沢の螢

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「血脈」
2002年01月18日(金)

夜半、短いシナリオをアップしようとしたが、リンクがうまくいかず、あれこれいじっているうち、また器械がおかしくなりそうだったので、断念、原稿共々削除した。
相手は無機物、腹を立てても仕方がないのに、時々、癇癪を起こしたくなる。
「癇性」とわたしを表した人がいて、その時は失礼な、と思ったが、どうも当たっていそうだ。シナリオは、またあらためて載せることにして、表紙のリンクのボタンだけ、むなしく残してある。
家人に応援を頼めば簡単だが、あまりわたしの世界に侵入して欲しくないので、試行錯誤を重ねつつ、一人で試みている。
それはともかく、昨日読み始めた佐藤愛子「血脈」が、めっぽう面白い。佐藤紅碌を取り巻く家族、それも並大抵の人たちではないが、長男サトーハチローから異腹の末娘佐藤愛子まで、常識では考えられない人間模様を、余さず綴っている。夢中で一巻読んでしまった。全部で三巻の大作、これを描くのは、佐藤愛子にとっては、命を削る修羅の旅だったろうと、つくづく作家の業の深さを感じた。
2002年01月18日 14時35分05秒


頭痛肩凝り・・・
2002年01月17日(木)

ホームページも表紙だけでは面白くないので、(正確には表紙のことをホームページというそうだが)何かひとつ、軽いものを、と書きはじめたら、思いがけず長くなってしまった。
10数年前の、隣人同士のトラブル、200枚ぐらいのシナリオにするつもりで、梗概を書いてあったものに、ちょっと手を入れた。
このころ私は、ひょんなことでシナリオの書き方を練習していたので、ゼミの場に持っていった。
私は、主人公夫婦が、住環境を壊され、近隣関係に不信感が生まれてしまった腹立たしさを、書きたかったのだが、ゼミの仲間の反応は、意外だった。
「大きな家に住んでるんだから、隣に違反建築の家が建っても、いいじゃない」
といった感想、不動産屋への同情のほうが多く、主人公夫婦に共感する人が、ほとんどいなかったのである。私はショックを受けてしまい、そのままお蔵入りにしてしまった。
こんなものを載せたのは、ホームページだからで、私の偏見と独断で作っているものに、人がどう思おうが構わないと言う、開き直りである。
お陰で、さっきから、頭痛、肩凝り、首が回らず、そろそろ寝てしまおうかという気分である。図書館で借りた佐藤愛子「血脈」が、なかなか面白いので、読書に切り替えよう。来週は、期末試験、そろそろネットも休まなければと思いつつ、つい、開いてしまうのは、これも病であろうか。
2002年01月17日 16時17分25秒


N氏からの便り
2002年01月16日(水)

N氏からハガキが来た。
彼は20代の青年、「今どきの若者」に珍しく、携帯電話もメールも持たない。何かあるときは手紙をくれる。それも自筆である。急ぐときは電話だが、それはほとんどない。
年末に、私はあることを依頼した。年が明けてから、年賀状と別にハガキが来て、私の頼みを受けられないわけではないが、今の状況で少し無理なこと、もし受けてもかえって迷惑を掛けるであろうことを綴っていた。こちらの気持ちを害さないように、気を遣いながら書いていることは、文の隅々にまでゆきわたっていて、この一通を書くのに、どれほど神経を使っただろうと想像した。
私は、相手の状況に思い至らなかった自分の配慮の無さを、むしろ恥ずかしいと思い、どうぞ気になさらずと、返事を書いた。
今回の便りは、それに対する2度目の返信である。
依頼に応じられなかったために、計画が白紙になったことを気遣い、重ねてすまながっているのである。
なんと心の優しい人だろうと、読んでいて胸が熱くなった。最初の一通だけでも充分なのに、このように、丁寧に、こちらの気持ちを斟酌してくれている。
この頃私は、メールの手軽さに慣れてしまい、本来手紙で書くべきところまで、ついメールに頼ってしまっているが、このような便りを貰うと、その人の人柄が伺われて、とても感激してしまう。
今日は、彼に、自筆で、返信の手紙を書こう。
2002年01月16日 08時45分31秒




