| 2007年01月21日(日) |
日本人が忘れてはいけない島 |
「 自由とは、ただ好きなことをすることではなく、我々が当然すべき
ことをなす権利をもつことにある 」
ヨハネ・パウロ 2世
Freedom consists not in doing what we like, but in having the right to do what we ought.
Pope John Paul ��
生まれたときから自由を得てきた人間には、理解し難い言葉であろう。
もちろん私も、他人から自由を束縛されたことなど、一度もない。
たまに戦争映画などを観ると、当時の人が 「 自由 」 に憧れ、それを欲し、有効に使いたいと願った想いを、身に染みて感じる場面がある。
それに比べると、多くの現代人によって語られる 「 自由 」 とは、安っぽく、薄っぺらなものであるのか、同時に痛いほど思い知らされてしまう。
若い者は 「 盗んだバイクで走り出す自由 」 や 「 校舎の窓ガラスを壊して回る自由 」 を謳い、教師は 「 国旗、国家を冒涜する自由 」 を唱えている。
中年の勤め人は、自分が人並みに満足な仕事もできないことを棚に上げ、会社や社会の愚痴を並べては、ストレスで精神病になった不幸を嘆く。
そんな連中には、自分に 「 自由 」 が与えられるなら、信念に基づき誠実に、国家や家族や地域社会のため、奉仕したいなどという発想などない。
話題の映画 『 硫黄島からの手紙 』 を鑑賞してきたが、オスカー有力候補と目される内容だけあって、見応えのある作品に仕上がっている。
第二次大戦末期、この硫黄島で、水も食糧も、弾薬の補充も受けられず、圧倒的な兵力、火力差に劣る日本軍将兵は、玉砕覚悟で米軍と戦った。
史実に近いと思うが、このような悲惨な戦いを強いられた背景には、海外の事情に疎い無能な参謀たちの 「 ミスリード 」 が大きかったようだ。
それでも、硫黄島に孤立し、国に見捨てられた2万の将兵は、「 自分たちが留まり、一人でも敵を倒し、上陸を遅らせる 」 ことに命をかけた。
そうすることによって、祖国が攻撃され、愛する家族に危害の及ぶ事態を、ほんの僅かでも阻止することができると信じたからである。
組織ぐるみの不祥事で揺れる 「 不二家 」 にも内部告発者がいるように、どんな腐った環境や、集団の中においても 「 正義漢 」 は存在する。
映画では、渡辺 謙 の演じる 栗林 中将 や、伊原 剛志 の演じる 西 中佐 ( いづれも実在 ) が、そんな 「 智・勇・仁 」 を兼ね揃えた好人物だ。
彼らとて、軍部の暴走には逆らえず、敗色濃い戦局の中、無益で理不尽な消耗戦に巻き込まれていくのだが、決戦を前に想いを呟く。
たとえ命尽き、孤島の砂に果てようと 「 きっと未来の日本人が、涙を流して自分たちに感謝してくれる 」 と、絶望感を振り払うように漏らすのだ。
劇場には年配の観客も多かったが、私も含めて、その言葉に思わず頷き、胸の中で手を合わせた御仁は少なくなかったろうと思う。
しかし残念ながら、彼らに感謝するどころか、靖国参拝は違法だとか、教師が国旗、国家を掲揚しないことは自由だなどと愚弄する日本人も多い。
彼らの死を無駄にしたのは、当時の大本営や軍首脳、政治家や、浮ついた国民ではなくて、そういった現代にはびこる 「 売国奴 」 かもしれない。
硫黄島で命を落とした2万人の日本人将兵のうち、実際には米軍と戦って死んだ人よりも、餓死、病死により非業の死を遂げた人の方が多い。
それでも彼らは、数倍の兵力と火器を持つ米兵と互角に渡り合い、日本側よりも8千名多い2万8千の米兵の命を奪ったのである。
過酷で絶望的な戦局の中にあって懸命に戦い抜いた彼らを、鬱だ、精神病だと泣きを入れては仕事を休む 「 戦わない現代人 」 が嘲笑している。
観終わった実感としては、「 こんな時代にしてしまって、本当に申し訳ない 」 という悔恨と、豊かになったはずの日本人の 「 心の荒廃 」 に胸が痛んだ。
また、冒頭の言葉と同じように、「 真の自由とは、自分本位な好き勝手ではなく、自分のやるべきことをやれる機会のこと 」 だと改めて思い知った。
作品は、日本人気質が十分に表現された素晴らしい脚本と、ハリウッドならではのスケール感に溢れた映像が見事に調和した佳作に仕上がっている。
それと、特筆すべきは、若い兵を演じた 二宮 和也 という俳優の演技力が抜群で、主役の 渡辺 謙 を食うほど、とても新鮮で印象的な好演だった。
オスカーの前哨戦である 「 ゴールデングローブ賞 」 では外国語映画賞の栄冠に輝いているし、本番でも高い評価を得られるものと期待している。
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