Shinchanは未だポーランドが東側体制の時、演奏旅行に行きました、その時未だ無名だった作曲家グレツキさんから直接CDをいただきました、でもその時グレツキさんは英語の話せる方でしたが、多くを語らず「暇な時に聞いて下さい」と言っていただいたのが交響曲第三番でした、帰国して聞きました、コントラバスが深く息を吐くようにはじまり、やがてオーケストラが渦を巻くように、そして何か訴えるようなメゾソプラノの歌、ポーランド語で書かれたCDだったのでその意味はわかりませんでしたが、能の「物忌み」を感じさせる何か強烈なメッセージがあるようでその後何度も聞いていました、それがある時ロックのMTVで字幕が流れ、滂沱としてでる涙はとまりませんでした。
第1楽章 レント ソステヌート・トランキッロ・マ・カンタービレ 「私の愛しい選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合いたまえ・・・」
第2楽章 レント・エ・ラルゴ トランキリッシモ 「お母さま、どうか泣かないでください・・・」
第3楽章 レント・カンタービレ・センプリーチェ 私の愛しい息子はどこへ行ってしまったの?・・・」 原語ではなく、対訳(沼野充義訳)を引用します。
お母さま、どうか泣かないでください。
天のいと清らかな女王さま、
どうかいつもわたしを助けてくださるよう。
アヴェ・マリア。
〔ナチス・ドイツ秘密警察の本部があったザコパネの「パレス」で、第3独房の第3壁に刻み込まれた祈り。その下に、ヘレナ・ヴェンダ・ブワジュシャクヴナの署名があり、18歳、1944年9月25日より投獄される、と書かれている〕
テーマ曲弾いているのはヴァイオリンのイツァーク・パールマン、素晴らしい演奏で胸に深深と響いてきますね。
「シンドラーのリスト」の舞台(ポーランド・クラクフ) アウシュビッツ収容所跡の「死の棟」には、タンポポが咲き乱れていた。 「ほら、シンドラーに金を巻き上げられて、私は一文なしさ」 クラクフの旧ユダヤ人街カジミエシュ地区。作曲家兼ピアニストとして知られるレオポルド・コズウォフスキ氏(79)は、レストラン「クレズメル・ホイス」に現れるなり、ズボンのポケットに手を突っ込んで、おどけて見せた。 映画では、シンドラー(リーアム・ニーソン)にエナメル容器工場の買収資金を提供するユダヤ人役を演じた。地元エキストラの代表格である。 自身もユダヤ人で、収容所でナチス将校らのために演奏し続けることで、ホロコーストを生き延びた。父はルブフ(現ウクライナ西部)郊外の森で射殺され、母は収容所で死亡した。 「すべてのドイツ人が悪魔だったとは言わないが……」。憎しみの記憶は墓場まで持ち込むことになるだろうと言う。
 
1940年当時、リトアニア駐在の外交官であった杉原千畝は、ソ連が日本大使館を閉鎖する僅かな期間に、日本本国の命令に背むきながらもポーランドから脱出してきた6千〜8千人のユダヤ人達に日本通過を許可するビザを発行し続け、彼らの命を救った。杉原千畝はごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人でした。その普通の人が、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行ったのです。
シンドラーがポーランドのクラコフにあった収容所から助けたユダヤ人の人数は一千百〜二百人と千畝には遥かに及ばない(ただ、原作によると、彼が当該の収容所以外で救った人々も含めると、実際にはその数はもっと多かったとされている)。しかしシンドラーの英雄伝で重要な事は、彼の行動がドイツ占領下のポーランドと言う、本国と同然にいつ後に手が回るかもしれぬ非常に危険な場所で大胆に行なわれた事である。そして彼がユダヤ人達を救う為に採った方法は非常に奇抜で独創的ながら、一方でリスクが高く、効率は決して良くない。言わんやある種の人間からすれば、彼の取った行動は狂気のさたと取られても不思議ではない。
イギリス人俳優、レイフ・ファインズ氏 「シンドラーのリスト」の「アーモン・ゲート」役。実録では裁判で絞首刑となった。映画のシーンで朝寝ぼけ顔で収容所のユダヤ人に向けライフルで狩を楽しむ狂喜、戦争がなかったらアーモン・ゲートは大学を出て小さな町の役所にでも勤めていたかも知れません・・・家族の方が言われたそうです。
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