ヲトナの普段着

2004年02月26日(木) 歓楽街の路地裏で1 /ノーパンパブ

 四十歳を過ぎてくると、そろそろ夜遊びもその方向性が変化してくる頃合かもしれませんが、そういえば過去の夜遊びの話はしてなかったと思いつき、そこから見えてくる男心もネタとしては悪くないと思えますので、暴露とまではいきませんが、夜の世界のお話を……。
 
 
 僕と歓楽街との出会いは、それこそ大学時代へと遡るのですが、本腰入れて徘徊するようになったのは、現在の会社に腰を落ち着け結婚してからのことでした。いまでこそ、夜の街には二十歳そこそこの若者が大勢屯していますが、当時の若者は貧乏だったのかはたまた遊興に目覚めてなかったのか、現在ほどお盛んではなかったような気がします。
 
 当時、会社の仕事仲間で毎月催される会合がありまして、それが終わると、同年代の仲間と夜遊びに出かけるというのが常でした。それも一ヶ所で腰をすえるということはまずなく、それこそタクシーで三十分も乗らないと行けないような場所を転々としていたのですが、その手始めが、いつもきまって「カウンターパブ」と称する飲み屋でした。
 
 
 店の作りはいわゆるカウンターバー風で、ボックス席などありません。ただ普通のカウンターバーと違うのは、カウンターが透明なガラスで出来ていて、向こう側の床が鏡になっていることです。カウンターのなかには若い女性がミニのワンピースで待機しています。客がカウンター越しに何かを注文すると、女の子は少し背伸びをするようにカウンター上部の棚にあるスイッチを一回押して、注文を聞くというわけですが、その際に、床に設置された照明が光って、スカートのなかが鏡に反射してガラスのカウンター越しに見えるという按配になります。
 
 はじめのうちは物珍しくて面白かった覚えもあるのですが、酒も飲み始めると視力が鈍ってきますし、そうそう見事な股間を拝めるものでもないのが現実でした。僕の記憶のなかには、くっきりはっきりとした恥丘の姿など残っておりませんので……。けれどなぜでしょうかね、あそこで飲むのが不思議と楽しかった。
 
 慣れてくると、カウンター越しに覗くことにも飽きてきて、女の子を隣の席に呼ぶようになります。そう、別に女の子はカウンターの向こう側で働いている必要はないんです。かといって、隣にきたから「そら来た」とスカートを捲るようなことはしませんよ。ただお話しするだけです。ノーパンときくとどこか卑猥なイメージを想像されるかもしれませんが、いま思うに、あの空間からそのような卑猥さはそれほど感じられなかったような気がします。
 
 
 あの当時は、「ノーパン○○」という店が歓楽街を賑わした時代でもありました。残念ながら貧乏であった僕は、その他のノーパン系列を経験したことがないのですが、それが元で政治家生命を追われる人も現れたりして、ある種の文化であったのかもしれません。ひとたび「解放」してしまうと、人間の精神にはどこか歯止めがきかなくなる部分があります。犯罪の低年齢化然り、性風俗の一般化然りでしょう。そんな側面からもあの時代は、過去から現代への転換期でもあったように思い返されます。
 
 僕のノーパンパブ通いは、じつはそれほど長岐に渡るものでもありませんでした。適度に慣れてきた頃に、たまたま馴染みになった子を隣の席に座らせ、なんとなく身の上話をしているとどこか共通する風景が出てきまして、遂には「あれ、○○ちゃんのお兄さん?」という話に発展し、それっきりというつまらない幕引きがあったからです。遊びも己の生活圏では難しい。それを痛感した瞬間でもありました。
 
 
 いま、ノーパンパブなどといって開店したら、果たしてどれだけの集客が見込まれるのでしょうか。十年ひと昔ということを考えれば、意外と「レトロね」なんて具合にもてはやされるかと思う反面、どう考えても、現代の男衆はあれでは満足しないだろうなとも思います。いずれ書くことになるでしょうけど、現在の性風俗産業は、「濃く早く」が基本と思える伏しがありますし、男もそんな環境に飼いならされている気配を感じるからです。
 
 カチャっという音とともに光る怪しげな床の鏡。かといって、決して悪びれることのない男と女たち。あの空間にはもしかすると、遠く吉原大門へと通じる人間の道が、さりげなく隠されていたのかもしれません……。



2004年02月23日(月) そんなにヴァギナがみたい?

