ἀρχὴ ἄνδρα δείκνυσιν(地位は人を示す)は、その人本来の品性や本性がむき出しになって現れる、という意味。
優れた内面を持たないものは、傲慢になり、残虐になり、退廃するだけの意味で、世間と私自身との関わりにおけるその人本来を指す言葉である。
『聖書』にも、『論語』にも、仏教の『パーリ仏典』の「スッタニパータ」第1章7節にもある。
けれども、これは世俗、世間との関わりの中で現れる、その人の本性に過ぎない。そして世間との関わり、ではない、本来の自己、その人の中にしかないその人ではない。
世俗、世間との関わりの中で自己を認識する際に現れる自意識とは切り離されるものがある。
高層ビルの間を通る一本の細い綱を渡ろうとする私のようなもの。
そこに地位や名誉、あるいは世間からの評価、金銭などの社会上の価値は一切消え去ってしまう、一本の細い綱の上。
そこでは自分自身の肉体をコントロールし、なにより精神のコントロールが必要になる。
そこでは誰も、世間も、名誉も、何も助けてくれない。
その人の中にしかないその人と向かい合い、一本の細い綱を渡ろうとする。
その綱を渡っているとき、私は私だけの人生を活きるのである。
向かいの高層ビルについたとき、私の肉体のコントロールは終わりを迎え、精神のコントロールも終わる。
つまり、死ぬ時なのである。
細い綱を太くする方法はいくらでもある。
例えば、自分を小さくすればいい。
自分の自我を小さくし、世間に、世俗に自分の価値地を依存すれば、権力におぼれてしまえば自分は小さくなる。
そうすれば細い綱は太い綱に早変わりする。
いつまでも、体が大きいまま、精神が大きいままでは、不安定で宙ぶらりんで落下する危険は大きい。
例えば、知性を低下させればいい。
視野が狭くなるから、例え細い綱でも太く見えてくる。
そんな風にしたいのだろうか。
危険を引き受けたくないのだろうか。
ソクラテスが「魂の卓越性(ψυχῆς ἀρετή)」として最も追求すべきものとした、細い綱渡り。
深夜の静謐(せいひつ)。
眠気に沈むまえのソノセイヒツ