材記事のことが忘れられない。そのときジュネはフジコという精悍な感じの女性を伴って取材場所へ現れたのだが、男色家の彼のこと、フジコ嬢が女性であるという保証はどこにもない。
しかしジュネは男女の違いに関する質問に対して、男であれ女であれ緊張感(精神的な機敏さやそこから生ずる美、と私は解釈した)のない人間は嫌いであると答えて、それ以上野暮な詮索をさせない雰囲気を作ってしまった。

まだ若くて柔らかい脳味噌にこんな素敵な刺激を受けて、人生に影響が及ばぬわけがない。いまだにジュネは、誰がなんと言おうと“私の聖人”なのである。

--
   
ほかにも彼女の家には白洲次郎が訪ねてきたり、友人の結婚披露パーティのお客として藤田嗣治、荻須高徳らがやってきたりするものだから、私の心臓はコトコト言いっぱなしだ。(仮装舞踏会で葛飾北斎に扮したフジタは、眼鏡まで外して、まるで“そこいらのオイチャン”。可笑しい)

今日はサルトル、ボーヴォワールとの交流の部分まで読んだのだけれど、登水子の一人娘の入試結果を心配して訊く二人(ふたりとも昔、高校の教師だったそうだ)との会話が面白い。
ボーヴォワールがせっかちに「どうだった?」。登美子が「受かりました。優秀賞付き一番で」。そうしたらサルトルが「女性の優秀性を証明したってわけだ」。
そのあと、三人で朗らかに笑ったそうだが、私も電車の中で大笑いしそうになってしまった。
     
       


2002年10月21日(月) 夢の話

午後から晴れるという天気予報を信じて洗濯したのに土砂降りの雨。
昼から洋光台の父の家へ。傘をさしてもジーンズが雨でぐっしょり。

--

雨といえば先週か先々週、明け方近くに母の出てくる夢をみた。学校とも会社ともつかない大きな建物の玄関口で、夕方、訪ねてきた母と私が話をしている。仕事だか授業(もしくは部活)だかを抜けてきた私は下足入れを背にして立っている。暮れかかっている外の空の色を眺めながら母に「うん、でもその話は私が家に帰ってからゆっくり聞くから」と言っている私。「いまここで話しても仕方がないもん。本当に、帰ったらゆっくり聞くから。ね?」。
それでも母はおだやかな調子で「でも、ね、」と話すのをやめようとしないのだ。夢の中の私は大して困ったとも思っていないふうで、やや前屈みになりながら、いつまでも母の話に耳をかたむけていた。
        
朝目が覚めて、ベランダに面した窓のカーテンをめくってみると、雨が降っている。私は、なるほどそうだったのかと即座に了解した。
ベランダには昨夜洗った洗濯物が干してあった。その生乾きのシャツや靴下に、未明から降り出したと思しき強い雨のしぶきがかかっている。母が私に知らせたかったのはこのことだったのだ。

--

きょう、父にこの話をして聞かせると「俺はね、いまでもそこの部屋に礼子が寝ているような気がして、つい声をかけちゃうことがあるんだ」と言う。結婚して以来母と離れて暮らしてきた私と父とではこういうところが違うのだろう。

私にとって母はすでに“遠きにありておもうもの”だった。そのうえ母は病気がちで黙って寝てばかりいたから、さらに強く“精神的な存在”という感じがした。母が、亡くなったあとも相変わらず“いる”ような感じ(気配)が強いのは、そんなことも関係しているのだろうか?

…そんなことを考えていたらめずらしく、すごく久しぶりに、病室で身体を拭いてあげたときの母の体温や感触が生々しくよみがえってきた。“生身の母”の逆襲。サーッという雨の音を聞きながら父の家で、いっとき、身動きもできずにいた。
  
  



2002年10月20日(日) フジタの画集

先週の日曜日。テニスの帰りに丸善で藤田嗣治の画集を予約して帰った。

パンフレットによればこの画集はフジタの全画業を通観できる本邦初の本格的画集だそうだ。1986年、新宿小田急ギャラリーで開かれたレオナール・フジタ展の初日にもとめたカタログ(図版集)は私の宝物なのだが、実はこのカタログはその後未亡人の訴え(著作権侵害)により販売差し止めになってしまった。

86年当時、洗礼名のレオナールを名乗っていたことからも伺い知れるように、フジタの遺族と日本国の間には戦中戦後の軋轢と、そこからくる大きなわだかまりがあったようだ。今回の画集はその未亡人の監修によりまとめられたものだという。おそらく自分が生きている間に、自分の手でまとめておかなければと思われたのだろう。あるいは日本へ帰ることを夢見ながら異国の地で亡くなった夫を、画集出版という形で帰国させてあげたいと思われたのかもしれない。

