どんぐり1号のときどき日記
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| 2007年06月19日(火) |
そろそろ「監督・ばんざい!」 |
さて、そろそろ「監督・ばんざい!」について書く事にする。
富谷の109(東急グループだから109…)では、カンヌで上映された3分程の作品「素晴らしき休日」を朝の一回目だけ併映したのである。まあカンヌの依頼で作った作品なので、可もなく不可もなく、という出来だが、どうも昭和30年代を意識した作りのようだ。昭和30年代といっても、こういう田舎の雰囲気の作品はあまり好きではないが。 ただ劇中で「フィルムが焼けるシーン」を描いていたのが懐かしかった。確か最後に見たのはテアトル東京での大画面だったが、それも今となっては貴重だろう。そしてデジタル上映が進むとこういう事故は見られなくなる訳で、この映像を見ても何が起こったのか理解できなくなる訳だ。
そして「監督・ばんざい!」であるが、良くも悪くも彼の資質が判るガス抜き作品だ。やはり世間の目は「ギャング映画」の監督であり、たけしと言えども今後の方向性を決めるのと、観客の反応を見る必要性から、こうした映画を撮る事が必要だったのだろう。
多分たけし自身は、この映画の評価が客観的に判っているはずだ。だから映画の中で自ら突っ込みを行い、照れ隠しをしているのだが、その突っ込み自体は概ね正しい内容である。 したがってこの映画が彼のターニンクポイントになる可能性は高い。もちろんヒットする映画を作るかどうかは別だ。マイナーと言われ続けて来た押井監督ですら、観客動員はある程度考えていたのだが(それが結果に結びつかないが、彼は動員を完全に無視した事はないのである)、多分たけしは観客動員をまったく意識していない。撮りたいものを撮っていると考えられるのだ。 だからこそ、自分の可能性、世間の反応を今一度確認し、その上でやはり自分の撮りたいものを撮るという位置を確認したかったのだと思われる。
だがガス抜き映画をいきなり見せられた観客は戸惑うだろう。これが押井監督だと、観る方も撮る方も判っているという暗黙の了解が成り立つ世界なのだが、北野武監督というキャラクターは、国内と海外でかなり違うものに見られているのではないだろうか。 少なくともこの映画は、一般的には押井監督の「立喰師列伝」と同列と位置付けされるだろう。海外では理解されず、国内においても判る人にしか判らない、それでいて監督本人のステップアップには必要な作品と、まさに瓜二つの映画だ。 これ以後たけしがどう動くのか、非常に興味があるところだ。
しかし岸本加世子と鈴木杏の詐欺師親子は、実に良かった。この部分の脚本自体は破綻していたが、彼女たちは実にいい演技をしていた。実は鈴木杏をまともに見るのは「リターナー」依頼だったので、あの娘が鈴木杏だとはしばらく気づかなかったのである。 そして内田有紀はきれいになったものだ。まあ映画のメイクのおかげだろうが。
その他の役者も、よくまあこんな役を引き受けたものだと感心する。この辺はやはりたけしの実力に含まれるのかもしれない。 ただし井出らっきょうは鬱陶しくて邪魔だ。個人的にはこういうキャラを映画に出すのは嫌いである。彼はあくまでテレビや舞台のフォーマットであり、映画に出すような計算されたキャラクターではない。
ところで「怪奇映画・能楽堂」のシーンで、どうもテルミンが使用されていたように聞こえたのだが、調べてみたらオンドマルトノだった。 サントラ担当の池辺晋一郎氏はNHKの「独眼竜政宗」と「八代将軍吉宗」のテーマで使用していたが、実は師事していた武満徹氏も「未来への遺産」で使用していたという。こうしてオンドマルトノ派として繋がっていく訳だ。
なおこの映画内で「昭和30年代」を扱った部分があったが、その時のナレーション(伊武雅刀だが相変わらずうまい)が「昭和30年代、育った時代は同じだが、育った場所が決定的に違いすぎた」だった。つまりたけしが描くと、貧困と差別と暴力がまだまだ普通だった時代しか描けず、それは突き詰めていけばただのギャング映画の背景となってしまうのである。 だから彼に昭和30年代の映画は撮れないだろうし、多分撮っても無駄だ。今時の観客は奇麗事のノスタルジーが見たいのであり、昭和30年代のギャング映画など観たくはないのだ。
という訳で、この映画はたけしの現状を観ている分には面白いのだが、映画の中の笑いの部分は低レヴェルであまり面白いものではない。ネットではギャグの部分が笑えたなどと呑気な事を書いている人もかなりいたが、あの笑いはテレビの、特にアドリブでやるものであり、映画でやるレヴェルではない。 それは多分たけしも認識しているはずで、要は観客のレヴェルを確認しているのだ。
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