宿題

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2007年01月24日(水) みずうみ/いしいしんじ
慎二さん、と園子が声をかける。結局それ、何語だったの?
慎二は何をいわれているのかわからない。
いま、うたっていたでしょう、エントロピー、エントロピー、って。
ほんとうに?慎二は自覚がない。
園子のハミングに合わせ、唄っていたのだろうか?
エントロピー、エントロピー。
熱力学上の量の定義。閉じられた系のなかで、エントロピーは常に増大し、
熱量は平衡へ、構造は無秩序へ、必然は偶然へと、ばらばらに解けていく。
エントロピー、エントロピー。慎二は口のなかでいってみる。
エン、で流れ、トロ、で少し跳ね、ピーの余韻に消えてしまう、
冷えていく金属のような音の響き。
慎二は歩きだしながら、もともとは、ギリシャ語だったようだよ、
と、黄色い光を受けている園子にいう。
その語の意味を、わかっている範囲で話そうとするが、うまくいかない。
じゃあ、と園子は光のなかでいう。
もっとギリシャ語っぽくいってみて。もともと、
それが話されていたときの人みたいな、そんな声に出していってみて。
慎二はうまくできる気がする。
立ち止まり、息を吸い込んで、ありったけの熱量を胸にはらませる。
そして川面に向かい、

イエーン、トーロップ、フィー

絶え間ない川音の隙間へ、その音は入りこみ、えんえんと伸びていく。
やがて遠のき、消えつつある音に耳をすませ、うなずいて振り向くと、
園子は光を浴びたまま立ちつくしている。
驚いたあ、と語尾にアクセントをつけた発音で園子はいう。
声と一緒に、もっていかれそうになっちゃった。
慎二はうなずき、そして川下へ、歩き出そうとする。
ねえ、慎二さん、と園子は光のなかからつぶやく。
いまの言葉を逆さにいうと、どういう音になるの?
逆さ?慎二は驚いた顔で振り向く。そんなの、できるもんか。
やってみて、と園子はいう。
エントロピーの逆を、私に聴かせて。
慎二ははっとする。園子に照りつけている黄色い光のなかに、
慎二はとりわけまばゆい、白く沸騰する一点を見たと思った。
園子のちょうど腹のあたりだった。
目の前にいるのは園子だったが、その白光は、園子だけではなかった。
その小さな一点に、自分や園子につながる、
ありとあらゆる人がいるような気がした。


★みずうみ/いしいしんじ★

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