意見を持つということは、勇気のいることだ。 今更ながら、そんなことを考えている。
例えば、世の中で起こっているニュースを見て、どう思うか。 その事象を前にして、有権者としてどういう態度をとるか。 組織に属しているなら、その組織の構成員としてどういう意見を持つか。 TVを見てどの番組を面白いと思い、どの番組を見たくないと思うか。 買い物をするにあたり、どんな品物に価値を見出してお金を払うか。 喧嘩して仲間割れしたとき、どっちにつくか。
意思決定を支配するのは、情報だ。 鮮度も重要な要素で、古すぎる情報は意味が薄い。
TV、ラジオ、雑誌、フリーペーパー、お店の広告、友達との間での噂、ほか 今ではネットも重要な情報源となっている。物事を総合的に判断するために 必要なのはこうした多方面からの情報をこまめに収集することだと思う。 メディアを通した意見と言うのは、やはりある角度からの脚色がなされてい るものであって「こう思いませんか?」って問いかけに安易に「そうだなぁ」 と思うことで思想が思い通りに動かされちゃったり虚偽の情報によって判断 を迷わされたり、意志とは違う判断をさせられたりもするのだろう(そう思 っておけば多くの人と同じ意見になるから謗りを受けず楽だけどね)。
そんな思いもあって、 ブッシュが再選されることで(あーあ、これでまた憎しみの連鎖は当分消え ないだろうな)と思ったり、危険だっつってんのにイラクに行った人を(愚 かだよな)と思ったり、新潟の地震で土砂に埋まった車から人を救出する 様を中継するのは(するべきでないよこれは)と思いながらも「凝視」して いたりするこの直感的な意見や態度はどれが正しくて、どれが間違いなのか 実際のところ全然わからない。 そういう意味で世のコラムニストはすごい。本当に簡単に世の中をばっさり 斬った意見を述べているけど(この人どれだけのソースをもとにこんなばっ さり意見を言えるんだろう)と感心。そういう思いを一つ一つ日記とかで 安易に述べていくことは、実は浅はかなことなんじゃないだろうか、と途中 で書くのをやめにしてしまう。考察が曖昧な文章を書く必要はない。
表現にいたるものについて一番ピュアな判断材料は、自分の目で見たもの、 自分の手で触ったもの、自分の耳で聞いたもの、食べたもの、体で感じた こと、そういった直接のインプットだ。そこには、何の嘘もない。今まで、 そういう自分「自身」が感じた情報ソースをもとに組み立てようと思って きた。自分がどう感じたか。そこには何の嘘もないんだ。
基本的に「好かれたい」のだ。ちょっと常軌を逸した発想や、モラルに反す る本能的発想もするのに、それらを抑えていい子チャンでいようとする自分 がいる。反論されたらどうしよう。反論に反論できない。安易に意見書いて 「こいつバカだなー」って思われたくない。でもそれではいつまでたっても どんな表現もできない
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選挙には今まで欠かさず行っている。 自分なり立候補者の政党やその政策や実績をメディアから摂取して意思決定 してるけど、例えば立候補者の服装が A氏はHIP HOP、B氏はROCK、C氏がTECHNO、D氏がPOP だったら、D氏の意見が間違ってても他の人に投票できない自分はいると 思う。みんなホントに考えて意思決定してるんだろうか?
今まで結構無意識のうちに判断をしてきたし、 これからも意識しつつも結論が曖昧なまま判断をしていかなきゃならない時 もあるんだろう。けど、なるべく流されずに自分の意見を形成したい。たと え世論に反論されようとも、思いに従い「肯」ならば、鈴木ムネオへの応援 演説を引き受けようという千春さんは凄くピュアだと思う。古くはたけしさ んが雑誌社を襲撃したこととかね。「戦争にはちょっと反対さー」って歌っ た曽我部さんとか。
例えば、自分でもそういう表現をしているから自己批判と捉えてもらっても いいけど、最近の歌には「○○するのかな」とか「○○なのかな」といった 歌詞が多いと思う。けど、そこにあまり男らしさを感じないのは俺だけだろ うか。「こういう風に思ってたけど、違うのかな。どうなんだろう。僕わか んなくなっちゃったよ」って感じがして、なんか男として弱ぇえ感じがする。
それだったら「俺はこうだ!」「○○は××だ!」ってハッキリとモノを言 ってくれたほうがスッキリする。「いや、そうは思わない」って言う人は その歌を拒絶して聞かないと思うけど、「どちらでもいいですー」って歌う よりは100億倍まし。意見を持ってそれを歌う(表現する)ってのはまこと に勇気がいる。「キライ」って言われたらどうしよう。立ち直れない。って 思ってばかりいたけど、この思いは金輪際捨てる。
それを「アリ」だと思う自分がいる。 のなら、そう表現する。
そんな浅はかな男でかまわない。
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