 女にとってのペニス、男にとってのヴァギナというのは、確かに究極の「秘部」なのかもしれませんが、あまりにこだわる姿には、正直なところ閉口してしまいます。僕も決して嫌いではありませんけれど、「みたい」という衝動の根拠を考えると、どうにも理解に苦しむわけです。
 
 
 モデルさん相手に個人撮影をしていると、撮影中に色々な世間話をします。多くは過去の撮影経験にまつわるものなのですが、「アソコばかり撮る人もいるんですよ」という話も珍しくはないんです。また、そんな撮影風景を友人に話すと、やはり多くは「俺だったらアソコばかり狙うけどな」とニタニタしながら言葉を返してきます。
 
 正直に書きますけど、僕だって撮影中にヴァギナは拝見します。全裸になれば、角度によっては当然の如く視野に入ってきますし、開脚で股間から上を狙うような場合は、目の前にヴァギナが見事にあるわけです。目に入らないのが嘘になるでしょう。ただ、ソレを写しこむという意識は皆無です。こんなもの(という物言いも失礼でしょうけど)写してどこが面白いんだ、とすら思います。
 
 僕にとってのモデルさんは、これまた失礼な物言いになりますが、ある意味で「モノ」なのだと感じることがあります。「絵」を僕のイメージで綺麗に仕上げるために、そこにある「モノ」にその存在感を主張してもらうわけです。ですから、考えようによってはヴァギナがそれを主張することもあるかもしれませんけれど、幸か不幸か、これまでそういう場面には出くわしませんでした。語弊なきように書き添えておきますが、モデルさんはもちろん生身の人間ですよ。血が通い動く心を持つ女性です。それは当然、撮影の際に念頭にあるべきものです……。
 
 
 ヌード写真もさまざまで、僕が撮っている単体相手のもの以外にも、男と絡んでいる写真も当然のことながらあります。「絡み」とか「ハメ撮り」とかいいますけど、世にあるアダルトサイトの多くは、この系統であろうと思います。なぜ多いのか、なぜ男連中にうけるのか。いうまでもなく、それはその画面のなかに、自分自身を重ね合わせているからだと僕には思えます。
 
 セックスをするとき、ヴァギナへのペニスの挿入なしに済ます男は、そうそういないでしょう。前戯のバリエーションやテクニックはさまざまあれど、最後は果てて終わるのがセックスであることに異論はなかろうと思います。もちろん、「手でいっちゃった」とか「口でいっちゃった」というものもあるにはありますが、毎度それで済ませているという人は少なかろうと想像します。
 
 その理由は明瞭です。それは、セックスという性行為が、元来は種の存続を目的としていたからです。精子を卵巣へ送り込むことなしに、セックスは完結しないでしょう。あれこれ亜流はあるにせよ、最終目的はそこにあるわけです。ですから、男も女も、相手の「秘部」にこだわる心理は、とりたてて異常なわけでもないんです。ただそれは、「目的」があって「行為」に及ぶ男女があっての話ですから、今回の論旨からは少々離れてくるようにも思えます。
 
 
 まだ十代の頃、友人といわゆる「成人映画」の門をくぐるのに、心臓が口から飛び出すほどにどきどきしながら足を運んだ覚えがあります。あれは何だったんでしょう。単純に「みたかった」と応えるには少々複雑な背景がありそうにも思えるのですが、僕はあえて「脳が刺激を欲していた」と解釈してみたいと思います。
 
 女は想像で、男は視覚で感じるという話があります。レディコミが売れ、ビニ本が売れたのは、女が文字世界から己の官能を喚起し、男がモロ写真から男根を膨らませたということではなかろうかと僕は思うわけですが、哀しいことに男の「欲望処理の本能」は、そういう視覚的な入り口をそのままの形で成人に達するまで残してしまっているのかもしれません。もちろんそこには、隠さずに全てを見せてしまう風潮が(文化と呼ぶのはどうかと疑問が残りますが)、男の想像力を欠落させ、「究極の秘部」のみを燦然と輝く欲望の試金石の如く成り上げてしまったという結末もあるような気がします。
 
 
 僕はことさら、見せないことを是であるなどとはいいません。見せるとか見せないとか、そういう視点が問題なのではなく、どこに女を感じるかという男の心理にこそ問題の根は隠されているのだと思えるんです。極端な言い方をすれば、ヴァギナをみなければ女を感じない男が、現代には溢れかえっているということです。それでいいのでしょうか。
 
 僕自身の話に戻りますが、モデルさんを相手に撮影するときは、大抵は着衣状態から少しずつ脱がしていきます。そのときどきで、ファインダーを通してみえてくる「女」を僕は追い続けているようにも思えます。それはときにうなじであったり、ときに胸であったり、そして唇や指先であったりするわけです。
 
