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| 2006年01月23日(月) ■ |
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| 物部日記・感性は常に未完成だと思うのですよ真面目な話 |
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感受性という言葉はよく聞きます。感受性。感じて受け取る性質。うん、これ大事だと思うのですよね。実際。他人と会話をしたり自分を表現したい時に、相手の言い分をしっかりと聞き分けたり的確な言葉を選んだりする性質。 もちろん文章書きにとっての核になる部分です。 さて、それでは感受性というものは才能なのでしょうか。それとも後天的に得られるものなのでしょうか。さっぱりわかりません。私はそういうことを考えて結論を出すという心に欠けておりまして、あんまりそこら辺には特に持論はありません。まあ、『底』みたいなものにはある程度個人差があるでしょうけれど。 そこで、今日の本題です。
感受性と経験はやはり比例してくる、と思う。
夜の帳が下りてくる。という一文から何を想像しますか? 大体の人は日が落ちて夜になると解釈すると思います。というか、そういう意味ですから。けれど、夜の帳なんてこの世にはありません。多分ありません。ならば、夜の帳と聞いて日が落ちると思うのは、そう教えられているか、経験しているからでしょう。私の場合は小説読んでいて多分夜のことだと思ったはずです。で、この夜の帳。なんでわざわざそんな言い回しをするのでしょうね。夜になる、ではなぜいけないのでしょうか。もちろんいけないはずがありません。どちらにしても、意味はおなじはずなのだから、きっとそれ以外の部分で違いがあるのでしょう。けれど、私にはそれが何なのかわかりませんでした。 …で、そんなことを考えながら散歩していると、夕暮れを見えました。日が山に隠れ、赤い光だけが空の下半分を照らしています。真上の空には薄く青い空が広がっており、時間が経つに連れて確かに、青い部分が全体を占めてゆき、青みもどんどん濃くなっていきます。 その時、確かに空に夜の色をした布が垂れていくように見えました。
確かに、夜の帳がありました。で、その時心中にあった気持ちは、やっぱりただ夜になるのとは違うものです。 夜の帳がどういうものか知っている人間には、やはり日が落ちるのと夜の帳が下りるのは違うものなのです。 まあ、私が夕日を眺めたこともないような情緒あふれない生活をしていたことに原因があったのですが、こんな風に知っていれば経験していれば違う見方のできるものがいっぱいあると私は思います。 特に文章においてはそれは顕著なものです。自分も知っていることならば、お約束や記号のような言葉の数々も、よりリアルに感じられるのでは、などと考えながら巣篭もり玉子を食べましたとさ。
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