ヲトナの普段着

2004年07月09日(金) 熟してみてもいいですか? /ヲトナごっこリニューアル!

 円熟という言葉が、はたしてどれくらいの年齢やレベルをさすものなのか僕にはわからないのですが、青春というものが過ぎてから輝いてみえるように、恋愛が幕を閉じてから胸をつくように、人が熟する頃合というものも、もしかすると過ぎてから気づくものなのかもしれません。
 
 
 もしもそうであるならば、少々哀しい話だとは思いませんか。何を目標に生きるかは人それぞれであるにせよ、その到達点に少なからず「熟する」という状態が関与しているのは間違いなさそうですし、それならばむしろ、自ら意識して熟してみるのも、僕は悪くないように思えます。
 
 もちろんそこには、熟すべき素地が備わっていないことには、おそらく話にならないでしょう。それは年齢かもしれないし、経験かもしれない。あるいは価値観かもしれないし、幼い頃から培ってきた性格かもしれない。いずれにしても、青いマンゴーが突然熟することなどありえないわけで、人もやはり、何かしら熟するための基礎は必要なのでしょうね。
 
 僕にそれが既に備わっているか否か。それは僕にはわかりません。けれど、これはひとつの拠り所に過ぎないかもしれませんが、そういう気持ちになったという自身の変化を、ときに真摯にみつめ、後ろ髪をむんずと捕まえる勢いで一歩踏み出すことも良かれと思うようになりました。
 
 
 世は「熟女人気」です。かつてコラムにも書いたことがありますけど、じつにアホらしい現象だと思います。熟女が認められることがアホらしいのではなく、自身の年齢や経験も踏まえず、たかだか三十路を越えただけで(なかには二十代後半で)熟女だと公言している女どもがいるという現実がです。一体どこが熟しているんですか。僕には、未熟な女としか映りません。
 
 熟すとは、そんな見えがかりのものではないはずです。熟女を気取り、世のこれまた間抜けな男どもからちやほやされ、さも天下を取ったかのように振舞う女のどこから円熟という言葉が感じられるのでしょうか。ああ馬鹿らしい。
 
 
 僕はいま、四十二歳です。「一人前」という言葉に向かって一生懸命走り続け、おそらくそれなりのことはやってきたのでしょうけど、それらの確証を手にすることもなく、気づけばいわゆる「社会の中心」でひとつの歯車と化していました。それを人は一人前と呼ぶのかもしれませんが、周囲の評価や見方とは裏腹に、僕の中には「まだ若造」という到達してない感覚が残っています。
 
 けれどそろそろ、それを自らの意思で組み伏せる時期がきているのかもしれません。いつから円熟期に入るかわからなくとも、むしろ自分で自分を熟した人に仕上げるだけの、そういう力は、もしかするともうこの手の中にあるのかもしれないと、そう思うようになってきたからです。
 
 成功するか的外れか、それすら確証はないんですけど、少なくとも、そういう意識を持って日々を過ごすことは、きっといつかは自分自身にプラスとなるのではなかろうかと考えています。
 
 
 そんななか、ヲトナごっこを全面リメイクし、本日リリースする運びとなりました。僕が考える創作物とは常に変化をしつづけてゆくものですので、これが最終形態だなどとは思っていませんし、前述のような円熟したサイトに仕上がったとも感じてはいません。ただ、それを目指して試行錯誤している「戦う姿」だけは、いくらか感じ取っていただけるのではなかろうかと思います。
 
 これからのヲトナごっこがどうなるかは、興味がある方はどうぞ気長に眺めてみてください。リニューアル早々このような物言いも馬鹿丸出しですけど、今後更新頻度は極端に落ちる予定です。それは僕自身に、サイトの更新以外にやりたい創作活動があって、ここを更新してゆくことだけが僕の表現世界ではないと考えはじめているからです。
 
