Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年03月18日(木) 今季最後の ふぐ


阪は 「 ふぐ の消費量 」 が、全国一多いそうである。

そろそろ、鍋も食べ納めということで、友達と ふぐ を食べに行ってきた。


たとえば、東京で ふぐ を食べようと思っても、大阪に比べると、取り扱っている飲食店が少ないような気がする。

一口に ふぐ と言っても、品質はさまざまなようで、価格も ピンからキリまで 存在するのが実態だ。

どうも、物価の問題と言うよりは、東京では 「 ピン 」 の ふぐ を扱う高級店が集中していて、「 キリ 」 を庶民的な価格で提供する店が少ないらしい。

その点、大阪は 「 大衆食堂 」 のような店構えのところでも、“ 価格なりの ” ふぐ を食べさせる店が多く、日常的に食べる習慣も多いようだ。

逆に言うと、大阪でも 「 とびきり美味しい ふぐ 」 が食べたければ、ちょっと “ 清水の舞台から飛び降りる ” ぐらいの覚悟が必要となる。


今回お邪魔したのは、古くから通っている天満の名店で、当然、味に関しては期待を裏切られることがない。

出費に関しても、覚悟を裏切られることはなく、食べて溜息、支払うときにはまた、別の意味で溜息が出る。

最初は接待に使っていたのだけれど、最近は個人利用ばかりである。

経済的な問題もあるが、いくらお金があっても、こういう店をプライベートで使うには 「 年季 」 が必要で、あまり若い人には似合わない気がする。

店内は、いつも年輩の粋人で賑わっているが、もしも 20代のカップルなどが目についたら、たぶん “ 首を絞めたい ” ほど、生意気に感じるだろう。


こういう店は、デートに使うべきでなく、食通の男友達と行くのが正解だ。

二人分を負担するには費用がかさむし、同じ出費なら、食事以外にも空間を楽しめるような 「 フランス料理 」 みたいなほうが、デートには相応しい。

女性と ふぐ を食べたこともあるけれど、それは 「 それなりの店 」 で、今回のような 「 とっておきの店 」 とは異なる。

自分の名誉のために付け加えると、「 ケチっている 」 わけではなく、「 美味しいモノを食べる気合 」 と、「 美味しい思いをする気合 」 は違うのだ。

かえって 「 好感度を下げる言い訳 」 をしたところで、話を先に進める。


魚を使った鍋料理にも様々な種類があるけれど、なぜかしら ふぐ の場合は、刺身、唐揚、白子のポン酢和えなど、「 ふぐ づくし 」 を食べたくなる。

ふぐ の刺身 ( てっさ ) などを肴にして熱燗を呑むのだが、日本酒はキレのよいスッキリしたタイプが好みなので、めったに 「 ひれ酒 」 は頼まない。

白子は、ポン酢で食べるのが一般的だが、この店は ( 高いだけあって ) 贅沢なことに、ふぐ鍋の中にもドーンと大量に入る。

そして、唐揚の骨をひたすらしゃぶりながらチューチューしている頃、本日の主役である 「 ふぐ鍋 」 が、芳香とともに煮立ってくる。

きっと毎回、同じものを同じように頼むので、「 唐揚のチューチュー 」 と鍋の蓋を開けるタイミングは絶妙に合い、時期を逸することはないのだ。


美味い ふぐ の鍋を食べると、出汁が良いせいか、一緒に炊いている野菜や、葛きりなども美味く、どんどん箸が進む。

店主いわく、長年使い続けた鍋には旨味が染み込んでいて、洗浄はするのだけれど、新しい鍋とは味が違うのだそうである。

だから、たとえばこの鍋を自宅に持ち帰って、ふぐ にかぎらず、いろんな鍋料理をしても、白米を炊いたりしても、やっぱり美味しいのだという。

たしかに他店に比べると、かなり古い、年季の入った鍋である。

ふと頭に、「 料理の下手な人が長年使った鍋 」 を一流の調理人が使うと、「 おやっ? 」 となる駄作ができるのかなどと考えつつ、さらに食べ進む。


あらかた鍋を食べ尽くすと、雑炊の準備にかかる。

いろんな鍋で雑炊を試みたが、ふぐ鍋の後の雑炊ほど美味いものはない。

正直に言うと、魚の味そのものは 「 あんこう 」 や 「 クエ 」 のほうが美味しいようにも思うのだが、雑炊だけは他の追随を許さない。

言い換えると、この雑炊が食べたいからこそ、高い出費をしているようなもので、本当の主役は 「 ふぐ雑炊 」 だと言っても過言ではない。

ご飯と葱を入れ、煮立ったら卵を流し入れて蓋をし、火を止めたら出来上がるのだが、食べるときに少量のポン酢を入れるのが、私の好みである。


一度の食事に費用をかけても、「 満腹になったら、なんでも同じ 」 だという人も多く、たしかに翌日には、すっかり忘れてしまうものかもしれない。

ただ、たまには思い切って贅沢をし、「 また来年も、これを食べれるように頑張ろう 」 と思うのも、自分に対する励みにはなるだろう。

そういう食事には、なんらかの 「 儀式 」 とか 「 作法 」 みたいなものを感じられるものが相応しく、そうでないと記憶に残りにくい。

そこで一緒に食事をする相手は、自分と同じような境遇で、同様に頑張っている友達がよいと思うし、彼も同じような気持ちで参加しているようだ。

これは、高級料理を毎日食べられるような金持ちには解らない心境だろうから、ひょっとすると 「 贅沢とは、貧乏人の快楽 」 なのかもしれない。






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