伯父が先々週の金曜日から入院している。 もともと、おいらとゆずの身内の披露宴が行われたときもすでにがんを患っていたことは聞いていた。 そして、肺に腫瘍ができ気道を塞いでしまい、自発呼吸が困難になったということで、急遽入院、人工呼吸器をつけている。 人工呼吸器は、肺まで突っ込んでしまっているので、意識があったなら痛くてたまらないだろうということで、薬で眠らせている。
齢72歳。 おいらの親父の兄貴に当たる人なわけだが、やはり、今までおいらが向き合ってきた死とは違う。 今までは、祖父であり、祖母(この前のバーちゃんは元気です)。 つまり、自分から見て、関係的にワンクッションあった。 しかし、伯父となると、自分の両親と同じ位の年代になる。 つまり、伯父の危篤というと、自分の両親にも繋がるものを感じ得ない。 不思議と、父方の男は、皆70代前半なのだ。
自分の親も、病気以外で死に直面する年齢に、徐々に近づきつつある。 自分が年齢を経れば、親が年を取り、周囲が年をとるのは当たり前。 しかし、それが、やはり受け入れがたい事実としてそこにある。 自分は徐々に年齢を経ていく。 しかし、親は自分の中では年齢を経ていかない。
いつまでたっても、自分の先を行く人たち。 自分が知らないことでも知っている人たち。 自分たちをこの世に送り出すのに、そういう行為をしていないと思いたい人たち(爆)。 それが親。 四六時中一緒にいれば、親の変化にはなかなか気づかない。 ましてや、会っていなければ、なおさら気づかない。 ふっと出会ってみて、初めて気づく。
うちの親父もついにリタイア。 社会人としての第一線を退く。 昔であれば、もう家で悠々自適に暮らしていていい年齢。 しかし、いずれはいつ死んでもおかしくない年齢になる。
でも、変化の結末の死であれば、幸せなのかもしれない。 自分も、周囲の人間も、心の準備ができる。
宮沢賢治ではないが、 「ミナミ(だったかな。方角忘れた)ニシニソウナヒトアレハ、イッテコワカラナクテモイイトイヒ」 と言える様になっておきたいものだ。 自分が死に惑わされてはいけない。 別れはつらいが、後は任せておけ、といえるくらいになっておきたいものだ。
あくまで、理想だが。
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