 少々言葉を変えますけど、更新しないと見てもらえないようなサイトには、僕は仕上げてこなかったつもりです。いつどのような方がきても、それなりに楽しんで通り過ぎていってくれるような、そういうサイトを目指してきましたから。そして願わくば、これまでご覧いただいてきた方々にも、いま一度、過去の作品たちを味わってみて欲しいと思います。というのも、あまり更新しませんよという言葉の裏返しですけれど……。
 
 
 熟すか熟さないか、あるいは腐ってしまうのか。僕のヲトナごっこは、これからが正念場なのかもしれません。



2004年04月15日(木) 歓楽街の路地裏で5 /ソープやヘルス

 何を基準に自己を確立し保持するかは、それこそ人それぞれなのでしょう。不特定多数の男に体を開くことをどう判断するかも、おそらく女の立場でみても答えは幾つかありそうな気がします。性の解釈が時代とともに変化してゆくように、肉体を売り物とする風俗産業にもまた、一概に語れないものがあるように思えます。
 
 
 「潜ってきますか」という台詞が、かつては仲間内で「ソープかヘルスにでもいきますか」という意味で交わされていました。とても全国標準の俗語だとも思えないのですが、僕自身はどことなく雰囲気があるその物言いに、言いえて妙だなと感じていたものです。
 
 ソープとはソープランド、ヘルスとはヘルスマッサージ、いわゆる裸体でサービスする店をいいます。サービス内容は多岐に渡るようですが、最終目的は男の肉欲を満たすことに他ならず、「射精してなんぼ」の世界に違いありません。娼館、女郎宿、遊郭等々、昔から女が男に体を開きサービスする商売はありましたし、売春が表立って禁止されている現代にあってもそれは健在なわけです。
 
 僕は昭和生まれの人間ですので、当然のことながら江戸期の吉原を知りません。文献から感じるその世界に興味を覚え憧れはしても、肌で感じることはできないということになります。あの吉原大門という見事な「結界」によって仕切られた空間に、願わくば一度この身を投じてみたいとは思っても叶わないんです。
 
 そんな僕はかねてから、人間のなかには常にふたつの自分が存在していると考えてきました。善と悪なのか、はたまた聖と俗なのか、その性質まではつかみきれないものの、ひとつの物事を判断する際にも必ず、そこにはふたつの自分が問答しているのが人間というものではないでしょうか。その一方を優先し他方を抑えこんでしまうと、人間のバランスは崩れてしまいます。どこかに結界を持ち、それを意識することによって己をコントロールできるもののようにも思えるものです。
 
 「潜る」という言葉に当時の仲間たちが何を感じていたかまではわかりませんが、僕の中にはそんな結界を踏み越え、異空間へと潜水してゆくような感覚があって、多少大仰な物言いにはなりますけど、生きている実感をその刹那に味わっていたのもたしかなことです。
 
 
 あの頃は、ソープやヘルスというと、風俗産業の最終地点のようなイメージがあって、そこに屯する女たちもどこかしら「行き着いた」感があったのは否めないのではないでしょうか。若くて可愛い子が勤めていることなど稀で、大抵は幾つかの風俗店を経由したベテランが居並ぶのが常であったように思い返されます。
 
 けれど近年では、「このお店が初めてなんです」というような、まったくの若葉マーク女性も増えているとききます。年齢層もかなり若くなり、二十歳そこそこで入店してる子も多いようです。「バリアフリー」という言葉が別の世界ではありますが、ここでも違った意味の「バリアフリー」感覚が生まれているのかもしれません。
 
 ことさら若い事が是であるなどとはいいたくありませんが、概して若い子が店にいるということは、客である男衆の受けも良かろうと想像します。女の子が気軽にソープに勤めるようになるのと同時進行で、おそらくは男のなかにも、ソープに出入りすることの罪悪感のようなものは、ひところよりかなり薄れてきているのではないでしょうか。喫茶店で珈琲を飲んでくる感覚でソープで女を抱く。そんな構図が、僕にはなんとなくみえてくる気がします。
 
