ヲトナの普段着

2004年03月08日(月) 恋愛に自信をもてない女たち

 恋愛に自信をもつというのは、並大抵の所作ではないのだと思います。それは年端を重ねれば重ねるほどに、機微を覚えれば覚えるほどに、困難な道のりと化します。かつて若かった頃、無駄なことは考えずに恋人の想いを信用できた自分が、妙に懐かしく思えるような……。
 
 
 僕の印象では、中庸であればあるほど、女は浮き沈みのない性格のような気がします。つまり、一見しっかりとして負けん気が強い女ほど、心の中には触れば壊れてしまうようなガラス細工を抱えていたり、反面いつも弱弱しくしている女ほど、いざというときに驚くような強い姿勢を示したりするということです。なぜなのでしょうか。それを解く鍵になるかはわかりませんが、恋愛に臆病な女について、少し考えてみたいと思います。
 
 僕の中には、表面上強い女ほど恋愛に不器用だという認識があります。かくいう僕の過去を振り返ってみると、その手の女に多く惹かれてきた気もします。そして同時に、裏側に隠されたかよわいガラス細工に、僕は魅せられていたのかもしれないと思えるふしもあるのですが、それはさておき……。
 
 虚勢という言葉がありますよね。つまりはうわべだけの威勢をさす言葉ですが、この言葉には必ずしも悪いイメージだけでなく、人間らしいごくありきたりな姿もみえるように僕には思えます。なぜ虚勢を張るかを考えると、ひとつには自分を守りたいという防御本能に似たものがあるように感じられるからです。そしてそれが少々過度になり習慣化すると、一見強い女のできあがりということです。
 
 自分を守るのは悪いことではありません。ましてやその行為が、自分を愛するが故の所作であるならば、人間として当然の行為ともとれるでしょう。されど「無理な態度」は、いつしか人の心に隙間を作ってしまいます。おそらくは誰よりも自分自身をよく理解しているくせに、いや、理解しているからこそ、自身のなかにあるガラス細工の行く末を慮って、どこか自信がもてなくなってしまうのかもしれませんね。
 
 
 嫌われたいと思いつつ生きている人など、この世には存在しないでしょう。誰もが人に好かれることを望み、優しく支えてくれることを欲し、自分を理解して欲しいと願いつつ生きているんです。その想いは極めて自然な心の流れであって、なんら悪いものでもないのですが、問題はそれを成就するがためにどうするかという第二段階の行動における心理なのかもしれません。
 
 恋人から意外な告白を受けたとき、自信をもてない女たちは大いにうろたえることでしょう。けれどいずれは、ふたりの関係を保持するがために、相手を責めるよりは自分のなかに非を認めようとしてしまう。それはどこか、強がって「そんなの平気よ」と振舞う女の姿と、だぶってみえてきはしませんか。僕にはそうみえます。それは時に諦めかもしれませんし、詭弁による納得かもしれませんが、いずれにしてもそうすることで、女たちは自分のなかにあるガラス細工を守ろうとするんです。
 
 もちろん個々の性格もあるでしょうから、一概に論じるには無理がありますが、多かれ少なかれそのような傾向は意外と如実にあるのではなかろうかと僕には思えます。辛いんじゃないかと思いますよ。いつまでたってもしっくりこなくて、苛々することもあろうかと思います。けれど繰り返し諦めながら機微を覚えることによって、女はそれが自分の生きる道であると「勘違い」してしまうのではないでしょうか。そう、勘違いです。
 
 
 話は少々飛躍して、「自信をもつ」ということの解釈になるのですが、そこのところの視点というか考え方を少し変えるだけで、僕はそんな諦めから逃れられるのではなかろうかと思うときがあります。これまでも幾度か触れましたが、「ありのままの自分を受け止めてくれる相手を探す」ということです。その極意とまではいきませんが、言い換えると「捨て身になれるか否か」ということかもしれません。
 
 自分を繕うのは正直疲れます。強い面だけでなく弱い面も曝け出して、それでもなお自分を見守り愛してくれる人がいるなら、僕はその人だけでいいとすら思います。大勢に愛されるよりは、たったひとりでも、本当の僕を知りその上で傍にいてくれるような人がいるほうが、僕は嬉しいと感じます。とりもなおさずそれは、僕自身が最も僕らしくいられるからに相違なく、そうしたありのままの付き合いこそが、人間と人間との理想的な関係に近いとも思っているからでしょう。
 
 そしてそんな僕は、変に虚勢を張ったり煌びやかにみえたりするよりも、その人にしかもてない姿を大切にしている人に惹かれます。虚勢を張っていても、どこかでこっそりボロを出す女に惹かれます。決して「自信をもって」などとはいいませんが、そういう「自分」をそっと見守っている僕がいることを、忘れて欲しくないなとも思います。自分に自信がもてなくともせめて、そんなあなたをみている僕の心だけは、歪んでみて欲しくないと、そう思うんです。
 
