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2004年04月08日(木) 同性間の恋愛〜恋愛の本質2

 話を冒頭に戻しますが、「ほんとうの恋愛」というものを少し考えてみたいと思います。恋愛の本質とでもいうのでしょうか。僕らはとかく、「恋する」とか「愛する」対象を異性に求めがちですけれど、「ほんとうの恋愛」という状況において、果たして性の違いは必須なのでしょうか。
 
 
 少々まわりくどい物言いになってしまいましたが、人間に惚れこみ愛することが恋愛であると考える僕のなかでは、ある意味では、性の違いなど恋愛の「本線」にはないものなのかもしれないとも思えます。
 
 男と女が結婚という名の契りを結び生活を営んでいると、次第にそこからは、当初存在した「第一期恋愛感情」が薄れてゆきます。それは、馴れ合いもあるでしょうし、子どもが生まれれば育児を軸とした生活環境による変化もあるでしょう、同居する家族構成や社会的な影響もあるかと思います。いずれにしても夫婦というものは、概して年端を重ねるごとに変化してゆくもののようです。
 
 それでは、変化した先にある夫婦像のなかに、恋愛感情がいずれは皆無となってしまうのかというと、僕はその見解には否定的な立場をとりたいと考えています。恋愛感情も、時間の経過とともに変化してゆくからです。
 
 夫婦とは、いわば人生を共に歩む戦士のような間柄であって、互いに傷つけ労わりあいつつも、一度しかない人生のある部分を共有してゆきます。その過程において、当初「男と女の恋愛感情」であったものが、「人間と人間との恋愛感情」へと変化してゆくのではなかろうかと、僕にはそう思えるんです。そしてそういう境地に至ったふたりの間にこそ、「ほんとうの恋愛」は存在し得るのではなかろうかとも想像しています。
 
 男だとか女だとか、そういう性の違いに引きずり回されずに、人として人を愛し、人として人を大切に思える心境こそが、僕には「ほんとうの恋愛」であろうと思えるということです。僕がいう「夫婦」というのは男女で対を成すものですので、同性間の恋愛とは少々勝手が異なります。けれどそこにあるのは、「人間として愛する」という基本的な恋愛姿勢に違いないんです。
 
 
 となると、少々ここで問題が生じます。前出の論旨によれば、夫婦間に「ほんとうの恋愛」は存在するというのが僕の論になるわけで、冒頭にある「異性間では成立し得ない」という言葉に反するからです。
 
 おそらくこの言葉の背後には、恋愛というものを、生殖活動や肉欲を抜きにしたものとして考えているところがあるのではないでしょうか。僕も既に記したように、精神的な側面に視点をおけば、異性間より同性間のほうが恋愛は成立しやすいように思えますが、「ほんとうの恋愛」言い換えれば「恋愛を本物へと昇華させる」プロセスにおいては、それを必ずしも精神的側面のみでは語れないとも思えるんです。
 
 よく「喧嘩をして仲良くなる」という構図を目にすることがあります。人を傷つけそして傷つけられ、そんななかから、互いの人間を心と体で感じあい理解する間柄です。男女間において確かに生殖活動は本能に近い部分にあるでしょうから、それを恋愛という感情から度外視して考えることそのものが無理な話に違いないのですが、繁殖行為であるセックスを介した「違和や協調の繰り返し」が、互いの心と体を密接に繋げてゆくこともまた、反論しきれないものであろうと感じます。
 
 夫婦が傷をおいながら成長し完成してゆくように、恋愛もまた、美しい面のみでなく醜い面も包容しつつ成長し、やがて本物へと昇華してゆくのではないでしょうか。そう考えると、「ほんとうの恋愛」というものは、むしろ、しがらみや障壁のある状況のほうが生まれやすいという結論に至りそうな気がしてきます。恋愛が成立しやすいのはしがらみのない状況であっても、それを本物へと昇華できるのは、困難な状況のほうが是であろうということです。
 
 
 甚だ突拍子もない喩えになりますが、電気を伝える電線には「抵抗」というものがあります。抵抗があるから電線内を電気は伝わるのであって、抵抗がなければ伝わらないんです。あまり詳しく解説はできませんが、作用反作用に似たものがそこには存在しているとお考えください。
 
 人間にもそれと似たところがあって、僕は「負荷」がなければ人間は成長しないと考えています。「苦労は買ってでもしろ」と昔の人はいいましたけど、苦しみは必ず人をワンステップ先へと進ませてくれます。そしてそれは、恋愛という状況においても同じではなかろうかと、僕には思えるわけです。
 
 
【つづく】



2004年04月05日(月) 同性間の恋愛〜恋愛の本質1

 過日、同性間の恋愛について、ある女性と言葉を交わす機会がありました。僕自身は「男を恋愛の対象になど考えたくもない」と思っていたのですが、冷静にその辺のことを考えていると、なかなか興味深い命題にも感じられ、徒然になってしまいますが書き留めておこうかと思います。
 
