ヲトナの普段着

2004年02月16日(月) 恋人には言えないこと

 恋人であれ夫婦であれ、はたまたそれに順ずる関係の異性だからこそ話せないことというのがあります。蓋をあけて客観的にみれば他愛のない話でも、関係が密な間柄だからこそ切り出せないという場合があるんです。
 
 
 かつて掲載したコラム「言い出せなくて」で書いた心理にも通じるところがありそうですが、今回の主題はもっと「他愛のない話」です。当人にしてみれば、その行為が大切な人への背信行為にはあたらないと思っています。現に、客観的にみてもそうでないかと思えます。それでも、男にはときに言い出せないことがあるんです。
 
 僕はヌード写真を撮っています。写真を撮っていることは、妻も承知していますし、「モデル相手」であることも話しています。けれど、「ヌード」であるとはひとことも話していません。それを知ってか知らずか、休日に撮影に出かけると、妻は快く送り出してくれます。まあ我が家の場合は、「いないほうが気楽でいい」と親子で公言しているような家庭ではありますが……。
 
 ウェブを通じて、僕が大切にしている女性がいます。ヌード写真を撮っていることも話すには話しますが、はじめからペラペラと喋っていたわけではありません。むしろ少しずつ小出しにしては、その一挙一動にびくびくするというか、反応を確認しながら手探りで告白しているような按配です。客観的には、煮え切らないじつに食えないヤツに見えることでしょう。僕自身はモデルと一対一で撮影を行ったところで、彼女と恋愛関係となることを目的としているわけでもありませんし、純粋に写真が撮りたいのだといえばそれで済む話だとも思うのですが、どこかで何かが僕の言葉を濁すんです。
 
 
 周防正行監督作品「Shall We ダンス?」をご存知の方は多いかと思います。役所広司演じる夫が妻に内緒でダンス教室に通い、夫の素行に疑問を抱いた妻が興信所に調査を依頼してダンス教室の件は妻に露呈するのですが、夫はそれと知らずにダンス大会に出場します。物語はそこに妻が現れ、夫も妻に知られていたことに気づいてダンス教室通いを止めるというものです。
 
 その日の夜、妻は夫に「あなたはダンスに夢中になっていたのかもしれないけど、それでもわたしは浮気だと思った」といいました。夫は他所に女を作っていたわけではない。そういう意味では、趣味としてダンスを学ぼうとすることは理解できるのかもしれませんが、妻に内緒で、自分ひとりで行っていたという点において、彼女はそう表現したのかもしれません。僕はそう解釈していました……。
 
 けれどこの台詞は、逆の立場で読み解いてみると、意外と面白い男の心理がみえてくる気がします。つまりは、「言い出せない」男の心理です。
 
 妻と一緒にやれる行為であれば、何も悩む必要はない気がします。現にこの映画のなかでも、「私にもダンスを教えて」という台詞で夫が妻にダンスを教えはじめ、物語はハッピーエンドを迎えるわけです。しかしそうでなかったなら。妻がダンスというものに偏見とまでいかずとも、いかがわしい下心を連想するような認識を抱いていたとしたら、どうするでしょうか。映画のなかでは、夫がダンス雑誌を妻に隠れて眺めているシーンがありますが、あれが本音であろうと僕には思えます。
 
 例えば僕の写真趣味ですが、友人に一対一の個人撮影の話をすると、ほぼ十人に十人が卑猥な場面を連想してくれます。「おれだったら女のアソコばかり連写する」とか、「撮りながらやっちゃうんだろ」なんて台詞は定番のようなもので、僕がやっていることなど到底理解の外にありそうな気すらしてきます。同性であってもそうなんです。それが相手が異性となれば、話を切り出すに慎重になるのも道理だとは思えませんか。
 
 
 そういう僕自身、もしかすると個人撮影というものに偏見を抱いているのかもしれません。自分では創作という名の下に芸術を追求している気でいながら、それを堂々と公言できないということは、やはり心の奥底には、他人からの偏見というか、自分が持つ認識との違いを怖れている部分を否定しきれないからです。
 