 
 風俗産業は、それこそ需要と供給のバランスに違いありませんので、泡姫(ソープで働く女性)の低年齢化が客足を生むことは、経済界にとってよきことなのかもしれませんが、どうも古い人間にとってはすっきりしない部分が残ってしまいます。僕は、風俗を論じる際にモラル云々を理由に出すつもりなど更々ありませんけれど、「バリア」を排除して行き着く先を考えるにつけ、これでいいのだろうかと疑問に感じてしまうんです。
 
 アダルトビデオや写真の世界でもそうですけど、昨今はとにかく「素人」ばやりです。経験のない女がその道にポンと飛び込んだり、普通の主婦がある日突然男遊びを始めたりアダルトメディアに出演するという話は、もう珍しいものではなくなってきました。それが時代だといってしまえば、理論も何もなしに話は決着してしまうのですが、「それでいいのか」となると話は収拾がつかないように僕には思えます。
 
 よく人は、ある状況を「自由の名の下に」弁明したがりますが、そもそも自由というものが、権利や義務、そしてルールを規範として成り立っていることを忘れている人が、現代には数多くなってきたのではないでしょうか。そしてそんな精神構造を助長しているひとつには、若年層の風俗産業への関わり方にも一因があるような気がするんです。そしてそこには、かつての「吉原大門」のような結界はなく、まさに善も悪も、聖も俗も混在した世界のみが燦然と輝いているように僕にはみえるわけです。
 
 
 話は少々飛びますけど、近年東京で「カジノを作ろう」という動きがあることは有名ですよね。僕自身はギャンブルをまるでやりませんので、「そんなものはあろうがなかろうが知ったことじゃない」のですが、作ったあとの効果には少なからず「よきもの」があるのではなかろうかと考えています。
 
 人間とは愚かな生き物で、どこかに節目や基準がなければ生きていられないのだと思います。それは時に宗教であり、時に自然という季節であり、そして法律などもその範疇にはいるでしょう。かつての江戸の町に吉原があったのは、人間が持つ肉欲や煩悩を、そのエリアに限っては堂々と消費しましょうという理由からかどうかは定かではありませんが、効果として、人間生活に一定の「区切り」を設け、それによって聖と俗とのバランスを保っていたことは否定しきれないでしょう。
 
 いけないものを排除する行為は、道義的に正当なものかもしれませんが、それがかえって善悪の境目を曖昧にし、やがてはそれらを同化させてしまう危惧もあるかと思います。人にとって「潜る」という行為は必要な感覚であり、結界を持つことは重要な生き方なのではないでしょうか。そしてそれは、いつか置き忘れてしまってきた本来の人間の姿を、僕らに教えてくれるような気がするものです。



2004年04月12日(月) 同性間の恋愛〜恋愛の本質3 /了:同性愛者同士の結婚問題他

 同性間の恋愛を、僕は否定しません。むしろこれまで書いてきたように、その状況によっては、異性間の恋愛より成立しやすいと思えるほどです。されどそこには、自由という名の盾をかざした行動を擁護する意図は、僕の場合は皆無です。
 
 
 昨今、アメリカで同性愛者同士の結婚問題が取り沙汰されていますが、僕は基本的に、同性愛者の結婚には反対の立場です。確かに男と女で対を成すという考え方は、遠くキリスト教やその他の宗教の教えに則った部分が色濃く、そこから逸脱してしまえば恋愛は自由であろうという論理は理解できます。ですから、同性愛者の恋愛には、否定的な立場をとるつもりはありません。
 
 けれど人間には、どこかで「一線をひく」という認識が重要であると、僕には思えるんです。それは宗教や社会的モラル云々の次元ではなく、人間が人間であるために最低限必要とする「自身への戒め」でもあるでしょう。
 
 人を人として愛する構図には、同性同士だけでなく、近親間における愛情もときにあろうかと思います。仮にいま、同性愛者同士の結婚を許可してしまえば、いずれは近親者同士の結婚を許容することへも話が発展しないとも限りません。それがいわゆる「一線」です。
 