 
 話の発端は、「ほんとうの恋愛というものは異性間では成立し得ない」という言葉からでした。論そのものは彼女のものでなく、どこかで目にしたらしいのですが、同意せず理解しきれないまでも、どことなく印象に残る言葉であったという話でした。
 
 恋愛というのも形はさまざまで、それを一概に論じるには無理があると思えますけど、視点をその精神的な側面に絞って考えてみると、その発言もまんざら突拍子のないものでもないように僕には思えました。それを「好き」とか「愛している」という表現で代用するかは測れませんが、例えば歴史上の人物に「憧れる」心の動きをみても、そこには恋愛に通じるものがある気がします。
 
 男が女を愛し、女は男を愛するものだという論拠は、僕流には、人間も生き物であり種を存続させる本能を持っているからということになるのですが、それだけが恋愛でないことは自明の理であって、生殖や肉欲を度外視した精神的な繋がりを求める心も、人間には確かにあるのだと思います。
 
 
 同性間でも恋愛感情が成立するということは、おそらく多くの賛同を得るのではなかろうかと思うわけですが、それでは「異性間の恋愛より同性間の恋愛のほうが成立しやすい」という論点に至ると、果たしてどれだけの賛同が得られるのでしょうか。いかんせん「ケース」が多岐に渡る恋愛ですので、その取っ掛かりすら見出すのが困難には違いないのですが、そこをあえて前述の「歴史上の人物」から掘り起こしてみたいと思います。
 
 僕は歴史が好きです。学生の頃は、「歴史」や「社会」という授業が嫌で嫌で仕方がなかったのですが、社会へ飛び出す少し前頃から、過去の時間に埋もれた人間の姿に深く傾倒しはじめたように思い返されます。そう、僕にとっての歴史とは、まさに「人間のいきざま」そのものであって、歴史上の人物に憧れ惚れこむ心の底には、彼らを人間として敬慕する気持ちがあるんです。
 
 僕がいう「歴史上の人物」とは、そのほとんどが男性です。過去という時間のなかには、当然のことながら女性で名を馳せた方も大勢いますが、僕が興味を抱いてきたのは常に男性でした。そこにはおそらく、僕自身が男であって、彼らのように生きられないまでも、そこに自分が持つ「性」の根拠と進む先を見出したいという欲求が強くあったのだと思えます。それは明らかに自身との比較であり、同性であるが故に「近づけるかもしれない」という生物的な本能もまた、そこには隠されているような気がします。
 
 そのような感情を恋愛と呼ぶのかには疑問が残るところですが、「執心する」という恋愛特有の感情面においては、とても似通ったものがあると感じます。恋愛もその基本は、慈しみ敬うことでしょうし、憧れや羨望がそんな感情を生み出すことは想像に難くありません。けれどなぜか、歴史に登場する女性たちに対しては、僕はそういう感情を抱かないんです。素晴らしい人たちだとは思っても、慕い敬う気持ちにはなれないんです。それはなぜでしょうか。
 
 
 人間というのはどこか計算高い生き物で、自分をできるだけ上手に「生かして」いくために、さまざまな場面で数多くの「無意識の計算」をしているものだと僕は感じています。その計算は、こと恋愛に関しても例外ではなく、状況に応じた計算をしながら、男も女も生きているのではないでしょうか。そしてその計算を極力せずに済む間柄が、恋愛においては同性なのかもしれないと僕には思えるふしもあるんです。
 
 平たくいえば、それは「同性間には利害関係が生じ難い」という論になろうかと思います。繁殖活動の必要性はありませんし、性による立場の違い、例えば「妻と夫」というようなものも同性にはないでしょう。種の存続という本能のために異性を争奪する意識は、男をも女をも、心身ともに成長させ変化させてゆきます。言い換えると、その本能を刺激する必然性を排除すればそこには、相手を人間として純粋にみる目が生まれてくるともいえるでしょう。それこそが僕が着目したい点であり、同性間の恋愛成立を後押しする背景でもあるように思えるわけです。
 
 「しがらみ」のない状態というのは、どのような場面においても心と体を解き放ってくれます。それは人が求める「幸せ」という構図の、かなり中心に近い部分にあるものだとも思えます。異性間でしがらみを抱えて恋愛するよりも、同性間で少しでもしがらみの少ない状況で恋愛するほうが安易であると感じても、僕には無理がないように思えるんです。
 
 
【つづく】



2004年03月22日(月) 繋がる理由・別れる理由

 過日某文芸誌を読んでいた際、作中にある「繋がる理由はひとつなのに、別れる理由はいくつもある」という一節に目が留まりました。なかなか巧いことをいうなと感心したのですが、考えるにつれ、その文言にとどまらぬ恋愛の奥義がみえてきた気がしました。
 
 
 男女が繋がる理由、いいかえると別れられない理由とは、いわずとしれた「相手への情」でしょう。ひらたくいえば「好きだ」ということです。出逢いにせよその後の長い時間にせよ、繋がる状態の根幹には、相手に対する愛情が確固として存在しているはずです。社会的や経済的な理由を挙げる方もいるかもしれませんが、それらは「恋愛」というカテゴリーの外にあるものですので、今回の論旨からは除外されるかと思います。
 
