暖かくなってくると、花粉症に悩む人が増えてくる。我が家の主もそのたぐいで、2月半ばから4月初め頃まで、つらい季節となるようだ。 外出時には、柔らかいティッシュが欠かせないし、洗濯物は、その分だけ外に干さず、うちの中につるしてある。天気のいい日でも、布団を干すわけにいかず、ベッドの上に広げるのがせいぜい、花粉がつくのを防ぐためである。 外から帰ると、うちに入る前に、コートなどの花粉をよく落とさねばならない。それでも、中に入ったとたんにクシャン、クシャンと、くしゃみを連発するのは、窓から入った微妙な花粉のせいである。 若い頃は、こんなことはなかった。花粉症というのは、生まれつきのものでなく、ある時突然発症するらしく、その原因や、発症のメカニズムはよくわからないそうだ。大気汚染が一因という説もある。 注射や、投薬による治療も試したことがあるが、あまり効かないようであるし、別の副作用がありそうな気がして、止めてしまった。 この2年ほど、どこで知ったのか「甜茶」がいいと聞き、煎じて日常的に飲んでいる。薬と違って、即効性はないが、体質改善になるのではないかといって飲み始め、今年あたりは、少し効果があったのか、点鼻薬など使わなくても、それほどつらくはないようだ。 人によって効き目も違うので、やたらとは勧めないが、医者や薬の力を借りたくない向きには、試してみるのもいいかもしれない。 でも、私が知らせてあげたある人は、効き目がないといって、半年もしないで止めてしまった。こういうものは、「鰯の頭」みたいなものだから、無理することはないのである。 私の場合、花粉症ではないが、若いときは、この季節、やたらと目が痒くなり、涙が出たり、腫れぼったくなるので、鬱陶しかった。 しかし、ある時から、その症状が出なくなった。なぜだか判らない。年齢とともに、どこか体質の変化があったのだろう。 「暖かくなったら・・」という挨拶が聞かれるこのごろだが、私は、1月半ばから2月初め頃までの、寒い静謐な季節の方が好きだ。 2002年02月22日 21時13分47秒
厚いコートを着て外出したら、少しうっとうしく感じるほど、今日は暖かい一日だった。 「近代文学を語る」という、大河内昭爾氏の講座にでる。話が面白いので、昨年9月から出ている。今日は、岡本かの子や、島尾敏雄、そのたもろもろ。必ずしも、文学の話だけではない。あちらへ飛び、こちらに戻り、戦時中の軍国少年だった体験談も混じり、興味が尽きない。 終わって、3時前だったので、そのまま杉並の両親のところに行く。ひと月以上、行かなかったので、喜んでくれた。 母は、大分耳が遠く、大きな声で話さなければならないので、正直疲れる。向こうが、話が溜まっているのを幸い、もっぱら聞き役に回る。 父の方は元気だが、私の顔と名前が一致しているのかどうか、でも、昨日の続きのように、自然に会話できるのは嬉しい。 両親は、私の家で3年暮らし、妹のところで1年ちょっと過ごし、昨年8月に、いまのケア付きマンションを買って移った。その経緯は、とても一口では話せないくらい、いろいろなことがあり、夫婦、親子、きょうだい、さまざまな人間関係が絡み合い、介護の問題もきわめてホットなテーマとしてあり、ずいぶんいろいろな思いをし、皆がそれぞれ傷ついて、いまの形になった。 自分の親をほめるのはなんだが、見事な親たちだと思う。子供の傘下にはいることを潔しとせず、行くと「体に気を付けて、長生きしなさい」などと、母が言うのである。 今日も行く前に、駅から電話した。すると、ちゃんとお寿司や、お菓子が待っていた。母の入れたお茶を飲んで、夕方帰ってきた。親たちにとって、私はいつまでも娘なのだろう。 母は今年89歳を迎え、父も5月に92歳になる。 2002年02月21日 21時34分53秒
