鶴は千年、生活下手

2002年09月11日(水) 失う悲しみ

きっと、いろんなところで1年前のテロの話題が持ち出されて
いることだろう。
確かにあんな形で命を奪われてしまうのは、本人にも遺族にも
堪えがたいことだと思う。

しかし、阪神淡路大震災で亡くなった人々と、交通事故で亡く
なった人々と、病気で亡くなった人々と、さまざまな犯罪で亡
くなった人々とどこが違うのか。
肉親を亡くした悲しみは、それがどんな形であろうと同じなの
ではないのか。
悲しみは同じでも、それに憎しみがついてくるかどうかなのか。

異なるのは、憎むべき相手が国際的に統一されていること。
国家への攻撃として認識されていること。
報復という名の「戦争」が行われたこと。

13年前の9月、わたしは母を亡くした。
脳出血で倒れて手術し、1週間後に亡くなった。
わたしと姉と義兄の見守る中で冷たくなっていった。
母の遺体は義兄が付き添って自宅に運ばれた。
わたしと姉は、半分泣きながら母の話をしながら駅まで歩いた。
ゆっくりゆっくり歩いて、泣きはらした目で電車に乗った。
母という支えを失ったわたしのその後の3年は酷いものだった。

テロは許し難い行為。
が、しかし、報復という名の戦争もまた許し難い行為なのでは
ないだろうか。
たとえどんな大義名分があっても、巻き込まれて罪もない人々
の命が消されていくのは、許されるべきではないと思うのだ。

ただひたすらに、亡くなった人々を追悼するのみだ。


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市屋千鶴 [MAIL]