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2004年07月17日(土) 日本民族


人それぞれ性格は異なるもので、一億人いれば一億通りの性格がある。

だから、一つの民族を指し 「 ○○人は、こういう性格 」 などとはいえない。


ただし、生い立ちや環境が近ければ、どこかで思想的に共鳴しやすかったり、似たような価値観を持つことも否定はできない。

すべての物事に対し、まるで同じということはあり得ないが、同朋が部分的に同じ反応を示す可能性は高く、それを世間では 「 民族性 」 などという。

確固たる利害関係もないのに、宗教や思想の違いから 「 民族間の争い 」 が繰り返された歴史もあり、それは現在の中東問題にまで繋がっている。

では、「 日本人の民族性 」 とは、どのようなものなのだろうか。

そんなことが、ふと気になったりしたので、いろいろと考えてみた。


たとえば、「 武士道 」 というのは、日本独自の精神世界といえよう。

正義感が強く、周囲に嫉妬したりせず、ひたすらに自己の鍛練を己の責任において貫くという、まさに潔い生き方の象徴である。

目的が正しかったか、「 つかいどころ 」 が適切だったかは別として、太平洋戦争に敗れるまでは、それを美学として信奉する人が多かったようだ。

ただし、それは階級性社会から生み出された 「 侍 」 の生き方であり、戦うことを生業とする以外の人々には、あまり浸透していなかったはずだ。

すなわち、それを 「 日本古来のスタンダード 」 と考えるのは間違いだろう。


時代物の小説などを読むと、むしろその逆に、強い者の背後に隠れ 「 虎の威を借る狐 」 のような人物のほうが、圧倒的に多かったように感じる。

もちろん、町民や農民の中にも、天才的な英知と指導力を以って、民衆を革命へと導いたり、政局に多大な影響を与えたであろう人物が存在する。

だが、それもごく僅かな人々のことであって、「 民族性 」 とは認め難い。

もっとポピュラーに、日本人の多くが持ち合わせている共通項はないだろうかと、あれこれ考えた結果、以下のような結論に達した。

反論も多いとは思うが、私の考える 「 日本人の民族性 」 は、�� 順応性が高い、�� 安全を好む、�� 責任を避ける の三点に集約される。


まず、「 順応性が高い 」 という点だが、明治維新、敗戦といった価値観を根底から覆される出来事を、ほぼプラス面に乗り切ったことで証明される。

もう少し細かい事例を挙げると、ドルショック、オイルショックなどの危機に瀕しても、危なげなく対処してきた経緯がある。

次の 「 安全を好む 」 というのは、「 平和を好む 」 とは微妙に違う。

戦争を支持したほうが安全なら口を塞ぎ、安全が保障されていると知るや、やたら平和を偏重する姿は、国際的に 「 平和主義 」 とは認められない。

ここで、「 違う、私は殺されても平和を主張するぞ 」 などと反論するご立派な方がいるかもしれないが、それは 「 平均的日本人 」 とは思えない。


最後の 「 責任を避ける 」 というのは、前述の 二点 と交錯する要素であるが、「 中庸を好み、流行に乗りやすい 」 という傾向を指している。

中庸とは 「 安定した生活がなせる思想 」 であり、一部の人格障害者やら人生の破綻者を除けば、危険を冒してまでは体制の転覆を望んでいない。

また、「 流行に乗ることで、責任を免れようとする性格 」 は、ファッションや車選びをはじめとし、政治やビジネスの選択肢にも広く浸透している。

このあたりが、海外からみて 「 成功はしても、尊敬はされにくい 」 といった印象に、深く関わっているのではないかとも思う。

まだまだ他にも 「 民族性 」 を示す要素があるかもしれないが、ぱっと頭に浮かんだのはこれら三点で、他に思いついたら別の機会で述べてみたい。


米ソの冷戦終結は同時に、「 壮大な社会主義の実験が失敗に終わった 」 ことと同義語であり、いまさら 「 右か左か 」 で悩む時代でもなかろう。

しかしながら 『 いまさら 』 になって、極左的な発言をする輩が増えている。

そんなに自由主義に憤りを感じるのなら、どうして冷戦構造の時代に東側へ行かなかったのかとか、どうにも疑問である。

結局は、どうせ自由主義は守られるんだという安心の前提に立ち、体制にはむかって格好つけているだけの連中にしか見えない。

まぁ、そんな 「 チャラけた戯言 」 が堂々と語れる今の日本が、とっても幸せな国であり、それも一つの 「 民族性 」 として嘲笑されるのだろう。





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