最近新刊が出て、売り切れ続出となった作家である。 ファンがとても多い。 知り合いだけでも既に5人ファンがいる。 島田荘司だの綾辻行人だのましてや後藤明生だのとは知名度において比べ物にならない国民的人気作家である。 確かに上手いと思う。
が、しかし。
どうにも苦手である。
『ノルウェイの森』の冒頭一行目にして何ともいえない反発を感じたワタシは、『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭もやっぱりダメだった。 スパゲッティ茹でてるとドキュンな女から電話がかかってくる。僕は実に不愉快だ。 一体全体、こんな始まり方をする物語をこの先読もうと何故思えるんだろうか。 なんでこう主人公は「何も悪くない無垢な被害者の僕」なのだろうか。そしてなぜ「女は意味不明なモンスター的加害者」なのだろうか。 主人公が感じる「理不尽さへの怒り」は、決して「反省」とか「発見」に回収されることがない。 知ってる限り男性ファンの割合が高いが、彼らはこのような構造に気づいているのだろうか。 ワタシには「腐女子のBL好き」と同じような「ある種の男性の精神的快楽」に饗した作品に思えるのだが。 ただ、『中国行きのスロウ・ボート』は結構よかった。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、頑張って読んだ。(読み終わって感じたのは「やっと終わった・・・」だったが)
それはさておき。
日本が戦前、満州に進出するに当たり「日本人は人数が増えすぎたから植民地がないと発展できないよー」という理屈が一つにはあったらしい。と石橋湛山が書いていた。 当時の日本人、約8000万人。
え?
1億3千万の日本人が、本土だけでよく高度成長できたものである。 まあしかしそれは、「本土内植民地化」によってなされたものだと言えなくもない。 国民を自国製品の市場とするために。 消費者であると同時に労働者である国民。 一見相反する価値観に思えるのだが、「家族内分担」によって切り抜けられた。 お父さんは労働者であり、お母さんと子供は消費者である。(そしてお母さんは環境メンテナンスをも引き受けさせられたが、この役割には「価値観」がない。誤解を招くかもしれないが、消費者の価値観が「選択」と「対価」であり労働のそれが「奉仕」だとすると、環境メンテナンス担当の価値観とは一体なんだろう?) やがて家族は更に内部植民地化され、「個人化」してゆく。 友人Hが卓見したように「プレステは1家に1台だが、DSは1人1台」 そういうことだ。 「個人化」が進んで「他人がいる不愉快」に価値があると思えない(あるいは耐えられない)あり方が普遍的になる。 そのため「他人がいる不愉快」を上手く捌く能力のある人だけが恋愛や結婚を上手くやり遂げている。 何しろ、個人化があまりに快適だった(あるいは快適であるようになってしまったものだから。
とか適当な与太話を並べてみた。
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