 密接な関係でなければ、どう思われようが構わないという気持ちから、意外と気楽にそんな話もできるものです。されど関係が密になればなるほど、僕の口からそういう告白は遠ざかってゆきます。いざ告白してみれば、きっと他愛のない話の結末が待っているのでしょうけれど……。
 
 信用されているとかそうでないとか、人は「告白」という行為に「信頼」を結び付けたがります。けれど僕は、それは間違っていると思います。信頼を失いたくないから告白できないんです。誤解を生みたくないから告白できないんです。なにより関係を大切に思うからこそ、思い切って核心を露呈できない心理というのも、この世にはあるのではないでしょうか。それを一概に「信用していない」という言葉で片付けてしまうのは、僕にはどうも短絡的に思えてなりません。
 
 ただこの手の「言えない話」というものも、時間の経過のなかで少しずつ解れだし、いずれは全てを告白しても「たいしたことでもなかったな」というところに落ち着くのが常のように、僕には思えるんですけどね……難しいところです。
 
 
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Figure Vol.1-04:Temptation 公開



2004年02月12日(木) 妻の悪口をいう男

 このような物言いも失礼かとは思うのですが、女をモノにしようと企む男にも、幾つかのグレードというものがあります。レベルと称しても間違いではないでしょうけれど、そんななかでも最低レベルに属する輩の常套手段が、最も身近な女を批難することです。
 
 
 初対面もしくは知り合って間もない男の口から、妻の悪口をきかされた経験をお持ちの方は少なくないでしょう。確認できないのをよいことに、その言葉たるや創作だか真実だかわからぬほどに展開します。男に少なからず好意を抱く女なら、そんな言葉につい心をなびかせてしまう場合もあるかと思います。つまらぬ男も男なら、それを信じる女も女ということです。
 
 男が妻の悪口をいった場合、多くは嘘であると思ってください。「だって本当かもしれないじゃない」と反論されるかもしれませんけど、それが真実だとしたら、そんな身内の話を露呈する人格にこそ問題があると解釈すべきでしょう。いずれあなたとお近づきになった暁には、何処とも知らぬ別の世界で、今度はあなたの悪口が飛び出すのは必定。最低レベルの男に迎合すれば、あなたも最低レベルの女に成り下がりますよ。
 
 
 妻の悪口をいう背景には、幾つかの目論みがあるかと思います。ひとつめは、「自分があたかもツガイを成していないと誤認させること」です。人間の認識というのは厄介なもので、例えば夫婦というものに対しても、「形」「心」「体」と、なぜか三通りの枠組みを用意したがります。形だけの夫婦、心だけ繋がっている夫婦、体だけの夫婦、なんて按配です。
 
 考えてみればおかしな話で、ひとりの男とひとりの女が一緒に道を歩むのが夫婦なのでしょうから、そこにカテゴリー分けできる道理があろうはずもないんです。夫婦は夫婦でしかない。けれどそこに、「枠に収まりたくない」という妙な衝動があるために、人間は幾つかの屁理屈を夫婦という形に採用してしまった。それが、幾つかの分類ということであり、男はそれを盾に女を口説くわけです。「形としては夫婦だけど、心も体もばらばらなんだよ」てな具合にね。
 
 そしてふたつめは、「君のほうが遥かに魅力的だ」と間接的に思わせるためです。極めて下手くそな口説き方ですが、多くの男にはそういう方法論がインプットされていると思ってください。ターゲットに向かって突進することを是とするために、それ以外を排除することが先決となる理屈でしょう。それで図に乗る女も女だとは思いますが……。
 
 みっつめ。書いていてつまらなくなってきたのですが、我慢して読んでください。書いてるほうも辛いんです……。これが背景としては最も姑息だと思える部分ですが、女の同情をひこうとする目論見が男にはあります。「ええー、うっそぉー」などと反応した日には、もう男の天下です。小さな話に尾ひれをつけて、果ては根も葉もない話に発展しないとも限らない状況となるでしょう。
 