フジタが過去の人となりつつあるいまだからこそ手に入る(刊行できる)画集だと思えば、なにやら複雑な気持ちにもなるが、いずれにしろフジタの全画業がわが家へやってくるのだから、やはり楽しみなことである。
  




2002年10月19日(土) 安吾だった。

眼科にかかった帰り、大きな本屋に寄って温泉へ持っていく本を物色する。

今回は小説、そして荷物を軽くするために文庫本に的を絞って探した。しかし手にとってパラパラとめくってみると、どの本も重量ではなくて文章が軽い。なんとも薄味で表面的。探すほどに、日本語ってこんな事を書くために存在しているんだっけ、ちがうだろ、という気持ちになってくる。

別にこってりしている必要はないのだけれど、何気なく見えて実は栄養価が高いという、そういうヤツが理想なんだけどなあ…。それで結局買ったのが、坂口安吾。意外なようで手堅い選択。でもこれって何となく秋吉久美子ぽい感じがしませんか?いまさら安吾読む中年女(しかもわくわくしながら)なんて(笑)

--

本屋に寄ったついでに山野楽器に寄ってトライセラトップスのニューアルバムも買ってきた。

今年はトライセラの『2020』が聴けていい年だったなーと言い切れる私。明日からツアー“FROM DUSK TILL DAWN”も始まるそうだ。年末、横浜か渋谷へ生の『2020』を聴きに出かけるとしよう。
  
  


2002年10月16日(水) 健康診断

秋晴れの空のもと、定期健康診断を受けに某総合病院へ出かける。

心電図を録るためにベッドへ横になったとたん、猛烈な眠気に襲われる。フワワ〜ンといい気分になったところへ看護婦さんがサッサッと入ってきて、サッサッと電極をはずすとこう言った。「ハイ、もう起きていいですよ」。

あれっ、だってまだ横になってから一、二分しかたっていないのでは?心電図ってそんなに簡単にとれるものでしたっけ。以前はもっとじーっと寝かされてたように思うんだけど。
あーあー、つれないなぁー(というより非情だなぁー)。

教訓:寝不足なら家で寝ろ



2002年10月06日(日) 或る疑念

久々にテレビでK−1観戦。

しかし、なんというか。ボブ・サップなのですが。
あのひと本当にNFLの選手だったんでしょうか?
どうだかねえ。石井館長も興行師だからねえ…

疑いのあまりもの凄く目つきの悪くなっている私がいました(これって私だけ?)



2002年10月05日(土) フリーペーパー

いつも髪を切ってもらっている美容院のまえに無料新聞のラックが出ていた。

HEADLINE TODAY という名前のタブロイド版で“日本初 無料日刊News Media”と書かれている。第一面の新聞名左に今日明日の東京の天気と、日経平均株価、円レートがまとめて示されている(下の画像参照)。デザインもすっきりして見やすいし、外国の新聞みたいでかっこいい。

第一面から政治や経済を含む海外のニュースが主で、国内のニュースは経済とそれに関連したこと(流行や売れ筋商品等)がほとんど。いわゆる三面記事的なものは少なく、そのかわり芸能関係の記事がピックアップして小さくとりあげられている。

あとは曜日毎の特集頁とスポーツで、特集は月:Event、火:Store、水:Music、木:Culture、金:Town …となっている。土日は休刊で金曜日はウィークエンドエディションとなる。

うれしいのはスポーツ頁でサッカー、テニス、モータースポーツなど、私の好きなスポーツについての情報がけっこう速くて詳しい。昨日はCLの優勝予想オッズ、1位がレアル・マドリーで2位がアーセナルだとか、疑惑の審判モレノ氏の提訴が却下された(当たり前じゃい!)とか、ロベール・ピレス様の復帰まであと三週間なんてことまで書いてあった。

わが家で新聞をとるのをやめてしまったことはかなり以前にも書いたとおり。でもこの新聞なら読みやすいし、そんなに邪魔にならない。それに何よりタダというのは魅力(笑)。買い物に出るたびに持って帰ることになりそうだ。









テレビ番組表もちゃんとついています。記事はブルームバーグから買っているようだ。


2002年10月04日(金) ヤモリを追いかけ回す

きのう。

外出先から帰って部屋のあかりを点けたら、壁の上をサッと上から下へ動くものがあった。カーテンの陰に隠れたのでそっとめくってみると、ヤモリ。
体長7〜8センチくらい。ベージュがかった薄い砂色のやつだった。

