
|
 |
| 2005年11月20日(日) ■ |
 |
| 恩師 |
 |
そろそろ年賀状の準備をしなくちゃ と思う時期です。 出来るだけギリギリではなく、早めに印刷済ませてしまいたいし、 そのためには、犬の写真を撮らなくっちゃ と何も出来ないまま 焦っています。
そして、この時期、喪中の葉書が届くのですが、その中の一通が 僕にとっては、自分の半身をもぎ取られるような、それぐらいの ショックでした。
差出されてた方のお名前は存じませんでした。 でも苗字に見憶えがあって、もしや と嫌な予感が走りました。
妻の...という文字を見たときに、僕は愕然として、床に座って しまいました。
その葉書で、恩師の死を知りました。
今まで、生きてきた人生の中で師と呼べる人は、そんなに多くありません。 学校の先生だって、人として尊敬出来る方でないと、師とは呼べないと 思っています。 人形教室の本城先生だって、人形の世界で高名だから、ただそれだけで 尊敬しているのかというと違います。人間性が素晴らしいから、だから 師として仰ぎたくなるんです。(先生、生意気いってすみません。)
半身がもぎ取られたというのは、決してオーバーな表現ではなく、この 先生との出会いが無ければ、今の僕は存在していなかったかもしれません。 それぐらい、僕のことを親身になって考えて下さった先生なんです。 先生は、僕が幼稚園の年長組の時の担任でした。 僕は、とても両親に甘やかされて育ったために、とても甘えん坊さんで した。不思議なもので、僕の中で一番、鮮明に記憶が残っているのが この時期なんです。物事について憶えているだけでなく、その時の感情 みたいなものが、今でもしっかり残っていて、自分でも不思議なぐらい です。 僕は、幼稚園の校門をくぐり、両親がお別れの挨拶をして立ち去ろうと すると、毎日泣きました。何と言えばいいのか、上手くお伝え出来ない のですが、心の奥底から湧き上がってくる感情を抑えられなくて、午後 にはお迎えに来てくれると分かっているのに、永遠の別れのように哀し くて毎日、毎日、泣きました。泣いた後、30分ぐらいすると、ニコニコ して、みんなと仲良く遊ぶんです。 そう、幼稚園は楽しくて仕方ないのに、朝の別れの時間は、とても辛くて 耐え難いものでした。
年少組のときは、丸一年泣き続けました。 先生もどうしてよいのか分からなかったのでしょう。 いつも泣いている僕を抱いてあやしてくれたのですが、効果は全くあり ませんでした。
年長組になったときに、担任の先生が変わりました。 子供心に、きれいな先生だなぁ〜と嬉しく思いました。 でも、そんなきれいな先生に代わっても、朝、泣くことはおさまりません でした。 先生は、時に優しく、時に厳しく叱って、それでも僕は、泣き止みません。
しかし、そんな僕にあるとき、先生がこう言いました。
「そんなに泣いてばかりいるなら、もう、あなたはこなくていいから。 バッチを返しなさい。」
僕は、幼稚園は大好きでしたから、来ないでと言われて、とてもショック でした。ましてや、バッチを返しなさいなんて、何だか一人、取り残される ようで寂しくて、それにバッチも大のお気に入りでした。
「もう泣かない。だから、バッチは取り上げないで。」 そう答えると。
「本当? もし、明日泣いたら、本当に来なくていいから。」 先生は、幼稚園生に対しても、厳しいです。
次の日、僕は、本当に泣きませんでした。 その次の日も、また次の日も...。
後日、僕が中学ぐらいの時に、先生とお会いして、色々とお話したことが あります。先生は、「まさか、バッチを返しなさい。 と言って、本当に 泣き止むとは思っていなかったのよ。」と笑っておっしゃっていました。
他にも先生から言われたことで、印象に残っている言葉があります。
幼稚園を迎えに来てくれた祖父(当時50歳ぐらい)が、自転車の後 に僕を乗せて帰宅していました。
ある日のこと
「あなたは、自分で歩けるでしょ? おじいさんは、大変なのよ。 毎日、送り迎えしてくれて、ありがとうって気持ちを持たなくちゃ。 自分で歩けるのだから、きちんと歩こうね。」
子供からすると怖い先生というイメージが出来てしまうかもしれませんが 何故か、当時の僕は、怖くて厳しい先生という以外に、とても優しさ、愛情 を感じました。
子供だから、どうせ言ったって分かる筈ない。 だから駄目なことは駄目って言えばいいし、人の子だったら、叱って嫌わ れるよりも、お菓子を与えて、いい人を演じた方が楽。そんな考え方の人 って、もしかすると結構いるのかもしれません。
先生は、幼稚園の時の先生です。 でも、僕にとっては、他のどの先生よりも、色々なことを教えて頂いたと 思っています。人として大切なものは何か、どんなに小さくても、理解 出来ないかもしれないけど、真剣に接することの大切さ。
卒園してからは、一度しかお会いすることが無かったのですが、年賀状 のやりとりは、今年のお正月もありました。 また、先生から、成人の時にお祝いを頂きました。 僕から、本のプレゼントをさせて頂いたこともあります。 僕にとっては、先生は、生涯で唯一の恩師だと思います。 先生には、本当にご迷惑ばかり、お掛けしてしまいましたが、出来の悪い 僕だからこそ、印象深く、優しく見守って下さったのかもしれません。
年賀状の文章も、挨拶的な内容は殆どなく、僕のことを今も心配して 下さっていることが、ひしひしと伝わってきました。
まだ、五十代半ば だというのに、天国にいくには早すぎます。 もう一度、お会いしたかった。 行こうと思えば、1時間もかからずに行ける距離だったのに。
本当に哀しくて、涙が止まりません。
先生とは色々とお話がしたいから、旦那様とは面識がないのですが、 連絡を取らせていただいて、伺わせて頂こうと思います。
旧姓で言わせて頂きます。
中川先生、本当にありがとうございました。
僕は、才能もないし、頭も良くないし、運動が出来るわけでもない。 だけど、人に負けないと思えることが1つだけあります。 それは、真剣に行動する ということです。 仕事の時など、時に、その性格が他人との関係で問題になることも ありますが、真剣に議論して、真剣に考えてこそ、人生って楽しく なると思っています。 趣味も趣味として終わらせるだけでなく、才能は無いとしても、自分に 出来るところはどこまでなのか、真剣に向き合ってみる。 そう考えるようになったのは、幼稚園の年長組だった頃、日々、先生に 教えて頂いたことが、根底にあることは間違いありません。
まだまだ、色々と教えて頂きたかったし、叱って欲しかった。 また、先生には、何かおいしいものをご馳走させて欲しかった。 感謝の気持ちは、言葉では表しきれないぐらいです。
本当に先生が亡くなられたことが信じられません。 先生が僕の中で、どれだけ大きい存在だったのか、改めて知りました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
本当にありがとうございました。
|
|