 同情が愛情にかわるというのは、誰が決めた不文律かしりませんが、ある程度真実味がある気がします。なぜなら同情という感情には、相手を慮る気持ちが介在するからです。それがいつしか愛情へと変化しても、僕には不思議がないと思えるものです。それだけに、同情を餌に女を釣ろうとする男は卑劣だと思います。
 
 
 じつは僕も、過去にこの手を使ったことがあります。いやな奴です。もうかなり昔の話になりますし、いまとなっては「時効にして!」と願うしかないわけですが、思い出すだけで自分が情けなく恥ずかしくもなります。つまり、言い訳という話でもないのですが、そんないやな奴であっても、いずれはそこから脱皮することもあるということです。
 
 人間ですから、妻であれ夫であれ、至らない点は多々あるものです。ましてや異なる人格がひとつ屋根で暮らすとなれば、そこには淀みが多かれ少なかれあって然るべきでしょう。ただそれは、自分たちが生み出した淀みに違いなく、自分たちが乗り越えねばならないハードルでしかないんです。間違っても、それを盾に、別の快楽を追い求めてはならないのだといま僕は考えています。
 
 ある意味においては、妻の悪口をいう男というのは、どこかとても物悲しい存在のようにも思えます。あちらで満たされぬものを吐き出したいがために、こちらで甘い水を用意して待っているんです。ところがその甘い水も、純粋な甘さではなく、添加物てんこ盛りの偽物であることを、当の本人が気づかずにいるのですから……やはり哀しい話かもしれません。
 
 
 同姓に対して連れ合いの悪口をまくしたてるのは、これは少々意味合いが異なりますよね。それは愚痴と俗にいわれるやつでして、まさか同姓を「落とそう」などと思って吐くわけでもないでしょう。僕の周辺には、どういうわけか妻を誉める奴はいても悪口をいう奴はいないのですけど、仮に目の前で妻の悪口を述べる友人がいたら……きっと説教たれるだろうなと思います。まあ、それが嫌だから、誰からも「妻には感謝してるよ」などと口幅ったい文言が飛び出すのかもしれません。
 
 されど、友人の前でつい口に出る言葉ほど、真実を語るものはないですよね。女の前であってもそうあれば、もっと落としやすいのになぁと考えてしまう僕は、まだまだ駄目な夫なのでしょうか。修行が足らないようです。反省。
 
 
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【Figure Vol.1-03:into The Origin 公開】



2004年02月09日(月) 私の写真を使ってください /写真集「Figure」公開

 年頭にヌード写真撮影に触れ、公開はしませんと宣言していたのですが、流れの中で撮影協力者のご厚意により、写真集「Figure:姿」として本日公開することとなりました。思いがけぬ展開に自身がいまだ戸惑いを残しているのですが、これも良い経験になろうかと……。
 
 
 「私の写真をサイトで使ってください」
 
 そのような申し入れを受けたのは、撮影を終え、写真の整理が一通り完了してからのことでした。僕自身がテキストサイトを公開運営している話は事前にしてあったのですが、こちらもヌード写真をコンテンツとする意図はありませんでしたし、撮影そのものも当然のことながら、作品としてまとめて公開することを前提とはしていませんでした。
 
 言い出した彼女自身、おそらくは現在あるコンテンツ「Photo」内での使用という意味であったと思うのですが、その後数回のやり取りを経て、それなら写真は写真らしく公開することにしましょうという話になりました。
 
 「Figure」という言葉は、ご存知のように「姿」という意味です。人にはそれぞれ固有の「姿」があり、それを別の人たちは美しいとか醜いとか、あるいは艶やかとか哀しげだとか表現しますけれど、どのような形であっても、そこにはその人にしか持ち得ない背景を伴う「姿」があるのだと僕は感じますし、それを写真という瞬間を封じ込める媒体で記録表現できればと思っています。そんな想いをこめて、僕はこの写真集に「Figure」と名づけたわけです。
 
 
 僕は、いわゆるグラビアのような写真は、あまり好みではありません。勉強という意味では、グラビアのように「綺麗に」被写体を撮る知識や技術も必要だと思いますし、今後も折に触れて学んでいきたいと考えていますが、土台が僕の美感覚のなかに存在しないスタイルなのだと感じています。
 
