いいこと見聞録

2004年07月22日(木) 聖徳太子に出会う

この7月の最高気温を記録した日、奈良県明日香村に立ち寄った。
鮮やかな緑が目の前に360度広がる田園風景。土の匂い。道の端々にたたずむ素朴な石の神さま。低い山々が連なる遠目の所々に目に入る古いお寺。
まるで、時間が飛鳥時代から止まっているような錯覚に陥る。
場違いのスーツ姿で汗を拭き拭き、強烈な蝉時雨の中を歩いた。

御利益があると謂われる、のっぺりとしたユーモラスな姿態の道祖神に手を合わせていると、地元のおばあさんが気軽に声をかけてくる。
生活と自然と信仰が何の違和感もなく結びついている、そんな日常風景。何故かはわからないが、大変な安らぎを感じる。

ぼーっとしていると、「○○さん」と呼ぶ声で我に返って後ろを振り向く。
その時、そこに聖徳太子の姿を発見してギョッとする。
すぐに道案内をしてくれている友人のSさんの姿であることを確認したのだが・・・。
Sさんは50歳を超えているが、長髪を後ろに束ね、口ひげと顎鬚の両方を生やし、一見すると飛鳥時代の人であると言えないこともない。
でも、その時間違いなく聖徳太子であったような気がする。
ちょうど直前に聖徳太子の生誕の地と謂われる橘寺にお参りをしたせいであろうか。お金に対する邪な欲求が心を支配していたのであろうか・・・。



2004年07月20日(火) 博多最高ばい

先週末、仕事で福岡・博多に行った。
昔から、ホークスファンで、年に1-2度は訪れているからこの地のあったかさ、
オープンさは十分わかっているつもりでいた。
カーっと照りつけるが、比較的からっとしているから、日陰に入れば結構涼しい。
大好きな街だ。
仕事明けの朝、ホテルで食事をしていた時のことだ。数日前から、調子が悪く医者からもらった薬を持ち歩いていた。
当然、薬の入った袋を持っていたのだが、食事のあと、頼もうかなと思っていた矢先、
なんと”冷まし湯”をすっと持ってきたのである。
いくらサービスを売り物にしているホテルとはいえ、
ここまでの気遣いがあると感動してしまう。
些細なことだけれど、こんなことこそがいま大事なことなのだ。と、思ってしまった。
日本のよさ、日本人の気遣いはこんなことに支えられている。そんな気がして、
ちょっといい気持ちになって帰京した。
日本最高ばい、こういえるときが早く来ることを願って。



2004年07月15日(木) 板チョコ コミュニケーション

友人が最近お気に入りという正統派ナポリのピッツアが食べられるとうお店に連れて行ってもらった。
地味な某商店街の一角にある店は平日の6時半だというのに店内は予約の客でほぼ満席だった。
楽しみにしていたピッツアは、食いしん坊カップルの発見だけあって納得の味だった。
表面はしっとり、中はモッチモッチ!!生地を噛みしめると、小麦粉の香りがふわぁ〜んと口に広がり気分はう〜んナポリ。
お腹も一杯になり、残ったワインでおしゃべりしていたら
「お料理は他にはいかがですか?」「デザートはいかがですか?」とラストオーダー?と思うほどスタッフが何度も聞きに来る。時計をみるとまだ8時過ぎ。
友人曰く、いつもはこちらから大きな声でスタッフに声かけているとのこと。
「スタッフが増えたのかしらね?」なんてのんびりしていたら、「申し訳ありませんが、外に待っている方がいるので・・・・」と声をかけられた。
食後のコーヒーをそこで飲んでも良かったのだが「待っている人がいるなら出ましょう」と自然な形で私達は出ることにした。
帰り際にオーナーが「今日は申し訳ありません」と私達の席に来てイタリアの板チョコを1枚ずつそっとプレゼントしてくれ笑顔で見送ってくれた。店の外には、蒸し暑い中立って待っている人が3組もいた。
友人によるとチョコレートをもらうのは2回目だそうだ。
前回は原材料を船で運び本場ナポリの窯職人が手掛けた自慢の石窯の話を聞かされた時にお礼に?もらったそうである。
地味な商店街には喫茶店もなく、私達は、駅前のファストフード店で食後のコーヒーを飲むことになってしまったのだが、不満はなかった。
イタリアのあま〜いチョコは私にはちょっと危険なプレゼント。でもオーナーの人柄を感じる「板チョコ コミュニケーション」になんだか心まで幸せになった。
<sa>



2004年07月12日(月) 新庄は外人だった

みんな見ましたよね、新庄選手のホームスチール。
誰もが想像していないところでの決行、王監督でさえびっくりでした。
それもこれも、いまプロ野球があぶない、この危機感から生まれたのが、
新庄のパフォーマンス、というよりプレゼント。
日本人のみんなが思っているし、当の選手も思っている、
しかし何をどうしていいのかわからない。
これこそが今の日本人が抱えている問題ではないでしょうか。
問題を解決するには、思ったら実行するこの単純さが必要なのです。
新庄選手が、これができるのは大リーグにいってきたからではなく、
じつは彼は外人なのです。
彼のDNAには絶対に外人の血がながれている、わたしはそう読んでいます。
この新庄選手の単純な実行力、これさえ手に入れれば、
日本人も鬼に金棒です。
わたしたちがやっている、セミナーはこれを目指し、
そういう人をたくさん作るお手伝いをしています。いちどのぞいてみてください。



2004年07月07日(水) 人前でしゃべれるようになった

大学で週に1度講師をしている。内容はプレゼンテーション。
以前から感じていたことだが、今の若い人は特に人前で話すことが苦手なようだ。
人と違う意見を押し殺すように仕向けられてきた学校教育に問題が多いのは言うまでも無いが、そのせいで自分の意見を言って嫌われたらどうしようという思いが強いのか自分のことまで話せなくなっている。
10人10色、100人100色。
プレゼンとは、いかに自分らしさをベースにして伝えるかだと思っている私にとっては由々しき問題。
なので、小さい声だろうが、ゆっくりしか話せなくてもかまわないから、自分のペースで話そう、という授業を続けてきたがなんとか芽がでてきたようだ。
下を向いてしか話せない人も、小さな声でしか話せない人も話している顔に微笑みがでてきた。
やったね!すると、その人の声と感情が腹に伝わってくる。
これが、コミュニケーションの第1歩。
小さい1歩だけれど、まだまだみんなこれからだ。
この1歩を大事にしていこうと改めて思った。うれしい。



2004年07月01日(木) "セカ中”の撮影監督、篠田昇さんの死

先週、映画”世界の中心で愛を叫ぶ”や”花とアリス”の撮影監督として私たちに素晴らしい映像を提供してくれた篠田昇さんが亡くなった。
その通夜には、キムタク、トヨエツ、浅野など多くの芸能人や仕事を共にした人たちが数多く参列した。
大好きだったビートルズの曲が流れ、生前のたくさんの写真が並べられた場は、深い悲しみと同時に、篠田さんの朗らかな人柄に包まれていた。
最高の映像作家をなくした悲しみよりも、
こんなにも多くの人にほんとうに愛されていたのか、という感動がこみあげてきた。
人は、大好きな仕事を通してたくさんの人と出会い、そして心を通わせていく。その繰り返しの中で、素晴らしい”愛”がうまれていく。
ほんの少しのお付き合いでしたが、篠田さん、ありがとうございます。
みんなの中に、篠田さんは生き続けると思います。


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