 蛇足になるかもしれませんが、かつて某プロカメラマンに、「モデルといえども、それぞれに肉体的なコンプレックスを持っているから、それを上手にフォローしてあげるのも、撮る側の技量だと思うよ」といわれたことがあります。僕自身いつもそう心がけて撮っていますし、その通りだと思います。それは決して「偽り」を写しこむのではなく、そうすることで、そこに「女」を感じ表現できるからです。ヴァギナが写ってるかどうかなんて問題は、頭の片隅にもありはしません。
 
 されど世の男連中は、こぞってヴァギナを追い求めてゆく……別に哀しみもしませんし、蔑みもしません。それはそれで、時代が写す男性像なのかもしれないからです。ただ僕には、そういう心理がものの見事に理解できるという脳みそがないということです。
 
 つまらぬ言葉で締めくくりますが、ヴァギナは見るものではありません。愛しく味わうものです。違いますでしょうか……それとも、僕のほうが「変なヤツ」なのでしょうか。
 
 
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Figure Vol.2-01,02 公開
・本日より新たなシリーズとなります。



2004年02月18日(水) ヲトナごっこ三年目第一日

 ちょうど二年前の今日、僕はこのヲトナごっこを開設しました。大人になりきれないヲトナである自分が、己をとりまく性をテーマに思索を試みることで、少しでも大人になろうとしてきましたが、いまだに……ヲトナのままのようです。
 
 
 年頭に小説のことを書きました。ごっこを始める前は小説中心で書いていましたし、現在でも小説に対する意欲は薄れておりません。ただいかんせん、僕の書き方は時間がかかりすぎる。書きながら考えるということができないので、着想から構成や下調べという執筆までの時間が、呆れるほど長いわけです。それらの作業が、常に時間的側面で没頭できる状態にあるならまだしも、いまのようにコラムや写真などを手がけていては覚束ないのも道理かと思います。
 
 そんな僕のなかには、常に戸惑いがあります。それは、これまでヲトナごっこで築いてきたものをそのまま踏襲したほうが安定しているという考えと、もう足掛け三年に渡って僕の胸中にある「ふたつの物語」によるものだと感じています。コラムと小説を両立できないからには、この想いはどこまでも燻り続けていくのかもしれません。せめて、物語のひとつでも形にして吐き出せば、少しは楽になるのでしょうけれど……。
 
 
 過日、「Figure」という写真コンテンツを公開しました。それまでも写真をコンテンツの素材として使用したことはありましたが、写真だけで勝負するようなものは初めてです。土台が物書きと自認していますし、まだまだ写真の技術も未熟だとは思うのですが、創作という観点からすれば、これもひとつの表現方法に違いなく、新たなヲトナごっこの世界が展開できるのではなかろうかと考えています。
 
 写真は、僕のなかでは「絵」という認識が根強く、若い頃から好きだった絵画の世界の延長にあるような気がしています。じつは十代の頃に、そんな絵画好きが高じて油絵を少々かじったことがあったのですが、あまりの不出来に筆を投げてしまいました。指先のタッチがそのまま形となってしまう絵画と比べて、写真は僕にとっては組みし易かったのかもしれません。
 
 もちろん写真も奥が深いに違いありませんが、とっつきやすいという側面は誰もが認めるところであろうと思います。さりとて物書きが主であると自認していますので、かなり不定期にはなるかと思いますが、「Figure」もこれからのヲトナごっこの大きな脇役となれるように、少しずつ構築していければと考えています。
 
 
 不惑の四十を過ぎて早二年が経過しました。三十八で思いがけぬ実父の急逝にでくわし、ある意味で一族の柱とならざるを得なかった境遇を思えば、四十で一応の不惑を覚えたところで、何ら不思議はないのかもしれません。だからといって迷わないわけではなく。おそらくは生きている限りは、何らかの命題を胸に、僕は迷い続けていくようにも思えます。
 
 文字にしても写真にしても、そこに僕なりの形を構築することは、迷ったり苦しんだりしながらも、やはり自分自身を見極めたいという衝動からの所作なのでしょうか。男が男であることの意味。女が女であることの必然性。そして、僕が人間であることの確認は、これからもそれらの媒体を通して模索され続けてゆくような気がしています。
 
 
生きてゆくのはたいへんで
辛苦も涙も途切れることがなく
それでも僕は生きている
それでも君は生きている
 
息を吐き
まなこを開き
 
僕も君も
生きている
 
 
---- Information ------------------------------
Figure Vol.1-Final:Net 公開


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ヒロイ