Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年10月10日(金) 自分の状況

生活に余裕がなくなってくると、周囲を振り返る余裕も失ってくる。ここらで一度、周りを見渡すべきだろう。

僕は今、毎日研究室へ通う生活をしている。ほとんど人には会っていない。長期的なノルマ、すなわち卒業論文を完成させるというノルマに追われている。自分の生活時間はかなり自由に決められる。基本的に好きな時間に研究室に来て、好きな時間に帰っている。平日の昼間に研究室にいるようにしているが、それは単なる僕の勝手であって、そのように強制されているわけではない。

この生活は、少なくとも去年までの学生生活と比較すれば苦痛であることは間違いない。それは分かっていたことだ。ただ、予想するのと体感するのとはまったく違うものだが。

では、世の中全体から見渡してどうなのか。楽しいかと言われれば決してそんなことはない。研究以外の時間が持てないわけではないからつらいばかりではないが、少なくとも研究が楽しいと思えないことは間違いない。しかし、そんな風に思っている人は世の中に腐るほどいるだろう。日ごろ、楽しいと思えることをしているならそれだけで幸せなのだ。研究なんて右も左も分からないが、右も左も分からない仕事をしている人だって多いだろう。いまどき、十年一日のごとく毎日同じ仕事をしている業種などそうはあるまい。

だから相対的に見て、僕の置かれている状況はそれほど悪くないはずなのだ。きついと言ったって社会人と比較すればまだまだのはずだ。にもかかわらず、どうしようもないほどの閉塞感を感じているのはなぜなのだろう。今までの生活が楽すぎたのだろうか。

僕はずいぶん前から、考えることに疲れてしまっている。物事を考えてみようと思えなくなっているのだ。それは、結局のところ僕一人が考えたところで何にもならないというあきらめだ。だが、論文は考えることが要求される。たとえ意味がなくても、何か考えなければならないのだ。この点が、社会人よりもつらい点かもしれない。問題の解決手段が極めて限定されているのだ。社会人として働いているなら、卒業論文とは違って、なんでもいいから書く、というものではない。学業の成果を示すという抽象的なものではない、利益と言う具体的な結果を目指して動くことになる。そのための手段は基本的に問わない。だから思考の自由度が広いのかもしれない。しかし、結局社会人にしても、社会人でなければ分からない制約が数多くあるのだろう。結局、同じことなのかもしれない。

今、つらい生活に慣れておけば、将来、つらいことに耐えやすくなるかもしれない。そう思って生活を続けていくしかないのだろうか。


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