現在。 午前三時五十分。 なぜこんな時間に起きたかというと……。 前日、八時過ぎに寝てしまったからです。 ゆずは、暇になると眠くなる人。 月曜日は面白いテレビ番組がやってない、ということなので(おいら的にはTVタックルとかあるんだけど)寝てしまいました。 一人じゃ寝れない人なんだよね。ま、いいけどさ。
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この前の二十三回忌で、お坊さんと話した話。 このお坊さん、北大で教鞭もとっているらしい。 すごいよね。
でおいらがこの方に聞きたかったのは、『悟り』について。 どういうものが悟りって状態なんだろうか、と。 おいらは、もちろん思うだけで、実践はできていないんだけど、『諦め』『期待しない』ってことなんじゃないかな、と考えるようになっていた。 当たり前って言えば当たり前だよね。金は欲しいし名誉は欲しい。でもそれ以上に才能が欲しい。 地位も名誉も金も、全てこの世の出来事であり、死んでしまえば終わり。もっと言ってしまえば、どんな努力も、全ては人間の世界のみで収束してしまっている。 その感覚に到達した時、現世に対して全てのものに諦めがつき、未練がなくなるのではないか、と。
しかし、その一方で、悟りを開いた人間が、しきりに悟りを開いていない人間を導き、救おうとするのはなぜなのか。 もし、悟りが諦めとするなら、とうに現世の人間を見放し、諦めているはずではないのか?
そのお坊さんの言葉を借りると、『世の中の見方が一変する』のだそうだ。 人間の世界は権力欲や、その他の感情に溢れている。 はげやくそじじいのような「俺様が、俺様が」という連中は、まさにその例。いい年ぶっこいて、悟りから最も遠いところにいる存在というのは笑える。 そういう、権力を欲する感覚や、金や何かを欲する感覚から脱するのだそうだ。 アポロ13のパイロットが、その感覚に近かったものを経験したらしい。 宇宙から地球を見た時、境界もなにもなく、ただただ平等だった、と。争いもなく、ただそこにあるだけ。 彼は、その感覚がさとりに近いのではないか、といっていた。
そういうもんなのかな。 でも、ふとおもう。 もし、悟りを開いた人間なら、他の人を導こうという感覚を残しているだろうか。 そして、神も仏もそうなのだが、なぜ信じる人しか救わない? そもそも、救済って何? 苦難からすくうそうなのだけど、それは苦難を取り去ることではなくて、苦難を苦難と思わなくさせることじゃないの? そこは、ゆずのセルフカウンセリングに相通ずるものがある。 それって、諦めとは違うの? 仏教は、天界・人間界・修羅界・餓鬼界・畜生界・地獄という六つの世界があるという。 行いによっておちるところが決まるというが、それって差別じゃないの? 畜生と人間の違いは、理性を持っているかどうかの話だという。 性欲にかられて親兄弟を犯すのが畜生界の住人だそう。人間にもバリバリいるじゃん。今の時代の幼女連れ去りの犯人は、畜生界の住人じゃんねー。
ま、世の中には聖職についている人がそういうことをしたりする場合もあるわけで『THE 性色者』って感じだけど。
バリバリ世俗にまみれた人間が作ったのが宗教なんだし、矛盾してて当たり前かな。 むしろ、世の中全て平等で、差別も何もなく、ただ超然とそこにある、っていうなら、バクテリアなんて諸に悟りを開いてはいないか? 平等で、欲もなく、ただそこにいて、分裂を繰り返す。 感情や感覚が進化の証というなら、それを持ち続けることが思い切り悟りから遠ざかっていないか?
神の心は人間のような小さい存在にはわかりはしない、というけど、そんな神の心をどうして人間が伝えることができる?
何か言葉を発した時点で、既に突っ込みどころ満載。 そんな気がしてなりません。
------------------------- おいらにはよーわかりません。 悟りを開いていないから。
ただ、いつも思うのは、 もし、宗教で定義するような『世界を作った』神がいて、その圧倒的な力を持っていて、その教えどおりにするとするなら、神は絶対に世界を作らなかったと思うんだよね。 作った結果、こんな世界になるのが分かっているなら。
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