 近親者同士でも、僕は愛し合っていけないとは思いません。人間ですので、生物学的や医学的な見地からどうこうではなく、人と人として近親者同士が相対することもあるだろうと思えるからです。その辺は、同性愛者の恋愛に関する思いと同じです。けれど、結婚という契りをもって対を成すことは、僕は避けるべきだと考えます。何がいけないという論理ではなく、それが形の上での「一線」になってしまうということです。
 
 それこそ三段論法だと仰るかもしれませんが、恋愛感情というものを軸に考えたとき、そこには性の違いも近親であるか否かも存在しないはずです。となれば、近親者同士で愛し合っている者たちが、同性愛者の結婚を盾に自分たちの結婚話を持ち出してきたところで、何の不思議もないでしょう。
 
 
 現代社会にはルールというものがあります。いわゆる法律です。法が万能であるとは僕は考えませんが、社会に組みして生きてゆく人間であるならば、それがかなり大きな指針となることは確かだと思います。恋愛が常に法を逸脱して存在してきたのは、歴史を振り返れば明らかでもあるだけに、法と恋愛との確執は、今後も長くつづいてゆくことでしょう。
 
 ただ僕はだからこそ、そこで法が恋愛の奔放を抑止している効果と本音を、しっかりと認知しなければならないのだとも思います。同じ地球という星に生まれながらも、人間が他の動物とは異なる知と文化を手にしている理由を、僕はそこで考えなければいけないと思うんです。
 
 同性同士が愛し合っていけないという法律は、この国にもアメリカにもありません。人間と人間が慈しみ労わりあう姿は、誰が邪魔するものでもないんです。されど人間を他の動物と同じものとしないために、その与えられた英知に報いるために、自らに戒めを課し一線を引くことは、とても重要なことではないでしょうか。そして言い換えれば、そんな「形」にこだわる姿に「ほんとうの恋愛」などは存在しないのだとすら僕には思えてきます。
 
 
 結婚を認めるようデモ行進している同性愛者たちをみると、僕にはそれがどこか、「自分たちを認めてくれ」といっているようにみえます。その通りなのだと思いますが、果たして周囲に認められることが、恋愛という状況においてそれほど重要なことなのでしょうか。確かに偏見はいけないことだと思います。同性で愛し合っているからといって、彼らを異端の目でみることは許されることではないでしょう。だからといって、そんな異端の目を排除することに、恋愛という枠内において何の意味があるのでしょうか。
 
 恋愛とは、「自分を高め、相手を高めてゆくひとつの方法」ではなかろうかと、僕はそう考えています。それはあくまで、相対する相手と自分との間の問題であって、周囲に認められたから昇華できるという低次元のものではないはずです。それをさも「人権運動」であるかのように語る人たちもいるようですが、僕には到底そのような論理は理解できません。「何でも認める」ことが自由であるとは思えないからです。そのような行動に労力を費やすよりも、もっと相手を慈しみ愛することに執心したほうが幸せではなかろうかと思ってしまいます。
 
 
 恋愛の本質というのは、言葉で語りつくせるものではないように感じています。それは人間が何千年という歴史を積み重ねてきながらも、いまだに真理に到達できずにいることからも明らかでしょう。ですから僕が語るところも、それは僕の想いであって真理ではなく、異論も邪推もあまた生まれる宿命を排除することは叶わないと考えています。
 
 されど願わくば、恋愛を上っ面だけで解釈することだけは避けて欲しい。そして同時に、己の身勝手のみで恋愛を盾にすることも、僕は許されざる行為であることを肝に銘じて欲しいと願っています。この種のテーマはつかみ所がなく、まとめるのも至難であろうと思いつつ綴りましたが、やはり焦点が定まらぬまま筆をおくことになりそうです。またいつの日か、考えが少しでもまとまるようなら、手にしてみたいテーマには違いありませんが……。


【了】


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ヒロイ