 恋愛の初期段階において、「相手のどんなところが好きなの?」と訊かれ、それに適切に応えられる人は少ないかと想像します。すべてを把握し理解した上での恋愛開始などは、およそ男女の世界には存在し得ないということです。「好きになるのに理由があるか」などと多少乱暴な物言いをする方もいますが、言い得て妙だとも僕には思えます。そんな理屈を考えつつ恋愛に染まる人など、おそらくいないのではないでしょうか。
 
 よく「運命」とか「縁」という言葉を男女の出逢いに重ねることがありますけど、たしかに幾千という人ごみのなかで出逢い恋におちるふたりには、何がしか人智の及ばぬ力が作用しているのかもしれません。人間は、あまたある生き物のなかでも、とりわけ考える能力を授かった生き物に違いありませんが、ある日突然異性に惹かれる感情には、難しい理屈など無意味なのかもしれませんね。「要するに好きになっちゃったんだ」というひとことで、話は済んでしまうようにも思えます。
 
 
 そんな恋人同士であっても、付き合いが続くうちに、その狭間には大小さまざまな波がたつものです。価値観の相違もあるでしょう。どうしても受け入れられない性格が露呈することもあるかと思います。たったひとつの「駄目」で別れを決断する人は、おそらくゼロに近いほど少ないであろうと思うわけですが、それらが幾つか積み重なってゆき、あるとき大きな波に足許をさらわれると、そこで人は別れを意識しはじめるのかもしれません。
 
 人間十人いれば、そこには十の価値観と十の性質が存在するものです。相手が自分と同一でない以上は、価値観や性格の不一致は必然的なものだと僕には思えます。それらを許容できる、もしくは相手が歩み寄ってくれる状況であれば、別れを迎えることもないのでしょう。相容れぬ部分がたとえ小さくとも積み重なってくると、それはやがて大きな溝を作ってしまうもののようです。
 
 最近は少なくなりましたが、かつて若かりし頃は、友人の別れ話に酒を片手に耳を傾けた時代がありました。男女問わず、別れるときというのは、とめどなく相手に対する批難が噴出してくるものです。なかには自身を批難する人もいますけど、その背後には、そんな自分を許容してくれそうにない相手への批難が見え隠れし、要するに「もうやって行けないわけでしょ」と、こちらの「裁定」を待ち望んでいる場合が少なくなかった覚えがあります。
 
 「あんな人だと思わなかった」という台詞もよく耳にしましたけど、それが最初からわかっていて関係を持つ人間などいるのでしょうか。わからずに付き合いはじめているのですから、気づかなかった自分を卑下する必要もなければ、理解されなかった相手を責める道理もなかろうと僕には思えます。繋がり続け関係を深めていくことでみえてきたものが、双方受け入れられなかったというだけに過ぎません。
 
 
 他方で、いくら大波小波がたとうとも、繋がり続ける人たちはいます。夫婦というものはかくあるべきだ、などと偉そうな口上を述べるつもりはありませんが、少なくとも僕自身はそれを実感しつつ夫婦生活をつづけています。およそ乗り越えられないような大波であろうとも、溺れるなら共に溺れても本望という気概でふたりが難題に対峙すれば、仮に遭難の憂き目に逢おうとも、おそらく関係は持続することでしょう。
 
 その頑張れる根底にあるのは、やはり相手に対する情に他ならず、そう考えてみると、「別れる理由は数あれど、別れてしまった最大の理由は好きでいられなくなったから」というところに行き着きそうな気がします。つまり言い換えると、あまたある別れの理由ですら、それらをふたりで乗り越える気持ちがあればクリアできるのが人生というもので、それを行う気持ちになれないから別れを選ぶという見方もできるかと思えるわけです。
 
 これはとても大切なことでして、前述したように人間十人いれば十の価値観や性質があるように、自分と同じで何から何までしっくりくる相手などというのは、おそらくこの世に存在しないでしょう。それなのに、自分に適した相手をどこまでも探し続けていこうとするのが人間というもので、そのエゴイスティックな姿にはときに呆れてしまいます。そして同時に、可哀そうだなとも思います。
 
 恋愛の醍醐味、夫婦の醍醐味というものには、また別のコラムが書けそうなほど幅広いものがありそうですけど、そういう大波小波を一緒に乗り越えてゆき、ときに慰めときに叱咤しつつも、性質の異なるふたつの個性体があたかもひとつの生き物のように歩みを共にしてゆく姿にこそ、僕は隠されているような気がしています。自分と同一を捜し求める恋愛漂浪者たちの姿には、そういう苦難を絆とかえてゆく発展性が感じられないんです。だから哀しいなと思います。
 
 
 もっとも世の中には、切りたいと意図してもなぜか切れてくれない関係というものあるわけで、男女の繋がりを惚れたはれたで片付けられないのは自明の理といわざるを得ないのかもしれませんが……。
 
 
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Figure Vol.2-06:Noble 公開


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