東南アジアを旅行していると、特に暗くなってからよくヤモリを見かける。たいていは、ホテルの外廊下や建物の壁に張り付いてじっとしている。目は真っ黒いビーズにそっくりで、「リリ、」とか「チ、チ」とか、か細い声で鳴く。

ヤモリは人間に対しては悪いことはしないし、小さな虫を食べてくれるよい生き物だと聞いた。だから、ヤモリは“家守”と書くのだとも。(そういえばアニエスbのトレードマークもヤモリだ。)

写真を撮ろうと、急いでデジカメを持ってくる。白いクロス貼りの壁の上をヤモリはペタペタとカサカサの中間みたいな音をたてて逃げる。足指の先が丸い吸盤状になっているからだろう。ゴの字(黒い虫)のたてる音とはあきらかに違う“足音”。

逃げ回るヤモリはときどき動きを止めて、黒いかなしそうな目でじっと一点を見つめていた。私がなんとはなしに良心の呵責を感じていると、そのうちに窓の上に取り付けたエアコンと壁の隙間へスルスルと入り込んで、それきり出てこなくなってしまった。

--

きょう。

朝、台所へ行ったら、素早い動きで壁際からガスレンジの陰へ隠れたヤツがいる。例の足音で昨日のヤモリだとわかる。よかった、生きていたのか。それにしても台所まで移動しているとは思わなかった。

ヤモリはガスレンジの下に入って動かない。火を点けても若干暖かくなるくらいでヤモリを傷つける心配はなさそうだったので、お湯を沸かして紅茶を淹れた。そうして、朝食後そのまま仕事に出かけた。

--

帰ってきてすぐガスレンジの下を覗いてみる。すると、なんとヤモリはまだそこにいた。一日中ここで何をしていたのだろうか。ずっとそこにいてもらうわけにもいかないので、なんとか捕まえて、外へ放してやろうと思った。

細長く折った紙を差し込んで広い場所へ出そうと思うが、なかなか思うようにいかない。怖がってもの凄く速く動く(まさに瞬間移動。飛ぶように動く)ので、そういうときはこちらも怖くなってしまう。

結局一度は床へ降りたのだけれど、パニックになってうまく歩けないヤモリがかわいそうでどうしようかオロオロしているうちに、台所の壁とキッチンユニットの隙間に入り込んで、それきり姿を見せなくなってしまった。

もしかしたら、あのヤモリは今年の春先、ベランダの植木鉢を動かしたら下から出てきた体長2センチくらいの奴が大きくなったのではないかと思う。いじめるつもりはさらさらなかったのだが、昨日のあの悲しそうな目を思い出すと、なんだかこちらまで悲しくなってしまうな。

とはいえ、生き物の動きは人間には予測できないところがあるから、今頃はもう、もっと居心地のよい場所を求めて移動中かもしれない。もう追い回したりしないから、お互いそれぞれの場所で静かに暮らそうではありませんか。ねえヤモリくん。
  
  


2002年10月01日(火) 母帰る

台風が通過中です。

--

おとといの夜、富山から帰りました。疲れたけれどホッとしています。
やっとお母さんを故郷へ連れていってあげることが出来ました。
29日は予報では雨だったのに、お天気に恵まれたのも幸運でした。

母の遺骨の一部は三十年近く前に亡くなった祖父のお骨のそばに、寄り添うようにちょこんと置かれました。“おとうさん子”だった母のために、そうしてあげてほしいと父が頼んだのです。
父は「礼子よかったね」と小さな白い箱に向かって声をかけていました。

そのあと、富山の親類縁者が集まってお酒と食事になりました。こういうのは苦手で今回もすごく気が重かったのですが、始まってみると、ひととき子供の頃の夏休みやお正月休みに逆戻りしたようななつかしい雰囲気。楽しく、かつ貴重な時間(みんな歳をとって実際あと何回こうして顔をあわせることができるかわからない)を過ごさせていただきました。

--

そんなこんなで、終わってみれば、なかなか悪くない“母の帰郷”だった、とは思うのです。

でも…、でも、もう“鱈汁”だけは勘弁してほしいの(涙目で)。
28日から食事のたびに三回続けて、鱈汁・鱈汁・鱈汁。なんかもう、脇腹のあたりからヒレが生えてきそうな気さえする。ノーモア、タラジル。
   
   








28日、雨を引き連れて北陸本線を新潟県側から富山へ入る。
これはおそらく筒石から能生、浦本あたり。日本海には晴天より曇天が似合う。
  
  


レオナ |MAILHomePage