只今卒論指導中である。ここのところの,4回生のゼミナールは,そういった卒論の中間報告会となっている。ところが,昨日,最近の4回生ゼミの場所となっているSCDRへ行ってみると,報告のT君一人。その後,W君,N君,T君とやってきたが,Y君は列車で居眠りしていてUターン。名古屋まで行ってしまったという。確かに遠方からの通学であるとはいえ,何ともはや。そして,H君はチャイムが鳴って終わった頃に,寝過ごしたと言ってやってきた。ま,それでも来ただけ「えらい」ということだ。最近になく,混迷。
その中で,K君に会いますかと言われて,ひと月前のゼミに来て以来だと話したが,思い出した。20日の付属校オープンキャンパスの日にご両親らを大学に案内しに来ていたのを思いだした。K君,律儀ではあるが,好き嫌いがはっきりしている(これは人の好き嫌いではなく,することの好き嫌いだが)。
かつてほど,卒論に対する取り組みが弱くなってきている。これはどこのゼミナールにも共通のことだ。演習の単位を分離認定したとかいうような制度的な問題もあるが,根元的には,大学が大衆化し,従来のエリート層と大衆層が共に大学に学び,とりわけ,立命館大学というクラスでは,まだエリート層に近い層と大衆層とが共存している。つまり,東大,京大ではないが,かといって,三流校ではない。そこに問題が伏在している。最近「世界の大学危機」(中公新書)というのを読んだが,これは先進資本主義国に共通の問題のようだ。現状をリアルに認識して対応しているかに見えるアメリカとの対比でみると,やはり,日本の大学制度は遅れていると言わざるを得ない。
卒論という制度はかつてのエリート養成校であった時代の大学教育の名残である。今でも卒論を書くことの意義はなくなっていない。論理的思考などを養うのには大変有意義だと思う。だが,そういう必要性が卒業後ないかもしれない層まで大学に来ているのが実情だろう。あるいは,必要であるにもかかわらず,実感できずにいる層も多い。そういう層は卒論を書く必要を感じない。会社でも上層部に進む層は論理的思考が必要だ。
多くの卒業生が会社に入ってから,大学時代もっと勉強しておいたら良かったという。後悔先に立たずだが,人間とは弱いものだ。これは他人事ではないのだが。
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