 
 一旦曝け出すと、歯止めがきかなくなりそうで怖いという人もいるでしょうね。それを受け止めきちんとコントロール補助してくれる相手であるかどうかは、見極めるあなたの目次第ということにもなる気がします。そう、「自信」という言葉は結局のところ、相手を想う気持ちの深さに繋がってくるのかもしれません。信頼は得るものではなく、伝えるものであるという風に僕は思います。まあ、なかなか信頼されないわけですが……。
 
 
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Figure Vol.2-04:Butterfly 公開



2004年03月04日(木) 歓楽街の路地裏で2 /キャバクラ

 得体の知れない性風俗というのは数ありますが、その命名段階に謎が残るのがこのキャバクラかもしれません。「これって単なるクラブでしょ?」「パブとはどう違うの?」というキャバクラは、おそらく男衆が最も多く出入りする空間でもあるでしょう。
 
 
 「キャバクラ」という音のイメージからは、僕は「若い女の子」とか「ちょっといかがわしい店」という印象を受けます。呼称のルーツは僕にも定かではないのですが、おそらくは「キャバレー」でもなく「クラブ」でもないという辺りかと推測しています。じつは僕自身、日本のキャバレーに入ったことはありません。海外旅行の際に、「正統派キャバレー」を経験したことはありますが、日本のそれは本場とはまるで違う世界であったに違いありません。
 
 ご存知のように、キャバレーには踊りなどの「ショー」が付きまといます。クラブといえば、むしろ静かにお酒を飲む社交場というイメージでしょうか。それらのいずれでもないとなれば、キャバクラとは果たしてどのような空間なのかと要らぬ想像をめぐらすのですが、僕の経験からすれば、やはりキャバクラはキャバクラなのかと……思えてきます。
 
 要するにキャバクラとは、じつに曖昧な呼称なんです。それこそ女の子が全裸になって接客するような店でもキャバクラと呼べば、普通のクラブの如く接客する場所もキャバクラです。日本の文化にはどこかファジーな側面があるものですが、性風俗のファジーはこのキャバクラという呼称に象徴される気すらします。まあ、男の欲望を満たすことができれば、呼称などさほど意味があるものでもないのでしょうけれど。
 
 そんなキャバクラは、おそらくは僕が遊興を覚え始めた頃に生まれたのではないでしょうか。現代を闊歩する若者たちには、もしかすると僕が持つような疑問などないのかもしれないと思えるのは、草創期に遊んでいた故なのでしょうか。とにかく当時の僕らの胸のうちには、「キャバクラって何なの?」という疑問符が、常に浮き沈みしていたように思えますから。
 
 
 僕がいわゆる夜の女たちと個人的な関係を持つようになったのは、そんなキャバクラに勤める女の子が切っ掛けでした。まだ結婚する前の、それこそ社会人になりたての頃の話です。普通、デートといえば昼間かもしくはディナータイムと思われるかもしれませんが、キャバクラ勤めの彼女を持つと、デートは深夜になってしまいます。こちらも昼間は仕事がありますし、あちらはあちらで昼間は体を休める時間になりますからね。
 
 彼女が仕事を終え、僕と待ち合わせするのは決まって午前二時。場所は駅前に程近い大衆居酒屋です。その時刻の少し前になると、僕はいつも同じ席に腰掛けて彼女を待ちます。いつしか店員にも顔を覚えられて、店に入った途端「まだ来てませんよ」といわれる始末。あの時がもしかすると初めてかもしれませんね。自分が夜の世界へ入ったと実感したのは。
 
 彼女は、キャバクラのなかでも質の悪い店で働いていました。平たく言えば、全裸で接客する店です。どこかのヘルスから流れてきたというだけあって、その脱ぎっぷりには目を見張るものがありました。僕自身は三度ほどその店に入った覚えがあるだけで、いきさつは記憶から失せてしまったのですが、なぜか恋人同士のように付き合っていました。誤解のないように書き添えておきますが、これは僕がまだ二十代前半の頃の話です。現在そのような店もあるにはあるでしょうが、そう数多くはないと想像しています。
 
 
 彼女との日々は、そう長いものではなかったのですが、そのときに僕が学んだというか感じたのは、彼女のなかにある枯れた心と人一倍強い愛情への敬慕でした。その後も数名の夜の女性との関係を経て現在に至りますが、原点は間違いなくあの頃にあったと僕には思えます。まだ感受性が強い年頃だったせいもあるでしょうけれど、そんな時期にめぐり合った縁も蔑ろにできない気がします。
 
 じつはそれから数年を経て、酒の勢いでとあるソープランドに入ったとき、偶然にも彼女とそこで再会しました。「あら」という程度でとりたててその後の話などしませんでしたが、堕ちてゆく女の構図をみた気がしたのは確かです。もちろん、それを生業としている以上、彼女にもそれなりの自負はあるでしょうし、必要が生む商売であるのなら、誰が否定するものでもないと僕は思います。けれど、ひとたびその世界の水を飲んでしまったら、そう易々と抜けられないのだなということを、若いながらも実感した瞬間でもありました。
 