 モデルをいかに綺麗に撮るかよりも、目の前にある光景のなかにモデルが溶け込んでいるというか、そこにモデルがいることで画面がどう物語性を帯びてくるかということのほうに、僕はどちらかというと興味があります。そういう意味では、必ずしもモデルに合焦するとも限りませんし、「半分もモデルが写ってないじゃん」という写真もあります。ときには、手ぶれしていても「これいいなぁ」と自分で感じるものもあったりします。
 
 なにを芸術と呼ぶかは定かでないにしても、僕の中にある芸術性という価値観は、やはり「個性」に繋がるものだと思えますし、頑ななまでにそこに撮影者である「僕」を含有しないことには、納得のいく創作はできないと考えています。
 
 こんな物言いはひんしゅくを買うかもしれませんが、「完璧な美」ほどつまらないものはありません。女性はどこかで「美」を求める生き物かもしれませんけれど、僕はむしろ、なにかが足らないからこそ美しいと感じるタイプのようでして、世間一般が論じる美の世界よりは、その人しか持ち得ない特有の「なにか」に惹かれる傾向がある気がします。
 
 
 ヌード写真を撮っている話をすると、「被写体は彼女なの?」とか「モデルとセックスしたりするの?」と訊かれることも少なくありません。確かに恋人の姿を撮る人はいますし、「ハメ撮り」というセックスしながらの写真を撮っている人もいます。アルバイトモデルのなかには、公にはハメ撮りなどと書かないまでも(ある意味、売春に近いでしょうし)、撮影以外のオプションと称して男の欲望を処理させている女性も少なくありません。
 
 ただ、僕自身は撮りながらいつも思うんですけど、おそらくモデルが恋人であったら、冷静に創作という姿勢で作品作りに没頭できない気がします。時間的な余裕が呆れるほどある方ならいざしらず、限られた時間のなかで自分が目指す作品を作るとなれば、そこからは自然と、撮影以外の行為に費やす時間は排除されて然るべきでしょう。やりたいなら、写真など撮らずにセックスに没頭してたほうがいいだろ……という感じでしょうか。
 
 反面、それではモデルに対して好意を抱かないかとか、勃起はしないのかと問われれば、それは「否」と応えます。前述のように、僕は女性それぞれに「固有の美」があると感じています。それを僕なりに読み解いて解釈し、写真という媒体で表現することが僕の作業だとも思っています。ですから、モデルと一対一で向かい合っているときは、大抵はモデルに惚れこんでいます。嫌々ながら撮っていたって、いい写真など撮れる道理がないでしょう。
 
 撮りながらモデルとの密着度というか、精神的な側面が強いかとは思うのですが、それこそセックスで絡んでいるような空気に包まれ始めると、確かに勃起することはあります。だからといって、そこでモデルに圧し掛かってしまっては犯罪ですし、人間が理性と知性を兼ね備えた生き物であることを忘れた所業となってしまうでしょう。幸いにも……僕は人間でした。
 
 そして、そういう場面を経た写真というものは、思いのほか良い出来栄えだったりしますから、芸術もなかなか人間味溢れる作業の結果といえるのかもしれませんね。
 
 
 写真集「Figure」は、いわゆる連載形式をとって公開していこうと考えています。ひとりのモデルに対して幾つかのシーンで撮るのが常ですので、それらを順次公開していくことになりますが、更新は不定期となりますし、必ずしもひとりのモデルでシリーズを組むとも限りません。その辺は、作品を作りながら模索していこうと考えています。
 
 またこれを機に、作品作りに協力してくださる女性を募集したいと思います。経験や年齢不問で、意欲のある方からのご連絡をお待ちしております。仔細は「Figure」のほうに記載してありますが、アルバイトモデルを募集するものではありませんので(薄謝は用意しますが)、その点誤解なさらないようお願いします。
 
 「Figure」は、今回に限りリンクをこちらに付記しておきますが、ヲトナごっこのトップページ下のほうに四角いアイコンがありますので、そちらをクリックしてご覧ください。僕が切り取った「姿」から、なにかを感じ取っていただけると嬉しく思います。
 
【 Figure 】


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