★悠悠自適な日記☆
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2006年11月13日(月) 解決しがたい問題

大切なことは、皆が仲良くすることではないと思います。

と、昨日私はずっと考えていました。

何かを作り上げる時、必要なものと必要でないものがどうしても出て来てしまうわけで、選ぶ必要が出てくるのです。

アイデアも、人も。

あるものを使って上手く出来たらそれは素晴らしいけれど、
それはきっと、最初に選んできたものが良かったわけで、
やっぱり最初に「選ぶ」という行為があるのです。

今作っている芝居のメンバーは、「選ぶ」という行為をせずに集まったメンバーです。
役者さんは自ら「選ぶ」行為をして集まった人たちですが、
スタッフさんは役者はやりたくないけど単位が欲しい…ということで残されたものがスタッフだったというだけで、「スタッフ」という仕事を自ら志願して役職に就いた人が極めて少ないということです。


他にやりたいことがあって、視線が違う方向にある人も同じ小屋の中で芝居を作らなければならない、授業公演特有の、モチベーションの差というものが顕著になってきます。

意識に差があれば、単位をもらう条件も違う訳で、
ここに平等なんてものは最初から存在していません。
平等に扱われて当然という意識は捨てるべきです。
だってモチベーションが違うんだから。

この公演の目的は、ひとつの作品を作り上げることなわけで、それに必要なことは、それに向かって、そこにある仕事に献身的に尽くすことが出来るか、献身的に尽くしたいと思えるかということだと思います。

「やってあげてる」
「誰のおかげで舞台に立てると思ってるの?」
「感謝の気持ちが足りないんじゃない?」
「こんなぐだぐだな稽古の現場に絡みたくない」

私は自分がスタッフをやっていても、こんなことを思ったことがないので、こんな発言が出たことに驚いたのです。
好きでやってる子からは、こういう言葉は出ないし、好きでやっている子は、こんな気持ちにならずに仕事が出来る方法を自分の中に見つけていると思うのです。
私の場合、「やってあげてる」という気持ちが沸いてしまうような現場には最初から絡まないようにする…という方法で回避します。
それで躓いたら、その現場を選んだ自分に問題があるのだと。私が力になれない現場に来てしまったのだと。

口論自体は、もっとお互いコミュニケーションを取りましょうね。お互い感謝の気持ちを忘れないようにしましょうね。
…みたいな感じで落ち着きました。暴れるだけ暴れて、平和主義者の手によってこういう風に落ち着いた感じです。
表面的にはこれで少し解決もするでしょう。
でも無理矢理収めただけ。

私は終始いらいらしていました。
暴れる奴も、平和主義を唱えて仲裁に入る子にも。
そして私自身にも。

必要なものと、必要でないものを「選ぶ」判断を下せないことに。

誰が良くて誰が悪いという問題ではありません。
その現場に、ひとつの方向に向かっていくのに必要な人間と、残念ながらそうでない人間。
喋って分かり合える道筋が見えた人もいました。それは収穫だったと思います。
けれど、やっぱりいくら喋っても必要でないと思えた人もいたのです。

私は最後まで私はその人と、また一緒に頑張りたいとは思いませんでした。
その人が悪いんじゃなくて、今いる現場に合っていないのです。
その人にあった世界に入る方がお互いのためだと思いました。

私達は小さい頃から、みんな仲良くしなさいって教えられるんです。
それが一番正しいことなのだと、馬鹿の一つ覚えのように教え込まれるんです。
皆で、仲良くすることが正しいから、選別することは、良くないことで、だから私達は「選別」ができないのです。

進路を選別しなければならないように
人も選別していいじゃないか。

勃発している問題のその向こうで、もっとマクロに、解決し難い問題に私達は直面していて、それはそこの話し合いで何一つ解決しなかったことに、私はいらいらしていて、むしろとことん大喧嘩になって、泣きながら「辞める!」って言った人がいたとしても、それで私達が積極的に「選ぶ」という行為が出来るのなら、そうした方が良かったんじゃないかと思っていて、上手くまとめようと仲裁に入った子に対しても、怒鳴りをあげたかったんです。

私は上辺だけでみんなと仲良くすることよりも、
心から助け合いができるメンバーを選んで作品を作る方が大事。
それは口論しても、何も変わらなかったこと。

私が泣きながら怒鳴りを上げたら、皆は助けてくれるだろうか。
急にそれが不安になって、出来なかった私も、勇気を持って「選ぶ」ことが出来なかった自分に、悲しくなって、家に帰って一人でちょっと、泣いた。


嶋子 |MAILHomePage

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