昨日は、隣家の奥さんの通夜だった。今日は告別式である。 人を送るかたちはさまざま、そう言うところに出るたびに、いろいろなことを感じる。自然の寿命に近い歳で亡くなった人のものは、オーソドックスなしきたりによるものが多いようだ。 2年前に癌で死んだ私の友人の場合は、宗教によらず、「お別れ会」というかたちで、故人の遺影の前で、一人一人献花するという、シンプルなものだった。モーツァルトのレクイエムを流し、アナウンサーの経歴を持つ彼女の、生前の朗読テープをかけた。残された家族の思いがよく現れていたと思う。 私の場合はどうしてほしいか、考えたことがある。宗教によらず、やはり音楽葬がいい。アルビノーニのアダージオをかけて貰う。何色でもいいが薔薇の花を一輪ずつ供えて貰い、遺影は、私が一番気に入っている34歳の時南米で撮った写真にする。生涯を通じてのことだから、死んだ歳とかけ離れたものでいいと思う。今の私とは、あまりに違って、美しすぎるので(しょってるねえ)、来た人は、会場を間違えたかと思うかもしれぬ。 「こんなことなら、アイラブユーくらい言っておけばよかった」と、並み居る男たちに、後悔の涙を流して貰いたい。 あの世から、そんな風景をにんまりしながら眺めるのもいいではないか。 筆が滑って、つい、不謹慎なことを書いた。 2002年02月18日 10時43分49秒
隣家の奥さんが亡くなった。 一週間前に救急車がきて、入院していたことは聞いていた。明治生まれ、91歳、寿命と言っていいだろう。2人の息子が、代わる代わる訪れてめんどうを見ていた。晩年は、ご主人共々、24時間介護態勢になり、住み込みのお手伝いさんも含め、いろいろなサービスも受けていた。 若い頃は、ジャーナリストとして働いていたと聞いている。私がここへ引っ越してきたときは、まだ60代、若く、何も知らない私たちのよき先生であり、理解者でもあった。近隣関係でわからないことがあると、私はすぐその奥さんのところに行って、教えを請うた。的確で理性的なアドバイスは、とてもありがたかった。 「ご近所は選べませんから。ベタベタした付き合いは必要ないの。何かあったときだけ、助け合えばいいのよ。むしろクールなおつきあいの方がいいのよ」といつも言ってくれた。それは、人付き合いの下手な私に対する、思いやりだったと思う。 私が病気で、3ヶ月近く入院したときも、留守中の家のことを、何かと気遣ってくれた。こちらの気持ちの負担にならないように、さりげなく、うちの前を掃除してくれたり、配達物を預かってくれたりした。 私が、薬の副作用で、髪がひどく抜け、カツラをかぶっていたことがあった。そのときの、奥さんの言葉を私は一生忘れない。 奥さんはこう言ったのである。 「髪の毛なんて、またすぐ生えてきますよ。悪いものは、無くなった方がいいの。カツラでも何でも、利用できるものはどんどん使って、おしゃれなさいね」 率直で、暖かい言葉だった。 人の世話になることを好まず、誇り高い人だったので、自分でいろいろなことが出来なくなってからは、家に閉じこもり、この2年ほどは、姿を見せず、息子さんたちを通じて、元気かどうかを知るだけになっていた。いつか、お返しできるときがあるかと思っていたが、何もお返ししないうちに、逝ってしまった。 思い出すと、涙があふれてくる。入院中のご主人は、長年連れ添った妻の死を、どう受け止めただろうか。合掌。 2002年02月16日 13時00分03秒
庭に紅梅の木が一本ある。もう大分ほころびかけて、赤みが増してきている。花の開花につれて、少しずつ暖かくなり、日も長くなるようだ。 今日は小金井に住む人に招かれ、連句の座に参加。5人で半歌仙を楽しんだ。白一点の小金井人は、私たちが「枯れ蟷螂」などとあだ名を付け、本人も満更でもないようなので、住まいを勝手に「蟷螂庵」などと名付けてしまった。 昼に集まり、お弁当を食べ、ゆっくりと半歌仙を巻き、5時にぴたりと辞し、よい一日だった。 今まで使っていたメールソフトが、保存の失敗で、使えなくなってしまったため、昨日から別のメールソフトに切り替えた。もう一つ、ネット用のヤフーメールも利用して、そのフィルターを通して受信してみている。