| 2003年12月27日(土) |
三島由紀夫『鍵のかかる部屋』 |
いっそのこと、三島由紀夫全集を買ったほうが効率的だと思うのですが、全集って、なんか嫌じゃないですか?
だって、あんな厚くて堅い本、机の上じゃないと読みにくいじゃん。 私は夜寝る前に布団に寝転んで、とか、お風呂の中で表紙をべろべろにしながら読みたいんだもん。
なので、私は新潮文庫のあの朱色の背表紙の文庫本をちまちまと買っては、読んだころにはどこかに紛失しちゃうとか、ぼろぼろにしちゃうとかしながら、無軌道に三島由紀夫を楽しむのです。
いまどき、普通の本屋さんには三島作品というと『金閣寺』『仮面の告白』ぐらいしか置いていません。 でも、ヴィレッジバンガードみたいな面白本屋さんだと、なかなか凝った品揃えでうれしくなります。 そして、やっぱり、ほしいものが手に入るのはネットの本屋さん。
『鍵のかかる部屋』もアマゾン屋さんで買いました。 この短編集には三島由紀夫の15歳から44歳自決直前までの作品12編が収められています。
あまりにも多彩すぎて、あまりにも深すぎて、私にはどの作品がどうだなんて論じる視点を持てません。 なので、心に残った表現を引用するに留めおきます。
「戦争が道徳を失わせたというのは嘘だ。 道徳はいつどこにでもころがっている。しかし運動をするものに運動神経が必要とされるように、道徳的な神経がなくては道徳はつかまらない。戦争が失わせたのは道徳的神経だ。 この神経なしには人は道徳的な行為をすることができぬ。従ってまた真の意味の不徳に到達することも出来ぬ筈だった。」「慈善」
いまだ、道徳的神経は喪失されたままの日本列島です。 いいえ。 道徳的神経はそこに自然に発生するものではなく、世代の上から下へ継承されていくものです。 一度その継承が断絶されたところに、もう一度道徳的神経をよみがえらせるにはどうしたらいいのでしょう?
「朝のラッシュ・アワーの電車に揉まれていて、一夫は誰も叫びださないのを不思議に思うことがあった。 自分の体さえ思うままにならない。他人の圧力から、自分の腕をどうにか引っこ抜いて、背中の痒いところを掻くことさえできない。 誰もこんな状態を、秩序の状態だと思わないだろう。 しかし誰もそれを変改できない。 満員電車のなかの押し黙った多くの顔のそこに、ひとつひとつ無秩序が住んでいて、それがお互いに共鳴し、隣の男の無礼な尻の圧力を是認しているのだ。 ああいう共鳴は、一度共鳴してしまったら、とても住みよくなるのだ。」「鍵のかかる部屋」
この部分にひどく共感してしまいました。 私は“満員電車の無秩序の状態”を、学校現場の日常の比喩として受け止めました。
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