singersong professor KMの日記

2008年11月18日(火) 官民と公私

 日本では官が戦前は天皇直属の組織であったという点で問題はあるが,今でも,官庁,官僚という呼び方で呼ばれる。官吏というのもある。公務員も事務官であり,技官である。官なのである。天皇直属ではなくなったが,言葉として残っている。それはそれで慣用だから仕方ないとしても,問題はその「官」が「公」を専管しているごとくである。

 しかし,「民」であっても「公」を担えるはずだし,「官」がなくても「公」を自分たちで担ってこその民主主義のはずである。ところが,日本では,民の官頼み,なにもかも政府・官に寄りかかる傾向がある。マスコミなどではその傾向がある。何か言うと,政府が悪い,で済ます。もちろん政府に問題は多い。だが,そんな問題が多いのなら,民が「公」を担ってしまえばよいはずだ。メディアにそういう発想,提案がない。

 「公」は英語ではパブリック(public),つまり「公衆」と訳せる。なにも「官」だとか「政府」の問題ではない。みんなの問題なのだ。社会的機能を誰が担うかということが問題になるだけだ。「民」でも十分担いうる。だから,「民営化」という場合も,「公」的機能が民で担われるに過ぎないはずだ。それは「私」営であってよいとは限らない。もともと「公営」であったのは,それなりに社会的側面が強かったからそうであったはずだ。それが,「官」営でうまくいかないから「民」営にしようという話のはずだ。「民」営になっても,社会的側面は残る。ただ「公」を「民」が担うだけである。

 そういう官民と公私の意味がごっちゃになっている。郵政民営化など,そこに社会的側面があったから「官」営だったのであって,「民」営化されても社会的側面はある。だから,それが私(わたくし)されたのではたまらない。民だって公(おおやけ)の心を持たなければならないはずだ。明治の大物,渋沢栄一は起業家ではあったが,それは「私」心で起業したのではなかった。「公」のために起業したのであった。

 企業にはだからこそ,元来,社会的責任があるわけだ。日本には以前から,「企業公器」論があった。その心は,渋沢の心と同じである。


 < 過去  INDEX  未来 >


singersong professor KM