宿題

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2006年05月24日(水) 森繁自伝/森繁久彌
次の日、子供が飛んで帰って来て、
「パパ、家のまわりに機関銃があるよ」
と云うやいなや、窓から四人のソルダート(兵隊)が土足のまま飛び込んで来た。
びっくりした私に、二人の蒙古兵が自動小銃をつきつけ、
バルチーク(中尉)が、私を指さして何かどなった。
するともう一人の背広を着たロシア人が、
「その場に静かにしなさい。反抗すると貴方は死にます」
と通訳した。これがなんと、いつも菓子を買いに行くアルメニヤという駅の
近所のロシア菓子店の主人ではないか━━うーむ、世の中は一変したのだ。
菓子屋の主人「あんた、モリシゲ、ね」
真青な私「そうだ」
憲兵中尉「(はげしいロシア語)」
この間、通訳の間があるんで即答しないのが大助かりである。
菓子屋の主人「私たちと一緒に行きます。なぜ行くかわかります、ね」
真青な私「わかりません」
憲兵中尉「(ドン、ドンとテーブルをはげしくたたいて、
ピストルを擬しながら早口でしゃべる)」
菓子屋の主人「あなた放送局、みんな調べました。シベリア行きます。
裁判あります。奥さん、寒い用意しなさい。いますぐ行きます」
土色の私「………」
私の顔面はおそらく色を失っていたのだろう。声が出なかったのをおぼえている。
子供たちは三人、祖母のそころへよりそって、パパがどうなるのかと、
泣くのも忘れた顔で見ている。
中尉はやおら立ち上がって「マリンキー(子供たちよ)心配しなくていいよ」
と笑顔を見せ、子供たちのいる次の部屋との間の襖を閉めた。
そして、ふり向くや大喝一声。通訳は━━
「あなたは、かくしますと、ソンです。もし、あなたが、シベリアへ行きたくないなら、
五人の人の隠れているところ教えなさい。━━大丈夫、あなたに心配はかかりません。
憲兵、警察、役人、軍人、あなた知ってるえらい人、たくさんあります。
その人は、今どこにいます。えらい人は、どこかに隠れています。
五人だけ、家を教えなさい。あなたは、行かないでいいです。どうぞ!どうぞ!」
私が返答に窮してふるえているところへ、救いの神のように、静かに
━━いとも静かに、女房が紅茶を持って入って来た。
そして彼女は、おもむろに皆の前に紅茶を出して、静かな口調で菓子屋の主人に、
女房「いつも買いに行くアルメニヤの小父さん、おぼえていますね、私の顔。
(主人は、ダ、ダ、と小さな声で返事をした)すみませんが、こちらの
将校さんに通訳して下さい。
わたしは、ソビエトという国は、今日世界の最も進歩的な国だと信じておりました。
ところが、はじめてお目にかかったその国の責任あるこちらの将校の方が、
こんなに礼儀を知らないのにびっくりしました。
こうして、土足のまま窓から入ってきて、いきなり家族のいるところで無作法な
ふるまいをなさいますが、これはお国の習慣なんですか?
小父さん、訊いて下さい」
どう通訳したか知らぬが、中尉もいくらかホコ先がくじけたのだろう、
紅茶は飲まなかったが、今度はやわらかい調子で、菓子屋になにかささやいた。


★森繁自伝/森繁久彌★

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