昨日ある人からメールが来て、「三つのアドレスは、どれが正しいのか」と訊かれたので、「今までので大丈夫です」と返信した。 アウトルックエキスプレスに慣れていたので、新しいメールソフトは使いにくい。私のパソコンの故障は、ウイルスとは関係ないのだが、ファイルが凍結されてしまった点では、むしろウイルスよりダメージが大きい。 せっかく直って帰ってきたパソコンを、書き込み禁止のCDが、全部上書きしたことになるからで、テキストの挿入も削除もできないのである。一太郎ファイルに溜めていた書きかけの旅行記、エッセイなど、すべて入力し直さねばならず、大変な時間のロスになる。 まあ、私の書いたものなど、ひとには何の価値もないものだが、逐次ホームページに載せようと思っていただけに、ショックだった。 でも本当は、私よりも、保存を手伝ってくれた家人の方が、ショックが大きいようなので、あまり嘆くわけにもいかない。 ホームページは、前に作ったものは練習台と割り切り、ジオのファイルマネージャーを使って、潔く削除した。 背景の色を明るくし、写真も既製のものをとりあえず使って、アップした。エッセイも気に入らなかったので削除、せいせいした。 2002年02月14日 23時10分10秒
夕べは、ヨーロッパ在住経験者の集まりがあった。もう一昔前の、その国に住んでいた頃の会が、帰国後もずーっと続いていて、毎年今頃の季節に、集まることになっている。 男性の人脈中心の会なので、私はあまり出たい方ではないが、奥さん同伴が原則なので、付き合いで出ている。特に、今年は、順番で当番が回ってきたので、私も家人に手伝って、名簿のコピーや、会場では会費を集めたりした。 ひところまでは、大勢出席したが、だんだん男の人たちもリタイアしたり、住まいが変わったりで、年々少しずつ参加者が減り、昨日は32人ほど。風邪引きなどで急に来られなくなった人たちもいて、当初の申し込みより、5,6人少なかった。新宿のホテルでは、大きな会場を用意してくれて、しかも当日の実人数分の費用でいいという約束なので、ちょっと気の毒だった。 私は外国生活をしている間、ゴルフ、麻雀、ブリッジという、「三大プレイ」に無縁で過ごしたので、付き合いが悪く、ほとんど親しい人もいないが、それでも、3人くらいは、話の合う人がいるので、まあまあ愉しかった。 こういう集まりは年一回がいいところ、特に女は、付き合いぐらい自分の選んだ人と、と思うだろう。亭主の人脈で、添え物的につきあうのは、ほどほどにしたいと思っているはず。 でも、これを楽しみにしている人もいるので、中心になっている人たちが止めるといわない限り、続くだろう。 元気だった連れあいを亡くした人のために、黙祷した。寒くはあったが、天気に恵まれて幸いだった。 2002年02月13日 20時08分29秒
先月28日に、パソコンが入院、今月9日に、私の手元に戻ってきた。 しかし、それからが実は大変で、エアステーションをつなぎ、ウインドウズを最新版にアップデートし、ウイルスバスターも更新し、保存してあったファイルを元に入れ・・・と、あれこれ時間と手間がかかってしまった。 ショックだったのは、CDに保存したファイルが、書き込み禁止のCDを使ったため、読みとり専用になってしまったこと。つまり、ホームページの書き込みができなくなってしまったのである。 外付けのボードや、ジオのツールは使えるが、ホームページ制作ソフトで作ったページは、そのまま凍結されてしまって、更新も、挿入もできないことがわかった。コピーして、移すこともできないので、結局、また新しく作ることになる。CDに、2種類あることを知らなかったのは迂闊だった。 仕方がない。気持ちを入れ替えて、出直すことにする。 まずは、私のパソコンが帰ってきて嬉しい。 早速、日記帳を新たに作り、書き込む次第である。 2002年02月12日 23時09分47秒
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