 曖昧な店キャバクラは、曖昧であるだけに女も組みし易く、されど確実に、夜の世界の入り口であるということなのでしょうかね……。
 
 くどいようですが、いまどきのキャバクラは、僕が思うに単なるパブです。キャバクラに行ったからといって、変なことをしてきたという構図にはなりませんので、どうぞ誤解なさらぬように。



2004年03月01日(月) わたしってひねくれもの? /慰めの押売

 人の振りみて我が振りなおせ、という言葉があります。世の中にはいろいろな人がいますけど、ある行為をみていて「どうして素直に感謝できるの?俺ならすねちゃうよ、ひねくれちゃうよ」と感じるのが、慰めの押売です。
 
 
 インターネットという世界にも、じつにさまざまな人たちがいると日々思うわけですが、みていて嫌だなと感じるというか、この世界には、妙に「善人」が多いとは思いませんか。人間なんかそうそう善人になれるはずもないのに、どうしてこうもネットには「善人」が多いのでしょうか。もう僕のようなひねくれ者は、そこのところが気に食わなくて仕方がありません。
 
 ある人が人生の大きな壁にぶつかり、苦しみ悩んでいると、それまで閑散としていた場所であっても、不思議とアリが砂糖に群がるように人々が寄ってきます。ワイドショーのような感覚の人も多いかもしれませんが、まるで「怖いもの見たさ」の如く群がるバーチャル人間たちに、僕は率直に嫌悪を覚えます。
 
 優しい言葉をかけたり、場合によっては相談に乗ってあげる人もいます。彼らは、その第一段階ではまさに「いい人」だと僕も思います。ネットという特殊な空間だからこそ、縁もゆかりもない人が、心から案じて言葉をかけることもできるんです。それを否定はしません。けれど、明らかに立ち直ってきているのに、いつまでも「大丈夫?」とか「殻にこもっちゃ駄目だよ」とかいうのは、どう考えても行き過ぎでしょう。そういう輩に限って、相手のことを心配しているのではなく、自身の言葉に酔いしれているようにしか僕にはみえないわけです。はい、ひねくれてます。
 
 
 僕はこれまでも、幾度か相談を受けたことがあります。内容は多岐に渡りますが、概ね僕は、親身に言葉を返してきたつもりです。それはある程度、相手に伝わっているとも感じています。ただし、行き過ぎた覚えはありません。それは、「最終的には、自分の人生は自分の足で歩むものだ」という考えが僕の中にあるからです。
 
 足を一歩前に出せない状態のとき、それを励ますことはできます。一緒に苦しみを分かつことも可能でしょう。けれど当人も、いつまでも他人の力で歩くわけにはいかないんです。それこそ、傍で介添えしているほうも無責任だと僕には思えます。相手の人生にそれなりに責任を持つならまだしも、たかがネットというわけのわからぬ空間での関係であるならば、自分の気持ちを伝えたら、あとはさっさと傍観すべきでしょう。そして、あとは静かに見守るべきだと僕は思います。
 
 多少暴言のきらいもありますが、その点はご容赦ください。とにかく善人ぶるヤツが嫌いなんです、僕は。まあ、それも「善人ぶってるわけじゃなく、それがその人の個性なんだ」と切り返されそうな気はするのですが……。
 
 
 優しさって何なんだろうって思います。かつてコラムにも書いた覚えがありますが、人を愛すること、その人が幸せになってくれるのを祈ることからは、果たしてどのような行動が生み出されるのでしょうか。一緒にいることだけが愛情だとは僕には思えません。過去にそういうことで傷を覚えたこともあるのですが、その人が幸せになるために自分が引かねばならないときは、勇断をもって静かに消えることも大切だと僕は思っています。
 
 人間は弱い生き物だと僕は思います。そういう側面では、慰めがどれだけその人の糧になるかを考えると、まんざら否定ばかりもしてられないのが真実に違いないでしょう。だからといって、気づかないまでも、自身の満足のために慰めをつづけるのはどうかと思います。そういう光景を目の当たりにするにつけ、ひねくれ者の僕は、「こういう奴ほど、実社会ではお年寄りに席を譲らないんだろうな」とか思ってしまうわけです。
 
 そして同時に、書き物を趣味とする者として、文字はやはり怖ろしいとも思います。言葉の裏にどのような想いがあっても、それを記し読み取る者によって、変幻自在に姿を変えてしまう可能性があるからです。それを素直に読めない僕は、やはりひねくれ者かもしれません。されど文字によって具現化された善の世界に酔っている人間の光景も、同時に僕にはみえる気がするんです。
 
 悪人でいたい人など基本的には皆無に近いでしょう。誰もが心に善を持ち、それを誰かに伝えたいと思いながら生きているのだと思います。ただその表現方法を誤ると、慰めもいつしか負荷へと姿を変えることを、僕は忘れたくありません。
 
 
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Figure Vol.2-03:Yearning 公開


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