昨日は朝の九時から六時半まで寝てて、これは長野さんでなくても時間の無駄遣いだろうってスゴク焦ったんですけど(苦笑) ちゃんと一時あたりで眠たくなって布団に入ったんですね、うん、寝過ぎ(笑) だけど、なぜか急に寝られなくなりまして。色々考えて…自分なにやってんだろうって。今自分はパロディ小説山ほど書いてるわけだけども、どれだけ頑張ったってそれを評価してくれるひとは「いない」んですね。楽しんではもらえるのかもしれないけど、こっちが何もかも切り捨てて「書いてる」ものを同じようにギリギリのラインで「読んで」もらっているかというとそうではなく。 たとえば小説家とかになっているのなら、そのへんの虚しさとか葛藤すら食べるための手段というか…一種、もう仕方のないことになるんでしょうけども。 今はまだ全然そのレベルじゃなくて。私の文は「稼げ」なくて。 ゲイノウジンであれ小説家であれ、その他アーティストと呼ばれるひとたちって微妙ですよね(んなのワタシがいうことじゃないですけど) だってそのひとたちが人生かけてやってることでも、たとえば子供が親からいわれる言葉としては「TVなんかいつまでも見てるんじゃありません」とか、否定形。そんなに諸手を上げて歓迎とはならない。あくまで息抜きとかお遊びその程度で結局。だけど自分はそのくだらない遊びに命かけててって…そんなことを考えてしまったのは、常に頭のなかで小説のこと…悪くいえば「妄想」でしかないこと延々考え続けてる自分の存在に空虚さを感じたから。 特に今、世間と切れている(始業式以来学校には行っていない)自分は、現実が何もない。現実に人間関係は存在しない。 他人がいなくなるっていうことは、自分が見えなくなる事だって昨日の夜突然分かった現実で。 怖くて。 理解してくれる人間もいなくて、好きな人もいなくて、信用する人もいなくて、現実がなくて「坂本昌行」とか「長野博」とか、架空の登場人物と人間関係で構築されている「自分」というものが怖くて。 ただそれだけのことが生きてることに直結すること、初めて知りました。
太ってる自分が嫌で、醜い自分を、家にいれば隠しとおせるから学校には行きたくなかった。自分が大嫌いで、だから見られたくないっていう防衛。 だけど今更いきたいっていうのも防衛だって分かってる。 オトシマエ、つけるならガッコやめて潔く家を出て行くべき。また行きたいなんていうのは、甘えてるだけ。凄く。他人なら許さない。身内だって許せない。 だけど、自分で自分のことどれだけ嫌いでも、その醜さをどれだけ嫌悪してたって、「醜い」と評価する対象の前から消えてしまえば、他人が存在しない世界に逃げてたら、そのキライな自分すら失ってしまうから。死ぬのは怖くて、でも生きてる証はどこにもなくて。どうしたらいいかって。 私には残念ながら「長野博」がいないんで(苦笑) どんぞこ這ってて引っ張り上げてくれる手、欲しかったら探さなければなりません。見つけるまではひたすら、外へ出てって鐘と太鼓で探しましょうって。 行かなかったのは逃げで、小説という二次元の表現手法のなか作品のクオリティの満足に浸ったのは甘えで。 明日また行こうというのも逃げであり甘え。 親には、申し訳ないと思ってる。 今、自分の価値は最低レベルに落ちてるの、分かってるよ本当に。
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