妻恋い
2002年01月15日(火)

賀状の中に、亡き友人の連れ合いからのものがあった。

その友人は、私の仕事仲間で、20年来の親友だった。若いときは、放送局で仕事をし、結婚と子育てで10年ほどブランクがあったが、日本語を外国人に教えるという仕事で復帰した。知り合ったのは、その時である。
仕事だけでなく、お互いの私生活に渡っても、私たちは妙に話が合って、やがて私が仕事を辞めてからも、一緒に都内の文学散歩をしたり、音楽会や、芝居に行ったりした。もう一人、共通の友人と三人の付き合いは、お互いの生活が忙しく、なかなか時間がとれなかったが、それでも、年に2度くらいは会う機会を持っていた。
彼女が癌を患い、手術したときも、彼女は明るく病気に立ち向かい、直ぐに仕事に復帰した。
最後に会ったのは、真夏の暑い日、三人で銀座で待ち合わせた。「和光の前」というのが、待ち合わせの場所になっていた。雨が降り出したので、あまり歩き回ることを止め、どこかのレストランで食事をし、違うところでお茶を飲んだ。どんな話をしたか覚えていない。ただ、私が連句をやっていて、会うと二人にその話をしていたので、その日も多分、話題になったと思う。彼女は「連句」に興味を持っていて、いつかやってみたいと言っていた。
それから5ヶ月後、年が改まって程なく、彼女はかえらぬ人となった。その連れ合いから電話で報を受けたとき、私は絶句した。ちゃんと年賀状が来ていたではないか、どうして・・・。
「正月過ぎて、急に入院しました。本人もまさかそのままになるとは思わなかったと思います・・」と、連れあいの声も震えていた。
こちらも言うべき言葉が見つからない。電話の後、あらためてお悔やみ状を出したが、その後、お連れ合いからは、時々電話があり、あまりにも早く逝ってしまった妻の想い出を反芻しているように見えた。

それから2年、今年の年賀状には、息子夫婦に子供が産まれた喜びと、「最近は友人と海外旅行をしたりして、やっと落ち着きました」と綴ってあった。
間もなく命日が来る。もう一人の友人と、また、花を送ろうと思う。

ありし日の友の言葉の断片の日を追うごとに明らけくなる
2002年01月15日 12時43分05秒


ネット語、あるいはネット人格
2002年01月14日(月)

昨日の話に続く。
さまざまのホームページを見ていると、すでに名のある人の物は別として、多くは、ネット上の名前(ハンドル名というそうだが)を名乗って、自分のホームページを運営したり、ひとのサイトに書き込んだりしているようだ。勿論、本名を使っている人も、少なくないので、それはここでは触れない。
私自身も、文芸に関するいくつかのサイトに、参加しているが、いずれもハンドル名である。虚構の世界で違う自分を演ずるという愉しみもあり、違う名前を名乗ることで、かえって本当の自分がさらけ出せると言うこともある。
しかし、いくら別名を名乗ったところで、そこにいるのは、紛れもない私であり、表現したことについての責任は、私にある。だから、むしろ、現実の世界よりも、違った気の使い方、細かな神経の配り方が、必要なのではないだろうか。
実際に顔を見て話をするのと違い、ネット上では書かれた言葉だけで、その人を判断するので、時に思わぬ誤解や、人の神経を逆なでするようなことにも遭遇する。
実際の場では決してしないような不作法な物言いや、初対面の場ではおそらく使わない表現を、ネットでは平気で使ったりする。
グハッ、ガバッ、グシュッといった擬態語、擬声語の不必要な多用、また自分を動物や鳥になぞらえた名を付けるのはいいが、メッセージの中で「ワンワン」だの「カアカア」、「ヒョロヒョロ」といった鳴き声などを織り込む。お互いにそれを共通言語として愉しんでいるところは、それでいい。しかし、私なぞは、その手の表現が大嫌いだし、出来ない。これは、私の偏見で、好みの問題であるから、違う意見があって構わない。
ただ、出来れば、解説無しの日本語で、解り合える場所に、身を置きたいと思うだけだ。言葉ほど、デリケートな物はないのだから。そして、私自身、自分の言葉が一人歩きする危惧をいつも抱いている。

