どんぐり1号のときどき日記
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先日買った文庫、「朽ちていった命−被爆治療83日間の記録−」(NHK「東海村臨界事故」取材班)を一気に読み終わる。 この事件は、非常に重大な事故なのにどうも世間一般の目が別のところにずれていったし、そもそも感心が薄いように感じたのだが(もしかしたらミス・リードが上手かったのかもしれない)、一部の週刊誌に治療の写真が載ったのを見るまでもなく、とんでもない重大災害だったのだ。それをNHKはどう取材したのか、という事で一気に読んでしまった。
まず、亡くなった人には悪いが、そもそも彼らは事故の加害者でもあるのだ。あれだけ危険な業務に従事しながら、その認識が薄かったというだけで、充分犯罪に等しい。 大内氏の場合はこれが初めての作業であり、未失の故意どころか未必の故意すら問えないだろう事は理解できる。しかし一歩間違えば、周辺住民が全員同じように被爆し、同じように悲惨な死に方をしたかも知れないのだ。それだけは忘れてもらっては困るし、もちろん大内氏達以上に彼等の上司、会社の上層部の責任はもっと重い。
それらを認識した上で、やはり彼等も原子力行政の被害者でもあるというのは正しいと言える。だからこそ事件の全貌を改めてきちんと見たいのである。とても世界で唯一の被爆国で起こった事件とは思えないほど、世間の認識は甘すぎる。 そして亡くなった彼等の遺体写真は是非とも公開すべきだろう。被爆するという事は、生体をたった二週間でこんなにも変えてしまう。放射線事故というのは不自然な事象だという認識を日本人は持つべきだし、全人類も同じだ。それを極秘扱いにするというのは、原子力政策の傲慢さの現われである。
しかし日本のドキュメンタリーとは、どうしてこうウェットなのだろう。こうしなければ、一般の人はその危険性が判らないというのだろうか。だとしたら、人間とはなんと想像力が欠如した生き物なのだろうと思う。 私はもっと淡々とした事実が知りたい。こういう本も必要かもしれないが、やはり事実の報告には感情の表現は不要だ。それはミス・リードに繋がるだけである。 多分この本を読んでしまうと、普通の人には亡くなった人を攻める事は出来なくなる。それほどに重い、悲惨な内容なのだ。それが判っているからこそ、ウェットな描き方は卑怯だ。これでは客観的な事故の評価は難しくなる。
現在の原子力行政には、危機管理意識がない。全くのゼロと言ってもいい。 今回のように20シーベルト以上を浴びたと推察された場合、LDは100、確実な死である。至近距離での臨界状態の被爆では100%確実に死ぬが、個別の違いはその時期が早いか遅いかだけである。 だがそんな状況のマニュアルを現在の日本の役所が作れる訳もない。日本では昔から、「対応できない事は、起こらない事として処理する」風潮がある。それは役所だろうが民間企業だろうが変わらない(起きてから考える、というあれだ)。 しかし原子力では、その影響が人知を超えて大きすぎる。遺伝子が破壊されてしまったら、新しい細胞が作られないのだから、治療は不可能なのだ。
事なかれ主義のおかげで、医療機関の人ですら、被爆という事に無知になってしまう。結局緊急時に大量の被害者が出てしまったら、医療としての対応は現時点では絶望的だ。今回の被爆事故では、東大病院がその全能力をあげて「たった一人を担当」してすら救えなかったのである。一度に数十人の被爆者が発生したら、多分全員が早々に死ぬ事になる。 今回の事故は、初めから救えないと判っている患者をどこまで治療するか、という非常に重大な問題も提示した。あの状態では、現代医学で救える可能性はまったくのゼロだったのである。いかに延命するかだけが目的となって、それが果たして患者のためになるのかどうか、現場の医療関係者にその命題を冷たく突きつけたのだ。
繰り返すが、被爆事故というのはあまりにも不自然な状況である。日本の発電事情が原子力に頼っているという現在、やはり誰も真剣に考えていないというのは、異常過ぎる。大量の放射線による遺伝子の直接破壊というのは、現時点では修復が不可能だ。だから予防措置が必要なのに、その対策はないに等しい。 それを恐ろしいと考えないのだろうか。
あとちょっと気になったのは、カルテの正確性は現在の日本では望めないという事がある部分から類推されるのだが、本当にそれでいいのだろうか。 患者や家族のためとはいえ、意図的に内容をごまかしているのはどうかと思うのだが、被爆という物の前には、それは些細な問題になってしまうのだろう。
あまりにテーマが重いので、単に書きなぐってしまったが、とりあえずはこの本を読む事は無駄にはならない。悲惨な内容だが、お勧めの一冊だ。
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