                     2002年01月14日 12時06分45秒


逡巡二題
2002年01月13日(日)

水の都
久しぶりに連句の座に出かけていった。
賦し物歌仙「江戸百景」。日本橋から始めて、いわゆる「江戸」と言われたところを辿りながら、連句を詠んでいく。
気づいたのは、昔の江戸は、まさに水の都と言うべく、川と橋に囲まれていて、それが交通手段であり、物の流通手段でもあったということだった。そして、庶民が住んでいたのは、主に隅田川などの川沿いであり、川と共に町が作られていたらしい。今、東京のベッドタウンとなっている、中央線沿線などは、当時は、まだ人のほとんど住んでいない山地だったようだ。
広重の絵など見ていると、当時の人たちの生活歳時記が伺われて面白い。
江戸が東京になり、縦横に流れていた川が消えて、町は広大になり、次第に変質していく。
徳富蘆花の「みみずのたわごと」を読むと、明治40年頃の、甲州街道沿いの町の様子が書いてある。すでに人家は今の芦花公園あたりに広がり、蘆花は自宅から4里(20キロ)の道のりを、新宿まで度々歩いて往復したとある。
今日新宿までを京王線に乗っていき、そんなことを思い出しながら電車に揺られていた。
                     2002年01月13日 01時25分03秒

自己表現と言うこと
ホームページを作るに当たって、参考のために、あちこちのホームページを開いてみている。主に、ブックエンドの中を、無差別に訪問しているのだが、あらためて思うのは、世の中に、こんなにも、自己表現したい人がいるのかと言うことである。
小説、エッセイ、詩や短歌などの短詩形文芸、写真やイラスト、表現形式はさまざまあるが、共通しているのは、誰かに何かを訴えたい、訊いて欲しい、知って欲しいと言うことである。
立ち上げたまま、ほとんど更新もされずにほってあるようなページもあるが、はじめは矢張り、表現したい何かがあったはずである。
この私も例外ではない。出版する当てもなく、折に触れて書いていたものや、いま生きている自分が感じていることを、黙って箱にしまっているだけでは、飽き足りなくなってきたのだ。
それはおそらく、他の人にはどうでもいいものであり、取るに足らぬことには違いない。でも、今の時代、誰でもこうした表現の方法が出来たことを、私は幸せだと思っている。
行きずりに、ふと誰かの目に留まれば、それでいいことなのだから。

行く行かぬ来る来ないなど逡巡の振り子を止めて髪を切った日
        
                     2002年01月13日 14時30分39秒


ホームページ再製
2002年01月12日(土)

年明け早々、ホームページがおかしくなり、いったん全部削除した。ファイルのなかは、日記、ゲストブック、ジオボードだけになった。ホームページ作成ソフトを使ったのが間違いの元かと、HTMLに関する本を、図書館で読んでみたりしたが、全部自力でやるには、かなりの知識が必要のようなので、結局また「制作王」を使い、写真を入れ替え、文字や、イラストの挿入も慎重にレイアウトして、一度に送信した。幸い文字化けも起こらず、上手く表示されてホッとした。しかし、ページのサイズがずれているし、サイズが、原稿と、表示された物と少し違うが、取りあえず、リンクもカウンターも大丈夫なので、後の修正は、また、慎重にやることにする。まずまず。
一週間ぶりの書き込みである。

                     2002年01月12日 00時20分21秒



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